WORLD SCROLL 電子臭ただよう会議室の中、世界征服委員会の面々はさすがに緊張した面もちで スクリーンを見つめていた。ただ1人いつものように白衣を着込んだ紐緒さんが、 腕組みをしたまま自信に満ちた笑みを浮かべている。 黒い黒い宇宙空間を背景に、1つの人工衛星が映し出されている。アメリカ政府 がその存在をひた隠しにしてきた高性能の新型殺人衛星は、つい先日紐緒さんの手 でその存在を暴露されていた。彼女のことだから暴露だけですむはずもなく、「1 週間以内に破壊してみせるわ。ふふふ…」などと全世界に向け公言してしまったの である。この1週間というものCIAの殺し屋が何度となく送り込まれ、しまいに は紐緒さんの研究所にミサイルを撃ち込む計画まで持ち上がったらしく、俺として はまったく生きた心地がしなかった。が、天才の紐緒さんにことごとく阻止され、 なんとかこの日を迎えることができた。言わば超大国と1個人との最後の戦いである。 「プロフェッサー、そろそろ時間ですね」 「言われなくてもわかってるわよ」 委員会委員長の鐘楼さん…これはハンドルネームで、本名は李鐘景さんという人 なのだが、紐緒さんを全面的に信頼している彼も、今回はそう安穏としてもいられ ないらしい。なにせこちらは宇宙に届く武器など何一つ持ち合わせていないのだ。 「紐緒さん、また軍事衛星ハッキングですか?」 「うるさいわね、黙って見てなさい」 高校3年の文化祭の時に比べ格段に上昇した彼女の科学力をもってすれば、衛星 の1個や2個容易に操れるだろう。ましてや現代のほとんどのコンピューター製品 には紐緒さん開発のH-CPUが組み込まれているのである。といっても普通軍事 衛星に自爆装置などついていないと思うが…。 「そろそろね」 紐緒さんがぱちりと指を鳴らすと、スクリーンが2分割され衛星がもう1つ映し 出される。別方向から撮っているのかと思いきや、よくよく見ると、似ているよう で別の衛星だった。 「プロフェッサー、これは!?」 「KT−2045。予備のためにアメリカが打ち上げた、もう1つの殺人衛星よ」 皆が騒然とする中、政治部長の渦巻仮面さん−言うまでもなくハンドル−が1人 ピースサインをしている。さては紐緒さんの指令で、彼女が合衆国政府をうまく煽 ったと見える。 予告の時間が迫った。紐緒さんはカードパソコンを取り出すと、猛然とキーを叩 き、それにつれて衛星は互いの砲門をお互いに向け、レーザーエネルギーを充填し 始めた。 「個人の趣味で作る分にはなかなかのものだけど、税金でこんなものを作るなど科 学技術に対する侮辱ね」 紐緒さんはそう言うと、一同がかたずを飲む中実行キーに指をかける。 「これでもくらいなさい!」 一瞬の閃光に、2個の爆発が続く。超大国の威信は木っ端微塵に粉砕され、歓声 の声が上がる中紐緒さんはさっそうと立ち上がった。 「私に逆らった者に対する当然の報いね。委員長!即刻全世界に声明を出しなさい!」 「わかりました!」 「広報部長!あなたは計画通り世論を誘導するのよ!」 「お任せください!」 「政治部長!あなたは」 「オッケー!」 「…これであの低能大統領も年貢の納め時ね」 委員長と政治部長がドアの外へ飛び出していき、広報部長のミスターYさんはイ ンターネットに接続してメールを送り始めた。勝利の歌に全員が昂揚する中、紐緒 さんは俺に向けて厳かに命令する。 「コーヒー持ってきなさい」 「た、ただいま!」 周囲が騒然とし、部屋の電話が鳴り響く中、紐緒さんは1人コーヒーカップを傾 ける。かっこいいなあ紐緒さん…。 「少しそのままでお願いしますね」 記録部長の猫屋さんがスケッチブックにペンを走らせ、紐緒さんの姿が写し取ら れる。この時の絵は後に『世界征服委員会!−戦いの全記録−』という本に載るこ とになったのだった。 きらめき高校を卒業した俺と紐緒さんは、一緒に一流コンピュータ企業A社へと 就職した。といっても彼女は社内でめきめきと頭角を現し、俺は研修でひいこら言 っていたが…。 「まったく、この会社には馬鹿な上司しかいないわね。全員まとめて脳改造してや ろうかしら」 「やめてくださいよっせっかく就職できたんですから!」 