この作品は「Kanon」(c)Keyの世界及びキャラクターを借りて創作されています。
ネタバレを含みます。
「平行思惟」の続編です。









誓約









「綺麗だね」

 背後から聞こえる佐祐理の声に、風呂上がりの舞は怪訝な顔をした。
「何が?」
「舞の髪が」
「…そう?」
 舞としては髪などどうでも良いのだが、佐祐理がやりたいと言うので、毎日こうしてじっと座って梳かしてもらっていた。
 長い黒髪に櫛を入れる佐祐理は、何が嬉しいのか、いつも幸せそうだったから。
「はい、おしまい」
 きゅっ
 リボンを結んで、いつもの舞ができあがる。
「舞はやっぱりこの髪型じゃないとねーっ」
「そう?」
「うんっ」
 舞が佐祐理と暮らすようになってから、夏が過ぎ、秋が来て、そして再びの冬。
 毎日のように雪の降るこの地方では、今夜も芯から熱が逃げるように寒い。湯冷めしないうちに炬燵の中へ潜り込む。
 佐祐理が割り込むようにその隣に入ってくる。
 四角形の一辺に固まって、みかんを食べながら、適当にお喋りをして過ごす…。
 ずっと望んでいた日々。六畳の小さなアパートも、佐祐理との距離が縮まると思えばむしろ嬉しい、そんな日々。
 でも――自分の何が変わったのか、舞には自信がなかった。


 佐祐理と一緒に進んだ大学は、半年ほどで辞めてしまった。
 今は動物園で働いている。まだアルバイトの身だが、動物は好きだし、いつか雇ってもらえたらと思う。

 退学を決めたとき、佐祐理は何も言わなかった。
 ただ、舞の好きにすればいいよと、少し微笑むだけだった。
 昼間の時間は別々になり、顔を合わせるのは朝と夜だけ。
 それでも、昼夜べたべたと一緒にいるよりは、こうすべきだったと舞は思う。
 ただでさえ魔物との戦いで不毛な時間を過ごして。
 この上いつまでも佐祐理の優しさに甘えていたのでは駄目になる。確かな自分を持ちたい。

 ――佐祐理を支えられるようになりたい。


「クリスマス、どうしようか」

 みかんの皮を丸めていた佐祐理が、ふとそんなことを聞いた。
「ケーキを食べる」
「うんうん」
「‥‥‥」
「それから?」
「…さあ」
「…あははーっ」
 可笑しそうに笑うと、舞の肩に寄り掛かる佐祐理。
「それじゃ、私が適当にセッティングしておくね」
「…ごめん」
「あははーっ、セッティングっていってもただのデートだよーっ」
 ただの、普通のデート。普通にレストランに行ったり、腕を組んで街を歩いたり…
 そういうものが、きっと佐祐理の望みなのだろう。
 息の届く場所で目を閉じている彼女を見ながら、あらためて愛しさを感じた。
 彼女だけでも…
 神様に祝福されますように、と。


「すまん、川澄くん!」
 音を立てて眼前で合わされる手に、無愛想だが仕事熱心と評判のバイト員は、表面上は例によって無表情だった。
「…24日は休ませてもらえるというお話でした」
「いや、他の職員も何人か休んじゃってねー。クリスマスで家族連れも来るだろうし、ちょっと人手が足りないんだわ」
「‥‥‥‥」
「このままじゃ動物たちにも十分な世話をできなくてねぇ…」
 ちらり、と檻の向こうの動物たちを見る。
 象さん、熊さん、キリンさん…彼らの名を出されて、舞に頷く以外の何ができただろう。
「…わかりました…」
「いやーすまん! 本当にすまんね!」

 とぼとぼと、北風に吹かれながら家路を歩く。
 佐祐理のささやかな願いすらかなえてあげられないのか、自分は…。
「‥‥‥‥?」
 昨日までなかった大きなツリーに、ふと目を留める。
 十字架。教会だった。こんなところに建っていたなんて今まで気づかなかった。
 なんとなく引き寄せられるように窓から覗く。人を見下ろすイエスの像。神聖な空間。
 …そこで、舞と佐祐理が祝福されることはないけれど。
「おや。いかがです、中に入っては」
 神父が気づいて声をかける。舞は慌てて、口の中で断ると足早にその場を去った。
 ひどく場違いな気がして。


