この作品は「ONE〜輝く季節へ〜」(c)Tacticsの世界及びキャラクターを借りて創作されています。

前編へ










 花に囲まれた白い壁。お城の中のお姫様は、留美にとっては理想だった。
 そこへは王子様がやって来て、二人は末永く幸せに暮らすのだ。
 もちろん高校生にもなってそのまま信じているわけではないが、そういう話が好きだった。
 心優しい女の子は必ず幸せになるのだと。

 なのに今、その子は何もない場所で、一人でぽつんと立っている。
 声をかけようと走り寄っても、そこへは永遠にたどり着けない。
 お姫様の友達なんて、おとぎ話には出てこないのだ。


(あのっ、入っちゃっていいんでしょうか)
(いいよいいよ。あたしゃパートに行ってくるから、あとはお願いね)
(は、はぁ)
(まったく、留美もあなたくらいしっかりしてたらねぇ…)

 だから留美の伸ばした手はむなしく空を切るばかり。
 お姫様はお城の中で、泣きもせず、不平も言わず、ただどこか遠くを見ている…

(おーい、七瀬さん)
(朝だよっ)

 そんな光景がずっと続いて――

(うーん…)
(浩平みたいに起こしちゃっていいのかな…)

 誰かの声と共に薄らいでいく。



「ほら、起きなさいよーっ」



 がばぁっ
「うわああっ!?」
 いきなり掛け布団をはぎ取られ、真冬の空気が押し寄せてくる。
「凍死させる気かぁっ!」
「ご、ごめんっ! えっと、ど、どうしよっ」
「あ…。み、瑞佳?」
 間抜けな声でぽかんと口を開けてしまう。ついさっきまで、ずっと遠くにあった女の子の顔が目の前にある。
 まだ夢の続きを見てるんだろうか? いや、でも寒い…。
「へーくしっ」
「わわっ、大丈夫? ほら、お布団っ」
「あ、う、うん」
 とりあえず掛け布団をかぶって、顔半分だけ外に出す。
 思い出した。起こしに来るかもって言ってたっけ。
 本当に来てくれたんだ…。
「(えへへー)」
 なんだか嬉しくて、布団に隠れた顔の半分が勝手ににやけてしまう。
「ごめん…。やっぱり迷惑だった?」
「そ、そんなわけないわよっ!」
 がばっと起きあがって、ついでに目覚ましへ目が行く。時刻は10時。乙女がぐうたらと寝ていていい時間ではないけど…。
 もう一度掛け布団をかぶり、今度は頭まですっかりと隠した。
「あーっ、なんで潜るんだよっ」
「せっかく来てくれたのに、すぐ起きちゃったら悪いでしょっ」
「悪くないよっ! ほら、起きてよーっ」
 ゆさゆさ、と布団越しに揺すられる。くすぐったい。でも心地いい。
 折原浩平は、毎朝これを味わっていたんだろうか。
「はぁっ…。七瀬さんがこんなに手が掛かるとは思わなかったよ…」
「し、失礼ねっ。寒い朝に布団の暖かさを味わう…乙女にしか為せない技よ」
「そんな乙女いないっ!」
 そろそろ限界だろうけど…今の呼び名が引っかかって、布団の中で拗ねた声を出す。
「名前」
「え?」
「名前で呼んでくれなきゃ起きないっ」
「あ…」
 瑞佳も思い出したのだろう。少しの間の後、ぽんぽんと布団が叩かれた。
「留美、朝だよっ」