「…それじゃしばらくはあなたでストレスを発散させるとするわ」 「そんなぁっ!」 必死でおとなしくしていた甲斐があって、彼女は入社早々社内ネットワークの一 部門を任されることになった。が、それが会社の運の尽きで、データベース侵入や らプロテクト破りやらありとあらゆる犯罪を当然のような顔をして行った紐緒さん は、ついに会社の暗部へとたどりついたのである。 「リベートが3億円…なんか怒る気も失せる金額ですね…」 「一流企業なんてどこもこんなものよ。だからこそ私はこの会社を選んだのよ」 「(それに付き合わされた俺は一体…)」 かくして彼女はその秘密を「有効に」利用し、まずは彼女に日本女性の心構えを 説いた上司を、遠くシベリアへと飛ばさせたのだった。 そんなある日俺が出勤すると、いきなり課長から「明日から来なくていいよ」と の言葉である。真っ青になった俺は紐緒さんの所へ飛んでいったが、彼女は平然と して言ったものだった。 「私が圧力をかけて1年間の有給休暇を出させたのよ。これからみっちりと私の研 究を手伝ってもらうわよ」 「な、なら最初からそう言ってくださいよ!てっきり全部バレてクビになったかと 思ったじゃないですか!」 「その程度で慌てふためくとは、精神レベルが低すぎるわよ」 「…俺からかって楽しんでるでしょう」 「何のこと?知らないわ」 そして紐緒さんと俺は会社の金と設備を使い、H-CPUの開発に着手する。高校 の頃から「市販品なんてゴミ以下よ」と自作のチップを作っていた彼女だったが、 製品として採算がとれるようにするにはちょっと一苦労だった。 10ヶ月後、H-CPUとカードパソコン、さらにHOS(もちろん紐緒オペレー ティングシステム)が発売される。その高性能とコストパフォーマンスにまたたくま に普及し、A社の紐緒結奈の名は一躍世に知れ渡ることになった。もっとも後々彼 女が操作できるようにいくつかの仕掛けが組み込まれていたことなど、誰も知る由 はなかったのだが…。 「もう上層部に用はないわ。一気に追放よ」 こうして紐緒さんはまずはA社を征服した。高校卒業後1年足らずのことである。 続いて彼女はほぼ完全に近い形の翻訳プログラムを開発し、さらに安価のインタ ーネット端末を全世界にばらまいた。もちろん慈善などでは全然なく、彼女の野望 のための布石である。 「訳のわからないコンピュータより、我々は食料がほしい」 TVを見ながら2人で夕食を食べていたとき、とある発展途上国の人のそんな談 話がTVで放映された。紐緒さんはビーフシチューをすすりながら、憮然としてつ ぶやいたものだった。 「そんなことは言われなくてもわかってるわよ。物事には準備というものが必要な のよ」 その頃からインターネットや国内のいくつかのネットで、プロフェッサーなる人 物が主に政治関係のボードに書き込みを始める。「世界政府」…人類の最後の目的 とも言うべきその具体的なプロットに関する書き込みはもちろん紐緒さんのものだ ったが、俺も初めて読んだときは驚いたものだ。 「紐緒さんて…まともなこと考えてたんですね」 「まともでないことを望んでるなら、あなたで実践してあげてもいいわよ」 「めめ滅相もないっ!」 彼女の言う世界征服は、いつもの偽悪趣味の現れだったらしい。世界平和のため 各国家を統一する、なんて恥ずかしくて言えるかというわけだ。 彼女の政治理論はかなりの説得力と有用性を持ち合わせており、興味を持った人 たちが多く議論に参加するようになった。この段階ではあくまで単なる構想として ではあったが。 「紐緒さん、メールの未読が100通越えてます〜」 「くっ、これでは実験してる暇もないわ…。そろそろ人数を絞り込んだ方が良さそ うね」 その頃の紐緒さんと俺はきらめき市にある彼女の研究所で一緒に暮らしていた。 世間では同棲と見られていたようだが、そんな甘ったるいものではないことは、俺 が一番よく知っていた…。 ともかく紐緒さんは見所のありそうな連中を招待することにし、数十人の世界革 命家志望者たちが彼女に旅費を出してもらって研究所へと集結した。これが歴史に 名高い2000年の世界征服オフである。