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「?」
 食卓で、俺と秋子さんの顔が見合わされる。
 虚ろな目で箸を口へ運ぶ娘に、秋子さんも理由の心当たりがないらしい。
「名雪、気分でも悪いのか?」
「……」
「名雪?」
「え!? ううん、この肉じゃがおいしいよっ!」
 それはコロッケだ、と突っ込みたいのを抑える俺をよそに、もくもくと食べ続ける名雪。
 一時間後、風呂上がりのところを廊下でつかまえる。
「どうしたんだ、病院で何かあったのか?」
「なっ…ない! 何にもないよ!」
 あからさまに何かあったらしい…。
「あのさ、俺でよければ相談してくれよ。力になれるかどうかわからないけどさ」
「祐一…」
 一瞬嬉しそうな顔の名雪だが、すぐに俯いたそれには、困惑の二文字が貼り付いている。
「わたしにも、何がなんだかさっぱりだよ…」
「そ、そりゃ相談に乗りようがないな」
「うん…。少し頭の中を整理してみるから、今日はごめん」
 そう言って、自分の部屋に入ってしまった。
 …まあ、怒ってるとか傷ついてるとかじゃないようだし、気にすることもないか。
 明日になれば元に戻るだろ。


 その考えは半分当たって、半分外れた。
 一見すると何も変わらない。普通に話して、普通に笑ってる、けど…。
 時々ふと、引き戻されるように笑顔が消えるのだ。笑い切れない…というのだろうか。
「今日も仲がいいわねぇ、二人とも」
 玄関で香里にそうからかわれた時も、名雪は曖昧な表情でぱたぱたと教室へ走っていった。
 まるで後ろめたい行動を見つけられたみたいに。
「…何か元気なくない?」
「さあ…」
「相沢君。無意識のうちに浮気でもしてるんじゃないでしょうね」
「そんな器用な真似ができるかっ!」
 何だか気になるので、部活が終わるのを待って一緒に帰ることにした。
 校門を出るまでは特に何もなかったが、急に商店街へ寄りたいと言う。
「イチゴサンデーだな? よし行こう」
「う、ううん。それはまた今度でいいよ。ちょっと用事が…」
 そう言った名雪は、商店街に着くなりあゆを探し、見つけたと思ったら右手を差し出した。
「あゆちゃん、握手しよう」
「え? う、うん」
 あゆもきょとんとして右手を出す。それを名雪の手が握り、上下に振り、ついには手袋を外して何かを確かめるように触り始めた。
「な、名雪さん?」
 少し顔を赤くするあゆの前で、名雪は深刻そうな顔で手を離す。
「…ね、あゆちゃん」
 ちなみに俺は、ただ唖然として名雪の奇行を見ているしかない。
「まだ、探し物を続けるの?」
「え? うん、そうだよ」
「わ…忘れるくらいだから、大したものじゃないんじゃないかな?」
「そんなことないよ、すごく大事なものだよ。早く思い出して、見つけないといけないって…ボクの頭の中で誰かが言ってるんだよ。でもどうして?」
「う、ううん。深い理由はないよっ」
 結局その日は、名雪のおごりで三人でたい焼きを食べてから帰った。
 それとなく事情を聞いてみたが、生返事が返ってくるだけだった。

