昼休みに花歩が購買から戻ってくると、廊下で見覚えのある人たちが何か話していた。
(あ、スクールアイドル部にいた人や)
優しそうな雰囲気の人と、目つきの鋭い人。
話し相手は確か、花歩と一緒に見学していた一年生だ。
「ああ、君も昨日見学に来てくれてたな」
「は、はいっ」
目つきの鋭い方が急にこちらに気付いて、声をかけてくる。
説明が終わる前に逃げ出してしまったけど、まさか怒りに来たのだろうか。
そう思って身構えたが、優しそうな方がにこやかに話を続けた。
「昨日の説明に少し訂正があってね。日曜は休みにするし、朝練も当面はないから」
「あ、そうなんですか……」
「混乱させてごめんね。楽しい部活にするから、良かったらまた見学に来てね」
「は、はあ」
気のない返事をしてしまう花歩の隣で、別の一年生が口を開く。
「土曜は休みにならないんですかー?」
「い、いや、さすがにそこまではね。一応全国目指してんねんから」
「そうですかぁ……」
『死ぬほど厳しい』が『普通に厳しい』に変わっただけのようだ。
訂正を終えると、先輩たちはいそいそと隣のクラスに向かった。
その表情は余裕がないように見える。
(もしかして、部員集まってへんのやろか)
首をひねりながら教室に戻ると、端の方で勇魚が元気に手を振る。
「花ちゃん、こっちこっち」
「ただいまー」
一日前から少し増えた面子で、ランチの席ができ上がっていた。
花歩が座ると同時に勇魚の口が動く。
「購買ってどんな感じやった?」
「そんなに混んでへんかったけど、種類もあんまりなかったかな。私も明日からはお弁当かも」
「そっかー」
初めての購買ということで興味本位で行ってみたが、何か特筆するようなことはなかった。
おばちゃんが『はいコロッケパン、150万円ね』などとベタなことを言っていたくらいだ。
パック牛乳にストローを差しながら、クラスメイトたちに話しかける。
「何の話してたん?」
「部活の話。丘本さんはもう決めた?」
「あー。昨日スクールアイドル部の見学には行ったんやけどね……」
怖くなって逃げ出しました、とは情けなくて言い辛かった。
勇魚も隣で、困ったように笑っている。
「なんか365日休みなしやって?」
「あ、それは間違いで、ちゃんと日曜は休むし朝練もないって」
「せやったん? けどまあ、やっぱスクールアイドルってハードル高いよね」
「自分のこと、どんだけ可愛いと思てんねんって思われそうやし」
「そ、そんなことないで!」
友達の率直な感想に、勇魚が立ち上がって熱弁する。
「どんな普通の女の子でも絶対輝けるって、この前優勝したとこの人も言うてはったで!」
「ご、ごめんごめん。そんな興奮せんといて」
勇魚がなだめられてるのを眺めながら、花歩はパンの袋を開ける。
どこにでもあるような、ソースの染みたつまらないコロッケパンだ。
(普通の女の子かあ……)
見学すら完遂できなかった自分は、もはや普通以下なのではないだろうか。
もそもそとパンを食べながら考える。
(さすがに、普通以下は嫌やな……)
やはりもう一度だけ、挑戦してみようか。
決心して実行するのが、ただの見学というのが情けないけど。
せめて普通になりたいから――。
* * *
放課後になると同時に、立火は鞄を掴んで教室を飛び出していた。
職員室に直行し鍵を借りて、ぎりぎり走らない速度で部室へ向かう。
(誰か見学に来てるかもしれへんし)
(鍵が開いてなかったら不安に思うやろうし……)
そんな虫のいい想像も。
視聴覚室前の、人影のない廊下を見ると、空しく霧散するだけだった。
「………」
無言で鍵を開け、とぼとぼと部室に入る。
大阪市で三位なのだから、本気でスクールアイドルを目指す子が入学してくると思っていた。
しかし冷静に考えれば、一位と二位の学校が通える範囲にあるのだ。
しかもその二校は上位常連。昨年初めて予備予選を突破したWestaを、敢えて選ぶ理由はない。
(私が思い上がってた)
(本気でない子を断るんやなくて、そういう子も引き込む部でないとあかんかったんや)
カタン
物音に振り返る。きちんと閉めていなかった扉の向こうに、一人の女の子がいた。
立火と目が合った瞬間、慌てたように後ずさる。
胸には緑色のリボン。一年生だ。
逃してなるものか!
