【注意】
このSSはTacticsの「ONE〜輝く季節へ〜」を元にした2次創作です。
茜シナリオ、みさきシナリオのネタバレを含みます。


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「卒業おめでとう」

 友人たちと言葉を交わしながら、深山雪見は最後の数分を校門へと歩いていく。進路は決まった、部活動もやるだけやった。置き忘れたものは何もなく、卒業証書の筒は実感を伴って片手に収まっている。

(あれ…?)

 ただつまらない事だが、何か妙な空白を感じる。隣にあったはずの暖かい存在が消えてしまったような、何か…
「?」
 首をひねっても正体は分からずじまいだった。深山の身体は校門を横切り、それと同時にその小さな空白は――消えた。






モラトリアムの円環







「はあぅっ…。何でD判定かなぁっ…」
 返ってきた模試の結果をくしゃっと握りつぶす。『真の乙女としてはやっぱりそれなりの大学でないとダメね』などといつもの見栄で成績不相応の所を志望しているのだが、この分では願書提出直前にランクを下げるというお決まりのパターンに行き当たりそうだ。
「大丈夫だよ。まだ時間あるもん。なんとかなるよ」
「そりゃ瑞佳は頭いいから安心だろうけどっ…」
「ええっ!? わ、わたしの頭なんて全然良くないよ〜」
「はぁっ…。もういい、余計みじめになってきたわ…」
 七瀬留美がこの学校に転校してきてから約1年。目の前の長森瑞佳とは2年生の頃一緒に下級生の面倒を見たりと色々あって、いつの間にやら一番の親友になった。成績には多少差があり、残念ながら同じ大学には行けそうにもないが。
 3年生の11月ともなると皆余裕などなく、授業が終わるとさっさと塾なり図書館なりへと出かけていく。急速に人の減っていく教室で、疲れた受験生の七瀬も鞄に参考書を詰めて帰り支度を始めた。
「はーあっ、早いところ優雅なキャンパスライフを楽しみたいわよね」
「うん…。そうだね」
 なにやら気のない返事に、首を伸ばして瑞佳の顔を覗き込む。
「どしたの?」
「え? なに?」
「なんか元気ないわよ。どうかしたの?」
「そ、そうかなっ」
 無理に笑顔を作る瑞佳。何か辛いことがあるといつもこんな調子だ。
「ちょっと猫が死んじゃって、落ち込んでるのかな」
「え…。そ、そうなんだ」
「あっ、でも大丈夫だよ。これが初めてじゃないし、何でもないよ」
 それは8匹も飼っていれば死に目に会うことも多かろうが。
 たとえ何匹目でも、生き物が死ねば深く深く傷つく少女だ、瑞佳は。そのあたり七瀬が密かに乙女の手本としているところでもある。
「そだっ、ちょっと部活付き合わない?」
「え?」
「茶道部っ。最近行ってないけど、お茶菓子ぐらいはあるわよ。気分転換して受験に備えましょ」
 一瞬きょとんとした瑞佳の顔が、すぐに穏やかな笑顔に変わる。
「…うんっ」
 こういうとき、お互いに友達で良かったと思うのだ。
「ね、瑞佳。ちゃんと合格して、一緒に卒業しようね」
「うん、もちろんだよ」

 カラカラ…と教室の扉が滑る。
「でも七瀬さん茶道部続けてたんだ。暴れて出入り禁止になったんだと思ってた」
「誰がよっ!!」
「だ、だって浩平がそう言ってたんだよっ…」
「やっぱり殺すわあの男…」
「あああっ、あのねっ、お手柔らかにねっ」
 引きつった表情の瑞佳と一緒に閑散とした廊下へと出る。茶道部の部室は棟が違うので少し遠い。顎に親指を当て、ぶつぶつ言いながら先に立って歩き出した。
「ったく、クラスが別れてせいせいしたと思えば瑞佳に変なこと吹き込んでるし…。あいつさえいなければ今ごろあたしの乙女の座は確立されてたのよ」
「ごめんね。でも浩平も悪気はないんだよ」
「はぁっ…。瑞佳は甘い、甘すぎるわよっ」
 あはは、と困ったように笑う瑞佳。ため息をついて肩を落とす七瀬――何度も繰り返してきた、日常の光景。
 夕日。赤い世界が窓を通し、目に映るものを一色に染める。
 でも夕焼けなんてすぐに夜に取って代わられるだけのものだ…