 明日は元に戻っているだろう。
 明後日は大丈夫だろう。
 そう思い続けて一週間が過ぎたが、事態は解決するどころか、段々と名雪の笑顔が減っていった。
 一体何を悩んでいるのか、聞いてもごまかすだけで教えてくれない。
「なあ、名雪」
「あ…うん」
 決して、俺といるのがつまらないとか、そういう風ではないのだ。
 そのこと自体は楽しいようなのだ。ただ、何かが名雪の重荷になっている。楽しければ楽しいほど、反動で重くなる何か。
「…ねえ、祐一。最近あゆちゃんと会ってる?」
「あゆ?」
 何でその名前が出てくるのか不明だったが、とりあえず正直に答える。
「いや、お前と一緒に会って以来は顔を見てないな。別に用もないし」
「どうしてっ!」
「え? ど、どうしてって…」
 いきなり怒られた…。
 怒った名雪は我に返って、用があるからと逃げるように走っていった。
 呆然としている俺の頭に、不意に香里の言葉が反響する。
『無意識のうちに浮気でもしてるんじゃないでしょうね』
 ま、まさか俺とあゆの仲を疑ってるんじゃ…。
(いやいやいや、名雪がそんな疑り深いわけが)
 でも何だか不安になってきた。もちろん浮気なんてしてないが、七年前のことを覚えていないのが辛い。もしかして何か疑われるようなことをしていたのかもしれない。
 が、それを聞くのも逆に名雪を信頼してないみたいで嫌だな…。よし、俺が名雪第一だということを態度で示すことにしよう。そうしよう。
「よおっ名雪」
 帰宅するなり気さくさを演出してみる。
「あ、祐一。さっきはごめん…」
「いや気にしてないぞ。それより、そろそろイチゴサンデーが食べたくならないか」
「え、ええと、しばらくいいよ…。ダ、ダイエット中なんだよ」
「あ、そう…。じ、じゃあ今度どこかに遊びに行かないか」
「あ…うん、そうだね」
 ほっとしたのも束の間、名雪はすがるように言葉を続ける。
「ね、あゆちゃんも誘わない? 三人でどこか行こうよ」
 さすがに俺の顔もこわばる。何だその、いかにもあゆに気を遣ってますという態度は。
「あのな…。どうしてお前、あゆをそんなに気にかけるんだ?」
「え、あの、だって祐一の大事な友達みたいだし…」
「そんなの関係あるかっ! わかった、そこまで言ってほしいなら言ってやる。
 俺はお前が一番大事だ! あゆなんかどうでもいいっ!」
 ……。
 言い切ってしまった。ち、ちょっと恥ずかしかったかな。
 まあこれで名雪も喜んで…

「――――」

 なっ…

「なんで泣くんだっ!?」
「…ごめん…」
 名雪は顔を両手で覆って、階段の向こうに姿を消した。
 呆然と立ち尽くす俺。何なんだ、その…
”嬉しいけれど、どうしようもなく辛い”という顔を、どう判断すればいいんだ?



「――祐一」
 名雪が俺の部屋をノックしたのは、その日の晩だった。

「この前好きって言ったの、取り消してもいいかな…」


*     *     *



 たぶん口をぽかんと開けて、馬鹿みたいな顔をしていたと思う。
「…その、つまり、別れたいってことか?」
 名雪は目を伏せたまま、こくりと頷いた。
 理解を拒んだ俺の頭は、よくある回答を機械的に返す。
「ええと…俺、何か悪いことでもしたか?」
「ち、違うよっ! 祐一は全然悪くないよ。わたしの…勝手だよ」
 そのあたりでようやく理解がやって来て、広げた手の平を名雪に向けた。
「い、いや、ちょっと待て。理由を…」
「イチゴサンデーのお金は返すから…」
「そういう問題じゃないだろっ! 一体どういう…」
「理由なんかないよ。好きじゃ…好きじゃなくなったんだよっ!!」
 悲鳴に近い叫びを残し、名雪の姿は閉まる扉の向こうへ消える。
 慌てて後を追うが、廊下に出た俺が聞いたのは、名雪の部屋の鍵がかけられる音だった。
 頬をつねってみる。
 どうやら夢ではないらしい。つまり…
 俺は振られたのか?
 なんで!?