 留美が着替えている間、瑞佳は部屋の中を見回していた。
「さすが乙女の部屋って感じだね〜」
「そ、そおっ? まあ女の子として当然の嗜みよ」
 といってもぬいぐるみやらフリルやら、乙女っぽいものを手当たり次第に買ってきただけなので、可愛さを通り越して混沌としている部屋ではあるが…。
 着替え終わったところで、ひっくり返っていたクマさん人形を直していた瑞佳がこちらを向く。
「あ、髪の毛やってあげようか?」
「え? あ…う、うん」
 断る理由もないので、瑞佳に背を向けカーペットに座る。
 髪の毛の先に、手が触れる感覚が伝わってくる。櫛が当てられ、一度二度と丁寧に梳かされる。
「留美が髪おろしてるとこって、初めて見たよ」
「そ、そうだった? あんまり可愛くないしね」
「うーん、でも綺麗だと思うよ」
 腰まで届く長い髪を、瑞佳の手がすくう。
 ぴくん、と体が勝手に反応して、慌てて膝の上の手をぎゅっと握る。
「(な、何緊張してるのよあたしっ…)」
「留美?」
「なななんでもないっ!」
 誤魔化して、昨日もらったリボンで二つのテールを止めてもらう。鏡の前に立つと、いつもより数段可愛いく見えた。
 隣で瑞佳がにこにこと立っている。
 何だか不思議な気分だけど、この機を逃す手はない。ちょうどお腹も空いているところだ。
「さっそくだけど瑞佳を師匠と見込んでお願いがあるわ!」
「わわっ、誰が師匠だよっ」
「料理教えて」
「え」
 一瞬呆気にとられる瑞佳だが、真剣な留美の顔を見て首を縦に振る。
「うん、いいよっ。何を作りたい?」
「そ、そうね。ラーメン…は乙女っぽくないか。うーん…」
「オムレツとか」
「そ、それだーっ!」
 口の中でとろけるふわふわのオムレツ…。なんという乙女テイスト溢れる料理だろう。
 半ばスキップしながら瑞佳と一緒に台所へ降りる。
 両親は仕事、弟も遊びに行ったらしく、家には瑞佳と二人きりだ。
「材料あるかな〜」
 冷蔵庫の中をあさり、卵を3個とバターを取り出す。塩とこしょうも用意した。しかし牛乳を切らしていた。
「買ってくるしかないわね。どのくらい必要?」
「大さじ1杯」
「…入れなくてもいいんじゃないの?」
「ダメだよっ、牛乳のないオムレツなんてオムレツじゃないもん」
「そ、そうなのかなぁ」
「料理は牛乳に始まって牛乳に終わるんだよっ!」
「なんか偏った料理観を植えつけられそうな気がするわ…」
 しかし瑞佳に買いに行かせるわけにもいかないので、ひとっ走りコンビニへ行って1本買ってくる。
 家に戻ると、瑞佳が行儀よく居間で正座していた。
「お帰りなさい」
「う、うん…。ただいま」
 本当に、なんだか不思議な気分だ。
 瑞佳の指導のもと、さっそく料理に取りかかる。さすがの留美も卵は割れたが…。牛乳と塩、こしょうを入れかき混ぜたところで、先生のチェックが入った。
「もっと手早くかき混ぜて。しっかり泡立てないとふわふわのオムレツにならないんだよ」
「こ、こう?」
「もっとこう、しゃかしゃかって」
「こうっ?」
「菜箸握っちゃダメだよっ。ちゃんと手で持つっ」
「でえーい! 要は混ざればいいんでしょっ!」
「それじゃ料理じゃないよぉ…」
 見かねた瑞佳が、留美の背後に立って後ろから手を添えた。
「あ…」
 かぁっ…
 なぜだか顔が赤くなった。
 瑞佳の手が、留美の手に重なってる。耳の後ろで、瑞佳の呼吸が…。
「わあああっ!」
 思わずボールを放り投げる。慌ててキャッチした瑞佳が、唖然とした顔でこちらを見る。
「ど、どうしたの?」
「え…。あ、あははははは。何でもないっ! ないわよっ!」
「そ、そう?」
 まだ心臓がばくばく言ってる。
「(な、何考えてるのよ、あたしっ…!)」
 顔を押さえる。本当に、何を考えてるんだろう。昨日から…。
 瑞佳の怪訝そうな視線を受けながら、必死で頭を冷やそうとするのだけど、顔の熱はちっとも引かないのだ。

 動揺しまくってのオムレツ作りは、焼く段階で案の定失敗した。
 瑞佳の必死のフォローも空しく、皿に載ったのはところどころ黒いべちゃっとした物体。
「あたしなんて…。あたしなんて…」
「ま、まあ最初から上手な人なんていないからっ。ねっ?」
 結局瑞佳に卵焼きとサラダを作ってもらって、留美は遅い朝食を、瑞佳は早めの昼食を一緒に食べる。
 ようやく落ち着いてきた。さっきのは、急だったからちょっとびっくりしただけだ。それだけ!
「瑞佳、午後は予定ある?」
 深呼吸して、食器を洗いながらそう尋ねた。
 一応、今日もクリスマスだ。できれば二人で過ごしたい。
「ううん、なんにもないよ」
「そ、それじゃ…。映画でも見に行く?」
「あっ、いいねぇ」
 話がまとまって、少し食休みしてから上着を着込んで表に出た。
 クリスマスに二人で映画…。
 もちろん変な意味なんてない。

