本日の女子の体育は跳び箱である。世の中には跳び箱を跳べる人間と跳べない人間がいるものだが、ちなみに沙希は跳べない人間だった。
「(ううん、弱音を吐いちゃダメよ。あきらめたらできるものもできないわ!沙希、根性よ!)」
「それじゃ次虹野ー」
「はいっ!」
「沙希、頑張れー」
周囲から激励の声が飛ぶ。沙希はどこから出したのかハチマキを締めると、気合いとともに跳び箱へ突っ込んでいった。
「てやぁぁぁーーー!!」
ドンガラガッシャーーン!!
「おーい、誰か保健室に連れてってやれ…」
虹野SS: ガッツだぜ!!
「(はぁ…)」
結局その日の午後は保健室で過ごし、沙希は落ち込みながら帰途についた。
スポーツはやるより見る方が好きだ。なぜって自分は下手だから。もちろん沙希もいろいろと努力はしているのだが、いかんせん人間には得手不得手というものがある。
運痴。
ああ!なんという汚らわしい単語であろうか。この呪われた運命に、沙希は幾度となく枕を濡らしていた。
「(いいの、わたしは応援の道に生きるわ…。でもでも…)」
「フフフ!どうやら何かお悩みのようね」
「ひっ紐緒さん!?」
突如出現した白衣の少女に3歩ほど後ずさる沙希。結奈の右手にはなにやら怪しげな赤い液体の入ったフラスコが握られている。
「そんな貴方に『紐緒印のハイパー○リンピックZZ』!!これさえ飲めば貴方もスポーツ万能になれるという優れものよ」
「え、遠慮しときます!」
「運痴のままでいいというのね」
自分だって運痴じゃないですか、とは怖くて言えない。実際スポーツ万能という言葉に引かれるものがあるのは事実である。
「でっでも薬の力なんかに頼ったって…」
「あ、そう。それじゃ貴方一生運痴ね。ああかわいそうに運痴。永遠に運痴…」
ぐさぐさぐさぐさ
「ち、ちょっとだけなら飲んでみてもいいかな‥‥‥えへ」
「最初からそう言えばいいのよ。飲みなさいさあさあっ!」
「ううっがほっ」
無理矢理口の中に薬を流し込まれた沙希の意識が混濁していく。そのまますぅっと目の前が暗くなり‥‥‥目が覚めたときは、自宅のベッドの上で朝を迎えたところだった。
「(う〜〜〜ん)」
放課後の野球部でボールを磨きながら考える。結奈に薬を飲まされた後の記憶が一切ないのだが、あれは一体夢だったのだろうか?
「おーいマネージャー、取ってくれ〜〜い」
「あっ、はーい」
沙希の足元にボールが転がってくる。向こうではきら校のキャプテンでエース、主人公が手を振っていた。沙希はボールを拾い上げると、そのまま大きく振りかぶる。思いっきり投げないと届かないのだ。
『スポーツ万能よ』
結奈の言葉がふと頭をよぎった。
「えいっ!」
どびちぃっ!!
キィィィィィィィン!!!
「!!?」
バシイッッ!!
しばらく沈黙が流れた。沙希の投げたボールは公のグローブの中で白煙を上げている。
「あわ、あわ、あわわわわわ…」
「え…ええーーーっ!!?」
沙希が自分の手を見ながらすっとんきょうな声を上げる。何事かと部員たちが集まり、沙希はあわてて事情を説明した。
「紐緒さんの薬を飲んだぁーーー!!?」
「う、うんっ!」
「なんという命知らずな…」
沙希の心臓の鼓動がだんだん早くなってくる。ボールを投げた手がまだ震えてる。スポーツ万能、本当にスポーツ万能になったのだろうか?サーブを打ってはあさっての方向に飛んでいき、プールに行ってはなにもしなくても溺れるこの自分が!