「あれ?」

 最初に気づいたのは瑞佳だった。
「どうかした?」
「ここに扉なんてあったかな」
 指さした先に、それ自体は何の変哲もない教室の扉がある。
 でも確かにここは昨日まで壁だったと思ったが。隣は階段の空間。反対側の隣は3組の教室。部屋がひとつあるにしては妙に狭く、といってトイレの表札もない。
「えと…こっちは1組から3組だよね」
「向こうは4組から9組でしょ」
「じゃあ何かな? この扉」
「ちょっ…やだっ、学校の怪談っ!?」
 非現実的な光景に思わず後ずさる…その目の前で扉を開ける音が響く。
「み、みみ瑞佳なにやってんのよっ!」
「うーん、気になるから入ってみるよ。怖かったらここで待っててよ」
「や、やあねっ。そんな事ないわよっ。あ、でも怖がりっていうのも乙女っぽいかも…」
 とか言っている間に入り口は開いてしまった。
「やっぱり教室みたいだよ」
「おお置いてかないでえっ!」
 意外と怖いもの知らずの瑞佳がずかずかと入ってしまったので渋々後に従う。敷居を跨いだ瞬間妙な違和感を感じたが、すぐに消えた。
 何の変哲もない教室。夕方なので薄暗いが、整然と机が並んでいる。
 小中高と見続けてきた『教室』の風景。特におかしな所はない…ただ静かな、死んだように静かな空間だ。
 かたん
 静寂を破るように椅子の音が響く。
「来てくれたんだね。嬉しいよ」
 窓のそばに座っていた少女がゆっくりと立ち上がる…
「ようこそ、永遠の教室へ」

 綺麗な女の子だった。
 肩にかかる黒髪が少し揺れる。綺麗な、ただ何か停止した人形のような感じを与える女の子だ。
「あっ…。ご、ごめんなさい。クラス間違えました」
 初めて見る顔の生徒だったのでとりあえず瑞佳が謝る。
「間違ってないよ。ここは誰の教室でもあるから」
 女生徒はそんな奇妙なことを口にした。にこにこしながらこちらを見ている。
 なんだかとっても怪しい。
「帰ろ瑞佳…。なんか変な人だし」
 袖を引っ張りながら小声で耳打ちするが、相手は地獄耳だったようだ。
「う〜っ、変な人はひどいよ〜」
「そうだよ七瀬さん、失礼だよ」
「あんたねぇっ…この状況に何か疑問を覚えないの?」
 穏便な撤退は無理と悟り、七瀬は開き直ると目の前の女生徒を詰問した。
「どこよ、ここはっ」
「永遠の教室だよ」
 事もなげにそう返される。
「ううん、永遠の学校、永遠の世界かな。何となく感じないかな?」
 この空間の、妙な静止感のことだろうか。瑞佳と顔を見合わせる。
 2人の不安そっちのけで女生徒はにこやかに自己紹介を始める。
「私は川名みさき。みさきって呼んでね」
「あ、3年3組の長森瑞佳です」
「同じく七瀬留美よ」
「そうなんだ、私も去年は3年3組だったよ」
 すると卒業生か。それが何でまた制服を着て教室に座っているのだろう。
「まさか卒業前に死んで成仏できない学校霊とか…」
「幽霊じゃないよ〜」
「本人が言ったって信用できるかっ」
「落ち着いてよ七瀬さん。この人幽霊じゃないよ、足があるもん」
 この落ち着きぶりは賞賛に値する…がそろそろ七瀬の方が限界だった。存在しないはずの教室に訳の分からない女の子と、こういうのは少し苦手なのだ。
「今日はもう帰るといいよ」
 察したのかどうだか、みさきがとりあず場を打ち切る。
「永遠を願ってるなら、たぶんまた会えると思うからね」
「あ…そう。それじゃ」
「さ、さようならっ」