「ただいま…」
 扉を開けると、佐祐理が電話中だった。
「はい、はい。大丈夫ですよーっ。佐祐理は平和に暮らしてますから。
 ええ。そうですね。それじゃ近いうちにご挨拶に伺います」
 カチャン
 靴を脱いだ舞に、お母様から、と佐祐理は小さく言った。
「すぐご飯にするねーっ」
「…うん」
 彼女が母親と断絶していないのは、自分の母のことを思い出して、少し救われた気持ちになる。
 でも彼女の父親は違った。自立するだけならまだしも、女の子の恋人になることは一生許してもらえそうになかった。
『しょうがないよ。それが普通の反応だろうし』
 当然のように言ってしまう佐祐理が少し辛い。
「今日はグラタンだよーっ」
 湯気の立ち上る夕食を並べて、向かい合って炬燵に入る。
 食べる前に言うつもりだった。
 どうせ佐祐理にはすぐ気づかれるから。
「佐祐理」
「なあに?」
「…24日、仕事行かなきゃいけなくなった」
 あるいは既に気づかれていたのだろうか。佐祐理はフォークに手を伸ばしながら、笑う。
「ほんと、舞はお人好しなんだから」
「ごめん」
「そういう舞が好きだよ」
 …どうして。
 そんな風に言ってくれるのだろう。
「ごめん…」
「あははーっ。それじゃクリスマスは仕事の後だね」
 フォークを口に運ぶ彼女を見ながら、忸怩とした感情が消えない。
 支えるどころか、並ぶこともできない…。


 明かりを消した部屋の中で。
 炬燵を端に寄せ、空いたところに布団を敷いて一緒に眠る部屋の中で。舞は暗い天井をぼんやりと見ていた。
 隣から寝息は聞こえない。佐祐理はいつも静かだ。
 首を横に向ける。じゃりっ、枕が小さく音を立てる。
 目を閉じた彼女は綺麗だった。彫像のように、何の表情も浮かべることなく。
 でも、その向こうにある声を知ってる。

(一弥、ごめん。一弥、ごめん。一弥、ごめん…)

 ずっと言い続けていることを舞は知ってる。
 舞が知っていることを、佐祐理は知ってる。
 知りながら、表に出すことなく日常を続けている。

 頭を元に戻す。闇の中の天井を見ながら、舞は自分に言う。承知の上だった筈だ。
 佐祐理が苦しむこと、苦しみ続けることを承知の上で、佐祐理を好きになった筈だ。
 彼女が心から笑うことはないこと。それが辛いなんて、決して言ってはいけない。
 そのことも含めて佐祐理を愛しているのだから…


「…狸さん」
 狸がこちらを向く。
「おはよう」
 おはよう、と言ってはくれなかったがそんな気がした。
 動物園の仕事と言っても、アルバイトでは動物の世話とはいかない。雑用と掃除が殆どだ。
 動物たちの寝床を綺麗にし、雪の降る中、傘を差してリヤカーを運ぶ。
 それでも頭の中は佐祐理のこと。
 佐祐理。
 彼女は今のままでいいと言ってくれる。一緒にいられるだけで幸せだと。
 結局不満なのは舞の方。
 何もできない自分が、不甲斐なくて嫌なのだ。
 黙々と仕事を片づけて、動物たちに挨拶して…それでも佐祐理のことばかり考えてる。

「狐さん」
 三角の耳が、ぴくんとこちらを向いた。
「…私は、どうしたらいいと思う?」
 もっと幸せにしたい。笑ってほしい。
 そう思うのに、思うだけで力が足りない。

 もしかしたら
 彼女には、自分よりもっと相応しい人がいるんじゃないだろうか――


『…けっこん』

「…?」
 耳に手を当てる。空耳? でも、誰か…
 檻の向こうの狐が、じっとこちらを見ていた。
 そんな気がしただけだろうか?

『そうしたらずっといっしょにいられる』

 春先に、街で行き倒れてて、ここに引き取られた狐。
 そう聞いていた。

 狐と人間は、しばらく向かい合って動かない。

「狐さん…」

 吹かれた雪が通り過ぎる。

「結婚はできないんだ…私と佐祐理は」


 狐は、ふいと横を向いた。



 帰り道。
 ツリーの飾りが昨日より増えていた。
 今日は静かに扉を開けて、忍び足で中に入った。数人を前に神父が何か説教している。一番後ろの椅子に座って、イエスの像を見上げた。

(助けてあげれば?)
 耳の奥で声がする。
(舞には力がある。それこそ神様のような)

 …強く願えばどんなことでも叶う。
 頭を降る。違う。お母さんにそれを使ってどうなったか、知ってる筈だ。
(自分の事なんてどうでもいいんでしょ)
(佐祐理を助けたいんでしょ)
(何だってできるのに、何もしないのは)
(罪なんじゃない?)
 何だってできる。佐祐理から辛い記憶を消すことも、あるいは、彼女の弟を生き返らせることだって――
「…違う、そんな事しても佐祐理は喜ばない」

 神様…

 どうか道を示してください。
 最愛のあの人に。
 私を救ってくれたあの人に。
 どうしたら応えられるのですか?

