「お母ちゃん! ちょっと東京行ってくる!」
「はあ!?」
居間で遊んでいた母と妹が、同時に顔を上げる。
「うちもいくー」
「ごめんね汐里、また今度や! 姫ちゃんのピンチやねん!」
「姫水ちゃん? え、でも、会えるん?」
この前一緒にドラマを見た母には、姫水は既に別世界の人間となっているようだ。
あまりに時間が経ちすぎた今、それも仕方のないことなのだろうけど。
「当たり前や! 友達に会えへんわけないやろ!」
「お金はあるの?」
「あるで!」
いつか会いに行けることを信じて、中一の時に貯めたお金はそのまま残していた。
財布とスマホ以外は何も持たず、家を飛び出す。
手紙に何度も書いたおかげで、姫水の住所は暗記している。
あびこ駅まで全力で走り、御堂筋線へ!
『今、新幹線に乗ったで!』
新大阪を出たばかりの車内で、姫水へメールを送る。
返事は来ない。
それでも二時間半で品川に着くのだ。今は我慢だ。
(姫ちゃん)
(うちのこと、忘れてへんかったんや)
(良かった、いや、良かったとか言うてる場合とちゃうけど!)
矢のように飛んでいく新幹線の中、何とか一時間を耐えた。まだ名古屋だ。
じりじりする心を抑え、やる事もないので、今まで送ったメールを読み返してみる。
(これ、全部読んでくれてたんやな)
(色んなことがあったなぁ……)
(姫ちゃん)
(会ったら、いっぱい話しよな)
そろそろかと思ってスマホで地図を開くが、位置情報はまだ静岡を出ていない。
「あーもう、静岡って何でこない長いんや……」
その時、見覚えのある地名が目に入った。
(沼津!)
思わずデッキに出て、南側の窓を確認する。
受験を乗り切る力を与えてくれた、九人のスクールアイドルたちの住む場所。
でも今は降りられない。感謝の心を残しつつ、列車は先へと進む。
反対側の窓から富士山へ目を向けたが、雲に隠れて下半分しか見えなかった。
いつか必ずまた来よう。
次は姫水と一緒に!
* * *
「ひ、姫水。そろそろ元気になった?」
母が恐る恐る部屋を覗くが、娘は死体のように動かないまま、じっと床を見つめていた。
その手からはスマホが滑り落ちている。
怖気づいて、様子見という名の先送りを続けようとした時だった。
ピンポーン
チャイムが鳴り、苛立たしげに居間へ向かう。
(もう、誰なのこんな時に……)
不満顔でモニターを見ると……
『おばちゃん! お久しぶりです、勇魚です!』
「ひい! 勇魚ちゃん!?」
幽霊でも見たかのように、姫水の母はその場でのけぞった。
七年も経っているのに、なぜ今さら!
切迫した勇魚の大声が、インターホン越しに響く。
『開けてください! 姫ちゃんに呼ばれたんや!』
「ひ、姫水が……?」
『”助けて”って!』
その言葉の前に、マンションのロックを開ける以外の選択肢はない。
程なくして、五階にある藤上家の玄関が勢いよく開く。
「おおきに、おばちゃん!」
挨拶はしつつも脇目も振らず、靴を脱ぎ捨てた勇魚は姫水の元へ直行した。
扉が半開きなので、部屋はすぐに分かった。
名前を叫びながら、一目散に中へ飛び込む。
「姫ちゃん!」
そこには十五歳の姫水がいた。
ベッドに力なく体を預け、横たわったままで。
「あ……」
ずっとずっと会いたかった相手。
なのに勇魚に歓喜も旧懐もなかった。
光を失った目。
力を失った手足。
七年ぶりに再会した幼なじみの姿は、あまりに変わり果てていた。
「……姫、ちゃん」
泣き出したくなる心を抑えて、ゆっくりと近づく。
しゃがんで親友の手を取ると、ぞっとするほど生気がなかった。
それでも、握られた感触に反応して、姫水の目が僅かに動く。
「……いさなちゃん……?」
「そやで。うちや」
「……そっか、私……勇魚ちゃんの幻まで見て……」