 狐につままれたような気分で外に出る。扉を閉めて、振り返ると――
 そこは壁しかなかった。
「瑞佳…。帰りに神社寄ってこ」
「幽霊じゃないと思うよ…」

 その日はそれだけの話だった。


 昨日も今日も、退屈な授業に苦しい苦しい受験勉強。乙女のための試練だとでも思わないとやってられない。
「(永遠の教室か…)」
 鉛筆をくわえながらしばし思い出す。アレは一体何だったのだろうか。
 そうこうしている間に授業も終わったので、少し瑞佳と話してみようと席を立った。
 そこへあっさりと邪魔が入る。
「よう、七瀬」
「ぐあっ…」
「潰れたヒキガエルみたいな反応だな」
「いきなり出てきてそれかっ、このくされ男っ!」
「おー、相変わらずの七瀬だ」
「くっ…」
 押しのけて瑞佳の所へ行こうとしたが、既に姿はなかった。目の前の疫病神に抗議する気力もなく腰を落とす。
「はぁっ…。なんの用よ」
「いや、たまにはおまえの顔でも見て気合いを入れようと思って」
「なんで気合いが入るのよっ、あたしの顔でっ!」
「うむ、凄い気合いだ。さすが七瀬だぞぉ」
 右腕に力がこもる…。が乙女の制動心がかろうじてブレーキをかけ、瑞佳の代用として聞いてみた。
「あのね折原…。永遠の世界って知ってる?」
 自分が切れる前に話題を変えただけのつもりだった。
 が、返ってきたのは意外な反応。
「…なんでそんな事聞くんだ?」
「え?」
 心持ち細められた真剣な目。初めて見る浩平の顔だ。
「いや、えっとね。ちょっとそんな事言ってた人がいたもんだからっ…」
「そうか…」
 少し考えこんでいた風だったが、すぐに顔を上げて
「あのな七瀬、この世界もそんなに悪くはないんじゃないかと思うぞ」
「はあ?」
「おっと俺には大事な用があったんだ。じゃあな七瀬」
「あ、うん…」
 そそくさと姿を消す浩平をうさんくさそうに見送る。
「ま、あいつの事だからロクでもない事よね」
 妙に引っかかりながらもそれで済ませてしまったのは、七瀬が悪いというより浩平の普段の行動が悪かったのだろう。


 放課後。受験生たちの教室は、人が減っていくに従って閑散としていく。
 帰れば勉強が待っている。故意に帰り支度を遅らせながら、七瀬は横目で瑞佳の様子を伺った。
 案の定廊下に出た瑞佳は玄関と逆の方角へ行こうとする。
「瑞佳っ」
「わあっ、な、七瀬さんっ」
「行くなら声かけなさいよ」
「あ、うん。でも七瀬さんあんまり好きそうじゃなかったから」
「そうだけどっ、あんた一人をあんな怪しいところへ行かせられないでしょっ」
 言い訳じみているが、でも本当の理由だ…たぶん。
 にこにこ笑いながらお礼を言う瑞佳と、あるかないかも分からない教室へと歩いていった。

 昨日と同じようにみさきは窓際に腰かけていた。
 昨日と同じような夕暮れの教室。あれから何の時も動いていないかのような同じ風景。
 みさきがゆっくりとこちらを向き、同時にもう一人先客がいることに気づく。
「やあ、君たちも永遠を願う者かい」
 男子だ。窓を背にしているのでよく見えないが、なかなか王子様っぽい容姿をしている。といって第一声がこれではロマンスの起こりようもないが。
「何なのよあんたら…」
「えーと、お邪魔してもいいですか?」
「あ、瑞佳ちゃんだね」
 今ごろ気づいたようにみさきが言った。
「あたしもいるわよっ」
「留美ちゃんも来てくれたんだね。ゆっくりしていくといいよ」
 音もなく立ち上がる。黒い糸のような髪が、幾本か宙に揺れる。
「時間は無限にあるから」
 また…。
 そんなものあるわけないだろうに。
 何か言ってやろうとしたが、遮るように少年の方が手を上げた。
「君はこの教室に抵抗を感じているようだね」
「あたし? まあうさんくさいとは思ってるわよ」
「七瀬さん七瀬さんっ」
「留美ちゃんひどいよ〜」
 抗議する2人を無視して、ほとんど決闘のように少年と対峙する。
「僕は氷上シュン」
「七瀬留美っ」
「永遠を否定しながらこの教室に来ることを選ぶのかい。それは心の奥底では永遠を望んでいるんじゃないのかな」
「んなっ」
 氷上、と名乗る男子生徒は、無色の微笑を浮かべながらぺらぺらと喋った。
「僕らにとって永遠と有限は等価値なんだ。どちらが正しいとか間違っているとかいうことじゃない。要は何処を選ぶかというだけのことだよ」
「わっ…わかりやすく言ってよっ」
 やれやれ、とばかりに肩をすくめる氷上。七瀬の鉄拳が発動しかける…がやっぱり乙女の自制心が何とか押さえつける。
 取りなすようにみさきが間に割って入った。
「あ、シュン君。私おなか空いちゃったよ。学食付き合ってよ」
「僕は小食なんだけどね…。それじゃ、2人とも」
「え。あ、うん」
 カラカラ…
 留美たちが入ってきたのとは反対側の扉がゆっくりと開き、閉じる。しんと静まった教室の中で2人だけが取り残された…。
「はぁっ…。なんか知らないけど腹立つ連中ね」
「ねえ、七瀬さん」
「何よ」
「せっかくだからお喋りしていこうよ」
「あのね…」
 頭痛がする。
「んなことやってる暇ないでしょっ! センター試験まであとふた月しかないのよふた月しかっ」
「お喋り…しようよ」
「だからっ…」
「前みたいに…話したり、ふざけ合ったり、そういう事ってもうできないの?」
 それは…
 確かに、あの頃は楽しい毎日だったが。
「はぁっ…今日だけよ」
「う、うんっ」
 ぱあっ、と瑞佳に笑顔が広がり、いそいそと座席に着く。
「やっぱり七瀬さんて優しいね。乙女の鑑だよ」
「え、そ、そうっ? まあ友達思いなのも乙女の成せる技かなっ」
 調子に乗った七瀬は延々とくだらないお喋りを始めた。2人きりの教室で、我に返ったときは既に2時間あまり過ぎていた。
「しまったぁっ! 今日中に英単語100個覚えるはずだったのにっ!」
「そりゃ計画が無茶だよっ」
「と、とにかく帰ろっ!」
 鞄を掴んで廊下に飛び出す。一瞬後、思わず目を疑う。
 入ったときと同じ、暮れかけた空。腕時計を見ると1分も経ってない。
 そして振り返れば、ただの壁。
「…本当に、永遠の教室なのかな」
 ぽつりと瑞佳がそう言った。本当なら、もう時間に追われなくてもいいのかもしれない。
 七瀬の中で警告が鳴る。そんなものあるわけない。もう近づくな…


