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この作品は同人ソフト「月姫」(c)TYPE-MOON の世界及びキャラクターを借りて創作されています。
シエルシナリオ、アルクェイドシナリオのネタバレを含みます。

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 眉を寄せて夜空を見上げる。
 頭上には忌々しい月。九割がた満ちているそれは、シエルにとっては非常に不利だ。
 しかし新月まで待つわけにもいかない。新たな犠牲者を出すのが怖かった。満月でないだけましと思うしかない。
 昼とはうって変わって、静まり返った通学路を早足で進む。幸い、人には遭わなかった。露わな腕に秘術用の化粧、挙げ句に肩から大きな銃剣を下げている姿は、とても他人には見せられない。
 ほどなくして、学校が無機質な姿を見せてくる。
 その中で、吸血姫が白く浮かび上がって見えた。

 校内の様子を伺っていたのだろう。向こうもこちらに気づき、振り返る。
 気まずい空気が流れた。
 一応いろいろと謝罪の言葉は考えてきたけど、当人を前にして、それは喉にかかって出てこない。
(何でこんな奴に謝らなくちゃいけない?)
 そんな抵抗が頭の中を行き交っている間に、アルクェイドの方から口を開いた。
「わたしたち、敵同士だからね」
 いきなりの言い草に、思わずむっとして言葉を返す。
「当たり前です」
「あなたが殺されそうになっても、助けてなんかやらないから」
「何を今さら! 仲良くしようなんて、あんなの嘘に決まってるじゃないですか。最初から最後まで、貴方はわたしの仇敵です」
 一瞬、アルクェイドは泣きそうな顔をした……それはさすがに、シエルの罪悪感が見せた錯覚だろうけど。
 ぷいと顔を背け、彼女は早足で学校の中に入っていく。
 慌ててその後を追う。やってしまった。口先だけでも謝っておけば丸く収まったのに、どうしてこの女相手だとこうなってしまうのだろう…。
 校門を一歩くぐると、さらに闇が深くなる。
 仮とはいえ学生生活を過ごせた場所は今はなく、日常とは遠く離れた異質感だけが充満している。
 ロアはもはや気配を隠そうともしない。元々、奴の目的はアルクェイドなのだ。ずっと彼女を待っていたのだから、姿を隠す理由はない。
 こんなことなら、まずアルクェイドをここに連れてくるべきだった。弱らせてから戦わせようなんて、小狡い策を弄したせいで、罪もない人を犠牲にしてしまった…。
 罪悪感に苛まれながら、昇降口の鍵を壊して校内に入る。無意味だけど、何となく土足で校舎には上がれず、ブーツを脱いで上履きに履き替えた。呆れたように見ているアルクェイドを睨み返して。
 校内はもはや吸血鬼の臭いしかない。ここまでくると、ロアの正確な位置は掴めない。とにかく闇の濃い方へ足を進める。
 しばらく互いに無言で歩いていたが、苛立ちを抑えられなくなったのか、アルクェイドがキッと視線を向ける。
「ついてこないでよ!」
「ロアがそっちなんだから仕方ないでしょう! 貴方こそ嫌なら別の道を行ってください!」
「何よ、この…!」
「何ですか!」
 また不毛な争いが始まろうかという…その時だった。
 シエルの視界の隅、階段前の柱の陰で、何かが月光を反射する。
(あ……)
 それが刃物と気づいたときは、既に人影はこちらへ走っていた。
 すぐに声を上げれば間に合ったのに、一瞬躊躇した。
 だって別に、教えてやる義理なんかない――

 不吉な音とともに、アルクェイドの背中にナイフが突き立てられた。
「――――っ!」
 振り向きざまに払われた腕を、影は後ろへ跳んで避ける。
「こんな再会で申し訳ないね、姫君」
 血に染まったナイフを手に、薄ら笑いを浮かべる諸悪の根元。
 今代のロアは、白い長髪を垂らした青年の姿だった。