「ね、ねえ、ちょっと打ってみてもいいかな!?」
「おいおいマネージャー…」
「うーん、まあいいじゃないか。俺が軽く投げてやるよ」
「ありがとう公くん!!」
とててと走ってバットを持つ。いつも片づけるだけだったバット。大きめのヘルメットをかぶり、少し緊張して打席に立った。
「ははは、それじゃ行くよ。それっ!」
カキーーン
「ち、ちょっと軽すぎたかな…。はぁっ!」
カキーーン
「でやぁ! とぅ! どぅえい!!」
カキーーン カキーーン カキーーン
次々と遥か彼方へ飛んでいく打球を、公と部員たちは呆然と見つめている。
「ね、ねえみんな見た?見ました!? すごいすごーーい!!」
「あ、ああ、すごいね…」
「いやーびっくり…」
「しくしくしくしくしく…」
「(泣くほど傷つく前にやめろよ公…)」
「ごめんなさい、すっかり調子に乗っちゃって…」
「え。あ、いやいや!」
部活も終わって放課後の帰り道。しゅんとして謝る沙希に、公はあわてて手を振った。
「いやぁ、虹野さんの打撃力には驚いたよ」
「う、うん。でも紐緒さんの薬の力だもんね…。そんなの意味なんてないんだよね…」
「うーん、でも1週間で切れるっていうしさ」
公が半泣きになりながら結奈を問いつめたところ、そういう答えが返ってきたのだ。
「ま、滅多にないことだし。割り切って楽しめばいいんじゃないの?」
「そ、そうよね!うん…。ずっと、憧れてたの…」
快音とともにバットを振り抜いたあの感覚。あるいは運痴の自分に、神様が結奈の手を借りてささやかな贈り物をしてくれたのではあるまいか。たとえそれが一時の夢でも…
「よぅし、それじゃ練習試合をしましょう!」
「れ、練習試合?」
そして次の日の放課後。
「というわけで来週の日曜に、明問高校と試合をすることになりました!」
「何ーーーっ!!?」(ガビーン!)
明問高校といえば県下有数の野球の名門。しかも今年は天才バッターと言われる球小路打郎を擁し、全国制覇をも狙っているという強豪である。
「い、いくらなんでもそりゃ無謀だって!」
「そうだよ!俺たちみたいな9人しかいないようなチームで!」
公を先頭にブーブー言い出す部員たちに、沙希はうるうると目を潤ませた。
「そんな、やる前から諦めちゃうの?わたし、何事にもぶつかってく人が好きだな…」
好きだな…
好きだな…
好きだな…
「仕方ねぇいっちょやったるか!」
「おお!わしら男じゃけぇの!!」
「みんな、みんなありがとう!さぁ、あの夕日に向かって走りましょう!」
「おおぅ!!」
息をそろえて外へ飛び出していく部員たち。感激にはちきれそうな沙希とは裏腹に、その顔はしまりなくへらへらと笑っていたという…。
しかし1時間後。まだ走り続ける一同は、選択を誤ったことにようやく気がづいた。
「マ、マネージャー…」
「今週はマネージャーじゃないの。コーチって呼んでね☆」
「それじゃコーチ。そろそろ死にそうなんスけど…」
「大丈夫、みんなならこんな練習なんともないわ。わたしそう信じてる!」
「(か…買いかぶりすぎだーーーっ!!)」
心の中でハモりながらも、沙希の笑顔を前に走り続ける悲しい男のサガである。
「それじゃ次はノックよ。たくさんあるからどんどん捕ってね」(にっこり)
「(し、死ぬ…)」
カキーーンカキーーンカキーーン!強化沙希の打撃が容赦なく部員たちを襲う。地獄、そうまさに地獄の特訓である。
「に、虹野さんちょっとタンマ…」
「どうしたの公くん!?キャプテンならもっと根性を出さなくちゃ!」
「いや、そう言わはりましても…」
「友情・努力・勝利よ!!」
既に沙希の背後にはその3つの言葉が炎を上げて燃えさかっている。公は天を仰いで号泣するのだが、そんな暇もなく打球は飛んでくるのだった。
「根性の千本ノーーック!!」
「(虹野さん…君って優しくて控えめという設定だったはずじゃぁ…)」
「(みんなごめんね。でも今は辛くても、きっといつかこれで良かったと思える日が来ると思うわ。そのためにわたしも心を鬼にして頑張るね!)」