 机の上で鉛筆をくるくると回す。ラジオをつけてみたが、集中できないのでやっぱり消す。
 永遠の教室。
 彼女は、確かにそう言った。
「あーっ馬っ鹿馬鹿しい!」
 そんな訳ないだろう。そんなことに逃避している暇はないのだ。
 頭をぶんぶんと振って単語帳をめくる。
 今はこれを覚えるしかないのだ。


 次の放課後には、瑞佳はもう躊躇しなかった。
 掃除が終わるとさっさと荷物をまとめて廊下に出ていった。
「(何考えてんのよっ、あの子はっ…)」
 逃げたいなんて思ったことはない。
 現実に疑問を持ったこともない。それは前提で、それをどう片づけるかが問題のはずだ。
 扉の前に立ち、勢いよく右へ開く。
「ぐあっ…」
 増えてる…。
 5、6人の生徒が教室で談笑していた。
 七瀬の知っている者、知らない者それぞれだが、多分どれも3年生だ。本来なら家なり塾なりで追い込みに入っているはずの連中だ。
 瑞佳は輪の中に自然に溶け込んでいて、こちらに気づいてもくれない。
 居心地が悪くなって周囲を見渡す。離れた場所に一人、ぽつんと一人だけ女の子が机に座っていた。見覚えがある。確か去年同じクラスだった…
「里村じゃない」
「…はい」
 七瀬の方を振り返り、茜は無表情に返答した。
「来てたんですか」
「別に来たいわけじゃないけど…」
「そうですか」
「うん」
 …気まずい。
「永遠は、乙女の憧れですからね」
「へ?」
 不意に、茜がそんなことを言った。
「永遠に続くもの、終わらないもの…それに惹かれるのは当然だと思います」
「そ、そうよねっ。実はあたしもそう思ってたんだぁ…って、危うく口車に乗せられるところだったっ!」
「…人を詐欺師みたいに言わないでください」
 不服そうな茜の視線を無視して、ずかずかと瑞佳に近づき腕を掴む。
「帰るわよっ、瑞佳!」
「な、七瀬さん痛いっ」
 瑞佳と話していた連中もぎょっとして体を引く。その中で、事の張本人がのんびりした声で手を振った。
「まあまあ、留美ちゃん」
「あんたがっ…」
 こんな妙なこと始めたから。
 けれどみさきは平然としたものだ。
「怒ると胃に悪いよ〜」
「人の体の心配なんかせんでいいっ!」
「胃が悪くなるとごはんが食べられなくなるんだよ。ごはんを食べられないとおなかがすくんだよ」
「何言ってんのよ…」
「おなかがすくと怒りっぽくなるんだよ」
「だあっ」
 相手にする気力も失せて、そのまま瑞佳を引きずって廊下に出た。何か言いたげな瑞佳だったが、七瀬にギロリと睨まれて亀のように首をすくめた。


「いつまで続けるつもりよ…」
 帰り道を歩くにつれて暗くなっていく空。冬が近づくにつれ日が落ちるのも早い。速度を増す激流のように、卒業という終末へ向けて疾走しているようだ。
「ごめん…もう少しだけ」
 しゅんとなる瑞佳。なんだかこっちが悪いことをしているような気分になる。
「そりゃ、瑞佳は頭いいから少しくらいは平気だろうけどっ…」
「うん、多分何とかなるよ」
「くっ…。A判定だからって余裕かましてるんぢゃないわよっ」
「別にD判定の七瀬さんはそんな余裕ないだろうとか言うつもりはないもん」
「言ってるわよっ! 思いっきりっっ!!」
「はぅ〜っ、冗談だよ〜っ」
 少しくらいならいいのかもしれない。気持ちはわかるし、あの頃は楽しかったから。
 でも不安だ。
 あの教室から戻ってきてくれるのか。一緒に卒業できるんだろうか…。