「もー、冗談言うてる場合とちゃうで」
それ以上は何も言わず、姫水の体をそっと抱きしめた。
ここにいるよ。
そう直接伝えるために。
姫水は震える腕で抱き返し、少しの間の後、相手の胸の中ですすり泣き始めた。
勇魚の手が、その頭を優しく撫でる。
いつか大阪港でしてもらったように。
「ひ、姫水……」
うろたえたまま扉の近くで立ち尽くす母親に、勇魚の表情が一変し、睨みつける。
「おばちゃん。反省してください」
「あ……」
「何があったのか知らんけど、でも反省してください! 何でうちの大切な友達が、こないな事になってるんや!!」
「そ、それは……」
言い放ってから、表情は再度悲痛へと変わり、姫水をもう一度抱きしめた。
「ごめん姫ちゃん、うちも反省する。
もっと早く来たら良かった。
誰になんて言われようと、会いに来たら良かったんや。
うち、普段厚かましいのに、何で肝心なとこで遠慮してもうたんや……!」
違う、というように首を振りながら、姫水の嗚咽は止まらない。
母はすがるような顔で、娘の背中に呼びかけた。
「ね、ねえ姫水。お母さんよ、分かる……?」
姫水は動きを止め、ゆっくりと振り返る。
その瞳に敵意はなかった。
愛情もなかった。
どこか遠い遠い世界の、他人を見る目だった。
母親はがくりと肩を落とすと、力なく言った。
「……病院に行きましょう。勇魚ちゃん、悪いけど一緒に来て……」
* * *
車の中でも、病院に着いてからも、姫水は勇魚の手を握ったままだった。
離そうとすると、子供のようにいやいやをするので、勇魚も同行して診察を受ける。
診断は離人症。
明確な治療法はない。
しかしストレスが大敵なのは確かで、仕事は休むよう強く勧められた。
待合室で会計を待っている間、ようやく落ち着いた姫水が、改めて隣の幼なじみを見る。
その顔に手を伸ばす。
頬に触れると、勇魚はくすぐったそうに笑った。
先ほど診断された離人感は、この子にだけは感じない。
確かに現実にいると、素直に信じられた。
「勇魚ちゃん」
「なーに、姫ちゃん」
「……全然、変わってない」
「せやねー。あんまり成長できひんかった!」
笑い飛ばす勇魚に、長い間この顔を曇らせていたことを思い出す。
姫水に再会を喜ぶ資格などなく、苦しそうにうつむく。
「ごめんなさい。返信、ずっとしなくて」
「ええよええよ、姫ちゃんも忙しかったんやもの」
「違うの、私は変わっちゃって……昔のままでいられなくて。
いつかの夏休みに来るって言ってくれた時も、本当は会うのが怖くて……!」
「……今はええから、まずは病気治そ?」
姫水の髪を撫でた勇魚は、隣の母親に目を向ける。
「おばちゃん、大阪に戻るわけにはいきませんか」
「そ、それは……」
「無理ならええです。うちが東京に引っ越します」
あっさりと言う幼なじみに、姫水は慌てて反対した。
「だ、駄目よ勇魚ちゃん! あんなに受験頑張って、もうすぐ合格発表で……!」
「姫ちゃんがしんどい思いしてるんや。そんなん気にしてる場合とちゃうやろ」
「花歩ちゃんは!? おじさんにおばさん、汐里ちゃんも!」
「大丈夫や! ちゃんと話したら分かってもらえる!」
明るく笑う勇魚に、姫水の母は逆に戦慄した。
この子は姫水のためなら、何でも平然と捨ててしまえる。
よその家の中学生に全部負わせるわけにはいかず、仕方なしに娘に尋ねる。
「姫水は、大阪に戻りたい?」
優しい目で勇魚が見守る中、姫水はしばし逡巡した。
資格がないのは分かっている。
それでも、唯一残った本当の気持ちを見つけた。
七年前の姫水が抱いたそれと、何ら変わらないものを。
「……勇魚ちゃんのそばにいたい」
* * *
卒業式前日。
式のリハーサルに現れた姫水に、講堂は騒然となった。
