第26話 小都子の神無月
「頑張って今日中に完成させよう!」
京都戦翌日の日曜日。
暇やったらうちに来て曲作りせえへん? という夕理のお誘いに、花歩は乗る一択だった。
何気に初めてのお宅訪問である。
「小都子先輩のセンター曲、必ず最高のクオリティにするで」
そう答える夕理の方も、ごく自然に花歩を迎え入れられた。
親とのことを説明しないわけにはいかなかったけれど。
深く突っ込まずに流してくれる花歩は、本当に付き合いやすかった。
(勇魚もそのうち、家に呼ぶことになるんやろか……)
今はボランティアに行っている友達のことを考える。
花歩と違って性格に少し難ありだが、三年間スクールアイドルを続ける者同士、ちゃんと仲良くなりたい。
夕理お手製の天丼でお腹を満たしてから、午後も創作活動に励む。
小都子の意見は既に取り入れているので、きっと喜んでもらえるものが作れるはずだ。
花歩の鉛筆が、ノートに次々と歌詞を埋めていく。
「私の手もだいぶ早くなったよね」
「うん。四日でここまで書けるのは大したものや」
「そういやこの前のSaras&Vatiの曲、誰が作詞したの?」
「つかさ」
「え、何日で?」
「二日」
「………」
「いちいち人と自分を比べて落ち込まない!」
と、玄関のチャイムが鳴る。
噂をすれば何とやらで、つかさが小さなバスケットを掲げて入ってきた。
「よっ、頑張ってる? これ差し入れや」
「あ、ありがとう!」
「わ、クッキーや。もしかしてつかさちゃんが焼いたの?」
「一応ね」
「ほんまに何でもできるなあ」
本当なら高級パティスリーのケーキでも差し入れたかったが、懐が厳しいのでお手製である。
コーヒーを入れた夕理が、申し訳なさそうな顔を向ける。
「今日はSaras&Vatiの活動はできなくてごめん」
「いやいや、当然Westaの方が優先やって。曲の調子はどう?」
「もう八割方できてるから、ちょっと聞いてくれる?」
近所迷惑にならないよう、夕理と花歩の抑えめの歌声が流れる。
『懐かしい思い出の色は 淡くて遠いパステルカラー
薄曇から差す柔らかな光が 少しずつ優しく照らすの』
「ええやん! セレナーデって感じ」
「大当たりや! 小都子先輩なだけに
「『小』しか合ってへんやないか。
よし、あと一息や。つかさも何か意見があったら言って」
「おっけ~」
そうして曲は三時頃に完成した。
一安心した三人娘が、クッキーの残りを胃に収めていると、花歩が思い出したように言う。
「そうそう、午前中に話してたんやけど。
夕理ちゃん、小都子先輩を激励するために何かしたいんやって。つかさちゃん、アイデアない?」
「ち、ちょっと花歩!」
「おお、ええやん」
恥ずかしそうな夕理だが、つかさは諸手を上げて大賛成だった。
「最近あたしにばかり付き合わせて悪かったしね。ぜひ先輩にサービスしてあげて」
「で、でも私にできることなんて……」
「デートに誘ったらええやろ。小都子先輩、絶対大喜びやから」
「デート!?」
飛び上がりかける夕理に、花歩も大いに納得する。
「そうやなあ。ほんまは私を誘って欲しかったけど、ここは先輩に譲るで」
「い、いや、あと半月で中間テストやし! その後はすぐラブライブで、誘う暇なんか」
「普段から勉強してるんやから大丈夫やろ。青春は一度きりやで!」
つかさに言われて、夕理もだんだんその気になる。
思えばUSJの帰りに言われた通り、誰かを誘うことは宿題として残っていた。
勇気を出してセンターに立候補した先輩のように、自分も勇気を出すべき時なのだ。
「うん……なら駄目元で誘ってみる」
「よーし! 早速みんなでデートプランを……」
つかさが言いかけたとき、三人のスマホが同時に鳴った。
桜夜からのメッセージが届いている。
『ねー、グランフロントに新しいスイーツの店ができたんやって。
誰か一緒に行かへんー?』
花歩とつかさは顔を見合わせて、思わず困り笑いを浮かべる。
が、夕理は無表情でスマホを持ち直し、猛然と文章を打ち始めた。
『先輩は受験生ですよね? 今がどういう時期か分かってるんですか。
あと三ヶ月で今年は終わりです。危機感がなさすぎます!