「アルクェイド!」
 知らせなかった後ろめたさから、つい声が上がってしまう。刺された傷は生々しく、それに治りが遅い。やはり弱っているのだ。
 アルクェイドはシエルを見もせず、憎々しげに声を上げる。
「本当、人間ってこういう不意打ちしかできないみたいね!」
 …それを聞いて考えを変えた。誰がこんな奴心配してやるものか。
「それは違うな。単に君の方が強いから、こうせざるを得ないだけだよ。君だって自分が非力なら同じことをするだろうよ」
 ロアは涼しい顔で弾き返す。まったくその通りだ。こんな屑と同意見というのが不愉快だが。
 しかし妙に、ロアから感じる力が大きい。先ほどまでの気配からの推量とは明らかに差がある。
 アルクェイドも怪訝な顔を見せ、それに対してロアは得意げに説明を始めた。
「不思議かね。これは遠野家の血が持つ『共融』の能力だ。他人の命を奪い、それを自分の力とすることができる。くくく、姫君からは既に半分を頂いているから、これで四分の三というところか」
「相変わらずペラペラとよく喋る奴ね」
 アルクェイドは鼻で笑った。力を奪っても、人間にそのまま使いこなせるわけではない。
「偉そうに言ってるけど、要は他人の力を借りてるだけじゃない」
「何とでも言え。無限転生とはそういうことだよ。大体…」
「遠野四季くん」
 殺人鬼のお喋りに付き合う気はない。無駄とは思うが、シエルは本来の人格に向けて話しかけてみる。
「この声が聞こえるなら、諦めずに抵抗してください。貴方はこんな事をしたくはないのでしょう? みんな心配していますよ、貴方の妹さんも、幼馴染みも」
「無駄だよエレイシア。こいつは元々化け物の血筋だ。私が転生しなくとも、いずれはこちら側に落ちていただろうよ。むしろ永遠の探求に参加できたのだから光栄だろうよ」
 蛇は可笑しそうに笑う。吐き気がする。何が永遠の探求だ。
 先日殺した少女にはまだ人の良心が残っていたが、こいつにはそれすらない。もう殺すしかない。…心おきなく、殺せる。
「だがね、エレイシア」
 しかし聖典を構えるシエルに向かって、ロアは侮蔑に満ちた一瞥を向けた。
「お前は邪魔だ。はっきり言ってお呼びじゃない。これは私と姫君の決闘だよ。部外者は引っ込んでいろ」
「下衆な犯罪者が勝手なことをほざきますね。貴方に対する恨みなら、アルクェイドに決して劣りませんが」
「ああ、勿論素直に聞いてくれるとは思っていない」
 ロアの背後から、二つの死体が何かを引きずってくる。
 その姿を見て、シエルは思わず歯ぎしりした。
 ジャージ姿の中年の男性。この学校の教師だ。
 宿直だったのか、たまたま遅くまで残っていたのか、いずれにせよロアの目的は明らかだ。
「古典的な方法だが、こいつの命が惜しければ武器を捨てろ。その忌々しい聖典をな」
「はぁ? 何言ってるのよ」
 呆れたように声を上げたのは、黙って聞いていたアルクェイドだった。
「何でそんな奴のためにそんなことしなくちゃいけないのよ。別に関係ない人間なんて…」
 そこまで言って、朝のことを思い出したのだろう。はっと口を止めて、ばつが悪そうに黙りこくる。
 …今は怒れない。結果的に、彼女の言う通りかもしれないのだ。
 感情を殺し、意識的に冷たい目をして、ロアへ向け一歩前へ出た。
「それでわたしを止めた気ですか」
 冷徹に聞こえる声を出す。
「貴方を逃せば、さらに多くの人が殺される。十の犠牲を防ぐために…一人を犠牲にする覚悟はできている」
「そうだろうとも。そうやって吸血鬼となった人間を山ほど殺してきたのだよなぁ、エレイシア」
 落ち着け!
 必死で自らを押さえつけた。怒っても何にもならない。
「だがね、この場合はそれで正当化はできない。真祖の姫君がいるのだからな。
 お前が戦わなくとも、姫君なら私を倒せるのではないかね? だったらお前が戦う必要はないのではないかね? それなのに自己満足のために戦うというなら、それはこの男を犠牲にするということではないかね?」
 シエルの目から憎悪が抑えきれなくなる。
 その対象は、つまらなそうに笑うだけった。

 しばらく沈黙が訪れる。答えは一つしかなかったけれど、自分を納得させるのに時間と労力を要した。
 シエルは聖典を投げ捨てる。
 鉄の塊が床に落ちる音は、いやに大きく響いた。
「ちょっ…何考えてるのよ!?」
 わけが分からない、という顔で、反射的に叫ぶアルクェイド。
「何!? あの人質って、あなたにとってそんなに大事な存在なの!?」
「職員室で見かけたことはありますが、直接話したことはありません」
「だったらどうして…!」
「普通の人だからです」
 か細い声でシエルは答えた。
「普通に生きてきて、平和な毎日を過ごして、家に帰れば家族が待っているであろう人だからです。…それを壊すことはできません」
 自分がロアだった頃、どれだけ壊してしまったか。
 今の立場に立ってからも、どれだけ守りきれなかったか。
 敵はナイフを手にしたまま、ゆっくりと近づいてくる。
 シエルは顔を上げ、アルクェイドに向けて無理に笑顔を作った。
「わたしが蘇るまでに、あれを半殺しにでもしといてください。とどめは第七聖典で刺さなくちゃいけない。絶対に殺しちゃ駄目です」
 それに答えず、彼女は目一杯の不服とともに、吐き捨てるように言った。
「馬鹿みたい…!」
 力無く笑う。他に途なんてない。分かってもらえるとは思ってないけど。
 目を閉じる前に、首に重い衝撃が走る。
 世界がくるくると回転し、首のない死体が倒れていく。
 そういえば、あの時の少女もこうして殺したのだっけ。
 だったらこれは、報いと思わねばならないのだろうか…




