(1) (2) (3) (4) (5) 一括 DNML

この作品は同人ソフト「月姫」(c)TYPE-MOON の世界及びキャラクターを借りて創作されています。
シエルシナリオ、アルクェイドシナリオのネタバレを含みます。

読む
























 
 
 
 
 
 
 
「現状は以上です。…局長もたまには良い作戦を考えるんですね」
 ヴァチカンへの定期報告を終え、シエルは自室で受話器を置いた。
 ベッドに腰掛け、ずれた眼鏡越しに天井を見上げる。
 アルクェイドは順調に弱っているが、喜んでばかりもいられない。力の落ちた彼女が吸血衝動に負けては元も子もない。うまく調整する必要がある。
 とはいえまだシエルの勝てる相手ではないし、ここはロアと戦わせて漁夫の利を狙うという古典的な作戦が一番確実であろう。遠野家の力を手に入れたロアなら真祖にもそこそこ対抗できる。あの二人が本気で殺し合った後となれば、シエルが止めを刺すのも容易のはずだ…。
「‥‥‥」
 本当に、あの女が死ぬことになるのだろうか。
 もちろんこんな机上の計算が上手くいく保証はない。よくて五分五分というところだろう。
 だがそれでも、可能性が射程内にあるだけで大きな進歩なのだ。もし全てが上手くいって、あの女の死骸が目の前に横たわったとしたら…自分はどんな顔をするのだろう。
「…朝ご飯にしましょう」
 もうすぐ夜が明ける。捕らぬ狸の皮算用は止めて、早めの朝食をとるべく台所へ行った。
 ガス台に火をつけながら思いつく。そうだ、カレーを食べさせてやろう。
 吸血鬼の命など惜しむ気はないが、カレーの味も知らずにこの世を去るのは不憫ではある。シエルの責任でもあることだし。
 それくらいの情けはあってもいいはずだ。

