「宇宙時間」(後)




「…来てくれないね」
 料理を終えた沙希は、寂しそうにテーブルについていた。既に時計は午後6時を回り、そろそろ夜も近づいてくる。
「Never give up!根性はどうしたのよ、沙希!」
「うん、そうなんだけど…」
 なんだって結奈がああも意地を張るのか、沙希には見当すらつかなかった。見当もつかないということは、まるっきり彼女の気持ちがわかっていないということである。
 公はといえばすでにほとんどあきらめ顔である。彩子は内心で舌打ちすると、もう一度部屋を見渡した。笹の葉の緑も、今はそらぞらしく感じられる。もし織姫が来てくれなかったら、彦星は一体どんな思いだろう?
「OK!もう一度電話をかけるわよ」
「またぁ?」
 嫌そうな声を無視し、彩子は指が覚えてしまったダイヤルを回した。彼女が来てくれるまで何度でもかける気はあったが、それもあと6時間足らずで無意味になってしまう。
「…今度はなによ」
 受話器の向こうで不機嫌そうな声が聞こえる。それでもちゃんと出てくれるあたり、律儀な性格と言うべきであろうか。
「ねえ結奈、なんで来てくれないの?いったい何が不満なわけ?」
「何度も言ってるでしょう。誕生日の何がどうめでたいのか私には理解できないわ。わかるように説明してほしいものね」
 めでたいから、という理由ではとても納得しそうになかった。考えなくてもいいことを考える結奈に彩子は心の中でため息をつくと、かたわらの公に受話器を渡す。
「ほら公クン、説明しなさい」
「お、俺が!?」
「あなた紐緒結奈の弟子でしょう?適当なこじつけが科学の本質ってもんでしょう!」
「(あとで覚えてなさいよ片桐彩子…)」
 要するに根本的に合わないのだ、この女とは。こんなのにつきまとわれたのが紐緒結奈一生の不覚だった。
「ほら、偉大なる紐緒様の生まれた日じゃないですか。これは歴史に残る日ですよ!」
「私が生まれたのは1978年7月7日よ。今年の7月7日は私が生まれてから地球が自然数回公転したに過ぎないわね。そもそも年という単位は人間が恣意的に定めたものであり、太陽暦は」
「ううっ、なんか無意味な気がしてきた」
「アンタが洗脳されてどうすんのよ!」
 危険な状況にある公から受話器をひったくると、今度は沙希へ押しつける。
「ね、ねえ紐緒さん。お料理作ったから」
「私が料理などにつられるような、低レベルの存在だとでも思ってるんじゃないでしょうね」
「でも一生懸命お料理…」
「それしかないのね」
「ふぇ〜〜〜ん」
 片桐彩子は苦笑しつつ肩をすくめると、不意に真剣な顔で受話器を受け取った。電話線の向こう側にいる結奈が、理性と正当性の鎧に身を固めていることは容易に想像できた。
「ね、お願い。要するに理由なんてないんだけど、結奈とお祝いがしたいのよ。誕生日はそのきっかけ」
「つきあう気はないわ」
 その程度のことは結奈としても理解しているのである。だからといって本人の気が変わるわけでもなかったが。
「ね、いいじゃない1日くらい」
「1日が一瞬でも御免ね」
 彩子に譲れないものがあるように、結奈にも譲れないものがある。それを捨ててくれと言っているのだから、もともと身勝手な願いだったのかもしれない。
 それでも…今日だけはどうしても来て欲しかった。
「お願い。来てくれるなら何でもするわ」
「しつこいわね」
「That's right. 確かにそうだけどね」
 電話口の向こう側の相手に、見えないと知りつつも微笑みかける。頑なに、自らの矜持に忠実な彼女が、彩子としては好きだった。
「Wait for you. 待ってるわね、ずっと」
「いい加減に…」
「待ってる。じゃ、ね、結奈。I love you.」
 結奈の返事を待たずに受話器を置いた。結奈にとっては365日の中の1日にしか過ぎなくても、彩子にとっては一生のうちで特別な意味を持った日だった。
「さーて、あとはお星様にでもお祈りしましょ」
「そうね、七夕だもの。待ち人はきっと来るよね」
「まあ、ここまでつきあっちゃったし…」
 3人は顔を見合わせて笑い合うと、だんだん暗くなっていく空を見上げた。ありがたいことに雲も晴れ、なんとか星が見えそうだった。
 そして数分後、もう1枚の短冊が笹の葉につるされる。
 『早く紐緒さんが来てくれますように』