 担任の点呼を聞きながら、七瀬は永遠のことを考えていた。
 …馬鹿馬鹿しい。
 永遠なんてあるはずがないのだ。乙女失格と言われようが、3年生の11月にそんなもの求めていられない。王子様を探すにしても進学してからだ。浪人のお姫さまでは話にもならない。
 友達との他愛のないお喋りも。
 放課後の無駄な寄り道も。
 あったのはせいぜい夏休みまで。今は受験という名の波に飲み込まれ、かつての日常は跡形もない。そして試験、試験、試験、試験、試験…
「(寂しい青春だなぁ…)」
 自分でもそう思う。せめて彼氏でもいれば違ったのだろうが、暇のあった間にもっと行動しておくんだったと後悔してももう遅い。
 いつも過ぎてから初めて気づく。
「七瀬」
「あ、はいっ」
 そうだった、出席を取っていたんだった。『長森』の次が『七瀬』。
「(…今、瑞佳の名前呼ばれたっけ?)」
 一瞬浮かんだ嫌な疑問を、慌てて頭を振って追い払う。
 目の前に座っている瑞佳の髪を何度も見つめ直した。

「折原」
「ぐわっ! 殴り込みか」
「ただ会いに来ただけよっ!」
 こんなやり取りも数年経てば貴重な物として記憶される、のかもしれない。
「どうせ暇なんでしょ。ちょっと付き合いなさいよ」
「悪いが七瀬、オレだって今は大事な時期だ。お前のストリートファイトに付き合って再起不能になるわけには…」
「ごちゃごちゃ言わずとっとと来んかぁっ!」
 浩平の首根っこを掴んで屋上まで連れていった。まともな会話はできないのか、この男は。
「うっ、寒い」
 吹き付ける風に、屋上はやめて階段の踊り場で手を打つ。
 浩平に向かって口を開こうとしたところへ向こうから単刀直入に切り出した。
「『永遠の世界』の事か?」
「うっ」
 何故わかる。
「なんで…」
「永遠の世界に一度消えたからな、オレは」
「はあっ!?」
 つい素っ頓狂な声を上げる。こいつまで何を言い出すのか。
「今年の頭から4月の始めまで。その間のオレに関する記憶がないだろ?」
「あ、あるに決まってるでしょ、同じクラスだったんだしっ。えーと…」
 ない。
 顔が青くなってくる。何も思い出せない。
「子供の頃の浅はかな約束で、オレは永遠の世界に連れて行かれた。だからこの世界にはいられなくなり存在そのものが消えたんだ。何とか戻って来られたけど」
「ど…どうして戻ってきたの?」
「由起子さんて…オレのおばさんなんだが、世話になりっぱなしだったからな。ひとつくらい恩返ししないと消えても消えきれないと思ったら、何とか」
「…ふーん」
 とてもじゃないが信じられない。
 でも疑ってもどうにもならない。
「わ、割と律儀なんだ」
「人として当然だろう、そのくらいは」
 まあそうかもしれない。
「なんで一度消えたオレに何か言う資格はないんだが、お前が永遠を望んでるなら…」
「あたしじゃないわよ。瑞佳」
「長森が…!?」
 一瞬、浩平の顔も青ざめる。だがそれを飲み込むように、抑えた声で彼は言う。
「それは…余計にオレは何も言えない」
「何でっ!? 幼なじみでしょ? 少し現実に目を向けさせてやりなさいよっ!」
「あいつは優しすぎるからな…」
 いきなりそんなことを言う。それは確かにそうだが、だから何なんだろうか。
「とにかく! 長森の人生だ。オレは何も言えない」
「この…薄情者っ!」
 埒があかないのでとりあえずそう言っておいた。
 元々浩平には大して期待してない。自分が一番の親友なんだから。


