実は、私の祖父母は4人とも中国江蘇省から彼らが10代後半に日本へ渡ってきた人たちです。
'77、'97、'98に、この地に骨を埋(うず)めました。(具体的に説明をしますと、母方祖父母は、土葬です。手動のクレーンみたいなもの=チェーンブロック=を積んだトラックの運搬業者の手配が必要となります。
1.チェーンブロックを用いて棺を荷台に積む→2.運搬→3.トラックから降ろす→4.チェーンブロックと棺を人力で墓地へ移動→5.チェーンブロックを用いて墓穴に棺を納める)
彼らの遺志により葬られた方式を目の当たりにし感じたことは、70年ほどもこの地に暮らしても最期の最期まで中国人であったと。
(叔母の結婚式当日は、彼女の自宅前で爆竹が鳴っていたりも。)
そういう人々によって育てられたのが私の両親であり、両親は日本生まれの日本育ちながら、性質や行動とかは日本人とは、どこか違うみたい。
私も同様で、やはり日本人の気質とは違いがあるみたいですね。
たとえば大和民族の人は繊細でよく気が回るので、話す言葉の内容が、直接的でなくてもわかるみたいね。
だけど私には、【繊細に】相手の真意を言葉以外から読みとるなんてことは、難しいと思ってる。
...いいえ、不可能に近いのね。両親の影響を多分に受けているのだろうね。20歳頃に知人たちと和んでいる時、ふっ...と頭をよぎるものがあったもの。あ、みんなは本質的に「大和なでしこ」だなあ...って直感的な考えが。自分だけがなんか違うよぅ...って自覚。
婉曲的に言葉を言われてしまうと、その本質は私には見えてないので、困っちゃう。
言われたそのまんまにしか意味合いをとれていないっていうか...ね。 そして、自分が考えている事を言葉で表現する時だって、そのやんわりとした言い回しというものを持たないのが、だめなんです。
で、ついつい浮かんだ考えをそのままに言い表して、裏読みされて、「この人何が言いたいんだろう・・・」とか誤解されるのね(笑)
ほんとは誤解の余地なし。言ってるそのまんまや、だというのにね。 

わかりやすいはずなんだけど〜。ま、大抵は誰もそんなことは言わないだろうっていう雰囲気や慣習がその場にあったとしても、やっぱり本質に沿って「別にそんな口はばったいことでもないしなあ」って考えたならはっきりとものを言う。そうするとさ、「ずばっとものを言うから良くない」とか、「協調性に欠けるよな」とか「ヘンなヤツだ」とかの烙印が「パッ」と押されちゃうのよね。 でも反対にね、「本音とたてまえがあって、あまり正直な事言う人って少ないのに、正直な人だねえ」と感心されることもある。それは良い意味に取って(ホントの感心)良かったのだと思うんだけど、でもそれってさあ、「子供っぽい」だけやんねえ。 (あとで書くけど大人の分別は、あるんよ。)なんでも正直にストレートに表現することは...

んなわけで社交辞令とか、ほんとのお気持ちかなとかわからないんだよぉ。社交辞令をほんとに取っててよく「がっくり」きたことあるなあ。ほんとの気持ちで話しても「向こうはそんなことは社交辞令にしか取らないよ」ってのもよくあって、ほんとムズカシイわ。

