(1) (2) (3) (4) (5) (6) 一括





 そこは病院の廊下だった。
 目の前の病室から、看護婦と並んで名雪が出てくる。やっぱり夢か。
『七年前の樹から落ちた事故ねぇ…』
『はい。月宮あゆさん、という名前じゃありませんでしたか?』
『ああ、あの子ね。そりゃ有名だから知ってるわよ』
 看護婦はそう言ってから、しまった個人情報だったかしら、などと口を押さえていたが、名雪は得心したように呟く。
『そっか…。やっぱりあゆちゃんだったんだ』
『知り合いだったの?』
『えっと…はい、大事なお友達です』
『そう…。でも気の毒ね、七年前からずっと目を覚まさないで…』

 ――――!?

 一瞬病室の入り口めいたものが見えた後、世界が暗転した。
 というより、深夜テレビの砂嵐みたいになった。何が映っているのかわからない。
 辛うじて声だけが聞こえる。
『あゆ…ちゃん。どうして…?』
 それからしばらく間を置いて、小刻みに震える名雪の声。
『…あの、看護婦さん』
『うん?』
『もしこの子が、外で元気に走り回っているのを見たとしたら――どう説明すればいいんでしょうか?』
『そんなことがあれば医者は苦労しないけど……まあ、奇跡でも起こったんじゃない?』
 奇跡…。
 名雪のか細い声に、徐々にノイズがかかっていく。
『そ、それで…この子が目を覚ますのは、一体いつ』
 ぷつん
 音も映像も途切れて、何もわからなくなった。それは見たくなかった、聞きたくなかったこと、ということだろうか。
 けど、今日までの情報でピースは揃っていた。今のは最後の一片。それをはめ込んで――
 できた絵は、想像以上に冷たいものだった。


「祐一君がこの街に戻ってから、この街の出来事はボクの夢で、ボクの夢はこの街の出来事だった」


 声に振り返る。ダッフルコートにカチューシャ姿の少女が、そこに立っている。

「この夢はそのひとつ。探し物が見つかったから、ようやく気づけたんだけどね」
 そう言うあゆの手には、人形が握られていた。目を凝らす。
 天使の人形だ。

「…よく見つかったな」
「あ、これはおまけ。全部思い出したから…埋めた場所も思い出したから、見つけられたんだ」
 探し物。
 それが本当は何だったのかはわからないけど、病院の光景にショックを受けた名雪は、まさにこの光景こそがそれだと考えたのだろう。病院に眠る自分自身を探していると。
 だから…止めさせようとした。
「あ…ごめんね。せっかく祐一君がくれたものを、おまけだなんて」
「いいさ」
 やりきれない気分で、空を仰ぐ。
「昔はああ言ったけど、実際は俺には何の力もないんだ」

 目の前では、記憶に沿った夢が再開されている。
 気付いた以上、なかったことには名雪にはできない。素知らぬ顔で日常を続けられない。
 ましてや、ベッドで寝たきりの少女が、奇跡を起こしてまで会いに来た理由を奪うことはできない。人魚姫が泡と消えるのを承知で、隣国の王女役を演じられない。
 名雪の中では、それは殺人にも等しいから。
 俺の馬鹿な言動が拍車をかける。

 そうして名雪は、名雪自身の良心によって押し潰されていく。

 最初から、奇跡は終わりに向かっていた。俺は名雪を好きになり、あゆは探し物を続け。
 名雪だけが、それを必死になって守ろうとしていた。いつまでも続かないって、あいつ自身わかっていたろうに――


『名雪』

 香里がいた。
 奇しくもそこは、後に俺と彼女が話すことになるあの踊り場だった。
『誰をかばっているのか知らないけど、どうしてあなたがそこまでするのよ』
 階段に座り、名雪は膝を抱えて、じっと階下を注視している。
『お人好しって言っても限度があるわ。名雪にそんな義務なんかない。今時、一人で善人でいたって損するだけよ』
『…わたし、お母さんの娘だもん』
『秋子さんが、あなたと同じ行動を取るとは思えないけどね』
 ぴくりと動くだけで返事のない名雪に、香里は身を寄せて今度は励ます。
『ねえ、あたしのこと助けてくれたじゃない。名雪が言ってくれなかったら、あたしは今でも栞を拒絶したままだったわ。あの時の名雪はどこへ行ったのよ?』
 話が見えなかったが、俺の知らないところで名雪が香里を助けたらしい。
 香里が懸命だったのは、それも理由だったのだろうか。けれど名雪は力なく微笑むだけ。
『そうだね…。香里には偉そうなこと言っておいて、自分がこれじゃどうしようもないよね』
『そういうことを言いたいんじゃなくて!』
『うん…』
 再び階下を見つめて、名雪はぽつりぽつりと言った。
『でも、言い訳させてもらえるなら、香里は栞ちゃんと仲直りするのが絶対に正しかったからだよ。
 けれど、今のわたしには正しい道がどこにもない。
 どっちへ向かっても、やりきれない結果にしかならない。今のままで何の問題もないなんて思わないけど…』
 そうして、自らの膝に顔を埋める。
『祐一、傷ついたよね。わたしは何をやってるんだろう。
 余計なことをして祐一を傷つけるのはやめようって、あの時誓ったはずなのに。
 そんなことをするくらいなら、最初から何もしない方がいいって知ってるはずなのに…』
 それもどうか、という顔の香里だったが、それ以上追い詰めることはできず、短く尋ねただけだった。
『…奇跡、だっけ?』
『うん』
 顔を上げ、名雪はかすかに微笑む。
『理不尽な運命で辛い目に遭って、それでも諦めなかった女の子に、神様がプレゼントした小さな奇跡。
 ずっと想い続けていた気持ちが起こした、素敵な奇跡…』
 八方塞がりの状況で、それだけがささやかな救いだとでも言うように。
『…それを、わたしが終わらせるわけにはいかないよ…』
『…そう』
 頭を振り、諦めに彩られた声で、香里は吐き捨てるように言った。
『だとしたら、あなたにとっては残酷な奇跡ね』



