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 立火と桜夜が立ち止まったのは横断歩道の前。
 信号が変わるのを待ちながら、住む部屋のことなどを話していたときだった。

「部長ーー!」

 驚きとともに振り返れば、アイドル衣装のままの花歩が全力で走ってくる。
 同時に信号は青になった。
 桜夜は微笑んで、一人で道路を渡り始めた。

「先、行ってるで」
「……ああ」

 相方といったん別れ、立火は来た道へと体を回転させる。
 到着した花歩は、膝に手をつき息を切らせていて。
 それを少し待ってから、優しく問いかけた。

「どうしたんや、花歩」
「部長……」

 もうとっくに、部長ではないのに。
 最後までそう呼んでくれる彼女が、勢いよく上げた顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。

「行かないでください……」
「花歩……」
「部長……うええ……行かないで……」

 衣装のまま泣きじゃくっている女の子に、通行人が奇異の目を向ける。
 でも隠す必要なんてない。自信を持って言い切れる、自慢の後輩だ。
 その肩に手を置いて、立火が思い出すのは出会いの季節だった。

「入学式の翌日にもう、私は部長の自信を失っていた」

 花歩はしゃくり上げながら、真剣に聞いてくれている。

「誰も入部してくれへんのとちゃうか。
 先輩たちから受け継いだものを、私が壊してしまったんやろかって……
 そんなときに現れてくれたのが、花歩、お前やった」

 あのときは感極まって、思わず抱きしめていた。
 そして今は意志をもって、目の前の女の子をしっかりと抱きしめる。
 涙で制服が汚れるのも構わずに。

「どれだけ嬉しかったか、どれだけ安心できたか、今でもはっきり思い出せる。
 私がほんまの部長になれたのは、お前が入部してくれた瞬間からや。
 そして……私は密かに、誓いを立てていた」

 本人に言うつもりではなかった。気を使わせてしまうだろうから。
 でも、こうして追いかけてきてくれた花歩なら、きっと本心を返してくれるから……
 立火は勇気を出して、率直に尋ねた。

「私が卒業するとき、この子が入部して良かったと、そう思えるようにしようって……。
 その誓いは、叶えられたやろか」
「当たり前やないですか!」

 立火の肩に顔を埋め、まだ涙声ながら、花歩は叫ぶように断言する。

「私はスクールアイドル部に入って良かった!
 部長に会えて幸せでした!
 あなたと過ごした一年間は、どの瞬間も、ほんまにキラキラ輝いてた……!」
「そう……か」

 立火の目からも落ちかける涙を、やっとの思いで押し留める。
 そっと体を離した花歩は、腕で顔を拭って、改めて真っ直ぐに視線を向けた。
 瞬間、立火は覚悟した。

 聞かずに済ませたかったなんて、言わずに済ませようだなんて、お互いもう思わない。


「好きです、部長」


 はっきり口にされたその言葉を、立火は正面から受け止める。

「世界中の誰よりも、部長のことが好きです」
「……ありがとう、花歩」

 小さく頭を下げ、息を吸う。
 できれば応えてあげたかった。
 クリスマスに言われかけてから、何か手はないのかと頭をひねりもした。
 でも、なかった。――立火の心は、大事な大事な後輩を、傷つける返事しか言えない。

「気持ちはほんまに嬉しい。
 でもごめん――私は、桜夜が好きや」
「……はい」
「恋とか愛とかは私にはよく分からへんけど。
 でも私の人生のパートナーは、あいつやと思ってる」
「……はい! 大丈夫です、分かってました!」



 胸が切り刻まれるくらいに、晴れやかな後輩の表情。
 桜夜の背中を押したときから、こうなることを分かっていたのだ。
 それでも瞳に後悔はなく、もう涙も捨てて、花歩は笑顔で全てを受け止めた。

「きちんと伝えられて良かったです。どうか桜夜先輩とお幸せに!」


 信号は再び青に変わる。
 もう言い残しはないと思っていたのに。
 今の花歩の姿を見て、立火にはまた一つ浮かんでしまった。

「小都子の次の部長、花歩がやってみるのはどうやろ」
「え……ええ!? 私ですか!?」
「ひいきの引き倒しやなくて、真面目に考えても適任やと思うんやけどな」
「い、いえいえ。私にそんな自信は……」