飛びかかりたい衝動を抑えて、笑顔を作りながらゆっくりと近づく。
「見学に来てくれたん?」
「あ、は、はい。でもまだ部活始まってませんよね。出直してきますっ」
「ええよええよ。みんなすぐ来ると思うし、中で待っててくれる?」
そう言って扉を大きく開けたが、その子は入ってこようとはしない。
仕方なく部屋の入口を挟んだまま、相手の顔を見て記憶と照合する。
「確か昨日も来てくれたやろ?」
「あわわわ。ごめんなさい、昨日は逃げ出しちゃって!」
「あ、せやったん……」
いきなり頭を下げられてしまった。昨日の自分は、そんなに怖かったのだろうか。
「でも今日も来てくれたんやから、スクールアイドルに興味あるんやろ?」
「いや、その……あるにはあるんですが……私は見学までかなって……」
煮え切らない言葉が続いたが、彼女自身も良くないと思ったのだろう。
少女は顔を上げると、おずおずと立火に目を合わせた。
「あの、入学式のライブ見ました。先輩すっごくカッコよかったです」
「ほんまに!? それは嬉しいなあ」
「けど、せやから余計に、あんな風に私がなれるとはやっぱり思えなくて……」
語尾が小さくなって消えていく。
新入生にいいところを見せようと気合いを入れて練習したのだけど、逆にハードルを上げてしまったのだろうか。
何だか裏目裏目で嫌になるが、くさっている場合ではない。つとめて明るい声で説得を続ける。
「技術なんて後から身に付けたらええねん。私も最初からできたわけやないで。スクールアイドルにはもっと大事なものがあるんや」
「な、何でしょう?」
「それはもちろん、根性や!」
自信満々で言ってのけたが、それを聞いた相手の顔から血の気が引いた。
「こ、根性!? それやったら無理です! 私が一番持ってないものです!」
首を横に振りながら、そのまま一歩後ずさる。
しまった。
完全に委縮させてしまった。選択を間違えたようだ。
そもそも根性なんて言葉、最近の子には合わないのかもしれない。継続力とか遂行力とか、オシャレな言い方にすべきだったろうか?
(――いや、言い方なんか取り繕ってどうすんねん)
迷走しかける思考を、強引に元に戻す。
最上級生として、せめて誠実であるべきだ。
正直に本音でぶつかって……それで駄目なら仕方ない。
少し息を整えて、言葉を続ける。
「あのな、歌やダンスが上達するのって、結構時間かかるやろ?」
「そうですね。たくさん練習が必要やと思います」
「それに比べたら、ちょっと根性出す方が簡単やって思わへん?」
「い……言われてみれば!」
少し納得してくれたようだ。
簡単だからこそ、それだけではどうにもならない事もあると、昨日今日で思い知ったけれど。
それでも特別な才能を持たない、アイドルなんて柄では全くない立火が、スクールアイドルとして二年間やってこられたのは。
その力のお陰であることは、間違いないのだから。
「もちろん指導はきちんとする。楽しんで活動できるように環境は整える。せやから今少しだけ、根性発揮してみいひん?」
「………」
「どうやろか」
黙っている一年生に向けて、そっと右手を差し出す。
言うべきことは言った。
あとは覚悟を決めて、答えを待つだけだ。
長いようで短い沈黙の後……
少女はまたわずかに、後ずさった。
「あの、私ほんまに根性なしなので……」
(あかんか……)
落胆が立火の顔に出てしまう前に。
その後退を助走のようにして――
たん、と、その子は部室の入口を飛び越えた。
驚きに見張られた立火の目に、一気に短くなった距離で、はにかんだ笑顔が映る。
「なので、頑張り方を教えていただけると嬉しいです」
「入部してくれるん……?」
「は、はい……」
まだ迷いの残る、弱々しい返事の後――
一年生は頭を振って、力強く言い直した。
「はい! よろしくお願いします!」
「そっか……そっか!」
それ以上言葉が続かないまま、思わず目の前の相手を抱きしめていた。
突然の事態に、腕の中で華奢な体が硬直する。
「せ、せせせせ先輩っ!?」
「ああ、ごめんごめん。嬉しくてつい」
身を離してから、少女の顔を覗き込む。
まだ少しおどおどした、本人の言う通り根性の足りなそうな子。
それでも、精一杯の勇気を振り絞ってくれた。自分たちにとっての救世主だ。
「名前聞いてもええかな。私は広町……」
「わーい! 部員ゲットやー!」
自己紹介より前に、両手を上げた桜夜が大喜びで飛び込んできた。
その後ろからにこにこ顔の小都子。
いつも表情に乏しい晴も、さすがに少し微笑んでいる。
「ってお前ら、いつから聞いてたんや!」
「えー? 根性が大事ってあたりやったかな」
「まったく、今時そんな精神論はないでしょう」
「やかましいわ、入ってくれたんやからええやろ」
「あ、あの、えっと」
「ほらほら、お茶入れるから座って座って」
「は、はいっ」
メンバーたちから下にも置かない歓待を受けながら、初めての新入部員がWestaの風景に溶け込んでいく。
(うん、予選突破も大事やけど)
(それと同じくらいに――)
あと十一ヶ月の後に、立火はこの学校を卒業する。
その時、この子が入部して良かったと思えるようにすること。
それを最後の一年の誓いにしよう。
誰にも言わないけど、立火の心の中だけの誓いに。
<第2話・終>