 放課後の下校路、ガードレールに腰掛け待っていた彼女に、シエルはさっそく宣言した。
「今日は自炊にしようと思うんです」
「あ、そうなんだ」
「ええ、外食ばかりだと太っちゃいますからねー」
 ここ数日はアルクェイドに命令…もとい頼まれて、美味しい店を探しては一緒に食べ歩くということが続いていた。彼女が金に無頓着なのをいいことに全部おごらせていたので、十分元は取っていたが。
 アルクェイドは別に落胆するでもなく、納得したように頷いた。
「そっかー。そういえば人間は自炊が主なのよね」
「一概にそうは言えませんが、そのケースが多いですね。そうだ! 貴方にもご馳走してあげましょう! いえいえ遠慮なんていいんです。わたしと貴方の仲じゃないですか」
「カレーなら食べないわよ」
「ぐっ…」
 計画はあっさりと潰えた。どうしてこう可愛げがないのだろう。
「はぁ…。いいですよ、一人で寂しく食べます…」
「あ、でもカレー以外ならいいよー。シエルが食べられる物作れるなんてちょっと意外だし、見てみたいかも」
 いちいち頭にくる言い方だが、ここで怒っては大人げない。どうせもうすぐ死ぬ相手だ…と言い聞かせ、とりあえず自分のアパートに招待した。カレーが無理なら茶でも飲ませてやろう。
 シエルの部屋に足を踏み入れた途端、アルクェイドはむっとしたように腰に手を当てる。
「シエルのくせに豪華な部屋ね。わたしの部屋の方が殺風景じゃない」
「は? まあ貴方の部屋が殺風景なのは確かですが、この部屋のインテリアもあまりお金はかけてませんよ」
「不公平だ〜」
「不公平って…。だったら自分の部屋もリフォームなりなんなりすればいいでしょう」
 食の次は住に興味を持ち始めたのだろうか。吸血鬼のくせに無駄に世界を広げているものだ。
 アルクェイドを部屋に待たせ、台所へ行ってヤカンを火にかける。が、振り向いてみると、彼女は出された座布団に目もくれず、タンスの引き出しを勝手に物色していた。
「アルクェイド…。貴方の知識に、他人の部屋を漁らないという常識はないんですか」
「えー? いいよ、どうせシエルの部屋だし」
「お茶会は中止になりました。突然ですが吸血鬼狩りに変更しようと思います」
「冗談だってば。シエルってすぐ怒るわよねー。カルシウムが足りないよね」
「もういいから黙ってそこに座ってなさいっ!」
 へいへい、と座布団に腰を下ろすアルクェイド。思えば、なんでこんなのが自分の人生に関わってきたのだろう。ふと遠い目をするシエルである。
 それでも一応羊羹を切り、沸騰したお湯を急須に注ぐ。お茶の香りが鼻孔をくすぐり、ささくれ立っていたシエルの精神にもいくらかの平静が戻った。
 湯飲みが一つしかないので自分はマグカップを使う。風情がないが、このためにもう一つ買うのも馬鹿らしい。
「どうぞ。粗茶ですけど」
「ふーん、お茶ってこういう色なんだ。毒とか入ってそうね」
「あはははは! 貴方が毒で死ぬほど愛嬌があるとは思えませんけどね!」
「あはは、そうだよねー。それじゃいただきます」
 目を閉じてお茶を飲みながら、ひたすら精神を落ち着かせることに専念した。怒るな怒るな…。
 羊羹はあっという間になくなり、アルクェイドは湯飲みを空にしてからほう、と息をつく。
「うん、なんだか落ち着く」
「そうでしょう? こういうところは真祖も人間も同じのようですね」
「かもね。これってこの国の特産品だっけ」
「はい、そうです。日本といえば寿司とお茶なんですけど、お寿司は高いですからねー。こうしてお茶ばかり飲んでいるというわけです」
 日本語はメレム・ソロモンに借りた”指輪”のおかげで不自由ないが、それ以外の知識は観光ガイドを見て一夜漬けで学んだものである。それでも暮らしてみれば結構何とかなるもので、特にお茶とお茶菓子との出会いはシエルにとって幸運だった。
 そんな話をしてみたシエルに、アルクェイドは感想を返す。
「なんだ、けっこう人生楽しんでるんじゃない」
「…お茶くらい飲んだっていいじゃないですか」
「誰も悪いなんて言ってないでしょ。いいんじゃない? わたしも最近はそんな感じだし」
 アルクェイドはそう言ってくれるが、結構ぐさりとくる言葉だった。確かに、自分の罪だの、死を望むだの言いながら、一方でカレーやお茶を堪能しているのでは説得力がない。
 異端狩りを実行するには息抜きも必要ということで納得してもらうしかない…人間は真祖と違って、必要最低限だけの活動ではやっていけないのだ。
「ねえ、さっきの話だけど」
 茶席が終わって湯飲みを片付けているところに、後ろからアルクェイドの声がかかる。
「わたしの部屋も、物を置けばこの部屋くらいになる?」
「そうですね。元々貴方のマンションの方が高級なんですから、豪華にはなるんじゃないですか」
 茶葉を捨てながらそう答える。
「そっかー。まあ、今の部屋に長居するわけじゃないんだから、無駄ではあるんだけど」
「無駄なことはないですよ。短い間でも、環境は良いに越したことはありません」
 タオルで手を拭きながら笑って言うシエルに、アルクェイドもにこやかに笑うと、こちらの肩に手を置いた。
「じゃ、手伝って」