 慌てて振ろうとした花歩の手が、ぴたりと止まる。
 微笑む立火の前で、少し考え込んでから、決然と顔を上げた。

「……ありませんけど。
 でも、もう一年活動して、もしそういう自信を持てるようになったら。
 そのときは、部長に立候補してみます」
「うん……今から私はただのファンや。
 スクールアイドル丘本花歩の活躍、ずっと応援してるで」

 花歩は返事代わりに、笑顔で両手を差し出した。
 卒業証書の筒を脇に挟み、立火はぱしんと、後輩の手のひらへ両手を乗せる。
 三度目の今は、想いを継ぐように、触れた手の温度を感じながら。

「ほな、な」
「はい、また夏休みに!」

 再会を誓いながら、立火は横断歩道を渡っていく。
 渡り終えたところで、後ろからの大声が包んだ。

「部長ー! 大好きー!」

 もう振り向かず、筒を軽く掲げて、二度とない通学路を帰っていく。


 *   *   *


 家に戻る前に、スマホに来ていたメッセージに気付いた。

『河原で待ってる』
(桜夜のやつ、何を寄り道してるんや……)

 仕方なく真っ直ぐ南へ向かう。
 しばらく歩くと、大阪と堺を隔てる大和川の河原。
 堤防を上って降りて、川べりの遊歩道に立つ桜夜を見つけた。
 隣に並んで川を眺めていると、少し心配そうな横目を向けられる。

「……花歩は?」

 その問いに、立火は何の後ろめたさもなく、穏やかに返すことができた。

「ちゃんと、お互いの気持ちを伝えてきたで」
「……そっか」
「ほんま、私たちには過ぎた後輩やったな」
「うん……」

 川の下流には、小都子がいつも登下校している阪堺大橋が見える。
 花歩も小都子も、他のみんなも、自分には過ぎるほどの愛しい後輩だった。
 あの子たちのおかげで、終点まで全うできた。
 立火の高校生活は、これで完全に終わったのだ――。

 最大限に息を吸い、両手を口の前に構えて、立火は思い切り叫んだ。
 悠然と流れる大和川へ向けて。


「あーーーー! 楽しかった!!」




 声が消えるまで、桜夜は広がる空を見上げていた。
 そして川面へ視線を戻したとき……
 つ……と一滴の涙が頬を伝っていて。
 それに気付くと同時に、ぼろぼろと、限界を越えたように桜夜は泣き出した。

「ごめん……」

 片手に卒業証書を持ったまま、もう片方の手で顔を押さえるけれど。
 それで防げるわけでもなく、涙はとめどなく溢れていく。

「最後まで、泣かへんって決めてたのにな……」
「……桜夜はそれでええんや」

 立火は桜夜に寄り添って、震える肩へと手を触れた。
 自分の分も泣いてくれる、大切な相方に、正直な気持ちを伝えるために。



「桜夜、ずっと一緒にいてほしい。
 大学の四年間だけやなくて、その先の人生も、ずっと」

 一瞬、息を止めた桜夜は、何度もうなずいて――。
 泣きながらしがみついてくる彼女を、立火は優しく抱き寄せる。


 春というにはまだ肌寒い三月一日。
 それでも少しずつ芽吹く、花たちに見守られて。
 二人の卒業生は、これから一つになった道を歩き出していく。


 *   *   *


「あ……小都子先輩」

 パステル色のドレスのまま、小都子だけが校門で待ってくれていた。
 振られちゃいました、という花歩の報告に、その顔色がさっと青くなる。
 慌てて大丈夫という風に手を振った。

「分かっていた結果ですし、言えて良かったです。先輩のおかげで後悔せずに済みました」
「そ、そう……。花歩ちゃん、きっとまた運命の人が現れるからね」
「あはは、そういう小都子先輩はどうなんですか」
「うーん、どうなんやろねえ」

 部室へ戻ると、皆は既に着替え終わっていた。
 いやー振られてもうたでー、と今度は明るく言ってみるが、やはり心配されてしまった。
 特に、ようやく状況を理解した勇魚から。