 残酷な奇跡ね――



 その言葉に突き刺されたように、あゆは胸を押さえてうずくまる。
「…ボク、名雪さんにどう謝ればいいんだろう」
 小さくうめく。噴水公園のベンチの上で。

 時計はもうすぐ日が変わろうとしていた。
 雪は相変わらず降り続き、白く染まった深夜の公園に、俺たち以外の姿はない。
「お前のせいじゃないよ」
 俺には、そうとしか言えなかった。

 奇跡を持続させるという一点で、確かに名雪はやれるだけのことをやった。
 それでも、終わりに向かう流れは止まらなかった。あゆは内緒で探し続けたし、俺は隠された事実を見つけようとした。
 名雪の行動で少しは延びたとはいえ、結局いつかは終わるものだったと思う。どんなに残酷でも、事実であるということはそれほどに強い。
 それほどに…

「…すまない、あゆ」
 伏せたままだったあゆの顔が、ゆっくりと上がる。
「俺、あの頃は確かにお前が好きだったよ。でも今は…」
「…うん」
 身を起こして、そして明るく笑う。
「や、やだなぁ、小学生のころの話だよっ。そんなの…気にすることじゃないよ」
 何とかしてそれを直視する。俺にとっては、確かにそれは子供時代の思い出だ。
 でも、あゆにとっては…
 あの時からずっと時間を止めたまま、俺を待ち続けていたこいつにとっては、つい昨日のことも同然のはずなのに。
「…すまん」
 そう言うことしかできず。
 そして、そう言いこそすれ結局は切り捨てるのが、俺が冷たい人間である証だった。
 名雪は違う。名雪は俺みたいに冷たくなかったから――

「しまった、こうしてる場合じゃない!」

 思わず立ち上がり、冷え切った足が悲鳴を上げる。
「ゆ、祐一君!?」
「名雪と待ち合わせをしたんだ。ここで三時にって。
 でもたぶん名雪は来るつもりはない。自分が嫌われれば、俺があゆのところへ戻って奇跡は続くと思っているから。今もきっと、自分の部屋で耳を塞いで震えてる」
 あゆの目つきが変わり、決然と立ち上がる。
「ボクも行くよ。ボクのせいなんだから。もう十分だって、名雪さんにそう言わなきゃ」
「ああ。行くぞ」
 両足を急いでマッサージして、走り出そうとする。
 本音を言うなら、名雪にはいい加減自分の気持ちを押し殺すのはやめて、自らこの場に来て欲しかったけど…
 それも酷な話だ。名雪に"選ばせる"ということだから。
 そう考えた瞬間なのだから、現実はどこまでも皮肉だった。
 公園の入口からおそるおそる顔を出した名雪と、見事に目が合った。


 現金なもので、接続詞の前後が簡単に逆転する。
 名雪に選ばせてしまったけれど、来てくれて嬉しかった。
「あ、ち、違うんだよ」
 あゆも気付いて、ほっとして近寄ろうとするのから逃げるように、名雪は後ずさる。
「そ、その、あんまり遅いから倒れたんじゃないかって思っただけで、二人を邪魔しようなんてこれっぽっちも…」
「名雪」
「ご…ごめんなさいっ!」
 名雪の姿が柵の向こうに消える。
 追いかけようとして、あゆの姿まで消えた。
 慌てて柵の外に出ると、歩道の上で、名雪が立ちつくしているところだった。行く手をあゆに塞がれて。
 それはもう、"実体ではなく映像か何かでしかないように"、瞬時に移動していた。
「ごめんね、名雪さん。もういいんだ」
 後ろからでも、名雪から血の気が引くのがわかる。
「探し物は見つかったんだ」
「ま、待ってよあゆちゃん」
 横に回った俺の前で、名雪はこわばった笑顔を貼りつける。
「何かの間違いだよ。あゆちゃんはここにいるじゃない。
 ね、大丈夫だから。心配しなくていいから。神様がそんなに意地悪なわけがないから」
「ありがとう。でも、いいんだよ」