 誰もいない研究所で、紐緒結奈はいつものように1人で誕生日を過ごしていた。
「何を考えているの?」
 片桐彩子は正当な権利を行使して結奈を待ち、自分も正当な権利のもとにそれを拒否する。それだけのことで、特に問題はないはずだった。
 正当な権利、行くか行かないかの判断は結奈の側に委ねられているのだ。つまりは行ったとしても特に不当性は見あたらないのだが…
「無意味だわ」
 すでに結奈は18歳だが、時間とは連続的に推移するものである。年齢という不連続な単位は人間が便宜上定めたものであり、17歳が18歳になったところで本質的に変化はないはずだった。
「…勝手に待っていればいいのよ。愚民にふさわしい末路というものね」
 しかし行ってはならない積極的な理由も見あたらないのである。そもそも祝い事などというものはほぼ例外なく恣意的に定められたものではないのか。
「だからといって私が付き合う必要はないけどね」
 まったくもってこの世は無駄が多すぎる。早く自分が世界征服をして、数学的に洗練された世の中に作り変えなくては…。
「…あんな馬鹿どもに付き合う暇はないわ」
 もう一度確認すると、結奈は再び研究を続ける。さぞかし3人はがっかりするだろうが…
「‥‥‥‥‥」
 いったい何が正しいのだろうか?


 時計は9時を回った。
「Sorry. 2人ともごめんね」
 いきなり手を合わせる彩子に、サラダをちょっとつまんでいた2人はけげんそうな瞳を向ける。
「こんな時間まで付き合わせちゃってほんっとーに申し訳ない!この埋め合わせは必ずするから、今日はもう帰」
「今さら何言ってるの」
 沙希はにっこり微笑むと、ポンと彩子の肩を叩いた。料理はすっかり冷めてしまったが、何度でも暖めることはできる。
「そんなこと言い出すなんて彩ちゃんらしくないよ。根性、根性!」
 1人で最後まで粘るつもりだった彩子は、思わず公へと視線を移す。今回最大の被害者は誰が考えても彼であったが、本人は気にしてないというふうに手を振った。
「紐緒さんの横暴には慣れてるから」
「…Thank you. ありがとう、2人とも!」
 潤んだ目の照れ隠しに思いっきり笑うと、彩子は窓の外の星空を見上げた。銀河はこうも美しいのに、なぜに結奈は目をそらすのか…。
 思ってから彩子は苦笑する。そういう自分は数式や反応式が大嫌いである。結局人はそれぞれにふさわしい生き方しかできないのだ。


 時計は11時を回り、さすがに3人とも腹をくくり始める。せっかくの短冊も、あまり効果はなかったようだ。
「あ、ねえ、この機械なんなの?」
 暇を持て余した沙希がそばにあった機械に目を向けた。見るからに怪しげなボタンが多数取り付けられたその装置は、この異様な誕生会場でもひときわ異彩を放っていた。
「ああ、それはね」
「このボタンなに?」

 チュドーーン

 白煙の立ちこめる室内で、黒こげになった沙希は呆然と立ちつくしていた。ちょっと触っただけだったのに…
「沙希、大丈夫!?」
「う、うん。なんとか…」
「何てことしてくれるのよこの機械オンチ!」
「ふぇ〜んごめんなさい紐緒さん…え?」