そして日もとっぷりと暮れ、ようやくその日の練習が終わる。部員たちはグラウンドにマグロになって死んでいたが、沙希があくまで純粋な善意から包みを持って走ってきた。
「みんなご苦労さま! 調理実習で余ったクッキーがあるの。よかったら食べてってね!」
キュピーーン
「よっしゃ、明日の練習も頑張ろうぜ!」
「おう!!」
「(みんなありがとう…わたし、わたしこの野球部に入ってよかった…)」
拒人の星が輝く下、沙希はそっと涙をふくのだった。
そして試合当日。
「キャーッ球小路さまーー!」
「ステキーー!」
有名チームとの試合なだけあって、日曜にもかかわらず生徒がけっこう見に来ている。明問高校のバスが到着し、選手たちがぞろぞろと降りてきた。
「それにしてもよくOKしてくれたなぁ…」
「えへへ、実は球小路さんには前からよくファンレターとか出してたんです」
「(意外とミーハーなんだね虹野さん…)」
選手の先頭に立ってやってくるのはまったく野球選手らしからぬ長髪の美形であったが、彼が一応天才バッターの球小路打郎である。沙希の前で立ち止まると、すっと右手を差し出した。
「あなたが虹野くんですね。この前はクッキーまで送ってくれてありがとう」
「そ、そんなっ。本当に来てくれるなんてわたし感激してます!」
「‥‥‥‥‥‥」(←おもしろくないらしい)
「キャプテンの主人くん、だったね。今日はスポーツマンらしいさわやかな試合をしよう!」(キラッ)
「…そーすね」(←やっぱりおもしろくないらしい)
一方無理矢理連れてこられた明問校の選手たちは不満顔である。
「ったく、なんだってこんなレベルの低い高校と…」
「やめないか、おまえら!」
むっとした公がなにか言う前に、球小路が味方を一喝した。
「うっ…」
「どこの選手であろうと野球を愛する気持ちは変わらないはず…真剣に勝負してこそ球児としての礼儀ではないのか!」
「す、すみません球小路さん…」
明問校選手たちはすごすごとベンチ入りし、沙希の目は半分ハートマークである。
「球小路さん、やっぱりわたしの思ってたとおりの人でした…」
「〜〜〜〜〜〜!(←もはや限界らしい)
お前ら、今日は気合い入れてくぞ!!」
「おうよ!!」
「あいつらコテンパンにのしてやろうぜ!!(特に球小路!!!)」
「みんな、その意気よ!」
今までにないほどに燃えるきら校野球部。なにより沙希の猛特訓をくぐりぬけたという自信が全員の魂に火をつけていた。が、
「ストライク!バッターアウッ!!」
1回の表のきら校の攻撃はあえなく3者凡退。そして1回の裏。
カキーン
「ああっ公くん!」
「く、くそっ!」
ランナーを3人おいて、バッターは4番、球小路。
「頑張って、頑張って公くん!!」
「(おお、虹野さんがちゃんと俺を応援してくれてる!)
くらええぇぇぇ球小路ぃぃぃ!!!」
カキィィーーー……ン
公の渾身の球は、あっさりとお空のかなたへ消えていった。口をあんぐりと開けて見送っていた公が、がっくりと膝をつく。
「ウフ、ウフ、ウフフフフ…」
「こ、公くんしっかりっ!」
「ええい、何をやってるの!」
突然の声に振り向くと、結奈がずかずかとグラウンドに入ってくるところであった。
「だいたいなんで虹野がベンチにいるの。これじゃデータが取れないわ!」
「データって…」
「で、でもわたしコーチですから」
「…わかったわ。ちょっと主人くん来なさい」
「え、ど、どこへ?」
結奈ががっしと腕をつかみ、公は部室長屋の裏側へ引っ張られていった。数瞬の後、なにか電気が流れるような音とともに公の絶叫がこだまする。
「あぎゃぁーーーっ!!」
「こ、公くん!?」
弾かれたように沙希が飛び出すと、結奈が公を抱えて出てくるところだった。
「か、体がじびれ゛…」
「大変よ。主人くんがコンセントに触って感電してしまったわ」
「ええっそうなんですか!?しっかりして公くん!!」