本気で大学行く気はあるんですか?』
凍る空間に、少しして返信が届く。
『うっさいわ! 私知ってんねんで。
最近は少子化のせいで、入学金さえ払えば入れる大学がいくらでもあるって』
クズとしか言いようのない反論は、夕理をますます怒らせただけだった。
花歩たちが止める間もなく、文字の奔流はネットを行き来する。
『そんな低レベルの大学に高いお金と貴重な四年間を捧げて、それで満足なんですか!?
その大学が四年後に残っているかも怪しいですよ!』
『え、廃校になるってこと? スクールアイドルで阻止しないと』
『スクールアイドルはゴミ大学を延命させるためのものとちゃうわ!
ほんまに最低! いつも失望してるけど今日も失望しました!』
送信後も血管が切れそうになっている夕理に、もう返信は来なかった。
つかさと花歩が呆れた目を向ける。
「あーあ、桜夜先輩黙っちゃった」
「夕理ちゃん言い過ぎ」
「一生黙っててほしいわ!!」
夕理と桜夜が出会ってからそろそろ半年。ここの人間関係だけは一向に進歩がない。
どうしたものやら、と目で訴える花歩に、つかさは肩をすくめるばかりだった。
* * *
「ほんっっっまにムカつく夕理のやつ!!」
スマホをベッドに叩きつけても、桜夜の怒りは収まらない。
これでも勉強しようとはしていたけれど、気が散るばかりで一向に進まなかっただけなのだ。
だから甘い物でも食べて気合いを入れようと思ったのに、この仕打ちである。
もう出かける気もなくして台所に飲み物を取りに行くと、一人の青年が入ってきた。
「ただいまー……ってなんや、機嫌悪そうやな」
「お兄ちゃんかあ」
昨日から帰省中の兄である。
朝からこっちの友達に会いに行っていたが、今帰ってきたらしい。
手頃な相手が来たとばかり、桜夜はさっそく愚痴り始める。
「聞いてよもー! 後輩がほんまに生意気なんや!」
「ふむふむ」
テーブルの前に座って、妹は切々と訴え始めた。
一年生のうち四人は可愛いのに、一人だけ先輩を先輩とも思わない奴がいることを。
腕組みしてうなずいていた兄は、重々しく同意する。
「確かに、年上にはきちんと敬意を持たなあかんな」
「そうやろ!? 先に生まれた方が偉いに決まってるやないか!」
「ところで俺、お前から敬われた記憶が全くないんやけど……」
「あ゛」
盛大なブーメランを食らった桜夜は、自らの罪の重さにわなわな震え出した。
「た、確かに私も人のことは言えへんわ……」
「そうやろそうやろ。これからは心を入れ替えて兄を尊敬するんやで」
「………」
「………」
「年上なだけで偉そうなのっておかしくない……?」
「おいっ!」
思い切りツッコんだ兄は、麦茶を飲んで溜息をついた。
急に真剣な顔になって、アホな妹にとうとうと語る。
「お前、もうすぐ卒業やろ? ほんまにそれでええんか。
このままやと卒業した後に陰口叩かれるで。
『あー、いなくなってせいせいした』『あの先輩ほんまにムカついてた』って」
「ううっ、それは確かに辛いなあ。
ていうかお兄ちゃん、ずいぶん実感こもってるんやな」
「………」
いきなり兄は突っ伏すと、拳でテーブルを叩き始めた。
「ちくしょう、俺は後輩と上手くやれてると思ってたのに!
いなくなった途端にそんなん言い出さなくてもええやろ!?