 吸血鬼狩りのイメージからどんどん離れていく気がする…。これも仕事だと自分に言い聞かせるしかない。
「ねー。とりあえず何から買えばいい?」
「好きにしてください…。カレンダーとか、壁時計とか、壁を埋めるものにしたらどうですか」
「なるほどなるほど。じゃあ、案内して」
 仕方ないのでバスに乗って、少し大きめのデパートへ向かう。
 好奇心を発揮して関係ない売場へ行こうとするアルクェイドを引っ張りながら、めぼしい品を選択する。カレンダー、ポスター、カラーボックス、小物入れ、花瓶にドライフラワー、カーテン、枕カバー、鏡…は、映らないからダメ。
 調子に乗ったアルクェイドは30万円の応接セットを買おうとしたので、さすがに引き留めた。そこまでは勿体ない。
 途中でぬいぐるみ売場を見つけ、ついふらふらと足が向かう。
 女の子が多い売場を歩きながら、アルクェイドと一緒に見て回る。真ん中辺りで少し大きめのテディベアを見つけた。欲しくなったが、高すぎて手が出ない。ここはアルクェイドに買わせよう。
「これいいですねー。部屋に飾れば女の子らしくていいと思いませんか?」
 言われた方はまじまじと人形を見てから、分からないというように首を傾げる。
「これ、何の人形?」
「クマさんです。可愛いでしょう」
「熊? あれって人間には害獣でしょう。銃で撃ち殺したりしてるくせに、何で部屋に飾ってるのよ」
「いちいち細かいことを気にしますね…。これはキャラクターとしてのクマですから、生物としての熊とは別物と考えてください」
「ふーん。それなら吸血鬼の人形とかも存在する余地があるわけね」
「そうですねー。貴方の人形があったら、わたしも部屋に置いちゃうかもしれませんね」
 アルクェイドは照れたような困ったような複雑な顔をしたので、殴ってストレスを発散するために…とは口が裂けても言えなかった。
 結局その人形も買って、すっかり大荷物になった二人は、戦利品を両手に抱えてデパートを出る。
 空は暗い赤を残す宵闇と、その向こうに夕月が浮かぶ。
「色々売ってるんだね」
 よいしょ、と荷物を持ち直して、アルクェイドは感心したように言った。
「大量消費社会ですから。そういえば、800年前はどんなものが売ってたんですか?」
「さあ? 憶えてないなぁ。あんまり周りに興味なかったし」
「はぁ、勿体ないですね。歴史の生き証人だというのに」
「そうは言っても、月が出てたことくらいしか記憶にないわ」
 それは十二世紀でも月は出ていただろう。今も頭上にあるそれは、満ちるにつれて真祖と吸血鬼の力を増すので、相対的に自分の力は弱体化する。シエルにとってはあまり有り難くない天体だ。
「あ、でも人間って月まで行ったんだよね。ちょっとびっくりした」
「あ…そういえばそうですね」
 アポロ計画の偉業を思い出し、少しだけ勇気づけられる。真祖が千年生きても月には行けまい。そう考えると隣のこの生物も、大したことはないように思えてきた。
「まあ、月の起源はまだよく分かってませんけどね」
「そうなんだ」
「はい、今も研究の途中なんです」
 月の成り立ちについていくつか学説を説明してやると、興味を持ったのか、望遠鏡が欲しいと言い出した。
「ちゃんと見てみたいな。見上げるだけじゃなくて」
「いい趣味ですけど、また今度にしませんか。荷物が…」
 そう言って、両手一杯の荷物を見せる。
「なに? それくらい軽く持てるでしょう」
「持てますけど、女の子が軽々と大荷物を持つなんて世間体がよくないです。まるで馬鹿力みたいじゃないですか」
「馬鹿力じゃない」
「はっきり言わないでくださいっ。それに、こう手が塞がってちゃ動きにくいでしょう」
「それもそうか…。うん、じゃあ荷物持って先に帰ってて」
「はい?」
「よろしくねー」
 どさどさ、とシエルに荷物を押しつけると、アルクェイドは手を振って笑顔で走り去ってしまった。
 シエルはしばらく呆然としていたが、とりあえず荷物を降ろして、手近な電柱を蹴りつける。
「何でわたしが何でわたしがっ! ああもうくそっ!」
「姉さん、あの人…」
「翡翠ちゃん、目を合わせちゃダメですよー」
「‥‥‥」
 通行人にまで馬鹿にされ、シエルはがっくりと肩を落として、アルクェイドのマンションへ向かうのだった。