 外は寒い。
 空は雲一つない快晴だ。放射冷却で熱が飛んでいく。こんな日くらい雪が降ればいいのに。
「留美、寒くない?」
「うん、平気」
 そう言いながら、きゅっとコートの前を合わせる。
「寒かったら上着貸してあげるね」
「んなことしたら瑞佳が風邪引くでしょっ」
「だ、大丈夫だよ。寒さには強いから」
「はぁっ…。ま、その時はあたしも上着貸してあげるわ」
「それじゃただの上着の交換だよっ」
 そんなことを話しながらぶらぶらと歩いていたのだが…。
 不意に瑞佳が前方を見つめて、その歩行を止めた。留美も気づいて、何事かと視線の先を見る。
 道路に人が立っていた。遠いが、目を細めて姿を確認する。
「(げっ)」
 折原浩平だった。
 こちらからすると左を向いて、立ってままじっとそちらを見ている。
 そこに何があるのか、ここからはよく見えないが、そんなのは別にどうでもいい。問題は映画館に行くにはこの道を通らねばならないということだ。
「あ、あのね瑞佳」
「‥‥‥」
「顔合わせたくないならあたしが追っ払ってくるわよっ」
「…ごめん、忘れ物しちゃった」
「は?」
「すぐ戻るから。ちょっとだけ待っててねっ!」
 言うやいなや、瑞佳は今来た方向へ走りだした。
 すぐにその姿は見えなくなる。何か言う暇もなかった。
「‥‥」
 もちろん忘れ物なんてしてないんだろう。
 留美に嘘をつけるほど、あいつの存在は瑞佳を動揺させるんだ…。
 めらめらと怒りがこみ上げてきて、留美は地響きを立てながらその元凶へ近づいていった。
「お〜り〜は〜らぁ〜〜!」
「うぉっ!? …なんだ七瀬か」
 ようやくこちらを向いた浩平が、いつものようにそうほざく。
「脅かすな、どこの猛獣かと思っただろ」
「誰が猛獣よっ!!」
 何か言ってやろうと口を開けるが、何と言ったらいいのだろう。
 考えている間に、浩平は空き地へと視線を戻す。
 留美も首を伸ばして覗き込むが、何のことはない、ただの草が生えた空き地だ。
「ここに何かあるの?」
「さあな…。こっちが聞きたいくらいだ」
「なによそれ」
「で、なんか用か?」
 そうだ、空き地なんてどうでもいい。こほんと咳払いすると、きっと浩平を睨み付ける。
「里村さんとパーティだったんだって?」
「まあな」
「さぞかし楽しいクリスマスでございましたんでしょうねぇ」
「なに怒ってんだよ…。そうでもないぞ、柚木と澪も押し掛けてきて大騒ぎだったしな」
「『柚木と澪』っ!?」
 押し掛けてきた、ということは自分の家でだ。
 里村茜と合わせて、女の子3人とクリスマスイブにどんちゃん騒ぎ!
「ふ、不潔っ…」
「なにか勘違いしてるだろ、お前…」
「あんたねぇっ! そこまで女の子に手を出す余裕があるなら、まず大事なことに気づきなさいよねっ!」
 まるで理解してない顔の浩平に、留美は苛々と怒鳴りつける。
「あ…あんたの一番近くに一番大事な人がいるでしょ。今まで近すぎたのかもしれないけど、それにまず気づくべきよっ!」
「なんじゃそりゃ」
「こ、この鈍感…。あーもうつまりっ!」
 本来なら好意なんて本人が直接伝えるものだし、第三者の留美がどうこうして良いものではないだろう。
 だがもう我慢の限界だ。彼女に心の中で謝りながら、留美はその名を口にした。
「瑞佳のことよっ!!」

 静寂は一瞬だけ。
 ぜえはあ、と息を切らせた留美に、浩平ののほほんとした声が響く。
「瑞佳って誰だっけ?」
「お願い…。黙って一発殴らせて…」
「ばか、冗談だっ。で、長森がどうかしたのか?」
 ぶつん
 何かが切れた音とともに、留美の背後から殺意の波動が立ち上る。
「そう、そうなのね。あんたにとって瑞佳はその程度ってわけね…。ふふ、ふふふ…」
「なんだよその北斗神拳の構えは…」
「はああ! これは瑞佳の分!」
「ぐふお!」
「これは繭の分!」
「あべし!」
「そしてこれは貴様に対する…このあたしの怒りだァーーッ!」
 轟音と共に三連撃が叩き込まれ…
 ボロ雑巾のように宙を舞った浩平の体は、頭から地面へ叩きつけられた。
「うわらば!」
「どう、少しは自分のしたことがわかったっ!」
「ぜ、ぜんぜんわからん…」
「くっ…。もういいっ、とにかく二度と瑞佳の前に顔を出さないで! 折原のアホーー!」
「結局なんだっつーねん!」
 抗議を背に受けながら、留美は唇を噛みしめ瑞佳が行った方へ走っていく。
 どうしてどうしてどうして!
「(どうしてあんな奴のことなんか好きなのよっ…!)」
 こんなに納得のいかないことはない。いくら恋は理屈じゃないからって、ものには限度があるだろう。あんな奴王子様じゃない。瑞佳を幸せにできるわけない。
 それでも、瑞佳が好きなのは折原浩平なのだ。
 お姫様の友達なんて、しょせん脇役に過ぎないのだ。どんなにお姫様を大事に思ったとしても――!


 幸いにも瑞佳と入れ違いになったりはせず、道端でばったりと出くわした。
「あ、ごめんね。待たせちゃっ…」
「行こっ、瑞佳」
「え? え?」
 瑞佳の右手をぎゅっと掴んで、大股で歩き出す。
 浩平がいたら回り道するつもりだったが、幸い先ほどの場所にその姿はなかった。
 後ろで聞こえる瑞佳のため息が、安堵とともに少し残念そうだったのは気のせいだろうか。
「ね、ねえ、留美なんか怒ってない?」
「瑞佳にじゃないわよ。折原のアホによっ!」
「あ…。浩平と話したんだ」
「まあね」
 さすがに少し歩調を緩める。瑞佳しかいない場所で怒っていても仕方ない。そう考え直して、明るく何か言おうとしたとき、遠慮がちに瑞佳が尋ねる。
「浩平…何か言ってたかな。里村さんのこととか…」
 ぴしり、と留美の心にひびが入った。
 足を止め、向き直る。そんなこと瑞佳が心配してどうするんだろう。
「折原から卒業するんでしょ?」
「あ、でもほらっ、浩平にはしっかりした彼女が必要だからっ。里村さんとうまくいってるかなとか、また変なこと言って怒らせてないかなとか…」
「…もういい」
 それからしばらく二人とも口をきかず、でも手は繋いだまま街へ向かって歩いた。