「何かお悩みですか?」
 よほど深刻な顔をしていたのだろうか。神父にそう声をかけられた。
「いえ…」
「主は常に我らを見守ってらっしゃいます。悩みは告白すれば楽になりますよ」
 簡単に言ってくれる。
「…愛してる人がいるんです」
「おお、それは素晴らしいことです」
「女の子です。それでも?」
「え…」
 長い髪の女性にそう訊かれて、神父は少し慌てる。
「罪ですか?」
「ま、まあ教義ではそうなってますが…。個人的には構わないと思いますがね…」
 神父はごほんと咳払いして、言った。
 彼は人だ。
 自分も。
「…済みません」
 ここは天国ではなく、一面の麦畑も、屋上へ続く踊り場も既に遠く過ぎ去り。
 それでも佐祐理という天使を得て。
 人としてできることをしなくちゃいけない。神ならざる身では不完全でも。

 そうだよね?
 …狐さん。

「一つ…教えてほしい言葉があるんですが」




*   *   *




「はぇ〜…カップルが一杯ですねぇ」

 待ち合わせ場所に1時間も早く着いて、公園を行き交う恋人達を眺めながら、佐祐理は白い息を吐いた。
 空には星。
 地上にも星。彩るイルミネーション。でも、佐祐理には興味がない。
 何人かの男に声をかけられ、表面の笑顔で断りながら、佐祐理はずっと舞を待つ。
(考えすぎだよ、舞)
 側にいてくれるだけでいいのに。
 汚れのない、純粋な舞の魂が佐祐理を想ってくれるだけで十分なのに。
 でも…
 そんな舞が、好きだった。

 走ってくる。
 人の波を縫うように大急ぎで、ここへ来てくれる。
「…佐祐理、早い」
 すぐ前で息を切らせて、不満げにそう言う。時計は待ち合わせ時間の10分前。
「あははーっ。暇だったんだよーっ」
「また、佐祐理に負けた…」
 息を整えて。
 顔を上げ、少し微笑む。
(あれ…)
 初めて見る顔だ。


「舞は、冬は好き?」
 腕を組んで歩きながら、そう尋ねてみる。
 二人とも、寒さの割に薄着だった。
 互いの体温を感じるため?
 そう意図したわけじゃないけど。
「…相当、嫌いじゃない」
 佐祐理を抱き寄せるようにそう言う。
「あははーっ。夏にこんなことしたら、暑苦しいものねーっ」
 抱きしめる。
 体温を感じていたい。
 存在を感じていたい。

 あなたのために、私は居るのだから。

「佐祐理」
 人通りのなくなった、公園の片隅。
 佐祐理の身体を引き離すと、舞はポケットから何かを探し出す。
 小さな包み。
「あ、プレゼントだねーっ。それじゃわたしも…」
「佐祐理、開けて」
 バッグからぬいぐるみを取り出す前に、舞が遮る。
 少し緊張した声。
「‥‥‥?」
 きょとんとして、包みを開く。


 手の上には銀色の指輪。


「舞、これ…」
 意図をつかみかねて、曖昧な表情を浮かべる佐祐理の
 手を取って、薬指にはめる。

 少しの緊張と、真摯な瞳。
 
「舞…?」
「私、川澄舞は」

 胸に手を当てて、彼女は言う。
 そのための言葉。

「生涯をかけて、倉田佐祐理を愛し
 健やかなるときも 病めるときも
 共に助け合い 歩むことを

 誓います」



 …息が止まった。

 舞。
 ありがとう。
 それすら言えず、凍り付いたように彼女を見つめていた。
 舞。
 舞…


「あなたは」

 それは

「私を愛し
 健やかなるときも 病めるときも」

 舞の精一杯の誠意

「共に助け合い 歩むことを」

 小さな力だとしても
 佐祐理が笑ってくれるように
 佐祐理が幸せになれるように
 そのための…

「…誓いますか?」


  誓い

  そして約束



 言葉が出ない
 何かが詰まったように

 指輪の温度と
 舞の呼吸音を感じながら

 冬の夜空の下で
 聖なる夜の下で
 佐祐理はようやくそれに気づいて
 そして
 舞を見つめる瞳から

 静かに涙が溢れ出した




「――誓います」






<END>




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