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〜〜〜     美樹原SS:水晶のノート     〜〜〜


2ページ・「始まりの森」






 もう一度目をこすってみます。
 そこには帽子掛けが1本立っているだけで、何もおかしいことはありませんでした。愛さんは少し首をかしげます。
「どうかなさいましたかな?」
「きゃっ」
 山高帽子が愛さんの顔をのぞき込みました。小さく悲鳴を上げて壁際に下がる愛さんに、帽子掛けさんと番人さんはきょとんと不思議そうな顔をしています。みるみるうちに愛さんの顔が真っ赤になりました。すごく失礼なことをしてしまったかもしれません。帽子掛けさんが喋って何がいけないのでしょうか。
「あの、あの、ごめんなさいっ」
「はてさて、何か分かりませんが気にすることはないですよ。気にすべきことは他にたくさんあるのです。たとえば…」
「分かった分かった。とにかく座りなよ」
 番人さんに言われて、愛さんはおずおずと椅子に腰かけます。木のコップは既になみなみと花の露が満たされていて、愛さんはとにかく落ち着こうとそれに口をつけました。
「あの…、帽子掛けさんて、あの」
「探し物は一人じゃ見つからない。二人でも見つからないかもしれないが、見つかることだってあるさ。こんなヤツだけど遠慮せず一緒に探してもらいなよ」
「は、はい…。でも…」
「なに、気になさることはありませんよ。あなたも私の探し物を見つけてくれるかもしれません」
 花の露は何の味もありませんでしたが、それでも何か緊張を和らげてくれる力があるようでした。愛さんは一呼吸置いて、とにかく助けてくれるこの人たちに失礼のないようにしようと、なるべくはっきりと声を出そうとするのです。
「あ、あの、私でよければ頑張って探します。あの、でも、探し物ってなんですか?」
「いえ、それを探すのです。なにしろ探し物なのですから」
「は、はあ…」
「その点あなたは探し物がなにかもう見つけている。いやまったくうらやましい」
「そ、そうですか…」
 いつの間にか木のカップは空になっていました。そんなに飲んだつもりはないのですけれど。
「あの、どうもありがとうございます。本当に嬉しいです。それであの、急で申し訳ないんですけど、なるべくならすぐに探しに行きたいんです。ムクはきっと今ごろ泣いてると思うんです。だから……」
「愛さん、愛さん、落ち着きなさい」
 帽子掛けさんの腕がするすると伸びると、ぽんぽんと愛さんの肩を叩きます。愛さんはまた赤くなって、またちょこんと椅子に座りました。
「す、すみません…」
「いやいや」
「ま、そう慌てない。迷子のムクものんびりと待っているさ」
「そ、そうでしょうか…」
 番人さんはくるりと身を翻すと、ぴしっと出口の向こうを指さします。
「ここから東へ歩き静かなせせらぎを渡ると森を抜けることができる。一休みしたら出発するといいよ。そうしないといつまでもこの森にいたくなって、何も始めることができないからね」
「は、はい」
「それじゃこの草笛をあげよう。あたしは森の番人だからこれから森を見回らなくちゃいけないからね。何かあったらこれを鳴らしてくれ。森の中にいる限りどこにいても駆けつけるよ」
「は、はいっ、ありがとうございますっ。あの」
 愛さんがお辞儀をして顔を上げるともう番人さんの姿は消えていました。ただ小さな小屋の中にぽつんと自分が立っていて、テーブルの上の草笛と、隣にたたずむ帽子掛けがあるだけでした。
「あの…」
「ふむ、一休みが済んだら言ってください。それまで考え事をしていますから」
「え、えと…。もう済みました…」
「おや、それは本当に一休みなのですかな。ですがあなたがそう言うなら構いますまい」
 ぱすっ
 愛さんは思わず飛び上がりそうになりました。だっていきなり頭の上に何かが落ちてきたのです。あわてて髪の毛を探ると、指に当たったのは柔らかな布の感触でした。
「これ…」
「帽子です。旅を始めるには帽子をかぶらなくてはいけません。それが始めの帽子です」
 手にとってまじまじと見ると、確かにピンク色の小さなベレー帽です。でも布だと思ったそれは布ほどの重さもありません。桜の花びらが帽子に形を変えたのかと、愛さんはそう思ってしまいました。
「え、あの、いただいていいんですか?」
「帽子をかぶらないと軽やかに歩けません。旅に帽子は必要なのです」
「そ、そうですか…。あの、ありがとうございます」
「いえいえ」
 確かに帽子掛けさんがくれた帽子は旅の始めにふさわしく、かぶっていると何やら心まで軽くなってくるのです。愛さんは立ち上がると、ぴんと背中を伸ばしました。
「あのっ、それじゃよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。それでは…」
 帽子掛けさんの車輪がカラカラと回ります。
「出発するとしましょう」
「は、はいっ」
 おっとその前に草笛を、大事にポケットにしまわないと。始まりの森は始めの森。小さな小屋の扉をくぐり、愛さんはなるべく元気に最初の一歩をくぐりました。もう始まってしまったこの旅は、果たしてムクに続いているのでしょうか。
 歓迎草がいっせいに手を鳴らします。

 ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち
「いってらっしゃいませ!」



 緑色の天井は日の光に少し透き通って見えます。半分口を開けて上を眺めながらとてとてと歩いていた愛さんは、樹の根っこにつまづきそうになりました。
「気をつけないと転びますよ」
「す、すみませんっ」
 地面に敷き詰められた草は踏むのが申し訳ないほどふんわりと茂っており、それでも愛さんと帽子掛けさんの体重が軽いせいなのか後ろを振り返っても足跡は残りません。ちょっとだけ自分が本当に森の中にいるのかわからなくなりました。それにこれではムクの足跡も見えなさそうです。
 合わせ鏡のように無限に続く樹の幹は、いつからそこにあるのか見当も付かないほど古く皺が刻まれています。愛さんがそっと手を触れるとその樹はざわざわとざわめいて一枚の木の葉を降らせてきました。会釈をしてくれたようでした。
 帽子掛けさんの車輪はからからと回ります。
 からからと回り続けているのに、やはり愛さんの隣にいるのです。
 この森に終わりはあるのでしょうか…。
「どうしましたかな?」
「え、えっ?」
 遥か遠くの鳥の声に耳を傾けていた愛さんは、思わず素っ頓狂な声を上げました。もしかしたら帽子掛けさんが隣にいるのを忘れていたかもしれません。
「あまりこの森にはいたくないですかな?」
「そ、そんなことないです。素敵なところだと思います…」
 でもなんだか怖いのです。
 この不思議な森に、いつまでもいてもいい気がするのです。
「ム、ムクを探さないと」
 愛さんがそう言ったとたん、目の前の景色が変わりました。


 さぁぁぁぁ…
 森はそこで切り取られたように途切れ、代わりに透明な川が音もなく流れていました。いえ、音は目に見えているのです。そのせせらぎは見ているだけで本当はどんな音なのかわかるのです。
「静かなせせらぎに着きましたよ」
「え、も、もうですか?」
「おやおや、あなたが森を出たいと思ったからですよ」
 そう言って帽子掛けさんは川辺へ降りていきました。出ようと思えばいつでも出られたようです。それなら最初からそう言ってくれればいいのにと、愛さんは少しだけ思いました。
「ここは静かなせせらぎなので落ちても音はありませんが…落ちると冷たいので注意してください」
 川には橋は架かってませんが、平らな石の踏み台が点々と通り道のように顔を出しています。水辺のやわらかい土に愛さんの足は少し沈んで、あわてて愛さんは一番目の石畳に飛び乗りました。
「あの…、渡っていいですか?」
「どうぞどうぞ」
「あの、でも、帽子掛けさん大丈夫ですか?」
「はい?」
「ご、ごめんなさいっ、なんでもないです…」
 帽子掛けさんの足は石から石へ歩くのにあまり適しているとは思いません。手と同じようにぐにゃりと曲がるのですが、何しろ下が車輪なのでカラカラと危なっかしいことこの上ないのです。愛さんはそれが心配でちらちらと後ろを見ながら川を渡り、かえって自分が幾度か転びそうになりました。
「愛さん、前を見ないと危ないですよ」
「は、はいっ」
 しかし愛さんが最後の石に足を乗せようとしたときでした。後ろで何かが倒れる音がしたと思うと、案の定帽子掛けさんが横倒しになっていました。
「だ、大丈夫ですか!?…帽子掛けさん?」
 帽子掛けさんは動きません。あわてて愛さんが駆け寄って、よいしょと起こしてもやっぱり動きません。そのとき愛さんははっと気がつきました。帽子掛けさんの山高帽子がないのです。きょろきょろとあたりを見回すと、岸からせり出した木の枝に引っかかってゆらゆらと揺れていました。愛さんの手が届くにはちょっとだけ遠い場所です。
「あの、帽子掛けさん?」
 帽子掛けさんはやっぱり答えません。帽子のない帽子掛けさんは、正直ただの棒にも見えるのです。
(どうしよう…)
 ふとポケットの中の草笛が頭に浮かびました。あんまり気安く呼ぶのも気が引けますが、帽子掛けさんが動いてくれないのでは愛さんはどうしようもないのです。あらためて自分がここでは何もできないことを愛さんは知ってしまいました。
(番人さん、ごめんなさいっ)
 小さく丸まった草の葉を口に当て、思いっきり息を吹き込みます。
 ふーーーっ
「あ、あれっ?」
 もう一度。
 ふーーーっ
「‥‥‥‥‥」
 愛さんは困った顔で草笛を見つめました。音が鳴らないのは吹き方が悪いのでしょうか。それともここが静かなせせらぎだからなのでしょうか?
「あっ!」
 山高帽子が木の枝から落ちそうです。下にあるのは水流です。
 愛さんが手を伸ばすと同時に、帽子は枝から外れました。愛さんは小さく悲鳴を上げて、もっと手を伸ばします。手を伸ばしすぎて…水しぶきで濡れた石は愛さんを支えてはくれず、がくんと靴を滑らせました。
 声も上げられないまま愛さんの目に水面が近づいてきます。あまり深くはなさそうですが、濡れちゃったら替えの服をどうしようかと考えてしまいます。番人さんの名前をもう一度呼びながら、愛さんは目をつぶりました。