 商店街へ近づくにつれ、行き交う人も多くなる。クリスマスだというのにみな忙しそうだ。
 瑞佳の吐く息は今日も白い。寒々とした冬の中で、だんだん留美の頭も冷めてくる。
「(あ…あたしこそ何でこんなに瑞佳を心配してるのよ?)」
 他の女の子の恋愛に、留美が口出しする必要なんてない。その前に自分の心配をしろという感じだ。
 でも、瑞佳は特別だ…。
 左手に少し力を込めると、手袋越しに細い手の感触が伝わる。さっきの記憶が蘇ってくる。この手が留美の髪を梳かして、卵を泡立てる留美の手に重なって…。
「(って、落ち着け、あたしっ!)」
 ぶんぶん! と頭を振って、必死で笑顔を作って瑞佳に向けた。
「ご、ごめんね。ちょっと雰囲気悪くて」
 瑞佳もほっとしたように微笑む。
「う、ううん。そんなことないよっ」
「そうね、クリスマスなんだし、つまらないこと考えるのはなし!」
 空元気でもそう言って、ようやく瑞佳の手を離す。離したって、瑞佳が消えてしまうわけではない。
「そういえば、さっきのオムレツだけど…」
「あ、うん。やっぱり焼き方が…」
 良かった、普通でいられる。並んで歩きながら、二人で料理について検討などしているうちに、映画館の前まで来た。
「どれにする?」
 すっかり元の和やかな雰囲気で、看板を見上げながらどちらともなく言う。
「瑞佳が好きなのでいいわよ」
「え、いいよ。留美が好きなので」
「あ…あたしは瑞佳と見られるならなんでもいいわ」
「うーん、わたしも留美が見たいものならそれでいいよ」
「あんたねぇ、もうちょっと自己主張しなさいよっ」
 ついそんなことを言いつつ、びしりと指を突きつけてしまう。
「だいたい瑞佳は人が良すぎるの!」
「そ、そうかなぁ?」
「そうよっ。そりゃあ、そういうところもあ…憧れてるけどっ。少しくらいは我が儘言うべきよ」
「そうかな…」
 そうなのだ。それが心配なんだ。人がいいし、全然怒らないし、だから変な男に騙されるんだろう。
 これからだって、自分がついてないと心配で仕方ない。
 なんて考えながら瑞佳の顔を見ると、また…あの遠い目をしている。
「我が儘言ってもいいのかな」
「もちろんよ」
「浩平のこと…」
 留美の呼吸が止まった。
 人が行き交う映画館の前で、瑞佳は消えそうな声で…我が儘を口にした。
「諦めたりしないで、里村さんから取り返そうとしてもいいのかな…」


「それはやめとけっ!!」
 反射的にそう叫んでいた。
「‥‥‥」
「あ゛。…いや、あのっ」
 自分を見る瑞佳の瞳に、言葉に詰まる。思い切り矛盾したことを言ってる。
 でも、他のことなんて言えない。
 他のどんな願いでも協力する。瑞佳が幸せになるなら何でもする。
 でも浩平のことだけは、叶って欲しくない…。
 石のように固まった留美に、慌てて瑞佳は手を振った。
「あはは、じ、冗談だよぉっ」
「瑞佳…」
「あ、ねえねえ。それじゃこれにしよっか?」
 そう言って瑞佳は看板のひとつを指さすが、もう映画なんてどうでもよくなっていた。
「うん…それでいいわ」
 内容も確認せず、自動的に答える。
「ちょっと時間あるね。中で待ってよ?」
「…うん」
 チケットを買い、暖房の効いた映画館内で並んでソファーに座る。
 自分がつくづく嫌になる。
 さっきから、何を無責任なことばかり言ってたんだろう。他人事だと思って。
 何ができるわけでもないくせに。何ができるわけでも…。
「…ねえ、瑞佳」
「うん?」
「折原のこと…本当にそうする?」
「‥‥‥」
 そんなことして欲しくない。でも…
 それは自分の身勝手だ。瑞佳のことを大事に思うなら、こうすべきだろう…。”友達”なんだから。
「本当にそのつもりなら、協力する…。乙女には恋する権利があるわよ」
 瑞佳はしばらく答えなかった。
 延々と続いた時間の後で、ぽつりと呟く声が聞こえた。
「…ううん、やめとく」
 ほっとしてしまう自分を追い払って、さらに尋ねる。
「ほ、本当にいいの? また無理してない?」
「わたしって、そんなに無理してるように見えるかな」
 困ったように瑞佳は笑う。それを見るだけで…心臓が締め付けられる。
「本当にね、浩平と里村さんの間に割り込みたいかって考えたら、そんなことしたくないって思うよ。
 人の幸せを壊そうとするほど、極悪人じゃないもん」
「そ、そりゃ偉いけどっ。今時流行んないわよ、自己犠牲なんてっ…。
 瑞佳一人が泣くことになるなんて…おかしいわよ」
「昨日も言ったけど、留美、わたしのこと買いかぶりすぎだよ」
 まただ。寂しそうな笑顔。
「わたしが何かしたって、浩平が応えてくれなかったら傷つくだけだし。
 万一上手くいったって、ずっと後味の悪さが残るもん。
 …そんなこと考えて逃げてるだけ」
「あ、あたしはそうは思わないっ!
 瑞佳がどう言ったって、周りの幸せのこと考えてるのには変わりないじゃないっ…」
「ん…ありがと」
 扉の向こうからざわめきが聞こえ、ぞろぞろと人が出てくる。
「あ、終わったみたい」
 話を打ち切るように、瑞佳は立ち上がって留美を促す。
「ほら、行こっ」
「う…うん」
 その後についていきながら、留美の思考はぐるぐると回る。
 どちらが正しいのだろう。
 クリスマスの日に、神様は瑞佳を称えるに違いない。己の欲望よりも、他人の幸せを祈れと。
 でも、あの先輩ならなんて言うだろう。
『そして、七瀬。もう面なんて被るな。違う人生を生きろ。髪を伸ばして、リボンをつけろ』
『そうすれば違う幸せがおまえを待ってるよ』
 その言葉を信じて、自分の幸せのために頑張ってきたんだ。それが間違いとは思わない。
 瑞佳が間違ってるとも思わない。それじゃ、これからはどうすればいい?
 自分の幸せと、瑞佳の幸せと、どっちを優先させて、どう行動しよう?

