勇魚のメールが、徐々に重荷になってきた。
(――そんな事あるわけない!)
最初は否定しようとした。
けれど現実には、徐々に返信が遅れ、文字数も減っていく。
正確には返信が重荷なのだ。
嘘つきの姫水。
周囲を騙し、幼なじみの来訪も拒んで。
そのくせ白々しい、さも健全な日々を過ごしているかのような、そんな文面ばかりを送っている。
それに耐えられなくなってきた。
『勇魚ちゃん、しょっちゅうメール送るの負担じゃない?』
『お互い中学生になって忙しいだろうし』
『無理しなくていいよ?』
一気に書いて、送信ボタンに触ろうとする。
でも結局これも、勇魚を気遣う振りをしただけの、欺瞞そのものだ。
文章を削って、当たり障りのない内容に変えて返信する。
逆に勇魚の方から、遅れを気遣ったメールが送られてきた。
『姫ちゃん、返事は無理せえへんでええよ』
『どんどん活躍が増えてきて、姫ちゃんも忙しいねんな』
『うちは喋らへんと死んでまう人間やから、勝手に送るけど!』
『ほんまに、無理しなくていいからね』
その言葉に甘えてしまいそうになる。
<どうか繋いだ手を離さないでいてね>
あの時のお姉さんは、今どこで何をしているのだろう。
言いつけを守りたいのに、でもこの手を放してしまえば、いっそ楽になれるのだろうかと……
(返事を送らなきゃ)
(送らなきゃ、送らなきゃ――)
* * *
『姫ちゃん、元気?』
『うちらも二年生やね!』
『新しいクラスで、新しい友達もできたで!』
『花歩ちゃんゆうてね、うちは花ちゃん呼んでんねんけど』
『双子のお姉さんやねん! 妹ちゃんにも会うたけどソックリやで!』
『うちもお姉ちゃんやから気が合いそう!』
あれから、一度も返信していない。
(だって私が返信したら、催促したみたいになっちゃう)
(何も返事がなければ、勇魚ちゃんだってもう解放されるはず)
そんな弁解を打ち砕くように、勇魚からのメールは続く。
『花ちゃん、割とおっちょこちょいやねん。今日も体育の時間に……』
『花ちゃんとみさき公園に行ってきたでー。海の近くでペンギンさんがね……』
花歩ちゃんという子とは、ずいぶん気が合うようだ。
羨ましいとは思うが、妬ましいとは思わない。
今の姫水に、勇魚の友達である資格はないのだから。
それなのに勇魚の方は、姫水を友達と信じて、一方的な友情を送ってくれる。
(もういいよ、勇魚ちゃん)
(もう十分だから……)
自己嫌悪に苛まれながらも、それでもメールが届くたび、何度も読み返していた。
秋になって、とうとうメールが途絶えた。
「!」
いつものペースなら来る頃なのに、音沙汰がない。やっと諦めてくれた。
でもまだ油断はできない。少し遅れているだけかもしれない。
朝に晩に、新着メールがないかチェックする。
(うん、来てない)
(来てない……)
その頻度は徐々に増え……
ノイローゼのように、何度も何度も新着を確認した。
(勇魚ちゃん!)