「愛、おい! 大丈夫かい?」

 …おそるおそる目を開けます。

「え…えっ?」
「えっじゃないよ全く…」
 番人さんは愛さんを抱いて水しぶきの上に立っていました。それはもう、あめんぼか何かのように水の上に立っているのです。
「あ、あの…」
「ほら、立てる?」
「は、はいっ」
 石の上に降ろしてもらうと、愛さんは何か恥ずかしくなって下を向いたまま自分の帽子を直しました。番人さんも手に持った山高帽子を帽子掛けさんにかぶせます。固まっていた帽子掛けさんがようやくきょときょとと動きました。
「…ややっ」
「ややっじゃないっての! 愛のことはあんたに任せたんだから、もう少ししっかりしておくれよ」
「いやはや面目ない」
「あ、あの、帽子掛けさんのせいじゃないです…」
「いやはや私のせいです。石の上はどうも苦手でして」
 とにかく川を渡り終え、固い地面に着いてほっと一息つきました。でも番人さんだけはまだ川面に立ったままです。
「そこはもう森の外なんだ。草原が見えるだろう?」
 愛さんが振り返るとそこには地平線まで草の波がさぁっと広がっており、その真ん中を細い道が見えなくなるまで続いているのです。もう一度前を向くと静かなせせらぎとその向こうの森が目に入ります。でもそれはもうずっと遠くにあるようでした。
「うむうむ、平らな場所に出たからにはもう大丈夫ですとも」
「ホントかよ…ま、いいけどね。愛は大丈夫?」
「は、はいっ、大丈夫です。あの、ありがとうございました」
 愛さんはあわててお辞儀をしました。ふと右手に草笛が握られているのに気づきます。思い切り握りしめていたのでつぶれてしまっていましたが、手を開くとみずみずしい葉はまた元の形に戻っていきました。
「なんだか鳴らせなくて…」
「鳴ったよ?」
「えっ?」
「その草笛は心で鳴らすものだから、愛が川に落ちかけたときにそれは大きな音がしたんだぜ」
「そ、そうなんですか…」
 不思議そうに草笛を見つめる愛さんに、帽子掛けさんがこほんと咳払いしました。
「それでは愛さん、そろそろ出かけてみましょうか」
「あ、はい、そうですね。あの、いろいろありがとうございました」
 もう一度深々とお辞儀する愛さんに、番人さんは川の上で照れくさそうに笑います。
「そんなの気にしなくていいよ、森の番人として当たり前さ。ああそう、その草笛は持っていってくれよ」
「え、あの、いいんですか?」
「ひとまずここでお別れだけど、たぶんまた会うこともあると思う。その時笛の音が聞こえたら、真っ先に駆けつけるよ」
「は、はいっ。ありがとうございます」
 愛さんは草笛を大事にポケットに入れると、番人さんとお別れの握手をしました。
「それじゃ帽子掛け、後は任せたよ」
「ええもちろん。のんびりと探し物を続けるとしましょう」
「あの、それじゃ…」
 最後に軽く手を上げると、番人さんの姿はやはり唐突に消えていました。後にはただ音もなく流れる川と、それを越えて遠くにある始まりの森がたたずんでいるだけでした。
「さてさて、私たちは始まりの森を抜けたわけですが」
 カラカラと車輪が鳴り、帽子掛けさんが草原を向きます。
「それではいざ、行くとしましょう」
「は、はいっ」
 東へと続く草原を、たぶんムクは通ったのでしょう。遥かかなたに目をやりながら、この行く先にいるはずのムクと、またいつか会えると言った番人さんのことを考えながら、愛さんは細い道をゆっくりと歩いていきました。
 そして隣を歩く帽子掛けさんも、やっぱり考え事をしているのでした。





<そして、物語は続くのです>




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