 荷物を床に放り投げ、手持ちぶさたにアルクェイドを待つが、どうもなかなか戻ってこない。
 7時を過ぎ、8時を回り、暇つぶしに部屋にあった小説を読み始める。彼女が帰宅したのは3冊読み終わった頃だった。
「なんか呼び込みの人に引っ張られちゃって。パチンコだっけ? あれって面白いよねー」
「あはは、良かったですねー。それで望遠鏡は?」
「お店、閉まっちゃってた」
「…もういいです…」
 いい加減帰りたくなたが、今日中に模様替えするんだとアルクェイドが張り切っているので、結局付き合わされる羽目になった。
 カラーボックスを組み立て、本とビデオを収納する。スペースが空いたところで、買ってきたものをあちらへこちらへと配置する。
 アルクェイドはろくなセンスをしておらず、キッチンにぬいぐるみを置こうとしたりするので、シエルもなんだかんだと口を出し、時には口論しつつ作業が続いた。
 マンション備え付けの味気ないカーテンを取り外し、金具を取って新しいカーテンに付け替える。その作業はアルクェイドが担当していたが、不意に不吉な音がする。シエルが振り返ると、盛大に切れ目の入ったカーテンを手に、きょとんとした顔の彼女がいた。
「破けた…」
「破けたんじゃなくて破いたんですっ!」
「安物だったんじゃないの? このカーテン」
「貴方って人は…。もういいからそこの隅で大人しくしてなさい!」
 結構シエルの気に入っていたカーテンなので頭に来る。こんな女に細かい作業なんかやらせるんじゃなかった。
 吸血鬼はカーテンとシエルの顔を見比べていたが、言われたとおり部屋の隅へ行くと、体育座りをして床にのの字を書き始める。
「何よ、そんなに怒らなくてもいいじゃない…。わざとじゃないのにさぁ…」
「ああ神様…。わたしは日本まで来て一体何をやってるんでしょう」
「まあまあ、そのうちいいこともあるわよ」
「貴方が言わないでくださいっ!」
 結局、シエルがポケットに入れていたソーイングセットのおかげで捨てずには済んだが、興味を持ったアルクェイドが教えろとせがんできたので、今度は裁縫教室を開く羽目になった。
 なんとか模様替えが終わったときには、とっくに日付が変わっていた。
 つぎはぎのあるカーテンがいまいちだが、随分と人の住む部屋らしくなった。自分の部屋でもないのに達成感を感じてしまう。元々こういう作業は好きだったりするのだ。
「お疲れ様。お茶でも淹れますね」
 本来アルクェイドがやるべきなのだが、まあそこまでは言うまい。自分も楽しかったのだし。
「アルクェイド?」
 返事がない。振り返っても姿がなく、視線を下に落とす。
「アルク――」
 眠っていた。

 目を閉じて、死んだように床に横たわっている。睡眠衝動を抑えるのも限界だったのだろう。
 それを視界に入れたまま、自分も動けなくなる。閉じられた眼。無防備な横顔、かすかに動く胸――何でこんなに、綺麗なんだろう…。
 だがそれも一瞬で、息を殺して周囲を見回す。
 見張りの猫がいない…!
 チャンスだ。予定外だが、この機を逃すわけにはいかない。こんな状況を作るために、我慢に我慢を重ねてこの吸血鬼に付き合ってきたのだ。
 懐に手を入れ、細い剣状の武器を取り出す。
 銃剣の先端部分。かつて霊獣の角だった、第七聖典の本体である。持ってきた甲斐があった。
 真祖にこれが効くのかは…誰も試したことがないので分からないが、殺せる可能性があるのは魂を打ち消すこれだけだ。賭けるしかない。
 そっと膝をつき、覆い被さるように体を近づける。
 間近に見て、自然と心臓が早くなる。

 殺す。
 無防備な彼女を、眠っている間に。
 ついさっきまで楽しそうに笑っていたそれを、物言わぬ死体に変えるのだ。
(何を――今さら)
 今さらだ。卑怯だとか可哀想だとか、ここでそんなことを言うくらいなら、最初からこんな道になど進まなかった。
 同胞である人間ですら…首を落として殺したではないか。既に手首まで血に染まっている。今さら躊躇うことなど何もない。
 握る手に力がこもる。覚悟を決めて、剣を吸血鬼の心臓の上へと捧げ持つ。

 アルクェイドは眠っている。
 もっと警戒していればこんなことにはならなかったろうに、シエルに気を許したりするから。
 流れ込んでくる様々な思考を、振り払うように頭を振った。
 殺さなくちゃいけない。
 殺さなくちゃ――。


 しばらくそうしていたシエルは、結局剣を収めて、すごすごと距離を置いた。
 理由は『アルクェイドがこんなことで死ぬとは思えないから』。
 どうしても殺せるイメージが浮かばない。やはり確実に、ロアにぶつけて共倒れを狙うべきだろう。
 …いかにも口実くさくて、自分が嫌になる。
 せめてもの腹いせに、アルクェイドを床に転がしたまま自分だけベッドを使ったが、かえって虚しくなるだけだった。



