わたしの履歴書
帰化するってこと


指紋押捺ってこんなのです
1966年6月、私は大阪の空の下、私立病院にて産声をあげました。プロフィールとして別に設けているページAYAKO'S ROOMでも書いているとおり、 この生まれた日本国には私の入るべき戸籍がありません。なぜなら、祖父母は4人とも中華民国(祖父母が祖国にいた当時の名称)よりこの日本国へと 出稼ぎの為に渡って来た移民だからです。

私の両親は、その祖父母の下、それぞれ大阪・奈良に生まれ育ち家庭環境は周りの皆とは異なるが皆と同じように日本の学校教育を受けました。ただし、母方の長子、第2子は祖母が結婚後すぐには 渡日せず自国で産んだため私の叔父、叔母にあたるその人たちは来日時にすでに学童期だったので、”中華同文学校”(日本の子女の為の”日本人学校”に同じですね)に通うことにしたそうだ。

私の祖父母は子が産まれると法務局に出向き、その子の外国人登録をするのであった。

私の両親が子を産む代ともなると、法務局までとはいわず産まれた地域の自治体に出生届けを出すようになった。これは、皆さんが産まれたときに2週間以内に届け出るものとまったく同じです。

言い忘れましたが、私の両親は住んでる地域の自治体に婚姻届を出していませんでした。

さて、私の出生届が自治体に対し父によって(母は入院または、産後自宅にて静養中であるので。)届け出られました。そして居住する自治体へ、その出生届受理証を提出し、外国人登録をします。それはすでに居住地の自治体でできるようになっていました。 (ちなみに届け出に出向くのが2度手間なのは居住地が奈良で、産まれたのが大阪の病院だったからです)

私は記憶が不確かですが、たしか12歳までは親が代理でその子女の更新手続きをすることが可能であり、12歳をすぎると本人が更新手続きをしなければなりません。(私が12歳当時の法律です。改正により現在は16歳をすぎてから) 更新手続きって、運転免許証と同じような感じで、誕生日の90日前から誕生日までに役所へ写真を持っていくというような手続きです。はじめての更新に市役所へ出向いたとき。市民の皆が利用する戸籍係の端っこのほうに設けられているカウンターに「外国人登録に来ました。」 と申し出ます。そうすると、「こちらへ」と言ってカウンターの中に入り、奥まったところまで案内されるんです。それはなぜか?当時はまだ法律できめられていたとおり、「指紋押捺」(しもんおうなつ)という行為があるからではなかったかと考えています。

外国人登録証というと当時は12頁くらいある縦10cm横7cm程度の手帳でした。(サイズについては詳しくありません。記憶たどってます)
現在のパスポートと同様の写真を2枚1セットで用意し、そして手帳と市役所の台帳に張られます。 そしてその市役所の人が「ちょっとごめんよ」と断りを入れると私の左手のひと指し指をつかむようにして、第2関節まで真っ黒のインクパッドにサイドから指の腹、 逆サイドへとおよそ180度ぐるりとインクがつくように押さえつけます。そして、手帳へ同じ動作をして指を「はんこ」のようにして捺します。もういちど同じことをして台帳にもします。 これで、完了。クレンジングクリームをもらってインクをふきとります。でもたかだか12歳でこれをやられるのは、なんか気持ちが悪かったです。大人になってもそうかな?

でものちに、3年ごと更新するのが5年ごと更新になったり(平成12年改正により永住者と特別永住者は7年ごと更新になってる。)、押捺が目に見えないインクパッドになってさらに拇印をおすように「トン」とだけやれば良くなったり、自署で良くなったりと徐々に改正されていきました。心理的に、時間的に、経済的に負担がラクになっていったと思われます。 (運転免許更新だってそうですよね。5年ごとだとラク)



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