 理科室の時間がひどくゆっくりと流れていく。
 徐々に収まっていく白煙の中から、額に汗を浮かべた白衣の少女が姿を現した。彩子はもう一度目をこすったが、間違いなく紐緒結奈その人だった。
「と、特に用があったわけじゃないわ。さて帰ろうかしら」
「ちょーっと待ったぁ!」
 あわてて逃げだそうとする結奈の体に、彩子は必死でしがみつく。天の河がくれた最後のチャンスを、そうそう無駄にしてなるものか。
「2人とも、クラッカークラッカー!」
「ええい、放しなさい!」
 パンパンパーン
「おめでとう紐緒さん!」
「紐緒さんお誕生日おめでとうございますっ!」
「別にめでたくなんかないわよ!」
 こんなはずではなかった。とっくに全員帰ったと思ったのだ。
 誰もいなくなった理科室で、1人うそ寒い冷笑に浸る予定だったのだが…
「ハッピバースデーツーユー」
「ハッピバースデーディア紐緒さーん〜」
「黙りなさいと…」
「ささ、座って座って」
 強引に結奈を席に着かせると、急いでパーティの準備にかかる。結奈としては理解不能である。こいつらは何がそんなに嬉しいのだろうか?
「はい、お料理!」
「はい、ケーキ!ちょっと煤ついてますけど」
「平気平気、死にはしないわよ」
「そんなものをこの私に食べさせる気なの!?」
 憤慨する結奈にもかかわらず、パーティは和気あいあいと進められた。天才の頭脳には納得いかないことはなはだしかったが、せめてもの拠り所として仏頂面を続けている。誰が喜んでやるものか。
「はい、紐緒さん!手作りのクッキーなのよ」
「くだらないわね」
「で、でも、紐緒さん向けに甘さ抑えたから」
「(ふん…まあ虹弁の研究材料にはなるかしら…)」
「フフフ、ところで紐緒さん。この部屋には風呂がありませんでしたね」
「だから何よ」
「ドラムカンを拾ってきました!どうぞお使いくださいッッ!!」
「がらくたね」
「(ガビーーン!)」
 真っ白な灰と化した公に結奈は心の中で深々とため息をつくのだが、そんな彼女に1枚のキャンバスが差し出された。
「Happy birthday. 大したものじゃないけど、受け取ってもらえると嬉しいな」
「彩ちゃん…のたうちまわるミミズの絵?」
「失礼ね、結奈よ結奈」
 それは天才にしか理解し得ない絵であったが、それだけに結奈の心に感銘を与えた。
「な、なかなかの絵ね…」
「リアリー、本当!?描いて良かったわぁ!」
「(くっ、自らの美意識に嘘がつけない自分が口惜しいわ…)」
「そんなぁっ!なんでその絵が良くてドラムカンはダメなんですか!」
「当然でしょうこの無能!」
 別に嬉しくなんてない。いつも誕生日は1人だった。
 自分は世間とは相容れないはずだ。こいつらがおかしいのだ…
「せーのっ」
「紐緒さん誕生日おめでとう!」
 ひっそり静まった校内の、ただ1カ所明かりのともる理科室で、紐緒結奈はなにもかも納得いかないまま、それでもそこを動こうとはしなかった。
 時間が連続的に流れていく中、紐緒結奈の7/7はゆっくりと過ぎていった。


 時計は7/8の2時を少し過ぎたところだ。部屋の中では沙希と公が、騒ぎ疲れてぐっすりと眠っている。
 結奈は1人校庭の樹の幹に寄りかかり、満天の星空を見上げている。宇宙の歴史に比べれば自分の人生のなんとちっぽけなことか。それでもひとたび生まれたからには、できる限りの意味を持たせたいものだ。
「結奈、ここにいたの?」
 目の前にはいつの間にか見慣れてしまった髪型があった。自分の隣に腰を下ろす少女に、結奈は誰にともなくひとりごちる。
「何を考えてるのよ」
「別になにも?」
 悪びれずに笑うと、彩子は結奈の肩に頭をもたせかけた。そのなれなれしさに一瞬結奈はにらみつけるが、平気な顔の彩子に、口の中でぶつぶつ言いながら再び空を見上げる。
「…私は嫌われてる筈よ」
 その事実はむしろ結奈の誇りであるはずだった。理解しようとしない連中に理解してほしいとは思わない。単に時が来たときは自らの不明を恥じることになるだけなのだから。
「私、変な人が好きなの」
 あっさりとそう言う彩子に結奈は抗議の声を上げかけたが、それを遮るように言葉が続けられた。
「だって私も変なんだもの」
「‥‥‥‥」
 結奈は憮然とした表情で星を見続ける。彩子はそっと腕を絡めてくると、小さな声で呟いた。
「…卒業したらフランスに行くの」
「‥‥‥‥」
「もっと早く会えてれば良かったけどね。でも、一緒に誕生日が祝えたから」
「…頼んだ覚えはないわ」
 夜は更け、ひんやりした空気が流れてくる。右腕に伝わるぬくもりは、今だけは心地よく感じられた。
「まあ、あなたが楽しめたならそれはそれで良かったんでしょうね。そうでなければ無意味すぎるわ」
「ふふっ、そうかもねー」
 空に浮かぶ天然のプラネタリウムは幾千の過去の光たち。
 宇宙を構成する一つ一つの原子のうち、いくつかが寄り集まって紐緒結奈を形作っている。
 もし時間が、空間が、ほんの少しでも異なっていれば。
 ここでこうして2人でいることはなかったかもしれない…?