「あ、起きたな。こいつめ」
 こいつ呼ばわりされて思わずむっとする。昨日の今日なので、朝の寝覚めは最悪だ。
「…昨夜はよく眠れましたか」
「うん。久しぶりに寝たなー。起きたらいつもの部屋じゃないから驚いちゃった。そういえば模様替えしたんだっけね」
 嬉しそうに部屋を見回すアルクェイド。これでは自分は、彼女の人生勉強に協力しただけの、単なるピエロになりかねない。このままで済ますものか、絶対…。
「あ。朝ご飯食べる?」
「はい?」
「用意できてるよ」
 見れば床には皿に載った1枚の食パンと、牛乳の入ったコップが、それぞれ二組ずつ用意されていた。素晴らしすぎて涙の出そうな朝食だ。
「えへへー、見よう見まねで作ってみたんだ。どう?」
「どうにもこうにも…」
「何よ、そのはきすてがちな反応は!」
 まあ、こんな朝食でもせっかく用意してくれたのだからと、有り難くいただくことにした。
 二人で向かい合って床に座り、食パンを口に運ぶ。テーブルも買うべきだった、と今さらながら思った。
「あ、食パンもう一枚ください」
「まだ食べるの? わりと大食いなのね」
「人聞きの悪い。朝に十分な栄養を摂るのは生活の上での必然です」
 そういえば、誰かと一緒に朝ご飯を食べるなんて久しくなかった気がする。
 アルクェイドの方は久しいどころか、どうやらこれが初めてのようで、にこにこと楽しそうに食べている。
 なんだか結構…幸せかもしれない。
 …何を考えてるんだろう。
「残念でしたね」
「ん?」
「本来なら、遠野くんとこうしたかったところでしょう」
 敵対するために、ここにいない彼を引き合いに出す。
「んー、でもまあ、あなたでも悪くないかな」
 それなのに、少し前まで殺し合っていたことを忘れたように、アルクェイドはそう言った。
「思ったよりいい人みたいだし」
「いい人…ですか」
 学校で何度も言われた評価。でもそれは、そう思われるよう暗示をかけていたからだ。丸い眼鏡も、丁寧な言葉遣いも、すべてそれを演出するための道具だった。
 アルクェイドにそれは通用しないはず。元々正体を知ってるんだから。
「貴方にそう言われるのは心外ですね。わたしは異端狩りたる埋葬機関の一員です」
 よせばいいのにそう言ってしまう。それを意にも介さず、アルクェイドはさらりと言った。
「そうでもないと思うけどな。昨夜だって殺さなかったじゃない」

 危うく牛乳を吹き出しかけた。
 彼女はにやにやと、意地悪そうに笑っている。冷や汗が体中を流れ落ちる。蛇に睨まれた蛙の状態だ。
「お…起きてたんですか…」
「ううん、寝てた。でもわたしって戦闘用に作られた存在だから、やっぱり攻撃を受けるときは気づくのよね。あなたが武器を構えた時点で意識はあったし、そのまま振り落としてたら八つ裂きにしてやるつもりだった」
「そ、そうですか…。あの、怒ってます?」
「ううん、怒ってないよー。だって結局殺さなかったじゃない」
 開いた口が塞がらない。未遂だって殺そうとしたことに変わりはないだろう。普通なら許さないのに。
「あなたがわたしを殺したいなんて、そんなの当たり前だしね。でも昨夜は、殺せそうだってのに散々迷ってたでしょう。それで、もしかしたらいい奴かなーって、そう思っちゃった」
 事も無げにそう言って、アルクェイドはあははと笑った。自分だったら、とてもそんな風には考えられない。
 息を吐き、どっと力が抜ける。
 あまり隠していたとも言えなかったが、とにかくばれてしまったし、笑顔を作り続ける気にはもうならなかった。
 どちらにせよ確かなのは、昨夜は躊躇って良かったということだ。もしあの手を振り下ろしていたら、今ごろ報復として千回くらいは殺されていただろう。
 …そうしなくて、良かった。
 元々殺したり殺されたりなんて好きなわけではないのだし、このままでいられるなら、その方がいいのかもしれない…。
「はぁ、なんだか馬鹿馬鹿しくなっちゃいました。貴方ときたら、つくづく常識から外れてるんですから」
「むっ、どういう意味よ。朝ご飯食べさせてもらってるくせに生意気ー」
「こんな朝食で威張らないでください。一度特訓が必要ですね」
「なによ、教えてくれるの?」
「お望みでしたら」
 自然と笑みが漏れる。もう嘘ではなく。
 こんな時間が続けばいいなんて、そんな勘違いまで…してしまったのだ。
「あ、テレビつけますね」
 丁度ニュースの時刻だったので、手を伸ばしてスイッチを入れる。
 シエルが笑える時間はあっという間に終わった。
 移っていたのは、この街の殺人鬼によって、新たに3人の犠牲者が出たという報道だった。