新着0。
望んだ結果のくせに、いざ起きると発狂しそうだった。
ベッドの上でのたうち回りながら、悲鳴のように詫びる。
「ごめん、ごめんなさい勇魚ちゃん」
「全部私が悪いの。いつか直接謝るから、償うから、だから」
「ロープを、離さ、ないで――」
どれだけ勝手なことを言っているのだろう。
先に離したのは自分のくせに、そちらは繋ぎ続けろなんて。
スマホが鳴った。
必死の願いを込めて、画面を確認する。
泣きそうになる。勇魚からのメールだった。
内容はいつもの日常報告。
遅れたことについては特にない。もう読んでいないと思ってるのかもしれない。
花歩に関する話が、普段より少し多かった。
一気に読み終わってから、ベッドの上で一息つく。
(せめて「読んでる」の一言くらい返すべきかな……)
(でも、それじゃ次のメールの催促になっちゃう……)
悩んでいるところへ、部屋の扉が叩かれた。
「姫水! 姫水!」
開けると、母が喜色満面で立っている。
「どうしたの、お母さん」
「事務所から電話があったの! この前のオーディション、受かったって!」
「そうなんだ」
「今までで一番大きな役よ! いやあ、頑張ってきたかいがあったわねぇ」
何を無邪気に喜んでいるのだ。
自分がこんなことになったのも、元はといえばこの人のせいだ。
殴ってやりたい。罵ってやりたい。
けれどそんな怒りですら、他人事のように遠ざかり……
いつもの惰性で、相手が望む通りの反応を返した。
「嬉しいな。私、一生懸命頑張るね」
「ううっ、姫水ったら立派になって。あなたは自慢の娘よ!」
母が去ってから、机に座って頭を切り替える。
受かったのは『Rな女』という、全国ネットで放送されるドラマだ。いつか望んだ通り、勇魚にも見てもらえる。
今度こそ成果と言えるはずだ。
それを得るために、ここまで色々と犠牲にする必要があったのか、今となっては疑問だけれども……
とにかく高校生になる前に、一つの結論は得られそうだ。
* * *
『姫ちゃん、雑誌で見たで!』
『こっちでも放送されるんやね』
『テレビの画面越しでも、姫ちゃんに会えるのめっちゃ嬉しい!』
中学三年生が始まる日の朝。
途切れないロープに安堵するが、気の重いことが二つある。
直接勇魚に伝えるべきなのに、雑誌経由になってしまったこと。
そして本来ならもう撮影に入っているはずが、諸事情とやらで遅れていることだ。
待ち望んだ成果なのに、先行き不安でしかない。
エスカレーター式の中学では、最後の年でもあまり緊張感はない。
新しいクラスで、周りの子たちと卒なく挨拶を交わす。
姫水の内面とは裏腹に、外から見る彼女は順調そのものだ。
大きな役を控え、好意と激励がクラスメイトたちから注がれる。
それが一段落した頃、後ろの席から上ずった声がした。
「ふ、藤上さん!」
振り返ると、長い黒髪を真ん中で分けた子が、上気した頬でこちらを見ている。
「ああ、初めましてよね。私は……」
「藤上姫水さん! この学校で、あなたを知らない人なんていないわ」
「そう? そんな事はないと思うけど、でもありがとう」
「わ、私、広小路弥生っていいます。ずっとあなたに憧れてたの。こんな近くになれるなんて夢みたい」
「え……」
後に姫水にとどめを刺すことになる存在が……
清楚な少女の姿で、振り絞った勇気を言葉にした。
「私と、お友達になっていただけませんか?」
* * *
「あなた、藤上さんに馴れ馴れしいんじゃない!?」
「全くよ。お友達だなんて、抜け駆けする気!?」
校舎裏で、弥生が女生徒に囲まれている。
ここは歴史ある有名校だったはずだが、やってる事が不良と変わらない。
木陰に隠れた姫水は、その少し上空から俯瞰しながら、どうしたものかと考えあぐねていた。
弥生はといえば気弱そうな見た目と裏腹に、強い意志の瞳で反論した。
「ひ、姫水さんとお友達になって何が悪いの!? あの子は友達を作るなって言うの!?」
「下の名前で呼ぶなんて、どこまで厚かましい……!」