ちょっと俺がイケメンで女にモテてたからって!」
「可哀想なお兄ちゃん……」
「憐みの目で見るなあ!」
高校の時の兄はテニス部で、毎日楽しく過ごしていたように見えた。
それが卒業後にそんな仕打ちを受けたのでは、楽しかった思い出もぶち壊しだろう。
自分にもそんな未来が待っているのだろうか……。
「はぁ……憂鬱や」
「ていうかそもそも卒業できんの? 大学はどこ受けるんや」
「立火が名古屋の大学行くって言うから、そのへんで……」
「お前ほんまに立火ちゃん好きやなあ」
「ほっといて!」
* * *
衣替えの日だが、上着を着るほどではない十月一日。
発表されたその曲に、小都子は目を潤ませるばかりだった。
『パステル色のセレナーデ』
優しく温かで、パステル画のような懐かしさを感じる一曲だ。
「もう言葉もないで……二人とも、ほんまにありがとうね」
『いえいえ!』
「つかさちゃんも手伝ってくれたんやって?」
「いやー、横から茶々入れただけっすよ」
「さすがつーちゃんや! 夕ちゃん、次はうちも手伝うで!」
(勇魚は気持ちだけで十分やから)
内心で固辞しつつ、夕理の目は部長へと向く。
立火の得意なジャンルではないが、それを覆すほどに心に沁みた。
「ううっ、何とも泣ける曲やないか。
サブセンターは私がやる! 小都子、一発ぶちかますで!」
「はいっ! ぶちかましましょう!」
「それはええけど、曲だけでなくてセンターまで聖莉守とかぶらへん?」
桜夜が三年間競ってきた相手を思い出し、横からツッコむ。
和音と凉世。聖女と騎士になぞらえられて、小都子は慌てて手を振った。
「わ、私は小白川先輩みたいな聖女様ではないですよ」
「またまたー。小都子の性格の良さも負けてへんって」
「ま、あいつらともいよいよ最後のラブライブや。正面から対決するのもええやろ」
聖莉守の名に晴の眉毛がぴくりと動いたが、特に触れずに話を変える。
「京都戦が注目されたおかげで、関西でのランキングは最高で九位まで上がりました。
今は離されていますが、一時はナンインにも肉薄したほどです」
「おお! だいぶ上り調子やないか」
「とはいえ文化祭、Saras&Vati、京都戦と三週連続で発信して、ようやく一瞬だけ九位です。
四位以内はまだまだ遠いですね」
「そうか……けどまだ時間はある。まずは予備予選、確実に突破するで」
聞かせる曲なだけに、歌唱力が問われるところである。
練習に入る前に、小都子は自分より優れた後輩に頭を下げた。
「姫水ちゃん、私の一世一代の大舞台や。ご指導よろしくお願いします」
「小都子先輩なら十分歌いこなせると思いますが……分かりました。私にできることでしたら」
微笑む姫水に、歌唱力最低の勇魚も泣きついてくる。
「姫ちゃん、うちもお願いや~! また補欠に戻るのだけは嫌や~!」
「ふふ、もちろんよ。家でも練習しましょうね」
いよいよ冬のラブライブに向けてWestaは走り出す。
まずは皆の心に歌声を届けるのだ!
* * *
「よし、今日の活動はここまで。
来週の水曜から部活禁止期間やから、それまでに形にするで!」
『はいっ!』
帰る準備をしながら、小都子は晴を横目で見る。
夏休みの陶器市後の一件から、もうすぐ初めての定期テスト。
晴に勝って一位を取りたいが、しかしセンターと二兎を追えるだろうか……なんて考えていると。
「あ、あの、小都子先輩」
夕理が少し緊張気味に話しかけてきた。
つかさと花歩が、いけ! ゴー! と拳を握っている。
「なあに? 夕理ちゃん」
「今度の日曜、良かったら二人でどこかへ出かけませんか……?」
一瞬、小都子の頭が真っ白になった。
帰りかけていた他の部員たちも、足を止めて注視する。
後悔に襲われた夕理が撤回に走る。
「す、すみません、テスト前なのに!