『広い宇宙で、たった2人が出会う確率というのは』
 そう考えてあわてて結奈は頭を振った。普通に生活していれば誰かに出会うのは当然のことで、そのたびに「すごい確率だ」と驚いていては身が持たない。

 ただ…あのまま自分の研究所にこもっていれば、すくなくとも今星を見ていることはなかっただろう。自分にとって正しい選択だったかどうかはわからないが…
「…片桐彩子?」
 星の雨が降る大樹の下で、彩子はすやすやと寝息をたてていた。その安心しきった寝顔は、そっと結奈の肩に置かれている。
「(昨日徹夜したって言ってたわね…)」
 絵を受け取ったときの、彩子の嬉しそうな表情を思い出した。しばらく彼女を見つめていたが、そんな自分に気づいて思わず赤面する。
「…今日だけよ」
 静かな声でそう言うと、結奈はあと一度だけ彩子の顔を見た。
 銀河の海の中で、彼女の息づかいが伝わってくる。
 どうせ二度とない機会なら、少しだけこうしているのもいいかもしれない…


「んっ…」
 彩子は大きく伸びをしようとして、したたかに右手をぶつけてしまう。物が散乱する理科室の中で、沙希と公もそのへんで雑魚寝していた。
「ようやく目が覚めたようね」
「あ、グッモーニーン…って、あら」
 背を向けたままの結奈を見て、彩子の目が丸くなった。彼女が立っているのは調理場で、危なっかしい手つきで目玉焼きを焼いていたところだったから。
「今日は大雨かも…」
「うるさいわね!あなたたちが全然起きてこないから仕方なしよ!」
 彩子に続いてあとの2人も起きてくる。寝ぼけた頭で目の前の事実を理解できないまま、4人分の不格好な目玉焼きが並べられた。
「え〜と…食べてよろしいのでしょうか…」
「目玉焼きに食べる以外の用途があるなら教えてほしいわね」
 多少おびえつつも箸を口に運ぶ沙希と公だが、味の方はなんとなく予想したとおりだった。
「‥‥‥‥」
「嫌なら食べなければいいでしょう!」
「紐緒さん、わたし料理についてはウソつきたくないから…」
「食べるなと言ってるのよ!」
 ただ1人彩子だけが、嬉しそうに味わって食べている。結奈が料理をしたという驚愕の事実は、彩子にとっては最高の調味料だった。
「So delicious! なかなかのお味だったわ」
「ふん…」
 自分の分をまずそうに平らげると、結奈はぶっきらぼうに言い放つ。
「これで昨日の借りは返したわよ!」
 その言葉でようやく彼女の行動の訳を理解した3人は…一瞬の沈黙のあと、一斉に笑い出した。
「な、何がおかしいのよ!」
「ソ、ソーリー。これは歓喜の笑いなの」
「ありがとう紐緒さんっ!」
「(愚民ども…)」
 憮然としてそっぽを向く結奈に、彩子はいきなり背中から抱きついた。硬直する結奈の体を、思いっきり抱きしめる。
「I love you. 愛してるわ結奈っ」
「…ほざいてなさい!」
 不本意にも笑い声の響く理科室を、紐緒結奈は真っ赤になりながら、「今日だけ」という理由で許したのだった。


 そして理科室は元の装いを取り戻し、彼女の研究は続けられる。17歳が18歳になったからといって何が変わるわけでもないのだが、少なくとも紐緒結奈の周囲では何らかの変化があったかもしれない。
「でもあのドラムカン運ぶの大変だったのになぁ」
「(まだ言うか!)」
「ハロー結奈」
 理科室のドアが勢いよく開かれ、スケッチブックを手にした彩子が入ってきた。結奈はちらりと一瞥すると、何も言わず研究に取りかかる。
「ね、ちょっとモデルにさせてもらっていいかしら」
「私には関係ないわ」
 勝手に了承と判断すると、彩子は椅子に座ってスケッチブックを広げる。おっかなびっくりの公に軽く手を上げ、結奈の姿を紙に写し始めた。
 あの夜のことはどちらも口には出さなかったが、決して薄れたわけではない。たぶん一生忘れることはないだろう…
 以前よりも優しい空気が流れる中で、お互いにそんなことを考えながら。
 なにかの意味なんて、自分にとっての意味でしかないのかもしれない。
 不意に2人の目が合って、結奈はにっこりと微笑まれる。ふんと小さく鼻を鳴らすと、紐緒結奈は下僕に命じて再び研究を続けるのだった。

 宇宙ですらいずれは終わりを告げ、永遠に続く現象などあり得ない。
 しかし今ここに自分たちがこうしているという事実は、永遠に変えようがないのである。





<END>




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