 ちょっとだけ様子を見てすぐ帰るつもりだった。
 扉から顔だけ出して中を伺うが、瑞佳もみさきも学食へでも行ったのか姿が見えない。
「あ、他の学校の人!」
 聞きたくもない声を聞かされ渋面を作る。
「この学校の生徒よ、あたしはっ」
「そうなの? でも浮いてるよ、その制服」
「あんたにだけは言われたくないわよっ!」
 去年、茜に会いに七瀬たちのクラスへ入りびたっていた他校生だ。確か柚木…柚木なんとか。
「…長森さんなら川名先輩と散歩に出かけました」
「あ…そ」
 茜が淡々と報告したので、もうここにいる理由はなくなった。
 教室の中は十数人に増えている。そんなに高校生活を続けたいんだろうか。
 茜に何か言ってやろうとしたが、ちらりと見ただけで既に拒否体勢に入っていたので、代わりに柚木を廊下まで引っ張り出した。
「金目のものなら持ってないよ」
「誰がカツアゲしてんのよっ!」
「一応念のためにね」
「はぁっ…。あたしに関わる連中ってどうしてこう変な奴ばっかりなんだろ…」
「うーん、大変だね」
「あんたの事よっ」
 漫才をやってる場合ではない。
「いいの? あれ、放っといて」
 壁の向こうの茜を指さす。
「茜? いいんじゃない、本人が決めることだし」
「あっ…あんた友達じゃないの?」
「止める理由なんてないもの」
 にこやかにそんな事を言う。それはないだろう。
「こんな事…やってていいわけないじゃないっ。ただの逃避だもの、現実から逃げてるだけでしょうがっ!」
 うまく言葉にできないが、七瀬としてはそう思う。今やるべきは明日のための受験勉強じゃないのか。
 でも柚木は笑顔を浮かべたまま、あっさりと否定した。
「現実に期待過剰だね」
「な」
「七瀬さん、だったよね。何か未来に目指してるもの、ある?」
 いきなり問い返され、すぐには浮かばなくて口ごもる。
「お…乙女」
「別にモデルになろうとかミスコンテストに出ようとか思ってる訳じゃないよね? 断言してもいいけど、あなたも私も大した未来なんてないよ。大学行って、就職して、社会の歯車になって結婚して子供産んで馬車馬みたいに働いて老いて死ぬ。それってそんなに価値がある?」
「ち、ちょっと…」
 柚木の目はもう笑ってない。背筋に冷たいものを感じながら、七瀬は慌てて抗弁した。
「そりゃそうかもしれないけどっ。だからっていつまでも学生でいていい訳でもないでしょ。子供のままでいていい訳ない、大人にならなくちゃ…」
「大人って何? じゃあ聞くけど、あなたの回りにそんな立派な大人なんている? 歳さえ取れば素晴らしい人間になる訳じゃないよ。私の親なんて身勝手で他人のこと平気で踏みにじって、外では名士とか言われてるけど裏でいくらでも汚いことやってて」
 止まらない雪崩のように、柚木は言葉を吐き続ける。
「現実は汚く矛盾してる。私にとって綺麗なのは茜一人だから、私は茜さえいればいい。永遠に茜といられるなら願ったりよ」

 息が止まる。
 胸の奥につかえたように言葉が出てこない。笑顔に戻った柚木が、最後の事実の矢を放った。

「乙女に憧れてるんだよね? けど王子様も、あなたが考えてるような恋も、非現実的だね。永遠に続くものなんてない。あなたも私も、いつかは老いて死ぬんだよ。
 現実を直視してないのはそっちなんじゃない?」



 疲れた――
 機械的に登校し、機械的に席に座る。言われてみればこんな毎日に何の意味があるんだろう。覚えたくもない公式を頭にねじ込み、試験のために知識を詰め込んで、その先に何があるんだろう。
 でも現実に他の道はない。
「七瀬」
「あ、はい」
 名を呼ばれて、初めて空の座席に気づく。瑞佳が来てない。
 次々と周囲の世界が崩れていく。今まで当然だと思っていたものが…。
「(たぶん…風邪でも引いたのよっ)」
 そう言い聞かせる七瀬に、長い長い授業が始まった。

 ようやく授業が終わると、七瀬は弾かれるように廊下に飛び出した。あるはずのない扉へと向かい、開ける。
 頭を鈍器で殴られたような感覚。
 瑞佳はそこにいた。現実の教室には来ないで、そこに座っていた。
 そしてもう一人。
「繭…」

「みゅーっ!」
 七瀬の姿を見つけて、子犬のように駆け寄ってくる。いないはずの繭。成長して、今は自分の学校へ行っているはずの。
「みゅーっ」
「何してんのよ、あんたっ!」
「みゅ…」
 雷のような声に繭の笑顔が凍り付く。止まらない。怒鳴りちらす。
「自分の学校はどうしたのよ! 何でこんなところにいるの!? 頑張るって、頑張って学校に行くって前に約束したでしょ!!」
 みるみるうちに繭の目に涙がにじむ。ぶたれたように下を向いて、小さな声で

「…いきたくない…」
 反射的に手が上がった。
「このっ…!」
「七瀬さん!」
 右手を叩きつける寸前で、瑞佳が飛び出して庇うように繭を抱きしめる。
「やめてよ…。可哀想だよ」
「瑞佳…」
 気持ち悪い。
 教室中の生徒たちが皆こちらを見る。非難する瞳の数々。彼らにとってはここが唯一の安息の場所で、七瀬の方が破壊者だ。
 繭は小刻みに震えてる。瑞佳の腕の中で。もう七瀬には懐かないだろう。
「そう…。わかった」
 静まり返った教室の、もう一方の扉から、七瀬は無言で出ていった。