あの、センターを務める小都子先輩のために、何かできないかと思ったんですが。
でも私の勝手な押し付けですし、ご都合が悪かったら……」
「夕理ちゃんっ!」
がっしと後輩の手を握る小都子の頭からは、晴との勝負は全力で放り投げられた。
どうせテストはこの先何度もあるのだ。
「行く! 絶対行くで! たとえ天変地異が起ころうと!」
「そ、そうですか……良かったです。
あの、実は当日のプランも考えたんですが」
「あらまあまあ! どこへ連れて行ってくれるん?」
浮かれまくっている先輩に、友達二人の協力で作ったデートプランを発表した。
まず小都子はお笑いが好きなので――
「繁昌亭の朝席があるので、午前はそこへ行くのはどうでしょう」
夕理が挙げた場所は、大阪天満宮の隣にある寄席である。
吉本も別に嫌いではないが、高い金を払ってまで見たいとは思わない。
その点上方落語なら文化の香りがするし、何より学生の前売りは千円と安い。
うんうん、とすごい勢いでうなずいている小都子に、続けて説明する。
「近くに日本茶と陶磁器で有名なカフェがあるので、そこでお昼にしましょう。
そして午後は市立図書館に行って、勉強や調べものを一緒にするのはいかがですか」
だいぶ仲良くなったとはいえ、一日中会話を続けられるかは自信がない。
現に堺に行ったときは、途中で話題が途切れてしまった。
その点図書館ならお喋りは禁止だし、何よりテスト前にデートする罪悪感が軽減される。
(……と思ったんやけど、やっぱりもっと遊べる場所の方が良かったやろか)
不安になる夕理だが、それを吹き飛ばすように小都子は親指を立てた。
「夕理ちゃん……パーフェクトなプランや!」
「あ、ありがとうございます! では当日、よろしくお願いします!」
さっさと帰った晴を除き、残った部員の大半が祝福の拍手を送った。
立火が手をマイク代わりにして、つかさに向ける。
「どうですかお姉さん、今のお気持ちは」
「ううっ、あの人見知りやった子がこんなに成長して……涙がちょちょ切れる思いっす」
「も、もう、つかさ!」
顔を赤くして抗議する夕理に、周囲に笑いが起こる。
そんな中で桜夜だけが、面白くなさそうにそっぽを向いていた。
(何やねん夕理のやつ。小都子と私で態度違いすぎやろ。今さらやけど)
(私だってデートしてくださいって頭下げられれば、行ってやらなくもないのに……)
「桜夜先輩?」
気付いた姫水が、つつと近づいて小声で話しかける。
「自分も勇魚ちゃんとデートしたいとか考えてるんでしょう。
駄目ですよ、勇魚ちゃんは衣装作りがあるので。日曜は私のデザイン講座です」
「何で姫水が管理してんねん……。
け、けどそうやなー。やっぱり遊ぶなら勇魚か姫水やな」
実は夕理とデートすることを考えてた、なんて言ったら、部員全員が引っくり返っただろう。
もやもやを抱えながら、幸せそうな二人を背に桜夜は帰っていく。
* * *
日曜日を楽しみに、小都子は特訓の日々を過ごす。
休憩時間中、前から考えていたことを桜夜に相談した。
「やはりセンターとなると、この髪型は変えた方がいいと思うんですが」
「おお! ようやくその気になったんやな!」
「具体的な案が思いつかなくて……。やっぱりこういうことは、桜夜先輩が頼りです」
「ええでええで、色々試してみよ!」
盛り上がる桜夜に、立火は首をひねって言う。
「別にそのままでもええんちゃう? 似合うんやし」
「もー、ほんまに乙女心が分かってへん!