 それは明らかに夢と分かるほど、馬鹿馬鹿しい夢だった。
 シエルは嘘偽りなくこの学校の生徒で、クラス委員などを務めており、志貴や有彦と退屈だけど平和な毎日を過ごしていた。
 そこへ転校してきたのがアルクェイドだ。
 彼女は明るく快活だったが、どこぞのお姫様だとかで、いささか世間知らずの面があった。
「はあ、仕方ないですねー」
 なんて言いながら、持ち前の世話好きを発揮するシエル。クラス委員だからという口実で、色々とアルクェイドの世話を焼くのだ。
「はい、掃除ですよー。このモップをですね、こうして、端から端までかけてくださいね」
「面倒くさいなぁ。汚したくないなら通行止めにしたら?」
「何、バカなこと言ってるんですかっ!」
 一般常識に欠ける彼女に時には頭を抱えたが、悪い子じゃなかったし、初めての世界に楽しそうに触れてくるのが嬉しかった。
 中庭でお弁当を食べたり、街へ遊びに行ったり、学校行事に参加したり…
 そんな何気ない、いつまでも続いていく時間――



 悲鳴を上げていたかもしれない。
 汗の吹き出た身体を跳ね起こす。生徒のざわめきと陽光に満ちた学校など影も形もなく、闇の中で冷たく広がる校舎があるだけだった。
 なんて、悪夢。
(――もし、二人の立場がこんなものでなかったら、あんな毎日が存在したのかもしれない)
 そんな幻想を抱かせる点でろくでもない悪夢だ。イフなんてない。彼女は吸血鬼で、自分は埋葬機関の第七位。そんなどうしようもない現実が厳然とあるだけ。
 戦って、殺して、それをずっと続けて…現実の方がよほど悪夢で、死ぬまで覚めないことを知ってる。
 重い身体を動かし、周囲を確認する。人質の教師は無事だった。床に転がっていたところに駆け寄り、脈があるのを確認して安堵の息をつく。とりあえず、罪の上積みだけは免れた。
 頬を張って叩き起こし、暗示をかけて家に帰らせた。早く戦いに戻らないと…
 もう一度あたりを見回して、さあっと血の気が引く。
 第七聖典がない…!
 大慌てで探し回る。まさかロアに持ち去られたのか。あのアーパー女め、守ってくれてもいいではないか!
 …しかし冷静になって考えれば、転生批判の聖典に無限転生者が指一本触れられるはずがない。教会の武器では死者に運ばせるのも無理がある。
 嫌な予感がする。
 まだ吐き気のする身体を叱咤しながら、シエルはよろよろと戦いの気配がある方へ向かった。



 果たして、嫌な予感は的中した。
 特別教室棟へ続く渡り廊下、以前はシエルがモップをかけたこともあるその場所で、アルクェイドは戦っていた。
 第七聖典を振るい、右腕から腐臭と白煙を発しながら。

 シエルが言葉もなく硬直してる間に、彼女は黒ずんだ腕で、襲ってくるロアへと武器を向ける。
 エンハウンスの例を引くまでもなく、吸血鬼が教会の武器を使えば腕が腐る。万全の状態のアルクェイドならまだしも、今の彼女では聖典に染みついた異端への怨念を止めきれない。
 それでもその攻撃は空を裂き、長髪の殺人鬼は危ういところで切っ先をかわした。以前は死んでも構わないだけに余裕もあったが、今や触れれば消える聖典が相手なだけに、ロアも必死だ。
 腐る右腕の動きは鈍い。左へ回り込んだ敵に、本能で万全な左腕を向けるが…その爪はロアの顔面の直前で止まる。殺してはいけないのだ。殺すために作られたアルクェイドにとって、それは大きなハンデだった。
 その隙を縫って、ナイフが蛇のように突き出される。
 鮮血が飛び散る。また、力を奪われたのがシエルの目にも分かった。
 今や彼女は肩で息をして、腕は腐り、立っているのがやっとの状態。あのアルクェイドが。憎らしいほど強くて、傷一つつけられなかった彼女が――。
「何を……しているんですか、貴方はっ!」