 ブザーが鳴った。留美は必死で頭の中身を追い払った。
 今は余計な考えはやめて、映画に集中することにしよう。せっかくチケット代を払ったんだから。
 …そう言い聞かせて。


 瑞佳が選んだ映画は、少年と老人の心温まる感動ストーリーだった。
 そうなると留美は根が単純なものだから、30分もすると目に涙が滲んでくる。
 スクリーンの中では画家志望の少年に絵の勉強をさせるため、老人が思い出の名画を売り払っていた。
「(ううっ、いいお話だわっ)」
 ずずっと鼻をすすって、ポケットから引っぱり出したハンカチを目に当てる。やはりクリスマスにはこういう物語を味わうべきだ。
「(あ、瑞佳も使うかしら…)」
 もしハンカチを持ってなければ貸してあげようと思って、隣に顔を向けた。
 そうして…そのまま動けなくなった。

 瑞佳の頬を涙が伝ってる。
 その横顔に、釘付けになる。綺麗な涙、綺麗な顔、綺麗な心…。
 乙女って、こういう子のことをいうんだろう…。
「…?」
 視線を感じた瑞佳がこちらを向き、目が合う。
 心臓が止まりかけ、大慌てでハンカチを振り回した。
「あ、あの、は、ハンカチ使うかなってっ!」
「あ…。うん、ありがと」
 瑞佳はそれを受け取ると、涙を拭いてにこっと笑った。
 ばっ
 顔を見られないように、反射的に椅子に身を沈め下を向く。
「(駄目だ、あたし…)」
 顔全体が熱い。抑えても抑えても。
 駄目だ、もう誤魔化せない。
 隣の少女と目を合わせれない。こんなことになるなんて。でも、もう抑えきれない。
 響き続ける鼓動とともに、心の中で、留美はとうとうそれを言った。

「(瑞佳が好き…)」



「いいお話だったねぇ」
「そ、そうねっ…」
 話の中身なんてすっかり抜け落ちていた。
 少しずつ、少しずつ積もっていた想いは、もう戻れないところまで来ていた。
 どうしよう、女の子同士なのに。
 何も知らない瑞佳は、腕時計を見てから留美に尋ねる。
「2時半かぁ。これからどうしよっか?」
「そ、そうねっ。あああたしは別に予定ないけどっ」
「…なんか声が上ずってない?」
「き、気のせいよっ!」
「でも、顔が赤いみたいだけど…。風邪引いちゃった?」
 そう言って額に手を伸ばしてくる。
「どわあああああ!」
 3メートルほど後ずさり、必死で呼吸を整える。そのままの姿勢できょとんとする瑞佳。
「る、留美?」
「あ…ほ、ほらっ。さっきの映画で泣きすぎて顔が赤いのよっ」
「あ、そうなんだぁ」
「そ、それより瑞佳はどこか行きたいとこある?」
 とにかく、知られちゃいけない。
 瑞佳を想って胸が苦しいなんて、間違っても気づかれちゃいけない。普通に振る舞わなくちゃ。
 落ち着け落ち着け。さっきまでは普通に接してたんだから。
「えっと…。あんまり面白くないところだけど、いいかな?」
「いいわよ、瑞佳が一緒なら」
 言ってからまた顔が赤くなる。違う、変な意味じゃない。
 歩き出す瑞佳の隣についていく。どうせ叶いっこない恋なんだから。
 せめて少しでも、彼女の気が晴れるような、そんなクリスマスにしよう。
 ”友達”なんて、その程度のことしかできないんだから…。