「藤上さんは容姿端麗、成績優秀。スポーツも得意で、何よりプロの女優さま!」
「貴方とも私とも、住む世界が違うの!」
「そんなの、勝手に壁を作ってるだけよ! わ、私は一年生の時からあの人を見続けてきたの。絶対、友達になることを諦めないから!」
「このアマァ~!」
助けに行かざるを得ない。
校舎に無数ある窓の、どこから誰が見ているか分からない。
ここで離れたら、ああまで言ってくれる子を見捨てたと、噂を立てられる可能性がゼロではない。
「皆さん、これは何の集まりかしら?」
「ひいっ! 藤上さん!」
狼狽する女生徒たちをよそに、弥生の顔には歓喜が浮かぶ。
「姫水さんっ……!」
「ち、違うのよ藤上さん」
「この子が図々しいから、貴方の負担になる前に釘を刺そうと……」
「どうしたの、貴方たちらしくもない。こんな校舎裏で隠れてやってる時点で、後ろ暗いことは自覚しているのでしょう?」
何人かの生徒はそれでしゅんとなるが、もう何人かは納得できない顔をしている。
藤上さんのためにしているのに!とでも思っているのだろう。
姫水は頬に手を当て、哀しみの顔を貼りつけた。
「ああでも、困ってしまうわね」
「な、何か?」
「いえ自分のことで恐縮なのだけど、こんな場面を雑誌に撮られでもしたら、世間からどんな目で見られるか……。役を降ろされてしまうかも……」
「ひいぃ!」
実際にはパパラッチが出るほどの知名度はないが、生徒たちへの効果は絶大だった。
姫水の信奉者たちは残らず狼狽し、口々に謝罪を吐き出す。
「ごめんなさい! もう二度としません!」
「そうしてもらえると助かるわ。それではご機嫌よう」
「ご、ご機嫌よう~!」
逃げていく女生徒に目もくれず、姫水は校舎の壁に使づくと、腰が抜けかけている弥生を助け起こした。
「ごめんなさいね弥生さん。私のせいでこんなことに」
呼んでくれと頼まれているので、下の名前で呼ばざるを得ない。
「と、とんでもないっ! こんな風に助けてくれて、まるで白馬の王子様みたい!」
「私のそばにいると、また貴方に迷惑がかかるわ。これからはもう……」
「そんな悲しいことを言わないで!」
穏便に距離を置きたいという姫水の内心を、弥生は純粋な善意で拒絶した。
彼女は幼稚園から有名私立の、箱入りのお嬢様と聞いている。
純度100%のその瞳は、うっとりと夢見るように潤んでいた。
「一年生の春、あなたのお芝居を見に行ったわ」
「あの劇、見てくれたの。小さい劇場で、あまり話題にもならなかったのに」
「でも私には、世界が一変したようだった。高校生や大人たちの中で、同い歳の子が一番輝いて見えた」
「光栄だけど、買い被りよ」
「ずっとお近づきになりたかった。いつも周りの言いなりだった私が、初めて持った願望なの」
両手を組んでずずいと近づいてくる好意は、ある意味悪意より厄介だった。
(残念だけど弥生さん、貴方の目は節穴よ)
今の姫水に輝くものなんてあるわけがない。そう見せかけているだけ。人形に恋をしたようなものだ。
それでも善意ではあるので、無下にはできない。
そこまで望むなら、友達を演じてあげないと。
「――ありがとう弥生さん。あなたとお友達になれて嬉しいわ」
中学校最後の一年間、せいぜい騙されて、気分よく卒業してもらおう。
* * *
『最近はAqoursってグループの曲をよく聞いてんねん』
以前からスクールアイドルの話は時々出ていたが、近頃特にはまったようだ。
高校受験を控え、勇魚にも心の支えが必要なのだろう。
『伊豆の田舎にある小さな学校で、廃校から救おうと頑張ってるんやって!』
『姫ちゃんが教えてくれたμ'sと一緒やね!』
『うちも千歌先輩を見習って、勉強頑張るで!』
なのに心の支えどころか、傷つけるしかできない自分は何なのだろう。
一度だけ会ったμ'sの姿が、ずっと遠くに感じる。
自業自得とはいえ、かけ離れた場所に来てしまったものだ。
「姫水さん、メール? どなたから?」
唯一の精神安定剤なので、学校でもつい読んでしまったところを、後ろの席から弥生が声をかけてくる。