 悲鳴に近い叫びに、二人が同時に顔を向ける。
「もう起きてきたのか!」
「もう起きてきたの!」
 両方から歓迎されなくても、黙って見てはいられなかった。とにかく聖典を取り返そうと、アルクェイドに走り寄ろうとする。
「気をつけなさい! そいつは自分の血を武器にできるわ。下手に踏み込むと串刺しになるわよ!」
 飛んでくる忠告に、慌てて足を引っ込めた。数分前の自分と比べて忸怩たる思いがよぎる。助けないって…そっちから言い出したくせに。
 血で染まった箇所を迂回して、間近で見ると、彼女はひどい有様だった。
 いたるところから血が流れ、純白どころか真紅と化している。もう、傷の回復もできないのだ。
「どうしてそういう無茶をするんですっ! 貴方に第七聖典を扱えるわけないでしょう!? ああもう、腕をこんなにしてっ…」
「か…関係ないでしょ! 何よ、あのまま寝てればいいのに、のこのこ出てこないでよ!」
「こんな状況で寝てられるわけないでしょう! とにかく第七聖典を返してください。嫌ですけど、仕方ないから協力しましょう。貴方がロアを押さえつけて、わたしがとどめを刺すということで…」
「いいのか、姫君!」
 微妙に焦りを含んだ声で、ロアが話に割り込んだ。
「そいつにその武器を渡してみろ。断言してもいいが、私とともに君の身体をも刺し貫く気だぞ。今までその女がしてきたことを忘れたか!」
 今回ほど、ロアを殺してやりたいと思ったことはなかった。
 アルクェイドの動きが止まる。冗談じゃない。シエルは心の底から、必死になって弁解する。
「しません、そんなこと! いくらわたしでも時と場合くらいは弁えます。今はロアを倒すことが先決です! アルクェイド!」
 彼女に向けて手を差し出す。アルクェイドは黙ったままだ。疑っているのか。
 しかも具合の悪いことに、根拠のない疑いではなかった。
 第七聖典を手にしたとき、それを彼女に向けないなんて、自分でも言い切れるのか。
「…アルクェイド」
 それでも、嘘でもつき通すしかない。攻撃しませんと言うように、愛想笑いを浮かべて近づこうとする。
 それを押しとどめるように、アルクェイドは顔を上げた。
 シエルの目に映ったのは、金色に輝く魔の瞳だった。


 全身から力が抜け、そのまま石になる。
 呪縛の魔眼。油断していたシエルはひとたまりもなかった。彼女のこの行動を、まるで予想もしなかったのだ。呆れたことに。
「どう…して」
 やっとそれだけ言えたシエルに、目を背けたアルクェイドの、抑揚のない声が返る。
「どうもこうもないでしょう。ロアだけでも精一杯なのに、あなたに後ろから狙われたんじゃたまらないわ」
 苦しい。
 何でだろう、信じてもらえなくて当然なのに…こんなに堪えるなんて。
 もはやシエルを一顧もせず、傷だらけの吸血姫は、笑うロアへと近づいていく。
「ごめんなさい…!」
 その背中を見て、シエルの中で言葉が弾けた。
「貴方に酷いことを言いました。死ねばいいなんて。貴方が悪いわけじゃないのに、憎む相手が欲しくて八つ当たりしてました。怒るのは当然ですけど、でも――ごめんなさい!」
 最悪のタイミングだった。
 今こんなことを言ったって、呪縛を解いてほしいがためとしか思われない。さっきから、一体何をやってるんだろう。
 それでも…アルクェイドは反応してくれた。
 彼女の足が止まる。ほっとしたシエルが言葉を続ける前に、アルクェイドは床を蹴りつけ、振り返ってこう怒鳴った。
「何よそれ。嫌がらせ!?」