 翌朝、本当に880円を返しにきたが、当然受け取りは拒否した。
 とにかく話し合おうとする俺から逃げるように、名雪は朝練に行ってしまう。
「早起きしてくれるのは嬉しいんですけどね。…何かあったんですか?」
「…いえ…」
 ゆっくり朝食を取って、登校中も落ち着いて考えてみたが、さっぱり理由がわからない。
 好きじゃなくなったって…それではいそうですかと納得できるか。
「二人とも、ちょっといいか」
 学校に着いてみると、名雪はまだ部活中。香里と北川を教室の隅に呼んで、小声で相談する。
「…というわけなんだ。正直俺はどうしたものやら…なんだ香里、その『ああやっぱり』って目は」
「やっぱりねぇ、いつかやると思ってたのよ。いくら名雪が可愛いからって寝込みを襲うなんて」
「襲うかっ! 真面目に聞いてくれ、頼むから」
「と言ってもなぁ。水瀬がそんなこと言うなんて信じられないんだが…」
 首をひねる北川。信じられないのは俺だって同じだ。
 そういえば、ここ最近様子がおかしかった。だいたい名雪が俺を振ること自体おかしすぎる。
「そうだ。あれは本心じゃなくて何か深い事情があるんだ! だから心にもないあんな言葉を」
「相沢…」
 しばし黙ってから、北川は俺の肩に手を置いた。
「そう思いたい気持ちは痛いほどわかるぞ?」
「哀れっぽい目で見るなよ!」
「相沢君の妄想はともかく、確かに態度が変ではあったわね」
「だろ!? 香里もそう思うだろ」
「きっと後悔していたのよ。相沢君なんかの告白を、同情からついついOKしてしまったことに」
「おい…」
「好きでもない相手と付き合って、このままじゃいけないとずっと悩んでいたのね。で、行動に出たと。なーんだ納得」
「あああ! 説明がついてしまったァ!」
 がっくりと膝を落として両手をつく俺。
「だからって一方的すぎるだろ…。こういう時はどこへ訴え出ればいいんだ…」
「どこへ訴え出ても無駄だって…。潔く諦めろよ」
「そうよ、しつこい男は嫌われるわよ。名雪につきまとったりしたら許さないからね」
「あ、おい、ちょっとっ」
 行っちまった…。なんて薄情な奴らだ。
 名雪が朝練から帰ってくる。声をかけようとしたら回れ右してトイレに行ってしまった。
 こんな理不尽が許されていいのだろうか!
 そう叫びたい気分だったが、誰も味方になってはくれそうにないのだ。

 これは何かの間違いで、次の日になれば名雪が『ごめんね、ドッキリカメラだったんだよ』と言ってくれるのを期待していたが…
 しかし先日と同様、次の日になっても、その次の日になっても、事態はまるで変わらない。
 名雪は俺を避け続けている。
「相沢、元気出せって」
「北川…。俺はもう何も信じられないよ」
「よしわかった。オレがいいところへ連れていってやろう」
 北川に引っ張られてやって来たのは、寒風吹きすさぶ屋上だった。
「何がいいんだ何が」
「お前のため込んだ気持ちを吐き出せ! ここなら叫んでも誰にも聞こえないからさ」
 んなこと言われてもなぁ。
 北風に向かって、友人は両手をメガホンにして怒鳴りつける。
「ちくしょうなんでオレには彼女ができないんだーっ! 女なんてーーっ!!」
 お前が叫んでどうするよ…。まあ正直言って頭に来ている部分がないではないし、ちょっとやってみるか。
「な…名雪のアホ〜」
「思い切りが足りないっ!」
「名雪のアホーーッ!! 俺が何したってんだーーっ!!」
 ぜえぜえ…。別に気なんか晴れないぞ、嘘つきめ。
「ま、水瀬だけが女の子じゃないさ。また別の春を探そうぜ」
「気楽に言ってくれるなぁ…」
 教室に戻ると、待っていたのは香里の冷ややかな視線だった。
「誰がアホですって?」
 とりあえず俺は回れ右して、北川の襟を締め上げる。
「丸聞こえじゃねぇかこの野郎!」
「おかしいなぁ…」
「あたしは耳がいいのよ。振られた腹いせに陰で悪口とは、語るに落ちたわね」
「や、やめてよ香里」
 久しぶりに聞いた名雪の声は、悲しくなるほど弱々しかった。
「しょうがないよ、本当のことだもん。わたし、アホだから…」
 う…。
 やめてくれ、そういうこの世の終わりみたいな目は。こっちが悪者みたいじゃないか。
 案の定、香里が俺の首根っこを抱えて教室の隅へ引きずっていく。
「あなたは可哀想とは思わないのっ。とんでもない人非人ね」
「待ておい。どう考えても俺の方が被害者だぞ」
「ふん、女の子に振られたくらいで何が被害者よ。隣のクラスの近藤君なんて今まで数十回は振られてるわよ」
「知るかよ! つーか誰だよ!」
「だいたい恋愛なんて相互の好意の元に成り立つものじゃない。好きじゃなくなったんだから振って何が悪いの? 恨むなら相手を惹きつけるほどの魅力がなかった自分自身を恨みなさい」
 言いたい放題言いやがって…。しかも反論できないのが悔しい。
「何とでも言え。とにかく俺は別れたつもりはないぞ。ちゃんとした理由を聞くまではな!」
 名雪に聞こえるように言った代償は、クラス中の『別れた女にしつこくつきまとう飲んだくれオヤジ』でも見るかのような視線だった。
 なんだか泣きたくなってきた…。