(命名者:紐緒さん) 予想はしていたが、プロフェッサーの正体を初めて知った一同の驚きはかなりの ものだった。彼女がまだ20代前半のうら若き女性であったことも、A社の発明王 紐緒結奈その人であったことももちろんだが、なにより彼女の態度のでかさに仰天 したらしい。(ネット上での紐緒さんはわりかしまともな人だった)俺の必死のフォ ローにもかかわらず、何人かは怒って帰ってしまった。 「言っておくけど私は本気よ。世界が変わるのを目にしたいものは、黙ってこの天 才についてくることね。ふふふ…」 この一言でさらに数人が去ったが、通信で見せた彼女の才能がよほど凄かったの か、結構な人数がそこに残っていた。その中で中国から来た鐘楼さんという人がみ んなをうまくまとめ上げ、世界統合を目指す有志団体である世界政府準備委員会… という名前だったのが紐緒さんが「世界征服委員会がいい」とだだをこね、まあ内 輪の名称ならとそういう名前で立ち上がった。言っちゃ悪いがほとんどきら高の文 化祭準備委員会のノリだった…。 とにかくも組織らしきものが出来上がり、その後の打ち合わせは紐緒研究所のサ ーバーの世界征服チャット(これまた命名は紐緒さん)で行われた。俺もときどき彼 女の後ろから見ていたが、すでに俺の頭ではついていけない段階だった。 そんなある日俺が朝食の準備をしていると、チャット開けの彼女がぼさぼさの髪 をかき上げ重々しく宣言した。 「いよいよ行動に出るときが来たわ」 「はぁ、いよいよですが。(サヨナラ平和な人生…)」 「決起の地は!」 そう言って彼女は壁に掛かった世界地図の一点をビシリと指し示す。 「ミャンマー!」 民主化は進まず軍政も弱体化し、混乱と犯罪が渦を巻くこの国が選ばれたのはい ろいろ理由があったらしい。ともかくもかつてスー・チー女史と話したこともある というヤシーイエさんが先頭に立ち、裏で様々な準備が進められる。この時の紐緒 さんは科学者の顔を捨てて冷徹な陰謀家と化した。軍政内部に罠を張り、偽の情報 と偽の証拠で同士討ちにより内部崩壊させた。「破壊だけなら猿でもできるわ」と の彼女の言葉通り、秩序の回復が事前の準備を伏線として早急に行われる。ガード ロボットが治安を維持し、紐緒さんの組織力はいざ発揮されてみるととてつもない ものだった。1年後には新政府が国民のほとんどの支持を得て設立された。 2002年、紐緒さんが正式に「世界政府準備委員会」の始動と、ミャンマー新 政府の参加を全世界に向け宣言する。今やかつてのビル・ゲイツ並に有名になった 彼女の言葉とあっては世間も笑い飛ばすことができず、委員会は一気に注目を浴び ることになった。(例の内輪の名称はさすがに表には出せなかったようだ) 委員長に鐘楼さんが就いたのにはいささか事情がある。彼自身は紐緒さんが委員 長をやるべきと主張したのだが、本人が影の黒幕をやりたいと言って辞退したので ある。俺に対しては「代表なんてやったら、忙しくて実験もできないじゃないの」 と説明したが、本当の理由は誰にもわからない。まあ普段の彼女は以前の通り他人 と協調する気など全然ないようだったので、紐緒委員長だったら組織は1月で解体 していただろうが…。 かくして表からは理念の普及と交渉を、裏からは圧力とデマと脅迫とその他もろ もろの作戦により、さまざまな問題を抱えた東南アジアの数カ国がその解決とひき かえに世界政府へ参加することとなった。しかしこれも国家の合併レベルであり、 まだまだ先は長かった。 「歴史は人間の手で作られる」 そう紐緒さんは言っていた。 「ただしその意志がない人間には歴史は素通りしていくだけね」 とも。 「次の標的は…」 「次の標的は…?」 「日本よ」 「いきなり来ますか」 世界国家樹立へ向けて協力すべきという意見が「時期尚早」の一言で葬られたの を、彼女は未だ根に持っているようだった。高校時代から集めてきた永田町の面々 の極秘データを見せてもらい、なんだか俺も日本人をやめたくなったものだった。 2004年、戦後最大の疑獄事件が起こり、内閣支持率は10%にまで低下する。 もちろん仕掛人は紐緒さんである。