 月明かりだけが差す渡り廊下で、その声は何度も反響する。
「今さらそんなこと言わないでよ! あなたの望み通りじゃない!
 わたしとロアに殺し合って欲しかったんでしょう!? そうするって言ってるのに、一体何が不満なのよ!」
 そう…だった。
 言われてようやく気が付いた。この状況は、シエルにとって有利なのだ。
 自分はこのまま動かなければいい。二人を戦わせ、終わった後で生き残った方を始末する。計画通りの理想形ではないか。
(で……でも)
 でもそれは、人として正しいことなのか。
 普段のアルクェイドならいざ知らず、こんな姿になった彼女一人を戦わせ、自分は高見から見物するのか。
 逡巡するシエルがよけいに気に障ったのか、アルクェイドは自棄のように怒声を続けた。
「どうせわたしのせいなんでしょ! そうよ、みんなわたしが悪いんだから、責任取ってわたし一人で始末するわよ! 良かったわね、思い通りになって!」
「なっ――!」
 さすがにこの言い方にはカチンときた。それじゃあまるで、そうして欲しくてあんなことを言ったみたいじゃないか。
「そんな当てつけが理由ですか! 冗談じゃない、貴方に戦わせて自分だけ安全な場所にいるほど落ちぶれてませんっ! 馬鹿なこと言ってないで呪縛を解きなさい!」
「馬鹿とはなによ! 死ねばいいって思ってるのは事実じゃない!」
「だから謝ってるじゃないですか! あの時は頭に血が上ってましたっ! 死なずに済むならその方がいいに決まって――」
 言いかけたそれを、はっと飲み込む。
 アルクェイドも目を見開いている。一体何を口走ってるんだろう。
「だっ…だって、そんなにボロボロになった貴方なんて、とても見ていられない…」
 馬鹿なことを言っているという、その自覚に押されて、だんだんと声が小さくなる。
「協力すれば…二人とも生き残れるんですから、その方がいいじゃないですか。そうすれば…貴方の部屋だって、もう一度綺麗にできる…」
 最後の方は横を向いて喋りながら、ぼそぼそと口の中で消えた。
 アルクェイドも、言葉もなく俯いてしまった。
 しん…と場が静まり返る。
「おい、いつまで…」
「あんたは黙ってなさい!」
 業を煮やしたロアが声を上げるが、アルクェイドに一喝されて渋い顔で沈黙した。
 それがきっかけになったのか、少しの間の後、彼女から話し始める。
「そういうこと言うなら、こっちも嫌がらせしてやるけど」
 俯いて、目を合わせないままで。
「…楽しかったよ、わたし」


 呪縛とは関係なく、シエルは動けなくなった。
「この数日、すごく楽しかった。
 ご飯食べるのも、お茶を飲むのも、買い物も、部屋の模様替えも…こんなに楽しいんだって、初めて知った。
 …みんな、シエルが教えてくれたから」
「なっ…何、言って…」
 冗談じゃない。
 慌てふためいて、思考が渦を巻く。こんな馬鹿なことはない。そんな風に言ってもらえる、筋合いなんてない。
「わたしたちはっ…敵同士です! 今までだって、ずっと憎み合ってきたじゃないですか!」
「そうだけどっ…でも嬉しかったの! 本当に、泣きたくなるくらい楽しかった!
 生まれてから今までの中で、初めて幸せな時間だったんだから…!」
 きゅっと拳を握って、本当に素直に、アルクェイドはそう言っていた。
 良心が痛むなんてもんじゃない。
 胸にざくざくと剣を突き刺されるような、そんな感覚。耐えきれなくて、反発するように暴露する。
「あれは作戦だったんです。貴方と仲良くする振りをして、油断させて殺すつもりでした。あんなの、全部嘘だったんですよっ…!」
 彼女は目を丸くしている。ほら、軽蔑される。そうなるのが自然なことだ。
 …そう、思ったのに。
 アルクェイドは微笑んでいた。哀しげな笑顔。苦しい。
 目を合わせられない。
「…うん。でも、それでもいいんだ。それでも、わたしと過ごしてくれたのはシエルだけだから」
「わたしは…貴方に酷いことを言いました。貴方だって傷ついたじゃないですか…」
「ううん、こっちも悪かったわ。あなたにとっては自分の種のことなのに、それに頭が回らなかった。楽しすぎて、ちょっと浮かれてたんだと思う。…ごめんね」
 酷い。
 最悪の嫌がらせだ、こんなの。
 彼女の綺麗な笑顔が、シエルの胸を刺し続ける。
 これじゃ、憎むことも殺すこともできない…!
「だから、もういいや。もう十分。あなたの言うとおり、元々わたしに生きる目的なんかないんだから。死んだって同じなんだと思う。だから…そんな顔しないで」
 耳を塞ぎたくても、肝心の腕が動いてくれない。
 思い出せ、こんな奴、嫌いで、大嫌いで…
 まともに顔を見られなくて、下を向いて、何も言えないでいるシエルの頬に、そっと手が添えられた。
「さよなら。あなたはわたしを嫌いだろうけど……わたしはシエルのこと、今は嫌いじゃないよ」
 とどめだった。
 シエルの中で、何かが粉々に砕け散った。


