死に至る病:後書き
めぐめぐが自分の弱さを自覚して積極的に変わろうとしてるなら、如月さんは自覚の上でなお外に出ることに消極的なイメージがあります。彼女の場合むしろある程度自己が完成していて、そこで完結してるような感じですね。
自己嫌悪についてはEDで多少出てきてますが、彼女のことだからきっと難しい理由があるのではと(笑)、哲学の本なんかを借りてきました。時間なくて大して読めなかったのでなんか書くと詳しい人から突っ込まれそうなんですが(^^;
実存主義は後述するように「本質がどうこうより、まずここにあるものとして自己をとらえる」という哲学らしいです。私もSS書いててどうにも理屈ばかりで実が伴ってない感じがしてたものでちょっとそのへんから引っ張ってきて書いてみました。あー、でも引っ張ってきただけじゃ駄目ですね(^^; なにせ書いてる本人が自己が稀薄で自分自身の問題として捉えられていませんからね。今回は色々と書いては消し書いては消しだったんでとにかく疲れました(泣) ひー。
でも未緒ちゃんにはやはり沙希ちゃんだなとか思いました。かなりセーラームーン最終回入ってますけど(汗)、沙希ちゃんみたいな善意の人なら如月さんも心開きそうな気がします。如月さんて本当に限られた人にしか心を開かないと思うので、逆に沙希ちゃんのことはすごく大事にしそうな気がしますねー。
・キルケゴールと実存主義
実存とは「〜がある」という存在を表す言葉で、「〜である」という「本質」と違って「とにかくここにある」という現実存在(特に自分自身の)を指すらしいんですが、それに従って宇宙や人間全体のことよりまずは「ここに存在する自分」を捉えるという哲学が実存主義…だったと思います。(なんか自信なくなってきた)
さて、この実存主義の源流が「死に至る病」の著者キルケゴールと「神は死んだ!」のニーチェだといわれてます。当時は「世界精神」など人間を社会や家族等抽象的にとらえるヘーゲル哲学がメジャーだったのですが、キルケゴールはそれに反発しより主観的具体的なものを求め、「自分にとって真理であるような真理を発見することが大事なのだ」と言ってとにかく自己を問題にしました。そのへん如月さんに通じると思ったんですが。(もっとも基本的にキリスト教がベースなので、それと切り離して一部だけ持ってきても無意味と言えば無意味なんですけどね(^^;)
「死に至る病」は絶望に対していろいろと考察を加えた本なんですが、なんかタイトルはすごく有名ですね(笑)(エヴァのあれは録り損ねた…なにやってんだか(T T))。一応この本は最後まで読みましたがここで書かれている絶望は一般の悲嘆に暮れたあげくの絶望ではなくより普遍的な誰でも持つ病であり、これまた静かに病む如月さんにいいんじゃないかって一部だけSSのネタに持ってきてもほとんど意味なしなんですがー(まあ他人の哲学なんて結局はひとつの示唆だから(^^;)
他に実存主義哲学者はニーチェ、ヤスパース、ハイデッガー、サルトルなどの方々がいらっしゃいます。本文に出てきたサルトルの「実存は本質に先立つ」というのは「自分については本質がどうこうという前にとにかくここに存在する」という意味らしいっス。また実存主義は個人主義的に過ぎる面もありますが、そこでヤスパースが「(他の)実存との交わり」ということを言ってまして沙希ちゃんはこちらの感じですかね。
なにせ読めたのが哲学入門書と「死に至る病」だけなもので各人で調べてみてくださいとしか言えないんですが、なんとなく哲学というのは「人間が考えなくてはいけない問題」というよりは、他の学問と同じく知るという目的、「人間とは何か、生きるとはetc」を追求するための学問なのかもと思いました。この話の如月さんはそれをただの理屈ではなく自己の問題として捉えたわけで、ある意味私にとって「なれるかもしれない理想」でしょうかね。
(あー、専門家から見ればすごくバカなこと言ってるんだろうなー(^^; でも主体的真理だからいいや(お))
SS中の引用(『』で囲まれた部分)は白水社「死にいたる病/現代の批判」キルケゴール作、松浪信三郎+飯島宗亨訳からでした。
(97/02/27)