 頭の中が真っ白になる。
 見直すが、事実は変わらない。若い女性ばかり3人が、血を抜かれた死体となって発見された。
 冷たい汗が流れ、床を見つめて歯がみする。平和な朝は、それが平和であった分、悔恨にとって変わった。無辜の人たちが殺されている間、シエルは呑気に部屋の模様替えなどをしていたのだ。
 また罪を、重ねてしまった…。
「ふん。死者からの供給を絶って弱らせてきたけど、これで水の泡ってわけね」
 隣でアルクェイドが声を漏らす。その冷徹な目は、先ほどとは一変している。
「でも、これでもう逃げられない。どんな結界だか知らないけど、一度外に出た以上必ず痕跡は残るわ。あいつも今夜までの命かな」
 不敵に笑う真祖。その意見には同意するし、嘆く暇があるならロアを殺すことを考えるべきだと思うけど、それにしても…今、笑うことはないだろうに。
 だが、事はそれで留まらなかった。
 アルクェイドは皿の前に戻ると、先ほどまでの楽しげな笑顔に戻って、こう言ったのだ。
「まあそれはともかく、朝ご飯食べちゃわない?」

 吐き気がする。
 画面の向こう側とこちら側の乖離に、神経が焼き切れそうになる。
 その根本の原因であるこの女は、何食わぬ顔で朝食の続きを食べていた。
「人が…死んだんですよ」
 言っても詮無いと分かっていたのに、口にしてしまった。
「そう言われても。まあ、運が悪かったんじゃない? 強い者が弱い者を殺すなんて、自然では当然の摂理でしょう」
 やめろ。喋るな!
 心の中で悲鳴を上げる。自分の中に広がる黒いものを、このままじゃ止められない。
「あ、もしかして自分のせいだと思ってる?」
 なのにアルクェイドは、ひらひらと手を振って、言った…。
「気にすることないと思うけどなー。昔のことだって、あれはロアの意識の仕業であって、別にあなたの罪じゃないでしょ。
 わざわざそんなの背負い込むなんて、馬鹿みたいだよ?」

 あるいはそれは、こちらを思いやって言ってくれたのかもしれない。
 だが、シエルの神経を逆なでするには十分だった。今までため込んできた鬱憤と、さっきまでの時間が偽物だったことへの――それは勝手に期待して、勝手に裏切られただけなのだけど、その反動を抑えるなんて、とても無理な話だった。
 平手打ちの音は、いやに大きく部屋に響いた。

「貴方に命の重さを理解しろなんて言わない」
 叩いた手の形のまま、つとめて抑えた声は、抑えられた分だけ大きくなっていく。
「でもその汚れた口で、軽々しく殺された人のことを語るんじゃない。
 貴方に罪を云々する資格などない。この呪われた吸血鬼が――!」
 悔しい。こいつが存在すること、それに対してこんな無意味なことしかできないこと。

 そして残念ながら、相手は頬を叩かれて、笑って許すような性格ではなかった。
 叩かれた顔を押さえた、その指の間でぎょろりと眼が動く。
 身の毛のよだつような金色の目に、怒りの念は一気に吹き飛んだ。
「5秒だけ待ってあげるわ」
 心臓が凍りつく。粉々にされそうな圧倒的な殺気。人間なんてまるで相手にならない。
「早く土下座して謝りさい。そうすれば、半殺しくらいで済ませてあげるから」
 怖い。
 そして怒りが戻る。こんな奴に脅えるなんて、こんな、生まれつき強い力を持っているというだけで、誰からも罰せられない、この女に――
「貴方に屈するくらいなら――死んだ方がましです!」