 正真正銘、最後の戦いが始まった。
「がっかりだな、姫君!」
 攻撃をかわしながら、ロアは舌打ちして言う。
「真祖の姫君ともあろうものが、安っぽい情に汚染されたか!」
「そんなんじゃないわよ!」
 もはや左腕は使い物にならず、右腕で聖典を振るう。
「人間のためなんて気はないけど、自分のしたことの始末くらいは自分でつけるわ! ロア、あなただけはわたしの手で塵に返す!」
 その言葉に、ロアの表情に歓喜が浮かんだ。決死の攻撃を、蛇のように逃げ続ける。
 戦えば戦うほどアルクェイドは弱っていく。なのでそれは戦術的には正しかったが、シエルにはどうしようもなく悔しかった。
 もう、見ていられない。
 目を固く閉じ、動こうとする身体を必死で押さえながら、シエルは耐えた。
 これは正しいことだ。人間という種のために、アルクェイドに死んでもらうのは正しいことだ。
 また無辜の人たちが殺されてもいいのか? あの光景が繰り返されてもいいのか? 一時の情に流されて、使命を放棄するなんて許されない。
 それでも、見なくても音は聞こえてくる。彼女の苦しそうな息づかい。彼女を傷つけるナイフの音。
(もう、やめて……!)
 叫びが口から漏れかけた瞬間、ぐらり、と空気が揺らいだ。
 思わず顔を上げる。空気、いや空間が歪んでいた。このままではじり貧と悟ったアルクェイドが、最後の賭けに出たのだ。
「空想具現化……!」
 ロアは何かを叫んだが、既に空気は音を伝える役目を果たさなかった。殺人鬼の身体は頭から刻まれ、みるみるうちに減っていく。
 なぜだか涙がにじむ。圧倒的な力。かつてロアだった自分を殺した、あの時のアルクェイドだ。
 だが、ロアが完全に消えようという時に我に返った。
 それでは駄目なのだ。それでは同じことの繰り返しにしかならない。
「駄目です、殺してしまっては!」
 アルクェイドもはっと息をのみ、歯を食いしばって力を逆転させる。
 一旦発動した空想具現化を止めるという、無茶な行動のせいで彼女の身体はさらに酷いことになったが…
 空間が元に戻ったとき、ロアの足首だけは辛うじて残っていた。

 満月ならまだしも、この月齢では復活できまい。あとは第七聖典を突き刺すだけ。
「――はぁ」
 本当に、最後まで力を使い果たし、仰向けに倒れるアルクェイド。
 …何だ。
 大丈夫だったじゃないか。
 深刻になっていた自分が馬鹿みたいで、つい苦笑してしまう。
「お疲れ様、アルク――」
 それを言い終わることはなかった。
 アルクェイドの身体は、そのまま横へと吹っ飛んだ。


 足が、彼女を蹴り飛ばした。
 それは文字通りの表現で、ズボンを履いた男性の脚だけが、蹴ったままの姿勢でそこに立っていた。
 倒れたアルクェイドはぴくりとも動かない。死んでないのは気配で分かるが、もはや死んでいるのと大差ない。
 ロアの身体が戻っていく。胴体が、腕が、頭が復活し、苦しげながらも冷笑を浮かべ、落ちていたナイフを拾い上げた。
「な…んで」
 それでも立ち上がろうとするアルクェイド。しかし力は既になく、ぺたん、とその場に座り込んだ。
 シエルも動けない。
 呪縛は弱まっていたけど、自分の中の戒めによって、動かない。
「説明するのも辛いんだがね…。まあ種を明かせば、この身体は遠野志貴と繋がっている。水が高いところから低いところへ流れるように、こちらの力が減ったときにはあちらから力が供給されるという寸法だ。向こうはわけも分からずに苦しんでいるだろうがな」
 ロアは真っ直ぐに腕を伸ばす。その先のナイフが指すのは、呆然としているアルクェイドの顔。
 内心の歓喜を抑えながら、無限転生者は荘重に言った。
「終わりだ、姫君」


 どくん
 心臓が、いやに大きな音を立てる。
 今度こそ本当に、アルクェイドが死ぬときがきた。
 このまま黙って見てさえいれば、あの最強の真祖はその命を止める。シエルの呪縛は解け、弱ったロアに第七聖典でとどめを刺す。
 蓋を開けてみれば、最善の結末だった。今までろくなことがなかった分、最後になって幸運が巡ってきたようだ。
(でも)
 疑問を持つな。
(アルクェイドが死んでしまう)
 それが自分の目的ではないか。
 今さら偽善的なことを言うんじゃない。一時的な感傷なんて、心なんて、要らない…!
 ナイフが振りかざされる。
 アルクェイドは動かなかった。それどころか…
 恐怖もなく、泣くでもなく、ただぽかんと、ナイフの切っ先を眺めていた。
(あ――)
 何てこと。
 彼女は、自分が死ぬということが分かっていないのだ。今まで死から一番遠い存在だったから。
『もういいや』
 嘘。
『もう十分』
 あんなので十分なわけない。
 こんな自分なんかと、たったあれだけの日常を過ごして、それだけで終わりなのか 
 それだけで、ここでこんな風に殺されてしまうのか。
 だったら、彼女の人生とは一体何だったのだろう。