「(虹野さん…少しは人を疑うということを覚えてくれ…)」
とりあえず公の命に別状はないようだったが、きら校の選手は9人しかいない。一同集まって協議したものの…もはや道は一つしかなかった。
「わたしが出ます!」
「に、虹野さん!」
「マネージャー!?」
「だってここで試合放棄するわけにはいかないもの!なにより、みんなの頑張りを無駄にしたくない!!」
「き、君って娘は…」
沙希は明問高校のベンチに行くと、自分がドーピングしていることと、でも選手が9人しかいないことを正直に話した。少し驚いていた球小路だが文句無しに快諾してくれた。
「フッ、君の情熱には打たれましたよ…」
「ありがとう、球小路さん!!」
もはや後には引けない。部室の奥から予備のユニホームを引っぱり出す。少し大きめで不格好だったが、見た目なんて気にしてられない。
「虹野さん…」
グラウンドへ飛び出していこうとする沙希に、まだしびれの取れない公が声をかける。
「公くん…」
「…もうなにも言わない。でもくれぐれも、無理だけはしないでくれよ」
「うん、大丈夫。だって公くんがいつも投げてたマウンドだもの…。わたし、わたしね」
「虹野さん?」
「…行ってきます!!」
「虹野さん!!」
もう沙希は振り返らなかった。スパイクが土を蹴り、審判が選手交代を告げる。
「ピッチャー交代!主人公に変わり、虹野沙希!背番号24!!」
観客がどよめく中、沙希はマウンドに立った。そばには誰もいない。でもバックには仲間たちが、そしてベンチには公が沙希の姿をじっと見守っていてくれるのだ。
2、3球投球練習をした後バッターが打席に入る。口には出さなかったものの、女の子相手と見てなにか馬鹿にしたような雰囲気が感じられた。
「(くそっ、甘くみやがって…。遠慮するな虹野さん!ビシバシストライクを決めてやるんだ!)」
「プレイ!」
審判の手が高く上がり試合再開を告げる。沙希はゆっくりと振りかぶると、鋭く腕を振って第1球を放った!
ドッパァァァァン!!
「…え?」
「…ス、スットラーーーイク!!」
野球コート全体が割れるような歓声に包まれる。バッターはようやく本気になったが、それでも沙希の球威にはついていけずあえなく三振する。
「やるなぁ、虹野さん…」
「当然ね」
「俺の立場がないけど…」
「最初からないわよ」
「(しくしくしく…)」
次のバッターも三振。3人目は少し粘ったが、ピッチャーゴロに打ち取られた。
「ナイス沙希ちゃん!」
「う、うんっ」
沙希からの送球をキャッチしたファーストが肩を叩く。これはいける、ナイン全員にそんな気持ちが起こり初めていた。
そしてそれを裏付けるように2回裏。
カキィーーン
「やったぁマネージャー!」
「馬鹿、今はマネージャーじゃないぞ」
「そ、そうだな。やったぜ虹野!」
6番打者沙希の打球は三遊間を破るクリーンヒット。残念ながら得点には結びつかなかったものの、意気はいやおうにも盛り上がる。
そして3回裏。
「ストライーーク、バッターアウッ!!」
「(バカな!!)」
10年に一度の天才と言われる球小路が三振を喫した。しばらくあたりは水を打ったように静まり返っていたが、誰かの拍手をきっかけに歓声で大騒ぎとなった。
「フッ、どうやら心のどこかで手加減していたようですね…。いいでしょう虹野くん!次の打席ではこの球小路打郎全力をもって君を打ち崩してみせよう!!」
「うんっ、こっちだって負けないわよ!」
しかしベンチに戻った沙希の顔が青い。既に肩で息をしている彼女に、公を含め全員が集まってくる。
「に、虹野さん、大丈夫?」
「だ、大丈夫よ。このくらい…」
「そろそろ限界ね」
強がる沙希に、結奈の冷たい声がかけられる。沙希ははっと顔を上げた。
「ひ、紐緒さん!」
「最高の運動神経を手に入れたとはいえ、あなたの体力は普段と変わらないわ…。データも十分取れたし、もういいから主人くんと代わりなさい」
その言葉に部員一同の白い視線が結奈に集まる。
「な、なによその目は」