髪型を変えるのは、女の子の最大の決意表明なんやで!」
「そういうもん?」
とりあえずツインテとか、という感じで、桜夜の手は自在に後輩の髪を変えていく。
他の部員も微笑ましく見守る中、今度は夕理だけが面白くなかった。
(何であんなアホな先輩に頼るんや)
(私に相談してくれれば髪型くらい……まあ、自分では一度も変えたことはないけど)
(やっぱり私みたいに可愛くない人間は、こういうことでは役に立てへんのかな……)
(って、いちいち下らないことで悩まない! 今は練習や!)
そうして一週間は過ぎ、土曜の練習も終了。
特に勇魚が頑張っていて、今まで停滞していた分、成長度は著しかった。
もちろん小都子の気合いも負けておらず、十分な手応えを持って明日のデートを迎える。
「ほな夕理ちゃん、明日はよろしくね」
「はいっ、楽しみにしています!」
今日も幸せそうな二人を横目に、桜夜は帰宅する。
……つもりだったが、立火の部屋に寄り道して愚痴り始めた。
「ほんま小都子は心が広すぎ! 夕理なんかと遊んで何が楽しいっちゅーねん!」
「……何かあった?」
「う……」
立火の目はごまかせなかった。
兄はとっくに仙台へ帰ったが、その経験談はずしりと胸に残っている。
仕方なくかいつまんで話すと、相方は深々と溜息をついた。
「ホンマお兄さんの言う通りやで。
夕理なら陰口は言わへんやろうけど、確実にせいせいはされるで」
「ううう……私は何も悪くないのに……」
「悪いやろ! いい加減に歩み寄ったらどうなんや。
うちの部で仲悪いの、お前ら二人だけやないか」
「ひ、姫水とつかさだってそうやない?」
「あれは強敵と書いて友と読むんや。
キン肉マンで言うなら正義超人と悪魔超人の熱いライバル関係が……」
「あーもういい!」
脱線する立火を遮って、桜夜は体育座りで地団駄を踏む。
「何で私が責められるんや! 歩み寄るとしたら夕理の方やろ!
『今まで舐めた口きいてすみませんでしたお美しい桜夜先輩』って謝りさえすれば、いくらでも仲良くしてやるのに!」
「何を子供みたいなこと言うてるんや……。
三年生やろ。後輩に大人の姿を見せるのが仕事やろ!」
「ううー……」
まだむくれている桜夜に、立火は小さく息をつくと、窓の外へ目を向けた。
部活が終わったばかりなのに、外はすっかり暗い。
「日い落ちるのも早なったなあ。
私たちに残された時間も、いよいよ少なくなってきた。
一度でいい、真剣に考えてみたら? 卒業してから後悔しても遅いんやで」
「立火……」
送っていくという言葉を断って、桜夜はひとり帰路についた。
楽しいまま終わる予定の高校生活で、唯一苦い思い出になりそうな後輩。
そのくせ、小都子のことはあんなに慕ってる。
小都子と自分は、何が違うのだろう……。
* * *
「あら可愛い! そういう服もええねぇ」
夕理のきっちりしたジャケットを見て、地下鉄で落ち合った先輩はそう言った。
いつものワンピースで臨むつもりだったが、昨日つかさに無理やり服屋に連れていかれたのだ。
自分も誉め返そうとして、服よりも頭が目に入る。
今日の小都子はサイドテール。桜夜と模索していた髪型の一つだ。
「さ、小都子先輩も素敵です。その髪も……」
「ふふ。夕理ちゃん、ほんまはそういう社交辞令苦手なんやろ」
「え! いやその」
「私の前では無理しなくてええからね。私は夕理ちゃんと一緒なだけで幸せなんやから」
にこにこしている小都子は、本当に嬉しそうだ。
服は疎いのでよく分からないが、髪型は本当に素敵だと思う。
ただ、桜夜の勧めというのが引っかかるだけだ……。
地下鉄を降りた後、商店街の中を少し歩く。
天満宮への矢印を左折した先にあるのが、
一時は漫才に押されて衰退した上方落語だが、多くの人の尽力で命脈を保った。
その聖地として、13年前に建てられた常設の寄席である。