 結局、辿り着くのはいつもの殺し合いだった。
 いや、殺し合いとも言えなかった。黒鍵も、教会の秘術も、何一つ彼女を傷つけることはできなかった。代わりにぬいぐるみが吹き飛び、カーテンが引き裂かれ、花瓶は音を立てて粉々に砕け散る。シエルはすぐに防戦一方になり、壁際へと追いつめられた。
「っ…!」
 頭をかばおうとした両腕は枯れ木のようにへし折られ、逃げようとしたところへ高速で伸びてきた腕に首を捕まれる。壊れた人形と化した身体を、釣り上げられたまま壁へと叩きつけられた。
 血が口の中を逆流する。かすんでいく眼と耳が、愉快そうな声を辛うじて知覚する。
「どうしたの? 最初の威勢の良さは何処へ行ったのかしら?」
 吸血鬼は残忍な笑みを浮かべて、シエルの頸骨を締め上げた。そうだ、これがこの女の本性だったのに。
 骨が折れんばかりの力に、いや、既に一度折られて…再生するまで、シエルはそれを言えなかった。
「何よ。何が言いたいの」
 口だけ動かしていたところに、アルクェイドは首を締め上げたまま耳を近づける。
「……………ね」
「ん?」
「イフが……好きだと、そう言いましたね」
 怪訝そうな顔に変わる。
 冷ややかな目で、シエルを見据えたまま。
「ええ、言ったけど」
「はい……わたし、も、よく、もしもって、考えて…ました。救い、なんか…なかったけど」
(わたしはイフって好きだな)
(とりあえずその時は救いがあるような気がする)
 そう言った、あの女の子は…他人にどんなイフがあるかなんて、考えもしないのだろう。
 吸血鬼に苛立ちが加わる。何が言いたいのか、と、問われる前に…
 シエルは首を絞める腕を掴むと、渾身の力を込めて声を張り上げた。
「もしも、貴方がロアの血を吸いさえしなければ――と!」


「貴方がロアの血を吸わなければ!
 貴方が最初から存在しなければ!
 そうすれば、みんな死なずに済んだ。わたしの家族も、友達も、わたしの街の人も、この街の人も、昨日殺された人も! 貴方さえいなければ、みんな平和に生きていられたのに…!」
 涙が溢れ出す。この女の前で、泣きたくなんかなかったけど、それも抑えられなかった。
「なのにみんな死んでしまった! 何も悪いことなんかしてなかったのに。
 何であんな風に、虫けらみたいに殺されなきゃいけなかったんですか!?
 貴方が全ての元凶のくせに! 貴方が殺したんだ! 貴方が、貴方が貴方が貴方が貴方が――!」
「うる――さい!」
 右腕一本で持ち上げられ、そのまま下に叩きつけられる。シエルは血塗れたボールのように床を転がった。
 自ら流した血の海で、必死で体を起こし、潰れかけた目で吸血鬼を睨み付ける。アルクェイドは、僅かに震えているように見えた。
「そんなの知らない! なんでわたしが人間の命なんか心配しなくちゃいけないのよ!?
 あなただって他の種が死んだときに、いちいち気になんかかけないじゃない!」
 死と生の間を行き来しながら、聞こえてくる言葉に、視界がぐらぐらと揺らいでいく。
「わたしは別に自然の代弁者ってわけじゃないけど、そんな一方的な言い分には納得いかない!
 あなたたちだって他の生き物を山ほど殺してるくせに。それには目をつぶって、自分の都合だけは主張するの!?」
 そう。それは承知しているつもりだった。
 牛や豚を殺しても、蝿や蚊を殺しても、草花を摘んでも、微生物を殺菌しても、人間は心を痛めない。さっき彼女がそうしたように、平気で笑う。
 自分たちが真祖よりも倫理的に優れているなんて、考えてはいけないと承知しているつもりだった。だから人間としての種の正義などと、大層なものを持ち出すしかなかったのだ。
 だが、そんなのもう知ったことか。こんなとき感情とは便利だった。嫌な音のする肺の奥から、シエルは再び声を放った。
「ええそうですよ。牛や豚がわたしたちのことを憎むなら憎めばいい。それと同じように、わたしは貴方のことを憎むんです」
「何を、勝手な――」
「他にどう思えと!? 殺された人間が、その係累が、貴方を許すとでも思ってたんですか。そんなことある筈ない。もし貴方が神の遣いでも、憎む以外にできるわけないんだ――」
 存在していることが許せない。
 無数の屍の上で、へらへらと笑っているのが許せない。
 『楽しい』なんて言葉、最初から、許される筈がなかったのだ――自分も含めて。
 アルクェイドの目は金色の光を失っていた。代わりにそれは、自分に移ったようだった。
「どうして貴方は生きてるんです」
 笑いながら尋ねるシエルに、吸血鬼は一歩後ずさる。
「生きる目的なんかないくせに。それなら死んだって同じでしょう? 別に生きていたいわけでもないなら、死んでくれたっていいじゃないですか」
 それが正しいことのはずだ。
 殺された人たちは、みんな生きていたかったんだから。こんな不条理、あっていい筈がない。
 その世界の矛盾への、黒い呪詛を――眼前の相手へと、容赦なく叩きつけた。
「死ねばいいのに…!!」