 元来た道を、瑞佳の家の方へそのまま戻る。
 たまにぽつぽつと言葉を交わすだけだったけど、重い雰囲気じゃない。むしろ静かで、穏やかな空気に包まれていた。瑞佳も…たぶんそうだと思う。
 半ばまで来たところで、瑞佳は左へ曲がる道を指し示した。
「あ、こっちね」
 その先には大きな階段があり、高台へと続いている。
 登り終わるとそこは公園だった。
「へぇ…。こんなところがあったのね」
「うん。いつもなら少しは人がいるんだけど、今日はみんなどこかに出かけてるのかな」
 それでもデートスポットとして機能しそうなものだが、瑞佳が言うには周りに店とかが全然ないから、ということだ。つまりは留美と瑞佳の貸し切りだった。
「なんにもないけどね。そこに座ろっか?」
「そ、そうね」
 冷たいベンチに並んで腰を下ろす。誰もいない公園で、こうしていると、世界が二人きりになったようだ。
 真冬の空の下で、再度彼女の横顔を見つめる。
「(やっぱ可愛いわ、瑞佳…)」
 隣でそんなことを思われてるとは知る由もなく、瑞佳は昨日のように息を吐いた。
 留美もそれに倣う。二つの白い霧が、競うように消えていく。
 昨日一緒だった繭は、今ごろ友達と仲良く遊んでいるだろう。
 留美も、そんな友達であるべきだったのに…。
「…楽しいクリスマスだったね」
 それでも瑞佳は、そう言ってくれるのだ。
「そ、そう?」
「うん…。ありがとう」
「あ、あたしは何もしてないわよっ」
 瑞佳はいつものように微笑んで、公園の風景へ顔を向ける。
「ほんとはね、少し落ち込んでた」
 その声はもう、穏やかすぎるほど穏やかだった。
「でも、大丈夫だと思う。もうちょっと時間はかかるかもしれないけど…。
 来年のクリスマスには、たぶん思い出として話してるよ。去年は色々あったねって」
「そっか…」
 永遠に続くものはなく、時間がすべて変えていく。一年前には、今日のこの日なんて想像できなかったように。
 自分のこの気持ちはどうなんだろう。
 あの頃は若かったねって、そう言えてしまうものなんだろうか、それとも…。
「あたしは…来年のクリスマスも瑞佳と過ごせたら、って思うわ」
「…うん」
 そう言って、はたと気づいたような瑞佳が心配そうな視線を向ける。
「あ、でも留美は好きな男の子と過ごしたかったんじゃない?」
「う…」
 しまった、なんて答えよう。
 数日前まではそう思っていたのだ。こんな風になるなんて思わなかった。
「ま、まあねっ」
「乙女としては、どんなクリスマスが理想だった?」
「そ、そりゃあ…あれよ…舞踏会」
「舞踏会かぁ…」
「そ、好きな人とロマンチックにダンス…。乙女の憧れよ」
 お城に住んでいるのは王子様じゃなくて、優しいお姫様だったけど。
 それは心の中に閉まっておこう。そんな舞踏会は開かれるはずもないから。
 ところが瑞佳は立ち上がると…
 手袋を外して、留美の前へすっと手を差し出したのだ。
「お姫様、一緒に踊りませんか?」

 しばらくぽかんとしていた留美は、素っ頓狂な声を上げた。
「えええええっ!?」
「あ…。お、王子様じゃないけど、ダメかなっ」
「だ、ダメじゃないけどっ…」
 この子は本当に、どうしてこういうことをするんだろう!
 こんな時に願いを叶えようとするなんて…だから好きになってしまったんだ。
「お、お姫様っていったら瑞佳の方じゃない…」
 今の顔を見せられず、俯いて言う。
「わ、わたしっ? そんなっ、わたしなんてお姫様の従者がいいとこだよっ」
「あーっもう、相変わらずねっ!」
 もう拒めなかった。留美も手袋を外して、瑞佳の手を取る。冷たい。寒さから守るように、きゅっと握りしめる。
「瑞佳は踊り方ってわかる?」
「こ、こうかなっ」
 瑞佳にリードされて、ゆっくりとダンスが始まる。お姫様二人の舞踏会。
 ほぼ同じ身長の二人が、人気のない公園の中でステップを踏む。前に進んだり、後ろに下がったり…そのたびに心臓の鼓動が早まる。
「(ど、どうしよっ…)」
 特別な意味なんてない。ただ瑞佳が気を遣って、いや、自身が気を遣われていると思って、お返しにこうしてくれただけ。
 でも、身体が触れ合ってる…。
 華奢な少女が、留美の腕の中にいる。顔が目の前にある。もう少し近づけば、唇が…重なる距離に。
 心臓の加速が止まらない。どうしよう、気づかれる…。
「あっ…」
 急に動きがぎこちなくなる留美に、タイミングを崩された瑞佳の足がもつれる。
 ぱすっ…
 留美の腕の中に、抱き留められるように瑞佳の身体が倒れた。
 頭の中が真っ白になった。

「…留美?」
 心配そうな瑞佳の声。
 さっきから、ずっとこうして抱きしめてる。
 とくん、とくん…
 心臓は、嘘をつけないほどに早鐘を打つ。そのまま瑞佳の身体に伝わって…もう、全部気づかれた。
 胸が苦しい。嫌だ、離したくない。
 泣きそうになりながら、なおもぎゅっと抱きしめる。
「ね、ねえ留美、どうしたの?」
 瑞佳の声に狼狽の色が濃くなる。ようやく我に返って、身体を離して…
「あ、あたしっ…」
 言うな。
 言ったら全部壊れる。せっかく友達になれたのに。
 親友として、一番じゃなくても近くにいられるのに…!