 永遠の世界の屋上。
 そよ風すら吹かない。停止。小さくきしむ音を立てて扉が開くまで続いた。
「…なんでこんな世界、作ったのよ」
 現れた人物に吐き出すように言う。
 こんな所さえなければ、繭だってもう少し頑張ったのかもしれないのに。
「気に入らないみたいだね」
「見りゃわかるでしょ!」
「見えないんだよ。残念だけどね」
「何言って…」
 言いかけた言葉が霧散する。
 合わない視線。
 暗い夜の闇のように光を宿さない瞳。思い出した。去年噂で聞いた盲目の先輩。

「ごっ…ごめん…」
 何で今まで気づかなかったんだろう。
 決まってる。無知だったから。世界の一部しか知らなかったから。
「気にしなくていいよ」
 みさきは前方を探るように腕を上げ、そのまま数歩進んで金網に手をかけた。
「この学校の中でなら風景だけは見える。何度も来た場所だからね。…だから気にしなくていいよ」
 振り返るみさきの目は優しい。だからか。
 だからこの世界を望んだのか。

「だ、だけどっ…」
 言いかけて、でも何も言えない。五体満足の自分に、目の見えない苦しさなんて分かるわけがない。
「留美ちゃんの言いたいことは分かるよ」
 辛さを感じさせることもなく、穏やかな声で話す先輩。
「卒業する前にね、一度学校の外へ出ていった事はあるよ。怖くて仕方なかったけど、卒業間近だったし。何をどう頑張ったっていつまでも学校に居させてはもらえないから」
 みさきの見えない目は、眼下に広がる街並みを見ていた。
 あってないようなものだ。この世界は、学校のために作られたんだから。

「死ぬかと思った」
 ぽつり。
 耳を塞ぎたくなる。
「ほんとは大した事じゃないんだ。すぐ隣を車が凄いスピードで走っていったのも、点字ブロックの上に自転車がたくさん停まっていたのも、それをひっくり返してしまったのも、誰も直すのを手伝ってくれなかったのも…」
 一瞬間をおいて、七瀬の方を振り返る。目を逸らしたかった。
「我慢すれば何とかなったと思う。でも我慢し続けなくちゃならない。二度と安心しないまま、外の世界では、魂をすり減らす以外に私の生きていく途はない。
 だから願ったよ。永遠を」

 いつまでも高校生活が続きますように。
 暖かい日だまりの中で、幸せな時間が続きますように――

 誰がそれを責められる…?

「…それで、先輩は幸せなの」
「そうでもないかな」
 みさきが初めて、少しだけ顔を伏せる。
「私の一番好きだった親友は卒業していっちゃった。もう私のことも忘れてると思う。仕方ないよ。こんな世界を作った私は、ここで幸せになっちゃいけないと思うから。
 でも瑞佳ちゃんは幸せになれると思うよ。この世界にもいいことはあるんだよ。
 言い訳に聞こえるかもしれないけど、逃げたんじゃなくて選んだだけ」

 ここが生きてゆける唯一の場所だから。
 そのことに、他人が何を言う資格もないのだ。

 何も言えず、七瀬は屋上に背を向けた。
「留美ちゃん」
 背後からみさきの声がかかる。
「その気がないなら、もう来ない方がいいよ…。永遠に取り込まれないうちに」


 何も知らない。繭だって、もしかしたら学校でいじめられて、ここにしか来られなかったのかもしれない。何があったかなんて知らないのだ。

 たとえば喋れない女の子がいる。
『いっぱい伝えたいことあるの』
 スケッチブックにそう書いて、七瀬に見せた。
『でも、伝えようとしても受け取ってくれないの』
『みんな忙しいから、短い時間の中では自分のことで精一杯だから』
『誰もわたしのことなんて見てくれないの』