 でもそれももう終わる。ナイフが動き出した。あと数秒。あと数秒待てば、それで――

「どう…して」

 それで、終わったのに。

「どうして貴方は、わたしの敵のままでいてくれなかったんですか…!」

 なのに結局、望んでいたはずの結末を…
 シエルは耐えることができなかった。



 抑えに抑えてきた力が爆ぜる。魔眼の呪縛など、一瞬で消し飛んだ。
 こんなことをしているのが悔しくて、涙まで浮かべながらシエルは走り出す。
 しかし、無駄に躊躇して時間を費やした代償は大きかった。
 ロアはシエルに気づきもせず、狂った笑いを浮かべてナイフを振り下ろす。その腕を止めるのは無理だった。アルクェイドの身体を挟んで、斜め向こう側にあるのだから。出来ることといったら――
 アルクェイドに体当たりして、死に満ちた領域の外へと出すことくらいだった。
 彼女の身体は簡単に吹っ飛んだ。こんなに軽かったんだ、と思う間もなく
 シエルの心臓に、吸い込まれるようにナイフが突き刺さった。


「――な」
 ロアの顔に怒りが浮かぶ。飛び込んできた相手にとっさにナイフを刺したはいいが、それはどうでもいい教会娘で、肝心の姫君は弾かれて床に転がっていた。
 要は人生における最高潮の瞬間を邪魔されたのだ。かっとなって、ナイフを引き抜こうとする。
 しかしシエルの行動は、それよりもなお早かった。
 刃物を持つ殺人鬼の腕を掴み、固有結界を展開する。苦痛の絶叫がロアから響く。
「何をするっ…! 離せ、エレイシア!」
 シエルの口からも血が逆流するが、遠のきかける意識を必死で繋ぎ止める。もはや、もはや逃すものか。
「アルクェイド!」
 ずっと追い続けてきた、その名前を呼ぶ。
「早く…第七聖典でとどめを! あまり長くは保ちません…!」
 頭がガンガンと鳴り、吐き気がする。心臓にナイフが突き刺さっているのだ。死に引きずり込まれながら、必死で抗う。今、坂を転げ落ちるわけにはいかない。
 彼女はどうしているのだろう。確認したかったが、気が狂いそうな痛みに顔を上げることもできない。
「…なんで…?」
 ようやく聞こえたのは、そんな、心底腑に落ちないといった声だった。
 頭にくる。そんなこと考えてる場合か。
「いいから早く! 貴方しか…動けないんだから…!」
「何よ…何してるの!? どういうことよ! 何でこんな…」
「いい加減にしてください! ああもう、だから貴方のことは嫌いなんです! 非常識で、自分勝手で、人の都合なんか全然考えなくてっ…!」
「なっ…何よっ!」
 ようやく動く気配がする。もう大丈夫。アルクェイドなんだから。
 ふっと力が抜けて…死へと落ちていく間に、慌てふためいたロアの声が聞こえる。
「ま、待てっ! 姫…」
 次の瞬間、第七聖典の刃でロアの右腕は切り飛ばされた。
 ぐらり、とシエルの体が傾く。右手はこちら側についてきたが、すぐに灰となって崩れ落ち、刺さったままのナイフだけが残った。
 そのまま床に倒れたシエルの頭上で、混乱しきった声が聞こえる。
「もう――全然わかんない!」
 視界の片隅に見えたのは、喚きながら聖典を頭上に掲げるアルクェイドの姿だった。
 銃剣は重力に従って落ち、ロアを脳天から真っ二つにした。