「そ、そうや花ちゃん! 午後はうちと一緒に勉強しよう! それでおやつにケーキ食べよ!」
「もう、そんな気を使わなくてもええって。でも確かに、勉強会で姫水ちゃんに助けてほしいとこやな」
「ふふ、お安い御用よ。お昼食べたら私の家に集合ね」

 そんな三人に、つかさも笑いながら入ってくる。

「しゃあない、傷心の花歩のためや。あたしも付き合うかー」
「つかさちゃんは姫水ちゃんとケーキ食べたいだけやろ!?」
「あの、それなら私も……」
「夕理ちゃんはつかさちゃんとケーキ食べたいだけ!」
「ち、ちゃうわっ。ほら、姫水さんが引っ越したら、勇魚の勉強見るのは私やから。感じを掴んでおこうと」
「わーい! 夕ちゃん、よろしく頼むで!」

 賑やかな仲良し五人組を前に、小都子もほっとして着替えることができた。
 と、制服を着たところでスマホが鳴る。

「立火先輩!?」
「え!?」

 まさか戻ってくるとか!? と皆は一瞬期待したが、そんなはずもなく。
 メッセージを読んだ小都子は、嬉しそうな微笑を一人の後輩に向けた。

「私の次の部長、花歩ちゃんなんやって?」
「うええ!? ま、待ってください、それは一年経って自信を持てたらの話で……」
「うん。でも立火先輩は、『花歩なら自信を持てるに決まってるから』って」
「も、もう……」

 そこまで信じてくれるのは嬉しいけど。
 勝手に先走ってしまって、他の一年生はどう思っているのだろう。
 そう気になってちらりと見ると、四人の顔には歓迎と書いてあった。

「ええやんええやん。花歩が部長なら喜んで持ち上げるで」
「実力はつかさちゃんの方が上なのに?」
「あたしが真面目な役職なんてするわけないやろ。かといって勇魚に任せるのは不安やし」
「あはは、うちも自分で不安や! 夕ちゃんがやりたいなら、夕ちゃんでもええけど」
「私には後輩がついてきいひん。副部長として、部長が不甲斐ないときに尻を叩く方が性に合ってる」
「うわあ、なんか想像できる光景やなあ……」

 花歩はぼやき、その場にいないであろう姫水はくすくす笑った。

「私も花歩ちゃんなら、素敵な部長になれると思うわよ」
「ま、またまたー。とにかく、もう一年様子を見てからの話!」
「自発的にやりたい人間に任せるのが、もちろん一番ではあるが」

 と、黙って写真を整理していた晴が、ぼそりと話す。

「できれば相応の統率力も持ってほしいところやな」
「分かってます、晴先輩のお眼鏡にかなうよう頑張りますっ。
 あ、ごめん。早よ着替えないと」

 待たせている皆の前で、花歩は急いで衣装を脱ぎ始める。
 下着姿になったところで、感じる視線に困り顔を返した。

「あの、姫水ちゃん? そうじっと見られると着替えにくいんやけど……」
「あ、ごめんね。……私も、花歩ちゃんみたいになりたいなあって」
「もう、何言うてんねん。姫水ちゃんみたいな特別な子が」
「そんな事ないわよ。あなたみたいに、しっかり決着をつけて、大事な人とお別れしたい」

 その言葉に部員たちは、特につかさと勇魚はぴくりと反応する。
 三年生は去り、次は姫水の番だ。
 花歩は何も言えず着替えを終え、小都子が柔らかく引き取った。

「ま、姫水ちゃんの予定についてはテストが終わった後でね。ほな、今日の活動はここまでや」
「私はもう少し仕事していくから、鍵はやっとくで」
「そう? なら晴ちゃんにお願いね」

 テスト勉強とは無縁の晴を残し、小都子は一年生と帰途についた。
 今日から始まった三月。年度最後の月にも、あと少しの出会いと別れがある。
 仲の良い一年生たちを微笑ましく眺めながら。
 この素晴らしい一年間が、綺麗に幕を下ろすことを部長は願う――。


<第35話・終>

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