 流れた血が目に入り、シエルの視界を赤に染める。
 目を閉じて、報復を覚悟して待った。ここまで言った以上ただでは済まないだろう。肉片になるまで殺されるかもしれないが、もうどうでもいいような気がした。
 …だが、怒り狂ったであろう彼女の爪は、いつまで経っても落ちてこない。
 袖で血を拭い、恐る恐る目を開ける。
 アルクェイドは、先ほどと変わらずにそこにいた。
 その目に既に怒りはなく、かといって悲しんでいるわけでもなく、ただ見ているだけでこちらの心まで空虚になるような…そんな表情。
 ああ、そうか。
 楽しいことや優しいことを知らなかったように…これだけの悪意をぶつけられたことも、きっと初めてだったんだ。
「…あなたの気持ちは、よく分かったわ」
 ぽつりと言って。
 シエルが動けないでいる間に、アルクェイドは顔を伏せたまま、背を向け視界から遠ざかっていった。
 玄関のドアが開き、閉まる音を遠くで聞いて、シエルは糸が切れたように崩れ落ちる。
 暗くなっていく世界の中で、最後に目に入ったのは、無惨に破壊され血に染まった部屋の様子だった。




 外は夜。
 生き返ったところでなんとか自分のアパートに帰ったシエルは、とにかくシャワーを浴びてから、そのままベッドに倒れ伏した。
 傷は塞がったものの、一度ボロボロになった体力や法力や、諸々の精神力はすぐに元には戻らない。本当に、馬鹿としか言いようがない。ロアと戦う前に無駄に力を費やすなんて。
 形だけでも仲良くしていれば、全ては上手くいったのに。感情的になって、あんな…
『死ねばいいのに!』

 …いくらなんでも、言い過ぎたのではないだろうか。
 いや、言葉くらい大したことじゃないとは思う。そもそも殺そうとしていたのだし。
 だがそれでも…半分くらい、八つ当たりだった気がする。
 アルクェイドが直接の殺人者ならともかく、実際はロアの方が彼女を騙してその血を吸ったのだと承知してるくせに。
 ましてアルクェイドは人間ではない。人間の正義を要求はできない。
 正当化できる理屈を探していたが、見つからなかった。自分の罪を棚に上げて、あれじゃあ吸血鬼以下…。
(やめた、やめたやめたやめた!)
 枕に顔を埋めて思考を遮る。アルクェイドも言っていたではないか。他の生物が死んでも知ったことではない。それならあの女が傷ついたところで、シエルの知ったことではないのだ。
 …傷ついた。
 最後に彼女が見せた、あの表情が瞼から離れない。
 アルクェイドが傷つくなんて…思わなかった。


 夜は闇を深めていく。シエルは起き上がると、押入から銃剣を取り出して整備した。
 もはや一刻の猶予もない。とにかく今は、直接の殺人者を倒すことが先決だ。
 議論の余地なく悪い奴がいるというのは、ある意味救いだった。誰も悪くないという最悪の事態だけは避けられる。
 無限転生者だとか自称している、あの悪魔をとにかく殺そう。
 アルクェイドのことは…その時に考えよう。







<つづく>



前へ 続きを読む
感想を書く
ガテラー図書館へ 月姫の小部屋へ プラネット・ガテラーへ