「藤上さん! もう大丈夫なの!?」
「一体何があったの!」
「ごめんなさいね、急に休んでしまって。何も心配しないで」
駆け寄る同級生を手で制してから、姫水は弥生の元へ歩を進める。
彼女は姫水とは目を合わせず、その場に立ち尽くしていた。
「弥生さん、あなたにも迷惑をかけてしまったわね」
「いえ……そんな……」
もう二人が友達ではないことを、二人の他には誰も知らない。
強張った彼女の顔に身を寄せて、小さく耳打ちした。
「放課後、お庭に来てもらえる? あなたには全部話すから」
庭園の灰色の椅子に座り、説明を聞くにつれて、弥生の顔は青くなっていった。
話が終わる前に、とうとう身を投げ出して土下座する。
「ごめんなさい!」
「弥生さん。制服が汚れちゃう」
「病気だなんて思わなくて、私、私、あなたに酷いことを……!」
「違うわ。あなたのお陰で助かったの」
小刻みに震えている弥生を助け起こし、汚れを払って、再度椅子に座らせる。
「あなたが指摘してくれなかったら、私の異常に誰も気づけなかった。
お医者様は言っていたわ。あのまま悪化していたら、多重人格とか、より重度の障害に進行していたかもしれないって。
弥生さんは私の恩人よ」
「そんな……そんなの……」
「それに病気のせいにはできない。私は自分の意志で、演技を続けていたんだから」
あの後、一晩泊まっていった勇魚と、色々な話をした。
お互いの七年間のこと。それぞれの周囲の人たちのこと。μ'sやAqoursのこと。
けれど翌日に勇魚が帰った途端、離人感はまた発生した。
勇魚のことは実感できても、それ以外は自分を含めてあやふやになってしまう。
もう演技なんてしていないつもりだが、本当にそうなのかよく分からない。
「明日皆にも言うけど、もうすぐ大阪に引っ越すの」
「!」
「幼なじみのいる場所で、この病気を治してくる」
「そう……そうよね。このまま東京にいるより、その方がいいわよね……」
「でも、いつか戻ってくるつもり」
別れを覚悟した弥生は、姫水の言葉に驚いて顔を上げる。
何も良い思い出がなかったであろうこの東京の地を、再び訪れてくれるのか。
「い、いいの……?」
「ちゃんと治って、現実を取り戻せたらね。その時はきっと、あの質問に答えられると思う」
『本当に私のこと、友達と思ってる?』
宙に浮いたままのあの問いに、真実の気持ちを返さないといけない。
そのためだけにでも、ここに戻らないといけないのだ。
「それは弥生さんの望む答えではないかもしれないけど――
許してもらえるなら、それまで待ってくれる?」
弥生は涙を拭ってうなずくと、姫水の後ろの空に目を向けた。
「今のあなたは、そこにいるのね」
「うん。口で何を言っても、どこか離れた場所から見てる。
あなたを現実だと思おうとしても、どうしても思えない」
「私が友達と信じていたのは、すべて演技だった」
「そうね。私はずっと嘘をついていた」
「けれど嘘だったとしてもね、姫水さん。私にとってこの一年は、生まれて初めての彩りに満ちていたの」
弥生は立ち上がると、姫水の前で丁寧にお辞儀をした。
「元気でね。また会える日を楽しみにしてる」
「弥生さん……」
「きっと私、本当のあなたのことも好きになると思う!」
晴れやかに微笑む彼女の向こうに、春の大気が見えた。
手続きや仕事の引継ぎで、引っ越しは四月下旬にずれ込むことになった。
社長は言った。
女優に戻る気があるなら、タイムリミットは一年間。
それ以上の間を開けたら、もう芸能界に居場所はないと。
本当に役者を続けたいのかどうかも、今の自分には分からない。
まずは、そこから見つけ出さないといけない。
誰よりも何よりも大切な、幼なじみの待つあの町へ。
失くしたものを取り戻しにいこう!
<第9話・終>