あとそれから、感覚的に「相手はきっと私に、こう言ってもらいたいのだろうな」というはからいができないというか、何を言ったらいいのかわからないことになるのがすごく多いの。言葉を返すことできないで、がっかりさせているというか。相手の真意を汲み、「きっと○○だよ」とかの言葉で表現してあげることが大のニガテ。そこでもし何かを言わなくちゃならないとすれば「私があなただったら、こう考える。」とか、「私の場合はこうだったよ」と自分のことに置き換えてしか、言えないんだ。あたり障りない一般論や世間話はまず持ち出せない。ただし時と場合によっては「あんたの事は聞いてナイのさ」と思われるようなつまんないこと言ってちゃ駄目なんで、もとより深い関係にならずに、そこそこあいさつ交わす程度で過ごしてることがかなり多く、きっと陰気な無口な人だという印象しか与えていないかな。 (ご近所さんに対して取材が来たら(←ないない!)、どんな人物像を言われる事か。)
余談だけど、子育てって「共感してやる」っていうのが、子供の情緒面の発育には欠かせないよね。
その子を丸ごと自分の中に入れるというか、自分がその子の中に入ってその子の感じているままを感じるというか。で、子供自身では対処しきれないところがあると、親は手を貸してやらなくちゃいけない。でもそれは、親が「こうしなさい」っつって「親自身の力を貸してやる」ということではなくて、子供自身が対処しきれない部分を「大人の経験」で以て子供自身が自分で対処できるようにしてやることだよね。 (ちょとくどい書き方でごめんよ)
でも、本人の意見とぶつかったりするのだ。相手は子供。経験がまだ少ないからね。結局私自身が「好むか好まないか」で対処しちゃうの。「そんなこといってたらもう何もしてやらない!」って。自分本位だよね。親業は赤点だね。ヤバイよね。

自分が思うことがあくまでも基準になってる気質ってあるけどね、ところがそれってつまり根っこの部分であり内面だけなのかもなあ。表面は逆に、周りにのまれちゃうっていうか、状況はそうはさせてくれないっていうこともよくあって。うん。そもそも「自分は自分よっ」なんてとんでもありませんと思ってるよ。それなのに、それなのに...あいまい表現がないばっかりに、子供のころもそして今でも私のことを「違う」って感じる人があるらしく、「自分はじぶんよっ」タイプだと思い込まれてしまうのか、傷つけられたり、不当な扱いをされたり。そんな経験があまりに多くて。”そこそこ挨拶程度”関係の人におかしな(?内容はしらない)噂をたてられたりね。(←「ひどいことになってるよ、あなた」と耳に入れてくれた人がいた。しかしその中身は「あなたにとってあまりにひどいとしか言えない」のだそうだ。)だからといって私は、「相手にどう思われたっていい」なんてことはなくて、自分の言動に発して、なんらか自分への悪い影響が返ることを気にしすぎる傾向はどうしてもある。「相手は自分のことを理解してくれるか、受け入れてくれるか」非常にナーヴァスな性格を持ちあわせてる。
あくまでも自分の思いを基準になる気質っていっても、公共の場に必要とされる正義感とかモラルとかすごくある。たとえば電車で。子供って小さい時は親にくっついて乗って無料で乗れるね。そんな時親から「あんたたち(弟と私)はタダで乗せてもらってるんだから立っとくのよ」って言われたことは自分の子にも伝えて有る。またほかには、定期券を持っていて通学駅よりも遠出したときは、帰りはひと区間だけ買って電車に乗れるよね。でも、親からはこう言われた。「みんながやっていても、できるからといって10円単位だから小さいからといっても、泥棒は泥棒だからね。決してやったらアカンで。自分だけでも正規の区間の切符を買いなさいよ」
こういうしつけは漢民族だからというわけじゃなくて、ただ、そういうきっちりと白か黒しかない親だったわけです、なんにつけても。”灰色”の存在を教えるでしょう、日本では。でも自分の育ちの中にはなかった。だから、私の周りの人には私がどこか「違う」と思わせるものがあるんじゃないかな。そんな気がするね。周りの人の機微がちょっと...察知できないし、表現もできない自分があることは確か。義妹がセールス電話を断る為に、うそ八百しゃべっているのを見て、私は驚いたもん。ごまかしセリフの豊富さと巧みさに。内容はいろいろだったので細かくは覚えてないが、ひとつは自分の夫の職業を偽ったりとか、「やんわり」とした応対でセールスウーマンを納得させる。私にはできない芸当であった。