 …もういい。
 もういいよ。
 それが現実なんだから…

「瑞佳…。先帰るね」
「うん…」
 暗くなってゆく『現実』の廊下に戻り、後ろ手に扉を閉める。
 …かたん

 たぶん、もう瑞佳は帰ってこない。
 そんな気がした。



 朝起きて、学校に行く。気の重くなる日常。
 でも、もうすぐ終わる。

 瑞佳の席は今日も空だった。
 担任が来る前に、知り合いの教室へ向かった。

「あのさ折原」
「おう、珍しいな」
「うん…。あのね」

「瑞佳知らない?」
「瑞佳?」

「誰だ? それ」

「…ごめん、何でもないわ」

 たぶんまた、いつもの悪ふざけだ。


「戸部」
「はい」
「中嶋」
「はい」
「…七瀬」

 その瞬間、七瀬は席を蹴って立ち上がった。
「早退します!」

 走り出した。
 今さら走ったところでどうなるものでもなかったけど。通行人の視線を浴びながら、制服のままで走った。
 瑞佳の家は一度遊びに行ったことがある。憧れるような女の子らしい部屋。
 遠い昔のことのようだ。
「なに、これ…」
 玄関の前に乱雑に積まれた家具の残骸。猫のぬいぐるみ。可愛いレースで飾られた戸棚。瑞佳がここにいたことの、ただの残骸。
 もう必要なくなったんだ。
「──────っ!」
 道路を足蹴にし、当てもないまま走り回る。もうこの世界にはいないかもしれない。みんなから忘れられ、幼なじみにも忘れられ、どこへ行ったんだろう。
「瑞佳…っ!」
 焦るあまり叫んだその時。
「あ…」
 通行人の一人が振り返る。
 瑞佳だった。今の今までただの通行人にしか見えなかった。
 足元には7匹の猫。腕の中に、白いタオルに包まれた何かを大事そうに抱えている。
「七瀬…さん」
 薄れて行く存在。
 一目でわかる。これから瑞佳は消えていく。永遠の教室へと旅立ち、この世界から消えていくのだ。
 やり切れなかった。
 瑞佳自身が望んだことだから、なおやり切れなかった。

 互いに目を合わせられず、小さな声だけが聞こえる。
「何が一緒に卒業しようよ…」
「…ごめん…」
 言っても仕方ないことなのに、言わずにいられない。
 謝っても仕方ないのに、力なく項垂れる。
「何が友達よ! あんたなんて、あたしのことなんてどうでも良くて、自分一人だけで」
「私のこと、忘れていいから…」
「バカにしないでよっ!!」
 心臓に突き刺さるような音が響く。
 頬を叩かれた瑞佳は、自分の身を支えることもできず後ろへ倒れかけた。抱かれたタオルがめくれ、中身があらわになる。
「ひっ」
 血。
 死骸だ。
 車に轢かれて息絶えた、猫の死骸。たぶん数日前までは元気に生きていた肉の塊。
 硬直する七瀬の耳に、瑞佳のか細い声が流れてくる。
「こんなこと許されないって分かってる。
 でもそれじゃ、何でこの子が死ななくちゃいけないの?
 何で車に轢かれて、道路に放り出されなくちゃいけなかったの?
 それが現実だって思わなくちゃいけないの?」

 それが現実。
 その言葉を、瑞佳に浴びせられるわけがない。

 瑞佳は優しすぎるから
 いつまでも死んだ猫を抱き、悲しんでいるような女の子には、他人を蹴落としていく競争社会になんて、最初から出て行けなかったんだ。


「もう、ねこが死ぬのは嫌だよ…」
 死骸を抱きしめて呻く瑞佳。

 毎日通う学校、退屈で同じことの繰り返し。
 他愛のない話。
 くだらない冗談。
 失って初めて気づいた、かけがえのない日常――

 そんな幸せだった時にずっといたい。
 穏やかな日常の中にいつまでもい続けたい。
 それだけだ……

「‥‥‥‥‥」

 それだけのことが決して存在しない現実。
 何であろうといつかは終わり、どんなに手を伸ばしても決して届かない。
 届かないんだ。
 永遠なんてどこにもないから

「‥‥‥っ‥‥‥」
 瑞佳の嗚咽が小さく響く。消えかける声。
 やり切れなかった。
 本当に、やり切れない現実――

「お喋り…しよっか」
 腕を伸ばして、瑞佳の手を握る。冷たい手。生きていない手だ。
「ごめん…」
「受験はちょっとお休み。久しぶりにパタポ屋にでも行こうよ。新しいクレープ出たのよね」
「ごめんね、七瀬さん」
「そうだっ、繭や折原も誘おう。4人で遊ぼうよ。前みたいに。何も変わってないんだからっ――」
「ごめんなさい…!」


 手が空を切った。


 初めから何もなかったように、七瀬は一人で存在していた。

 急速に消えていく。自分の中から、瑞佳の存在が、笑顔が、思い出が――。
「は‥‥っ」
 胸を押さえ、必死に瑞佳を繋ぎ止めながら、七瀬は足を引きずるように歩き出した。
 この世界に唯一残された絆のある場所へ。




 見慣れた廊下。退屈な授業の声が遠くから聞こえる。

 簡単だ。扉を開けさえすればいい。その向こうにある、いつまでも続く日常。
 幸せだった日々のかけら。
 失くしたはずの楽しい日々。決して終わらない、誰も傷つかず、傷つけることもなく、ずっと幸せに生きていける世界。

 永遠のある場所。


 そこにいま、七瀬は立っていた――




「大事な人のいる」「永遠」を望む。


「大事な人のいない」「現実」を望む。