総選挙が実施され、さすがに彼女は立候補はし なかったものの、世界政府構想は選挙の一つの争点となった。委員会の精力的な活 動もあり、翌年ついに世界政府協力法案が可決される。委員会の打ち上げパーティ で一言を求められた紐緒さんは、「ずいぶん手間をかけさせてくれたものね」と のたまったものだ。 その後5年間、世界史上の大事件のほとんどに紐緒さんと委員会の面々が裏で関 わっていた。1カ国また1カ国と世界政府への加入は増えていき、2006年には 国連に承認される。 「ふふふ、いずれ国連も用無しにしてあげるわ」 「恩をあだで返すのが好きですね…」 「なにか文句があるの?」 流血と破壊は明らかに彼女の美学に反していた。 「世界征服はエレガントに」 それが彼女の口ぐせで、知謀と情報が彼女の最大の武器だった。 力が必要なときは必要なときで、最大の兵力を投入する。 「ロボ、いきなさい!」 アニメの中から出てきたようなロボットを前に、戦いを挑もうとするものなどい るだろうか?テロリストも、麻薬密売組織も、経済線を絶たれた上で一網打尽に壊 滅した。 しかし最近研究する時間がないとこぼしていた彼女は、実行委員会と名前が変わ ったのを機会に、後を各部長に任せて研究所にこもってしまった。 「これからが本番だってのに…」 「うるさいわね、研究よ!ごちゃごちゃ言わずに手伝いなさい」 よほど欲求不満がたまっていたらしく、高校時代のように寝食を忘れた研究が続 いた。その甲斐あってついに長距離物質転送装置が完成し、世界から距離の壁が取 り除かれることになる。主要都市に大型転送装置が設置され、数秒でブラジルまで 行けるようになった。(この時航空会社など輸送業界から猛然と抗議の声が上がっ たが、それは余録) ハイパーポリグラフ、マインドリーダーが開発され、裁判の迅速化と正確化がは かられる。改良に改良を重ねた人工プラントは、食糧危機解決に大いに貢献した。 世界は雪崩式に統合へ向かい、残る大国はアメリカのみとなる。そして… 『合衆国政府としては断じてアメリカの独立と誇りを捨てるわけにはいかないのだ が、しかし全世界の平和のため貢献すべしという指名もまた同時に存在するのであ り…』 「言い訳はやめなさい、言い訳は」 世界征服チャットの最中だった紐緒さんは、そう言ってTVの向こうの大統領に 冷たい視線を送った。彼女の発明でも時差だけはどうにもならず、今は夜中の2時 半である。 猫屋 >やったじゃないですか! ミスターY >もっと喜びましょうよ〜(^^; プロフェッサー>何言ってるのよ。まだまだこれからよ。 このログ新聞社に送れば高値で買い取ってくれるだろうなあ、などと不埒なこと を考えながら、俺は紐緒さんに挨拶して寝室へ向かった。途中忘れ物に気づいて部 屋に戻ってみると、チャットを終えた紐緒さんが一人でにやついてるのが見えた。 2010年、世界政府樹立。 国境は消え、基本法は統一され、軍隊は廃棄された。 今の政治システムはほとんど紐緒さんが1人で考えたものである。それについて は様々な異論があったが、システム自体はケチの付けようのないほど完璧なものだ った。司法・立法・行政のすべてにおいてもっとも効率的な方策が採られ、民意は 電子メールで政府に直接送られ、汚職は誘拐並に割の合わない犯罪となった。 「世界征服」という単語に彼女がいきなり独裁者と化すのではと心配する人もい たが、制度が出来上がってみればあらゆる方法で独裁者の出現が防がれるようにな っていた。紐緒さんが求めた征服は権力を弄ぶことなどではなく…彼女の理想が世 界を席巻することだった。かつて彼女が大嫌いだった人類社会は、彼女自身が望む 形へと姿を変えていた。 世界政府の最高議長に推す声もあったが、あっさりと一蹴された。やはり研究が その理由だったが、なんか権力を蹴り飛ばすことに喜びを感じていたようなふしが ないでもない。もっとも改良すべきが見つかるたびに彼女の意見が提出され、それ が大抵は最良の手段で毎度のごとく採用されていたが。 いつの間にか彼女は全世界の精神的指導者になり、俺は単なる一市民である。俺 みたいなのがいつも彼女にくっついているのを疎ましく思う連中もいたが、紐緒さ んはまるっきり取り合わなかった。