「シエル!」
 迷わずこちらに駆け寄ってくる。
 まったく…少しは躊躇ってくれないと、また良心が痛んでしまう。
「どうなってるの!? 何よ! わたし、どうすればいいのよ!」
「さあ…。とりあえず、喜んでもいいんじゃないですか」
 ロアに奪われた力が戻ったのだろう。アルクェイドの傷は急速に塞がりつつあった。
 一方のシエルは、胸のナイフを引き抜こうとしても、もう指一本動かなかった。
 心臓から流れていく血が、ただ床の上に広がっていく。
「ちょっ…何、死にかけてるの…? こんな傷くらい大したことないじゃない…」
「無茶言わないでください…。貴方みたいに…頑丈じゃないんです」
 おろおろしているアルクェイドを、ちょっとだけ可愛いと思った。
 …そんなことを言える状況では、ないのだけれど。
「姫君!」
 と、半分になったロアが、必死の形相で声を上げる。
「それはないだろう! 八百年も戦ってきた私を倒したのに、そんな奴に構うのか!? 最後くらい見届けてくれてもいいじゃないか!」
 アルクェイドはわけが分からない顔で、何も言えずロアを見ている。
 だがシエルにはよく分かった。同時に心底頭にくる。あれだけ多くの人を殺し、多くの日常を壊しておいて、頭の中にあるのはアルクェイドのことだけか。
「貴様が誰に恋しようが知ったことじゃない」
 怒りにまかせ、最後の力で半身を起こして睨み付ける。
「でも、それに他人が巻き込まれる筋合いはない。わたしの家族も、街の人たちも、今まで殺された全ての人も、貴様の個人的な想いの犠牲になるため生きてきたわけじゃないんだ!
 地獄へ落ちて未来永劫その罪を償え! ミハイル・ロア・バルダムヨォン!!」
 残った部分が灰になる。最後に聞くのが教会娘の罵倒という事実に絶望しながら、ロアの魂は消滅した。
 同時にそれは、シエルの死を意味していた。



 少し楽になった。アルクェイドが、力を分けてくれているのだろう。
 でも、方向を逆転させるものでもないこともお互い分かってる。ただ遅らせるだけ。敵だったはずの吸血鬼に看取られ、シエルはゆっくりと死んでいく。
「なんでっ…!」
 シエルの手を握ったまま、アルクェイドは説明を求めた。
「どうしてこんなことするのよ!? わたしのことが嫌いなくせに! わたしのことが嫌いなくせに!! 助けてくれなんて頼んでない…!」
「そうですね…、かなり……後悔してます」
 馬鹿なことをしてしまった。
 本当なら倒れているのは彼女で、自分はそれを冷ややかに見下ろしているはずだったのに。まるで逆。我ながら呆れてしまう。
「…ねぇ、アルクェイド」
「喋らないで!」
「わたしは、この学校で生徒をしてたんです」
 動かせない手で、床の感触だけを感じ取る。
 でも、遠く離れた日常の名残は、そこにはない。
「回りに暗示をかけて、みんなを裏切りながら……でしたけど」
「何、言って…」
「約束したんです。遠野くんや乾くんと、街に遊びに行こうって…」
 乾、という名前に訝しげな顔をする彼女に、それが志貴の友人であると説明した。
「でも、わたしはもう無理みたいだから…。だからアルクェイド、代わりに……」
「ばかっ!」
 本当に怒った顔で、アルクェイドはそう叫んだ。
「そんな約束しないからね! シエルとじゃなきゃ行かないから! そうよ、あれだけじゃ全然足りないわよ。あなたが教えてくれたんだから、責任取ってよっ…!」
「ふふ…そうですよね…。本当、そうです」
 死ぬ間際になって今さらだけど。
 本当は、楽しかった。シエル自身も。
 怒ったり呆れたりしながらも、アルクェイドと過ごした僅かな時間が、どうしようもなく幸せだったんだ。
「でも、そんなの許されなかったんです。
 わたしはもう、ずっと前に捨ててしまったから。
 普通の生活も、平和な日常も…この道を選んだとき、自分から手放したんです」

 多くの死を見て、自らも手を下して。
 腕の付け根まで血に染まったシエルに、それを取り戻せるわけがなかった。
 どんなに手を伸ばしても、もう届かないのだと知っていた。

「でも貴方は違います。ただ、今まで知らなかっただけ。
 これからいくらでも、手に入れることができるんですよ。
 あんなに心から楽しそうに……笑うことが、できるんですから」
「な……」
 シエルには、あんな風には笑えない。
 周りを騙し続けて、嘘の笑顔しか作れない…今も、そうしているように。

「…だから、貴方が生き残る方が正しいんじゃないかって。
 そう思ったら、こんなことになっちゃいました……馬鹿ですね、わたし」
「…そうよっ…!」
 泣き出しそうな彼女の顔が、段々と闇の中に消える。
「冗談じゃないわ! こんな死に方許さない。あなたに助けられるなんて嫌なんだから! 目を開けなさい、このっ…」
 その声も、遠く、遠くなっていく。


 アルクェイド・ブリュンスタッド。長い時を一人で過ごしてきた、何も知らない女の子。
 どうか貴方だけでも、普通の幸せを得られますように。


「嫌だって……言ってるのにっ……」

 視覚も聴覚も消えていく中、最後に感じたのは、頬に落ちる温かい水滴だった。
 ああ、なんだ。
 この人も誰かの死に、涙を流すことができるんだ。
 もっと早く知っていれば、別の結末があったかもしれないのに。本当に、イフなんて何の救いもない――。











<つづく>



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