「あたし、瑞佳が好き…っ!」


 吐き出した言葉は、もう戻らない。
 瑞佳はしばらく呆然としてから、赤くなって下を向いた。
「と、友達として、だよね…?」
「それならこんなに悩まないわよ、あほぉっ!」
 何してるんだろう。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 どうしていいかわからない。でも好き。瑞佳が好き。無理だってわかってるのに。
「ご、ごめんなさい…」
 瑞佳はそう答え、留美は気が抜けたように、地面へとへたり込んだ。服が汚れるのも構わずに。
「…謝るのは、あたしの方よ…」
「な、なんでっ? せっかく好きって言ってくれたのに」
「同性から告白されて嬉しいやつがどこにいるのよ!? んっとに、どうしてそこまでお人好しなのよっ…」
 でも、そんな瑞佳こそが幸せになるべきだと思ってた。
 クリスマスに奇跡が起こるなら、瑞佳にこそ起こるのだと思ってた、なのに…。
 彼女は困ったように手を差し出す。それにつかまって立ち上がると、服の埃を払い、視線を逸らしたまま留美は言った。
「…ねえ、あたしどうしたらいいかな」
「え?」
「瑞佳が嫌なら好きになるのやめる。なんとかして、普通の友達に戻れるよう努力するわよ。
 顔も見たくなければ、もう会わない…」
「ま、待ってよっ。なんでっ? せっかく仲良くなれたんだよっ」
 瑞佳ならそう言うだろうと思った。それがかえって苦しい。
 苦しさに目を合わせられない。二人とも。
「わ、わたしこそどうしたらいいかな…」
「どうって…」
「こ、これから浩平のこと吹っ切ろうってところだから、他の人のことは考えられなくてっ…。
 気持ちは嬉しいけど、応えられない。ごめん…」
 ずきん、と胸が痛む。瑞佳がそんな時なのに、困らせて、友達失格…。
 けれど瑞佳は、留美が消えるのを怖がるように、必死で言葉を続ける。
「で、でもね、留美がいてくれたら楽しいし、前向きになれるような気がしてた。
 さっきも、『初詣一緒に行こう』って、言おうと思ってたし…」
 言葉を切ってから、自分の気持ちに向き合うように呼吸を置いて…
「…今も思ってる」

 泣きそうになった。
 もう駄目だと思ってたのに。どうしてそんなに優しいんだろう。
 そして自分は身勝手にも、それに飛びついてしまうのだ。
「ほ、ほんとにっ!?」
「うん…」
「あんたまた無理してるんじゃないでしょうねっ? あたしに気とか遣って…」
「そうじゃないよっ!」
「じゃあ、信じちゃうからね!」
「いいよっ!」
「初詣に一緒に行きたいし、バレンタインも、お花見も、夏休みも、瑞佳と一緒がいいっ!」
「わ、わたしもっ!」
 冬なのに、体中が熱い。
 留美は深呼吸して、瑞佳も息を吐いて、少し冷ましてから、彼女が済まなそうに言う。
「で…でも留美と恋人同士にはなれないかも…」
「んなもん最初から期待してないわよっ! そ、そりゃなれたらいいとは思うけど、女の子同士だし、あたしは…」
 叶わない恋でも。
 それは辛くない。いつものように、瑞佳が穏やかに笑ってくれるなら…。
「あたしは、片想いでもいいから…瑞佳と一緒にいたい」

 高台の公園を北風が吹き抜けた。
 一瞬身を縮めてから、勇気を出して留美は尋ねる。
「い、いいかな…?」
「わ、わたしはいいよっ」
「あたしもいいわよっ」
「じゃ、じゃあ…」
 お互いの瞳に相手を映して…。
 瑞佳はもう一度、そっと手を差し出した。
「じゃあ…握手」
 半ば夢のように、留美はその手を握る。感触が伝わってくる。
 瑞佳がいる。もう手の届かない場所じゃない…。
 それを知った瞬間、ぽろぽろと、何かが頬を落ちていく。
「わーっ、なんで泣くんだよっ!」
「ふぇっ…。だ、だってぇっ…」
 お城には二人のお姫様。おとぎ話のようにはいかなかったけど。
 聖なる日に、小さな贈り物は届いたのだ…。






 家族全員が居間でテレビに釘付けなのを確認し、階段に腰掛け、音を立てないように電話機を引き寄せる。
 あれから瑞佳を家まで送って、そこでもう一度握手して、別れた。
 帰宅してからいろいろ考えたけど…とりあえず、もう一人の登場人物に連絡しておくことにする。
「あ、もしもし折原? あたし、七瀬」
 とたんに不満げな文句が届く。
『お前な、オレは今日一日後遺症に苦しんだぞ…』
「あ、あははっ、ごめんねっ。まあ、あんたも悪いのよ」
『だからオレが何をしたんだっ!?』
「うるさいわねっ! こっちこそ、いつぞや肘鉄入れられたことは忘れてないわよっ!?」
『まあ、過ぎたことをどうこう言っても仕方ないな』
「(こ、こいつはっ…)」
 と、水掛け論を繰り広げても仕方ないので、こほんと咳払いして本題に入る。
「あのね…。あんた、里村さんが好きなの?」
『な、なんだいきなり』
 明らかにうろたえた声に、思わずほっと安心した。
「ま、聞かなくてもわかったわ。里村さんと上手くいきそうなのね?」
『…いや、駄目そうだ』
「はっ?」
『あいつは、他に好きな奴がいるらしいからな…』
 意外な展開に、言葉に詰まる。そっちもそんな状況だなんて予想もしてなかった。
「じゃ、じゃあ…。諦めるの」
『いや』
「相手に好きな人がいるのに?」
『ああ、オレはしつこいんだ』
「…そっか」
 受話器を持ち替える。しつこさなら負けてない。
「あたしもそう」
『なんだ、誰か好きなやつでもいるのか?』
「まあね。じゃあとにかく、瑞佳のことは何とも思ってないのね?」
『は? なんでそこに長森が出てくるんだ』
「いーからっ! 二股なんて許さないわよっ!」
『ああ、長森はただの幼なじみだ』
「じゃあ…」
 すっと息を吸って、受話器へ声を叩きつける。
「じゃあ、瑞佳はあたしがもらうっ!」