なぜ彼女が俺なんかをそばに置いてくれるのか は知らない。でも俺の希望を言えば、いつまでも彼女についていきたい。なにせ… 「…なにを書いてるのよ」 「わあっ!」 いきなり後ろからのぞき込まれて、俺はあわててノートを隠す。 「び、びっくりするじゃないですか!」 「その日記、まだ続いてたの。3日で終わると思ってたわ」 「ひどいなあ、高校卒業してからずっとつけてるんですよ」 いつものように白衣を着込んだ紐緒さんは、肩をすくめると研究へと舞い戻った。 人類初の試みは安定に向かい、先日世界議会が招集された。特別ゲストに呼ばれた 紐緒さんは研究があるからと断った。 「…これから、どうするんですか?」 世界を征服したらどうするのか、と高校の頃彼女に聞いたことがある。してから 考えればよい、と彼女は答えたが、今はその時だろう。 「あなたはどうする気よ」 「え、俺ですか?」 なにがあっても彼女についていくつもりの俺だったが、できればこの日記をもと に紐緒さんの伝記を書きたい。田舎の静かな家で印税生活をしながら、のんびり実 験を続ける2人。それが俺のささやかな夢… 「くだらないわね」 「そんなぁっ」 「なにが『ささやかな夢…』よ。人を馬鹿にしてるわ」 「そこまで言わんでも(T T)」 俺としてはけっこう本気でそんな未来を夢想していたのだが、紐緒さんの言うと おり、それが現実になることはついになかった。 ピンポーン 突然ドアホンが鳴り、モニターに客の姿が映し出される。 「紐緒結奈さん、世界議会開会になにか一言!」 「どうして議会に出席しないんですか!?」 世界一の有名人としてはこういうことも仕方なかっただろうが、紐緒さんは有名 税を払う気など1ミリグラムも持ち合わせていなかった。 「紐緒さん、答えてください紐緒結奈さん!」 「うるさい猿ね!」 紐緒さん作の『馬鹿記者撃退装置』が作動し、バケツの水をぶっかけられた記者 たちはほうほうの体で逃げていった。紐緒さんのしかめっ面に、俺は思わず苦笑する。 「今日は特別な日ですからね。ここでおとなしくしていた方がいいですよ」 「そう、それなら買い物に出かけるとするわ」 「‥‥‥‥‥」 10数年も付き合ってきて未だ彼女のひねくれようが理解できてない俺は、自分 が嫌になりながらショッピング街へと引きずられていった。 「紐緒結奈だ」 「紐緒最高顧問だよ」 委員会での彼女の肩書きはそういう事になっていた。振り返る人々に憮然としな がら、彼女は行きつけのブティックに入る。最近自動化された店も多くなってきた が、やはりこの店のようにきちんと店員が応対する方が客の入りはよいようだ。 「やっぱり白衣ね」 世界の指導者なのだからそれに見合った服装を、などと忠告してくる人もいたが、 紐緒さんには馬鹿の一言で片づけられた。いつものように白衣を買い込むと、電子 マネー代わりのIDカードを渡す。 「え、あの、紐緒最高顧問ですよね」 「…そうよ」 「えと、お金取るなんて…」 「さっさと仕事をしなさい!」 バイトらしいその娘は、緊張で何度も間違いながらIDカードから引き落とす。 紐緒さんは俺に荷物を持たせると、思いっきり不機嫌になりながら店を後にした。 「まったく、世界が変わっても愚民は愚民ね」 「いいじゃないですか、崇めてほしかったんでしょ?」 「…昔は人のこと狂人扱いしてたくせに…手のひらを返したように、これだから人 間は嫌よ…」 ぶつぶつ言っていた紐緒さんだが、なんとなく人から好かれることに慣れてない だけのように俺は感じた。相変わらず人間が嫌いなようだったが、全人類の幸福に もっとも寄与しているのは紐緒さんだった。 「ついでだわ、少し寄り道して行くわよ」 「え?紐緒さん、どこへ…」 『私立きらめき高校』 10年以上たっても、校門のプレートは変わらず俺たちを迎えてくれた。この学 校も機械化が進み、単位制やら在宅授業やらも実施されているらしいが、校庭のは ずれの1本の古木はあの時のままだった。 「見てくださいよ紐緒さん、伝説の樹が…」 「どうでもいいわね。それより理科室へ行くわよ」 「‥‥‥‥‥」 途中かつての担任の先生に会ったが、ぎこちなく挨拶するとそそくさと立ち去っ てしまった。