(どうすればいいんだ)
 夜になり、自室の机で頭を抱える。悪くないけどとりあえず謝ってみるか? それとも苺で釣るとか…。
「…祐一、いる?」
 小さなノック音に、俺の悩みも吹き飛んだ。そうか、よくわからんが改心してくれたか!
「あ、あのね、祐一…」
 喜び勇んで扉を開けた俺は、思い詰めたような名雪の表情に気付かなかった。
「いやいいんだ。今さら虫のいいとかそういうことは言わないから。遠慮せず言ってくれ」
「え、ええとね…い、いい加減ウザいんだよっ」
 …ハニワみたいな顔をしているであろう俺に、名雪は妙に甲高い声で続ける。
「元々大して好きじゃなかったってまだわからないかなぁっ。わたしはそーゆー女なんだよ。男なんて飽きたらポイだよっ! おーっほっほっほ」
「声が裏返っとるぞ」
「そ、そそそんなことないよっ。えーと、次なんだっけ…」
「おい…何読んでんだ?」
「わわっ、な、何でもないよ〜。と、とにかくそんな簡単に彼女ができると考える方が厚かましいんだよ。数日でも恋人でいられただけありがたいと思うんだよっ。じゃあそういうことで」
 言うだけ言って、名雪は一目散に逃げていった。
 ………。
『ああそうかいそうかいてめぇみたいな女はこっちから願い下げだぜクソアマ! ファッキン』などとは俺は大人だから言わなかったが、それに近いことは思った。
「あーあ…」
 どさり、とベッドに身を投げる。
 もう仕方ないか。名雪なんか好きになった自分が馬鹿だったと、そう思うしかないのか。
 しかし何か読んでたみたいだけど、何だったんだろう。紙片みたいなものが見えたけど…。
(……)
 カンペ?

 翌朝、俺はまた一人で登校し、まっすぐに香里の机へ行った。
「あらおはよう、相沢君」
「お前か! あのカンペ作ったの!」
「なんだ、もうバレたの」
「あ〜の〜な〜!」
「勘違いしないでね。名雪から相談してきたのよ、あなたに嫌われるにはどうしたらいいかって」
 さらりと言う香里に、俺の勢いも消滅する。
「名雪はそこまでして俺から離れたかったのか…」
「そういうことよ。わかったらきっぱりすっぱり縁を切りなさい」
「でもやっぱり納得いかねぇ…」
「ええい、相沢君のくせにしぶといわね。やっぱりデートに誘っておいてすっぽかすのが一番効果的かしら」
「本人の前で言うなよそういうことをっ! むしろ楽しんでないかお前!?」
「…おはよう、香里」
 名雪が声をかけて、席に着く。返事をする香里。無視された俺。
 それでも怒る気にならないのは…なんだかもう、名雪がやつれ果てた姿だったからだろう。心なしか頬もこけたように見える。
「わかったよ…」
 とうとう、俺も折れた。
「ゆ、祐一…」
「わかったから、お前のことは諦めるよ。もう気にするな。秋子さんだって心配してるんだから」
「うん…ごめんね」
 俯いた名雪が泣く寸前に見えたのは、気のせいと思うことにした。
 なんで振られた方が振った方を慰めてるんだと…その溜息で手一杯だったから。







<続く>


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