 わずかな静寂の後、浩平の返事が返ってきた。
『お前やっぱり男だったのか…』
「誰がじゃぁぁぁっ! ボケぇぇぇっ!!」
『いや、いいんだ。うんうん、何か深い事情があるんだろう』
「ぐっ…。もういいっ! とにかく、瑞佳を泣かすやつはあたしが許さないからっ!」
『おい、もしかして本気なのか?』
「冗談でこんなこと言えるか、あほっ!」
『そうか…』
 少し無言が続いてから、どこか静かな声が聞こえた。
『オレも長森は心配だったからな。七瀬がついているなら安心だよ』
「え…。ほ、本当?」
『ああ、お前になら長森を任せられる』
「折原…」
『なにしろお前は漢の中の漢だからな』
「死ねっ! どアホっっ!!」
 受話器を叩きつけようとしたところへ、最後に彼の言葉が届く。
『…頑張れよ』
「…あんたもね」
 それが聞こえたかどうかはわからなかったけど…
 受話器を置いて、ふぅと息をつく。とりあえず、これで後は二人の物語だ。
 瑞佳と留美と…少しでも幸せな話になれるように、頑張ろう。
「(瑞佳にも電話しようかな…)」
 階段に座り、頬杖を突きながら考えていると、その前に電話が鳴る。
 浩平の言い残しかと受話器を取った。
「はい、七瀬です」
『あ…。もしもし、留美?』
「あ、み、瑞佳っ!?」
 受話器を取り落としそうになって、慌てて持ち直す。
『ごめんね、こんな時間に。どうしてるかなって…』
「い、いいわよそんなの。瑞佳の電話ならいつだって歓迎よっ」
 嬉しい。声を聞くだけでもこんなに心が躍る。
 やっぱり好きなんだって、自覚する…。
『あ、それでね。さっきは初詣一緒にって言ったけど…』
「な、なにっ? 都合悪くなった?」
『ううん、そうじゃなくて、来年まで待たなくても…明日も一緒にいられないかな』
 遠慮がちにそう言う。答えなんて決まってる。
「い、いいのっ?」
『うん、留美さえよければ』
「あたしはいいに決まってるでしょっ。毎日だって会いたいくらいよ」
『年末で忙しくない?』
「うん、平気。大掃除はまだ先だし。また料理教えてくれると嬉しいわ」
『う、うんっ』
 必要とされることが嬉しそうに。
 でも、想いには応えられないことが申し訳なさそうに、瑞佳は言葉を続ける。
『ごめん…わたし留美に甘えちゃってるね』
「…いいのよ」
 ぽつりとそう言ってから、留美は声を張り上げた。
「瑞佳は周りを甘えさせてばかりなんだから、少しは甘えなさいよねっ」
『…うん』
 少しの間、二人とも無言になる。
 暖かなものを感じながら…元気そうな瑞佳の声。
『わかったよっ。それじゃ、明日も起こしに行くね』
「うん、待ってる」
『じゃあ、おやすみなさい』
「おやすみ。風邪引かないようにね」
『うん…。ねえ、留美』
「うん?」
『ありがと…。留美がいてくれてよかった』

 電話が切れた後も、瑞佳の代わりのように、しばらく受話器を抱きしめていた。
 …好きになってよかった。
 心からそう思いながら。




 夜も更け、そろそろ寝ようとして、ふと思い立って窓を開ける。
 パジャマ姿に外の空気は辛かったが、我慢して、空を見上げた。
 無限の夜にいくつもの星。雪よりも、この方がいいかもしれない。
 もしかしたら瑞佳も見ているかもしれない…。

(汝の魂 浄かりせば
 み恵みその手に 降り積もらん…)

 そんな歌詞が頭に流れて、そしてまた瑞佳を想う。
 今は素直に祈ることができる。
 あなたが、幸せでありますように、と――。


 そしてクリスマスは幕を降ろす。
 新しい一日のために、留美はベッドに潜り込む。明日はまた瑞佳に会えるのだ。
 目を閉じると、彼女の穏やかな笑顔が浮かんで…
 初めて好きになった女の子に、留美は心の中でおやすみを言った。







<END>





後書き
感想を書く
ガテラー図書館へ
有界領域へ
トップページへ