今の紐緒さんに屈託なく接しろという方が無理なのかもしれない。 「理科室もこんな風になっちゃったんですね…」 最新の設備が備えつけられ、机に1台ずつカードパソコンが装備されている。実 験用具も様変わりし、ほとんど手を汚さないように出来ていた。それでも…理科室 の匂いというものは、いつの時代にも変わらないものだ。 「良かったわね、あの頃は…」 テーブルに手を置いて、紐緒さんはぽつりとつぶやいた。 毎日遅くまで研究して、実験結果に一喜一憂した日々。世界征服を合い言葉に、 行き先もわからぬまま突っ走っていた。文化祭の前は連日の徹夜、発表がうまくい った日は緊張が解けてそのまま理科室で眠ったっけ…。 「私の名は紐緒結奈。いずれは世界を支配する女よ」 紐緒さんがもう一度小さくつぶやく。この12年で世界は塗り替えられ、彼女の 思想は世界を支配した。それが彼女の望みだったはずだが…本当は何もかもが夢で、 俺たちはいつものように実験を続けながら、疲れて少し夢を見ていたのではないか? そう考えて俺はあわてて頭を振った。そうじゃない、それじゃこの12年が無意 味だったみたいじゃないか。 彼女のおかげで世界は変わった。戦争は一掃され、貧困と無知は徐々に姿を消し つつある。俺は何もできなかったけど、紐緒さんと一緒にいられたから… 「こんなの紐緒さんらしくないですよ!」 俺の叫び声に、やはり思い出に浸っていたらしい彼女は思わずはっとする。俺に 背を向けたまま苛ついたように指でテーブルを叩いていたが、やがて俺の方へ向き 直ると笑いながら言った。 「そうね。でも…昔は良かったわ」 「紐緒さ…」 言いかけて俺は、彼女の微笑みに気づいた。彼女がこういう風に笑うときは、た いてい何か企んでいるときなのだ。 「昔は良かったのよ。わかる?主人君」 「は、はあ…」 「それじゃ、帰るわよ」 久々に俺の背中を冷たい汗が流れていった。今度はなにをする気なんだろう…。 少したって、何度目かの世界征服オフが研究所で行われた。世界征服委員会も今 は解散し、ある者は世界政府に、またある者は平和な生活に戻り、それぞれの人生 を歩き始めた。 「これからどうなっていきますかねえ」 委員会の1人がグラスを傾けながら紐緒さんに尋ねる。紐緒さんは酒は飲まず、 相変わらずコーヒーを口にしていた。 「知らないわよ。ここまでお膳立てしてうまくいかないなら、しょせんはその程度 の生物だったということね」 「おや、プロフェッサーはもう政治には関わりませんか」 「天才の私がやらなけりゃならないことは一通り終わったわ。あとは凡人でも何と かなるはずよ」 一同は意外そうな顔をしたが、一方で納得した風でもあった。彼女望んだのは世 界の変革であり、変革が終わった以上は平和な生活に戻ったところで誰がそれを責 められるだろう?一つの時代が終わったことを感じとり、オフはゆっくりと過ぎて いった。 「それじゃお疲れさまでしたぁ」 「お疲れさまー」 こう見てるととても世界政府樹立の立役者たちとは思えないな、と心の中で苦笑 する。たとえ今後の道は異なったとしても、共に戦った革命戦士たちの記憶は永遠 に消えはしないだろう…。 「…お疲れさま」 はっと俺は振り返った。紐緒さんがそんなことを言うのは初めてだった。 彼女はくるりと背を向けると、中庭の方へと歩き出す。夕闇の迫る中、俺はあわ てて後を追った。 「紐緒さん…?」 「…私が平和な生活に戻る気だとでも思ってるんじゃないでしょうね」 背を向けて歩きながら、紐緒さんは静かに言った。 「え、だから、田舎の小さな家で2人…」 「この私も甘く見られたものね」 紐緒さんは中庭に出ると、俺の方を真っ直ぐに見た。その瞳は以前のように不敵 で、自信と矜持に満ちあふれたものだった。 「私を誰だと思っているの?天才、紐緒結奈よ」 そう言って彼女は指を鳴らす。地面が裂け、中から…直径30mはあろうかとい う円盤がせり出してきた。 「ゆ、UFO!?」 「UFOとは未確認飛行物体のことでしょう。これだから愚民は嫌よ」 呆れたようにそう言うと、再度指を鳴らす。