 奇跡を解除する呪文のように、あゆの唇が言葉を紡いだ。

「ここにいるボクはただの夢で」
「ダメだよ…」
「学校も、楽しい毎日も、実際はそんなものなくて」
「あゆちゃんっ――!」


「本当のボクは、病院のベッドに横たわって
 何も喋れず
 指一本動かせず
 目を覚ます見込みのないまま、眠り続けているんだね」


 …音もなく。
 しんしんと雪の降下は続く。力尽きたように、名雪は雪上に座り込んだ。
 俺が声をかける前に、あゆがしゃがみ込んで、ミトンを外した手をその頬に当てる。
「ボクが言えたことじゃないけど…どうして? 名雪さん一人で苦しんで…」
「…わたしには、あゆちゃんの気持ちがわかるもの…」
 名雪はうなだれたまま、糸の切れた自動人形のように言った。
「ずっと好きで、七年間好きでい続けて、やっと再会できたんだよ。
 なのに、あんなのはひどすぎる。あの現実はあんまりだと思った。
 あれが奇跡なら、守らなきゃいけないって思った。そうすれば誰も不幸にならないで済むって、そう思ったんだよ…」

 あゆのリュックについた羽根が、かすかに動く。
「…でも、それじゃ名雪さんの幸せはどうなるの」
 名雪は答えず、ゆっくり首を振るだけだった。
 あゆは顔を上げ、不安そうに俺を見る。
 不安なのもわかるけど、時間がないらしい。あゆは諦めたように立ち上がる。
「今まで、幸せな夢をありがとう。それに――ごめんなさい」

 終わる。
 名雪が声にならない悲鳴を上げる。後に残るのは病院の、冷厳な現実だけ。それだけ――

「待て!!」

 名雪と、消えようとしていたあゆが、驚いて振り返る。
 座る名雪の腕を掴んで、力を込めて引き上げた。
「名雪、あゆは眠ってるだけなんだな。命に別状はないんだな!?」
「え? そ、そうだけど…」
「なら簡単じゃないか。あゆ、必ず戻ってこい!
 常識外の奇跡なんてなくていいから、普通に目を覚まして退院してこい。俺たちはずっと待ってるから!」
「ゆ、祐一っ…」
 わかってる。そんな簡単にいくなら、名雪だってこれほど苦しまない。
 病院で言われたこと、それは目を覚ます見込みはないということなのだろう。
「祐一君…」
 けど、他に道はない。細くても。
 ――薄情な話だが、あゆのため以上に、名雪のために。
 だが幸い、あゆも同じ思いだった。少女の胸で、天使の人形がぎゅっと握られる。
 呆然としている名雪を通り越し、人形を通じたかのように、あゆの声が聞こえる。

(祐一君)
(ボクの、最後のお願いです)
(名雪さんを――どうか幸せにしてあげて)

 ――約束する。必ず。
 だから…

 俺の返事を待たず、あゆは薄れゆく中で微笑んだ。
「ね、名雪さん。名雪さんの気持ちは嬉しかったけど、でもやっぱり無理はしないでほしいよ。
 名雪さんが悲しいなら、ボクも悲しいから。もしボクが戻ってきたら、何でも言い合えて、時々は我が儘も言って――そんな友達に、なってくれる?」

 名雪の瞳に色が戻る。
 泣かなかった。
 涙をこらえて、そうして笑顔を見せた。小指を差し出して。

「その時は、また一緒にイチゴサンデーを食べに行こう」

 あゆも笑う。嬉しそうに。
 指が絡まって…


『――約束、だよ――』


 言葉を残し、その姿はかき消えた。





 空間が、落下する雪に埋め尽くされる。
 後には、奇跡を守ろうとしてボロボロになった、一人の女の子が残るだけだった。


「…名雪」

 名雪は身じろぎ一つしない。
 ただぼんやりと、雪の降ってくるその元を見つめている。
「名雪、帰ろう。風邪引くぞ」
 肩に手を置こうとする俺に、ようやく反応する。逆方向にだけれど。
 脅えるように、罪を抱えた者のように、名雪は下がる。
「どうして? 祐一。わたし、祐一のことたくさん傷つけたのに…」
「あんなの傷ついたうちに入るもんか」
 苦笑いしてから、はっきり届くように言う。
「それに、お前がお前である限り、それで傷つくなら俺は一向に構わない。
 俺だって、いつまでも子供の時のままの俺じゃないよ」

 一歩近づく。
 祐一、と小さく呼ぶ声。手を伸ばす。俺の意志で、そして――
 抱き寄せた名雪は、羽根のように軽かった。

 ――やっと、取り戻せた。


「…ごめんなさい…」
 胸の中で、か細く嗚咽する声が聞こえる。
「ばか」
 温もりを感じる。確かに存在する想いを抱いて…
 どうしようもなく愛おしい少女を、固く、固く抱きしめた。
「お前が謝ることなんて、何一つあるもんか」


 雪が降る。嫌いだった自分を浄化するように。
 奇跡は終わり、また新たに日常が始まる。あゆを待ちながら、俺たち二人で。
 そこにきっと名雪の笑顔があること。俺がそれを支えていけること――そのことを、心から確信していた。







<END>





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