初めて来た夕理は天井の提灯を興味深そうに見ていて、三回目の小都子にほっこりされる。
二百席ほどのこじんまりした館内は、落語好きの人たちでほぼ満席だった。
千円のチケットの半券を握りながら、並んで座る。
「吉本も調べたんですが、高くて……」
「なんばグランド花月の値段を見たんとちゃう?」
「あ、はい」
「道路を挟んだ側によしもと漫才劇場いうのがあるんやけどね。
そっちは若手芸人さん主体で、二千円くらいで見られるんよ」
「そ、そうやったんですね」
「また機会があったら行ってみようね」
とはいえ今は落語に集中である。
時間になり、拍手の中で噺家が登場した。
「朝も早よから大勢ありがとうございます。
近頃は外もだいぶ涼しなってきまして……」
上方落語は噺家も関西弁である。
『おます』『でんがな』といった、普段聞かないコテコテの表現もよく使われる。
軽妙な語り口のまま、四つん這いになって虎の物真似をする姿に、館内は笑いに包まれた。
一人目が終わり、着物のお姉さんが舞台の座布団を交換している。
口をへの字にして肩を震わせていた夕理に、小都子はくすくすと言った。
「夕理ちゃん、別に笑いをこらえなくてもええんやで」
「い、いえっ。素直に笑おうとは思ってるんですがっ」
「リラックスリラックス。娯楽は気楽にね」
「は、はい……」
次こそ笑おうとした夕理だが、続いて話した若手の噺家はクスリともできなかった。
「やっぱりベテランとは上手さが違いますね」
「ま、まあまあ。みんなこうして成長していくんやで」
『色物』と呼ばれる落語以外の演芸は、今日は津軽三味線の演奏。
天之錦を思い出しながら、しばし耳を傾ける。
そうこうしている間にトリになり、話の枕は『言葉の移り変わり』という話題。
「この前見かけた女子高生、どうも東京の友達を案内しているようでして。
『今度マックに行こうじゃん』なんて言うてるんですわ。
最近の若い子は標準語なんやなあ、なんて思てましたら、友達と別れた途端にどこかへ電話をかけてはる。
『あーもしもし? 今度マクド行かへん?』」
あはははは、と観客は笑うが、リアル女子高生の二人は苦笑いである。
「使われなくなった言葉いうたら、『親にかごをかかせる』というのがございまして」
江戸時代に流行った歌舞伎が元ネタで、『親不孝者』という意味なのだそうだ。
ふうんと思いながら枕は終わり、本題の噺を笑って聞いていた小都子だが……
そのオチが、まさに『親にかごをかかせる』を使ったものだった。
(ああ、なるほど! これは事前に説明してもらわな分からへんわ)
(古典落語って、昔の人とは前提になる知識がちゃうから大変やなあ)
とはいえ話の上手さもあって、大いに納得して拍手を送った。
噺家さんたちに見送られながら外に出ると、夕理も興奮している。
「なかなか知的な体験でした!」
「ほんま、面白かったねぇ」
なんて充実したデートだろう。
二人きりの時間を満喫しながら、隣の天満宮で予選突破を祈る。
それに三年生たちの合格祈願を、小都子は心から、夕理は一応。
お昼の店に行くべく商店街に戻ると、小都子が思い出したように言った。
「そういえば、ここを真っすぐ行けば桜夜先輩のおうちなんやねぇ」
天神橋筋商店街。ここは天二こと天神橋筋二丁目。
桜夜と姫水が歩いたのはこの北の天四から天六である。
夕理はむっとして眉をひそめる。
「こんな素敵な日に、あんな先輩なんか気にしなくていいと思います。
というか、小都子先輩はあの人のどこがいいのか大いに疑問です」
「うーん、やっぱり見ていて楽しいからかなぁ。
余計な気苦労を抱えるたびに、私もあんな風にアホになれたらって思うで」
「嫌ですよアホの小都子先輩なんて!」
話しながらランチに向かう二人は知る由もなかった。
その桜夜が、今まさに何を考えているかなんて。