円盤の壁が音もなく開き、そのまま 下に下りてタラップとなった。 「えーと、もしかしなくてもこれは宇宙船なのでは…」 「他の何に見えるというのよ」 「(いつの間にこんなものを…)」 「さ、乗りなさい」 なんとなく事情が理解でき始めた俺の顔から、だんだんと血の気が引いていく。 「いや、準備がまだですし…」 「もう積み込んであるわよ。1年分の食料に実験用具。それから…」 「いえ、俺の心の準備が…」 「そんなものは必要ないわ。早く乗りなさい」 こういう強引な人なんだ、紐緒さんて…。俺は覚悟を決めると、タラップに足を かけた。さよなら、俺の生まれた星… 「乗ったわね。それじゃ出発するわよ」 「すこしくらい感傷にひたらせてくださいよ!」 ガクン、と宇宙船が傾き、俺の平衡感覚が失われる。慣性制御装置によりGはほ とんどかからなかったが、無重力に近い変な感覚に吐きそうになりながら、数分間 俺の目は回ったままだった。 ようやく動きに慣れて周りを見回すと、中はいくつかの居住空間に分けられ、様 々な装置があちこちにひしめき合っていた。どうやら夢ではないらしい…。 「…紐緒さん?」 紐緒さんは腕を組んで窓の外を見ていた。俺もあわてて駆け寄ると、今まで立っ ていた青い星が眼下に宝石のように輝いているところだった。 「…器は作られたわ。中身がどんなものになるかは彼ら次第だけど、私の関知する ところではないわね…」 あるいは紐緒さんは、すべての進歩が自分の手で進められてしまうことに危機感 を感じたのかもしれない。もちろんただ飽きただけかもしれないが…。 「昔、世界を征服したらどうするかと聞かれたことがあったわね」 「…はい」 「別の世界へ行くまでよ。ついてくるわね?」 ついていきます!と言おうとして…俺は急に忘れ物を思い出した。 「も、戻ってください!日記帳置いて来ちゃいました!」 「丁度いいわ。くだらないけど歴史家が私を研究する際の資料くらいにはなるわね」 「で、でも人に見られちゃまずいこととか書いてあるし…」 とたんに紐緒さんがジト目になる。そのまま冷ややかな声で俺に尋ねた。 「見られちゃまずいもの?どんなものか言ってみなさい」 「(ああっ何か誤解されてる…)」 俺はもう一度地球の姿を見た。…どうせあそこの連中には知られるんだ、いっそ この機にはっきりさせた方がいいかもしれない。 「いいんですね、言いますよ」 「…や、やっぱりいいわ。どうせくだらないことだろうし」 なんとなく感づいたのか、紐緒さんはあわてて操縦席に着いた。いくつかのキー が叩かれ、周囲の電光板が光り始める。 「言いますよっ!紐緒さんが言えって言ったんだから!」 「さ、さあ一気に3万光年ほど跳躍するわよ!」 「俺は紐緒さんが好…」 「ワープイン!」 最後のキーが押され、周囲の空間がゆがみ始める。外宇宙への扉が開き…紐緒さ んと俺は、永久に太陽系から姿を消した。 ======================================================================== 紐緒結奈 【ひもお ゆいな】 1979〜? 日本の科学者、政治学者。世界政府準備委員会を設立し、事実上の指導者として 影響力を行使。2010年の世界政府樹立の最大の功労者である。その社会設計は史上 類を見ない完成度の高いものであり、そのまま世界政府の基本政策となった。 理工系の業績においても天才的で、H-CPU、完全翻訳ソフト、マインドリーダ ー、ハイパートランスレーターなどを次々と発明。文字通り世界を変える原動力と なった。 彼女の政治上の成果については「世界に安定と問題解決のシステムをもたらし、 多くの人を救った」とする立場から、「結局は上からの改革であり、人類全体でな すべき進歩を横取りした」とする立場まで様々である。 2010年、世界政府が安定するとともに忽然と姿を消した。その後高校時代から彼 女の側にあった主人 公の手記が発見され貴重な資料となるが、それにも失踪の原因 は一切記されていない。 (23世紀の世界史用語集より)
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