「紐緒さん…。野球って一度交代した選手はもう出られないんスけど…」
みぃぃーーー……ん
「それじゃ私はこれで」(くるぅり)
「ちょっと待てぇぇぇぇ!!」
「ええいうるさいわね!そんな非合理的なルールは野球連盟にかけあって改正させなさい!!」
「やめて、2人とも!」
沙希がよろよろと立ち上がると2人を制した。その目にはなみなみならぬ決意がみなぎっている。
「に、虹野さん…」
「わたし…わたし最後まで投げます!ここで投げ出したら女がすたるわ!」
「バ、バカッ何を言ってるんだ!俺だって全投はきついのに、ましてや…」
「投げるったら投げるの!」
その言葉には有無を言わせぬ気合いがあった。ぎゅっと拳を握りしめてうつむいていた部員たちが、決然と顔を上げる。
「そうだ、投げてくれ虹野さん!」
「俺たちは今まで主人と虹野さんに頼ってばかりだった…。今こそ俺たちの本当の力を見せてやるんだ!!」
「バックの守りはまかせてください、虹野先輩!!」
「みんな…」
「お…おまえたち…」
「えへへ…や、やだな。目から汗が…」
沙希はそっと涙を吹くと、バットを高く天に掲げた。
「みんな、根性よ!根性で拒人の星を目指しましょう!」
「おおぅ!!」
見よ、昼間だというのに沙希の指した先には一番星が輝いているではないか。結奈にだけはいくら目をこすってもそんなものは見えなかったが…。
「きらめき高校、打席へ!」
「よっしゃぁ!!」
「頑張って!!」
「(うっ…こ、こいつら今までと雰囲気が違う!)」
きら校ナインの気迫に押されたのか、明問校のピッチャーは少し動揺する。その隙をついて必死で食らいつき、2アウト満塁でバッターは沙希。
「く、くそっ…。女に打たれてたまるかァ!!」
「ド根性!!」
バギィィィィィィィンン!!!
沙希の打球はギャラリーの頭上を越え、サッカー場まで飛んでいった。球小路のお株を奪う満塁ホームランである。
「やったぁ沙希ちゃん!!」
「ナイスバッティング虹野先輩!!」
「虹野さん…俺は今猛烈に感動している!!」
沙希はよろよろとダイヤモンドを一周すると、待ちかまえていたナインと手をたたき合わせる。これで同点、試合は振り出しに戻ったのだ。
「そ、そんなバカな、俺が打たれるなんて…」
「愚か者め!そのおごりが球に迷いを生んだのだ…。フッ、だがこれでこそ倒しがいがあるというもの!」
その裏の明問校の攻撃。さすがに沙希の球威も落ちて打たれ始めるが、野手たちの決死の守りでなんとか2アウトをもぎとった。しかし次のバッターは球小路。
「負けるわけには…負けるわけにはいかないの!」
「それはこちらも同じことよ!!」
キィン!! 快音とともについに沙希の球が捉えられる。右中間を深く破る3ベースヒット。沙希は緊張の糸が切れたかのように、がっくりと膝をついた。
「(ごめん、ごめんねみんな…。もうここまでみたい…)」
「立て、立つんだ虹野さん!!」
「(公くん…?)」
「そんな程度だったのか!?一緒に甲子園に行くって約束したじゃないか!!立て…もう一度立ち上がってくれ!!」
「(約束…うん、約束したんだものね…)」
沙希は歯を食いしばって立ち上がる。そうだ、ランナーを出しても点さえやらなければそれでいいのだ。次のバッターはむろん明問校の5番を打つ強打者だったが、沙希の背後に浮かぶオーラに思わず気圧される。
「(こ、これはまさか究極の小宇宙!!?)」(ナゾ)
「てぇぇーーい!!」
ミットの音が3つ響く。その回の明問校の攻撃は、ランナーを3塁に残したまま終わった。
「す、すいません球小路さん…」
「くっそードーピングなんて卑怯だよな」
「いや、君たちは気づかないのか。薬の力をも越えた彼女のおそるべき根性に…!!」
その後試合は一進一退の攻防が続く。明問校は名門の実力をもって突き放そうとするのだが、沙希たちきら校ナインは全員一丸となってその攻撃を耐えしのいでいた。そしてついに試合は9回表。
カキィンッッ!!