「………」
「ご、ごめんなさいっ! つい立ち入ったことを……」
「ううん、別にいいのよ」
そう答えるしかない。本当にこの人は、おずおずしながら結局は立ち入ってくる。
クラスメイトからも苦々しげな視線を浴びているが、当人の目には姫水しか映っていなかった。
「大阪の……幼なじみなの」
「えっ。姫水さんが大阪にいたのって、ずいぶん前なのでしょう?」
「もう六年前になるわ。記憶もかなり薄れてしまったけれど」
「それなのに連絡を取り合っているの? 素敵! 素晴らしい友情ね!」
「――ええ、そうね」
弥生にその気はないにせよ、とんだ精神攻撃だった。
意識を覆う膜が厚くなり、現実を遠ざける。
この頃になると、さすがに姫水も薄々気づいていた。
今起きている感覚は、見たくない現実から身を守るための防衛行動なのだと。
「お名前はなんておっしゃるの?」
「佐々木――勇魚ちゃん」
その防衛行動をもってしても、彼女の名前を呼ぶのは神経が切り刻まれた。
どれだけ長い間、口にしたことがなかっただろう。
できれば心の奥底にしまっておきたかったのに。
「可愛らしいお名前ね。私もいつかお会いしたいわ」
「――そうね、機会があったらね」
「藤上さん、少しよろしいかしら」
他の子が声をかけてきたので、何とかその場を切り抜けた。
返信について、来訪について、もし聞かれたら上手く誤魔化せるだろうか。
もっと演技に集中しないと……。
* * *
ようやく撮影が始まったが、どう見てもスケジュールに無理があった。
直前に送られてきた脚本も、明らかに辻褄が合っていないし、登場人物の言動も不快きわまる。
姫水が観察する限り、スタッフたちの認識は一致しているようだった。
『このドラマはコケる!』
それでも姫水に現実感はないので、特に痛みもない。
ここ最近、疎外感はほぼ常時発生していた。
全体を俯瞰しながら、姫水という名の操り人形を外から操作し続ける。
自分自身がどんどん削られていく感覚があるけど、これが最後かもしれないから。
そしてぎりぎりに完成した第一話が放送され……
「この糞脚本家がぁぁぁぁ!!」
家で一緒に見ていた母が、テレビの前で絶叫した。
「せっかくの姫水のキャリアに! 何てことしてくれてんねん!」
姫水は事前に内容を知っていたので、今さら感想はない。
(お母さんはずるいな)
まだ大阪弁を使える母に、そう思ったくらいだ。
自分はもうすっかり忘れてしまったのに。
部屋に戻り、ネットで炎上している評価を眺めていると、勇魚からメールが来た。
『姫ちゃん、綺麗になったね!』
気を遣ったわけではない、素直な感想であることは、六年経った今でも信じられた。
『昔も綺麗やったけど、もっと見違えた感じや!』
『背も伸びてんねんなー。うちは全然伸びひんねん』
『演技もめっちゃ上手やし、いっぱい頑張ったんやねって思う。うちも頑張らな!』
『あ、ドラマはつまんなかったけど、目的は姫ちゃんやからOKや!』
正直な言葉に、力なく笑ってしまう。
一方で翌日の学校では、腫れ物のような扱いだった。
「藤上さんの演技『は』素晴らしかったわよ!」
「そうそう、儚さの中に強さを秘めた姿が……」
気を遣いながら誉めてくれるクラスメイトに、当たり障りなくお礼を言う。
多少は落ち込んでいる風を装って。
「姫水さん、大丈夫?」
演技が過ぎたのか、弥生から本気で心配されてしまった。
「大丈夫よ。私は私の役を、精一杯務めるだけだから」
「そ、そう。でも辛い時は言ってね」
「ありがとう、そうさせてもらうわね」
「……あのね、姫水さん」
弥生はまだ何か言いたそうにしていたが、上手く言葉にできなかったようで、困ったように笑った。
「まだ撮影は続くのでしょう? 無理はしないでね」
「ええ、弥生さんは本当に優しいのね」
話を打ち切るように前を向く。
この子に助けてもらうことなんて何もない。
(あなたに私の何が分かるというの)
自分で隠しておきながら、そんな勝手なことを考える姫水の後ろから……
弥生の視線は注がれ続けている。