「や、やったぁっ!!」
疲れの見えてきた相手ピッチャーから、ついに1点をもぎ取ったのだ。それも沙希の力を借りずに。きら校ベンチが歓喜に揺れる。奇跡の出現を前に、次々と生徒たちが集まってきた。
「さあ、最後の守りだ!」
「虹野さん、大丈夫か?」
「う、うん…」
すでにはた目にも分かるくらい、沙希の小さな体はボロボロだった。さすがに公も息をのむ。いくらルールと言っても、先ほどのように事情を説明しれば交代も認められるのではないか…。
「投げます!」
「に、虹野さん…」
公の言葉をふさぐように、沙希はきっぱりと言い切った。もはや立っているだけで精一杯であろう彼女の、どこにそんな力が残っているというのか。
「そうだ沙希、ここまで来たんならやってやれ!!」
「ヘイ、サッキー! 私たちがついてるわ!!」
「望ちゃん、彩ちゃん…」
日曜日だというのに望と彩子も応援に駆けつけてくれた。沙希はばしっと自分の頬を叩くと、今までで最高の笑顔を見せる。
「ありがとう…。わたし、わたし頑張るね!!」
「虹野さん…」
公はもはや何も言えなかった。そして…奇跡が起ころうとしていた!
「スットライーーーク!!」
もはや気力だけで投げている沙希の球威は、にもかかわらずもはや衰えを見せない。いや、むしろ最初の頃より増しているような…。
「バカな、そんなはずはないわ。私のデータでは!」
「紐緒さん、世の中にはデータでは割り切れないこともあるんですよ…。これがきら校魂ってヤツさ!!」(ビシィ!)
「ベンチのくせにえばってるんじゃないわよ」
「誰のせいですかーーー!?」
そしてランナーを2塁においたものの2アウト。バッターは…4番、球小路打郎!!
「虹野くん、あるいは君は僕の生涯で出会った最高の野球選手かもしれない…。泣いても笑ってもこれが君と僕の最後の勝負だッ!!」
「ううん、球小路さん。これはわたしたちだけの勝負じゃないわ。みんなが、友だちが、そして公くんがいてくれたからこそここまで投げてこられたんだもの!」
「フッ!もはや問答は無用ーー!来い、虹野くん!!」
「いきます!球小路さん!!」
キィンッ!
バックネットに突き刺さるファウル。これでファウル5つ目である。
「ぜぇっ…ぜぇっ…」
沙希はもう限界だった。いや、限界などとっくに越えていたかもしれない。もはや目の焦点も合わず、ただキャッチャーミットだけを追っている状態だった。
「くっ、ダメだ。見ちゃいられないよ!」
「No、望。ちゃんと見るのよ…。サッキーの命をかけた勝負なんだもの!!」
「(もういい、もういいよ虹野さん…)」
公は何もできない自分に歯ぎしりしていた。すぐそこに見えるマウンドのなんと遠いことか。そしてそれはグラウンドに散るナインたちも同じ思いだったろう。
「(ようやく目も慣れてきた…。次で打つ!!)」
球小路はぎゅっとバットを握りしめる。たとえ沙希があのような状態でも、全力を出すことこそバッターの礼儀だった。
「‥‥‥‥‥‥‥」
ふと沙希は空を仰ぎ見た。なぜ自分はこんなにも一生懸命になっているのだろう?
夢。そう、夢があるからだ! 子供の頃から見続けてきた夢を、そして今みんなで見てきた夢を、ここで退いたら裏切ることになるからだ!!
「(あと一球、かな…)」
もはやそれ以上の力は沙希にはない。この一球に自分のすべてをこめて…
「いきます!!」
「来い!!」
ランナーがいるにもかかわらず、沙希は大きく振りかぶる。周囲が水を打ったように静まり返り、まるで時間が止まったかのように見えた。
「これが…これが史上最高のボールよ!!」
「!!!」
バチィッッ!!
沙希の手から白球が弾丸のように放たれる! 沙希の魂すら宿したその球は、キャッチャーミットへうなりを上げて飛ぶ。
「(打てる!!)」
球小路の目が光る。まさに瞬速のその振りは、機械のように正確にボールを待ちかまえていた。が、その2つが激突する瞬間、ぐん!ともう一段沙希の球が伸びた!!!
「な…なにぃ!!?」
ズバァァァァァン!!!
凍り付いた時間が動き出すには少しの間を要した。そう、審判が絶叫するまで。
「ストライク、バッターアウト!! ゲーーーームセットォ!!!」
公が、ナインが、友人たちがみなマウンドへ駆け寄る。その歓声ももう沙希の耳には届かなかったが、うっすらとみんなが喜んでるのが見えた。
「わたし…わたし勝ったの…?」
「フッ、僕の完敗ですよ…。虹野くん、僕はこの勝負を誇りに思う!!」
「球小路さん…」
戦いが終わり、後にはなんの遺恨もない。球小路が右手を差し出し、沙希も笑ってその手を握り返すはずだった。
だがそれは空を通り抜け‥‥周囲が息をのむ中、どうっと地面に崩れ落ちた。
「に、虹野くん!!」
「虹野さぁぁぁぁん!!!」
「(ん…)」
どうやら保健室のベッドの上らしい。かたわらでは公が一人、心配そうな顔で沙希を見つめていた。
「に、虹野さん!気がついた!?」
「公くん…」
まだ頭が少しふらふらする。沙希は上半身だけ起こすと、少しの間自分の手を眺めていた。
「薬はもう切れたって…。紐緒さんが言ってた」
「そ、そう…他のみんなは?」
「え?いや…なんか2人きりにしてやるとかなんとか…」
「え、えぇっ!?」
真っ赤になってうつむく沙希。夕日の差し込む保健室にしばし沈黙が流れるが、公は意を決したように沙希の隣に座った。
「虹野さん…。本当に素晴らしい試合だったよ」
「あ、ありがと…。えへへ、照れちゃうね」
でももう二度とあんなことは起こらない。今の沙希は、元のスポーツの下手な女の子なのだから…。
「…でも、楽しい夢だったよね…。苦しかったけど、楽しい…」
「夢なんかじゃないさ!!」
「え…?」
公の声に沙希は目を丸くする。
「ただの夢なんかじゃない。あそこにいた全員が君の頑張りを目に焼き付けたんだ…。俺はあの姿を一生忘れない!!」
「公くん…わたし…」
「ああ…」
「…わたしっ…!!」
言葉にならぬまま公に抱きつく沙希。こらえきれず涙が流れ落ちる。しかしそれは悲しいからでも苦しいからでもなく、全力を出しきった者のみが流せる綺麗な涙だった。
「虹野さん…これからも頑張ろうな。そして必ず甲子園に行こう」
「うん…うん…!」
そっと抱きしめられて、沙希はいつまでも泣き続ける。赤い夕日と変な髪型だけが、2人の姿を見守っていた。
「そこよ!Kissのひとつでもかましちゃいなさーい!」
「なぁ、やっぱり覗きなんてよそうぜ…」
そして…
「えいっ!」
「ん?」
とある昼休み。公が学食に行こうとすると、体育館の隅で跳び箱の練習をする女の子の姿が目に入った。何度も何度も挑戦しているのだが、どうしても6段が跳べないのだ。
「虹野さん」
「あ、こ、公くん!?」
沙希は赤くなってわたわたと手を振る。その姿はとても先日のマウンド上の戦士には思えない。
「練習?」
「う、うんっ。やっぱりわたしももっと頑張ってみようかなって…。せめてこれくらい跳べるようになりたいな」
照れたように笑って、もう一度助走する。思い切りよく踏み切りはするのだが、そのままぺたんと跳び箱の上に尻餅をついてしまう。
「うーん、手をつく位置が良くないな。もう少し向こう側だろ」
「そ、そうね。あ、でも公くんこれからお昼じゃないの?」
「いいのいいの。そのうちお弁当でお返ししてくれれば」
「あーっ、動機が不純だなぁ」
少し見つめ合った後ぷっと吹き出して、沙希はもう一度跳び箱から離れる。
「それじゃ、ちょっと見ててくれるかな」
「ああ。虹野コーチほど厳しくはないから安心してよ」
「や、やだ公くん!もうっ!」
思い出して赤くなって、すぐに気を引き締めて助走を始める。誰よりも真摯でひたむきな、そんな彼女が公は大好きだった。
「えいっ!!」
沙希が跳び箱を跳べるようになるのも、そう遠い日ではないだろう。
<END>