難波に向かう地下鉄の中で、勇魚は一方的に喋り続けた。
どれだけ晴が塩対応だろうとお構いなしに。
「というわけで、うちはAqoursのおかげで高校受かったんです!」
「ふーん」
「先輩って頭いいんですよね! うちは悪いから、先輩みたいな人って尊敬します!」
「あ、そう」
「姫ちゃんも勉強できるんですよ! うちに姫ちゃんの半分でも脳みそがあればなー」
「姫水の病気はその後どうなんや」
ようやく反応した晴の重い話題に、勇魚の勢いは消失し、しゅんとして下を向く。
「特に変わりはないみたいです。良くもならず悪くもならず……」
「そうか……」
このまま治らなければ部としては来年も助かるが、さすがにそれを期待するほど晴も外道ではない。
現実感を取り戻した上でどうするのか決めて欲しいし、その点では勇魚の思いと一致していた。
「全力でライブやったら治るかもしれないですね! スクールアイドルにはそんな力があると思います!」
「あるわけないやろ、非科学的な。けどまあ、治療法が分からない以上、色々やってみるしかないか……」
難波駅を降りると、今日も人でごった返している。
最近は外国人観光客も増えて、スーツケースが周囲を行き交っていた。
ひらめいた勇魚が、子犬のように晴にすり寄る。
「先輩先輩! 手、繋いでいいですか!」
「何で?」
「うち小さいので! 迷子になったら困りますし!」
「知らん。はぐれたら遠慮なく置いていく」
「とほほ……」
駅から歩いて数分。戎橋筋商店街の一角に生地屋がある。
一階から三階まで全部生地という大きな店だ。
結局はぐれることもなく到着した二人の間で、まずは指導が始まる。
「ええか、大事なのは一も二もなく値段や。
布の品質なんて、ライブで遠目に見ている客には大して分からへん。
安い布で節約すれば、残った金で装飾を増やせる余地も出てくる」
「なるほど! けどライブ中に破けたりしないですか?」
「この店なら一番安いのでもそこまでヤワとちゃう。破れるとしたら、むしろ縫製がいい加減な場合やな」
「うち縫い物は結構得意です!」
「それは何より」
店に入ると、とにかく大量の生地サンプルが所狭しと吊してある。
勇魚は大喜びで、その小さい体で布の間を元気に歩き回った。
「先輩、この色でチェックは高いのしかありません!」
「ボーダー柄で代用するしかないな。姫水には諦めてもらおう」
「ううっ、堪忍や姫ちゃん。みんな貧乏があかんねん……」
「そういう人情芝居はええから」
店員を呼んで必要な長さを伝え、店の奥で裁断されるのを待つ。
無事必要な量を確保し、レジで会計を済ませようとした。
「7236円になります」
「はい」
一人分なら大したことはないが、六人分となると一気に値が張る。
いずれ八人分になるのだから、今以上に切り詰めなければ……と考えながら晴が財布を開いた時だった。
隣で見ていた勇魚が、いきなり身を乗り出してレジのおばさんと話し始めた。
「おばちゃんおばちゃん! うちら部活で衣装作んねん!」
「へえ、部活やったん。演劇部とか?」
「スクールアイドル部やで! えへへー、せやから少しまからへん?」
「お、おい勇魚」
いきなり値切り始めた後輩に、さすがの晴も少し慌てる。
いくら大阪が値切りの文化とはいえ、こんな大型店でやる奴は見たことがない。
店員も困っているところへ、勇魚は手を合わせて愛嬌を振りまいている。
「お願いおばちゃん、この通りや!」
「うーん、そうやねぇ……」
「うちらあんまり部費ないねん! でも綺麗な生地で衣装作って踊りたいんや!」
「しゃあないなぁ、学生さんやし……ほな七千円でええわ」
「やったー! おおきにおばちゃん!」
「す、すみません……」
善意と人情の生暖かさは、晴にとっては苦手な状況だ。
気まずい思いで会計を済ませ、そそくさと店を出た。
人が行き交う商店街の中、呆れた目を後輩に向ける。
「お前ほんま厚かましいやっちゃなあ……」
「えへへー、けど一円でも節約するのがマネージャーなんですよね!」
「まあそうやな……今回は助かったと素直に認めとくわ」
「わーい! 晴先輩に誉められたー!」
万歳している勇魚に、晴はやれやれ顔で歩き出す。
駅へ戻ろうとしたところで、ドラッグストアの前で足を止めた。
「おっと、蚊取り線香も買うとかな」
「え、部室に蚊が出るんですか?」
「窓閉めててもどっかから入ってくんねん。ちょっとそのへんで待ってて」
「うちが買うてきますよ!」
「ええから、荷物番しとけ」
「はいっ」
通行の邪魔にならないよう路地裏に身を潜ませ、店に入る晴を見送る。
布地の入った紙袋を、しっかり番犬のように握りながら。
見上げた空は五月の快晴だ。初めてのお使いは楽しかったし、今日はなんていい日だろう……
「あれ、勇魚やないか」
不意に名前を呼ばれた。
はっと我に返ると、三人の女子高生がこちらを見ている。
その改造しまくりの制服は、住之江女子のものではない。
「あ……ひ、久し振りやね。元気やった?」
勇魚の、中学時代の友達――
友達のはずだった。
三人は冷ややかな目で、ぞろぞろと路地裏に入ってくる。
「何しとんねん、こんなとこで」
「あ、部活の買い出しやねん。今ちょっと先輩と……」
「そういや住之江女子行ったんやったっけ」
「勇魚の分際で生意気ー」
「え、えへへ……そういう言い方しなくてもええやん」
少し引きつった笑みを浮かべる勇魚を、女子たちが取り囲んだ。
通行人から勇魚を隠すようにして、うち一人が顔を近づけてくる。
「ところでさあ、ウチらちょっと困ってんねん。お金貸してくんない?」
「え、でも……」
笑顔を貼り付けながら、勇魚は目を左右させる。
逡巡したのは怖いからではなく、相手を不快にさせないかという不安からだが……
少しうつむいて、何とかして絞り出すように言った。
「あの、前に貸したお金、まだ返してもろうてへん……」
「ああ!?」
いきなり大声を出され、小さな体がびくりと跳ねる。
もう一人が勇魚の肩へ手を置くと、猫なで声でにじり寄ってきた。
「あのさあ、ウチら友達やろ?」
「も、もちろんや! 仲良しさんやで!」
「勇魚は友達のためなら何でもしてくれるんやろ? ほんま友情にあつい子やもんなあ?」
「それは……」
後ろで三人目がプッと吹き出している。
その目が勇魚の握る紙袋へと止まり、怪訝な顔で指さした。
「ん、何それ」
「あ、それはスクールアイドル部の……」
勇魚が止めるも、体格差もあって簡単に奪われてしまう。
袋の中身を見た女子たちは、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「なんや、ただの布っきれやないか」
「けどまあ、ネットで売れば多少は金になるんとちゃう?」
「ま、待って! それだけは!」
悲鳴じみた声で、勇魚は必死に懇願する。
「お願い、それは大事な生地やねん。みんなで衣装を作って、ライブをするための大事な……」
だが相手には何も響くことはない。
三人はニヤニヤと笑いながら、嫌味たらしく責め立ててきた。
「何、友達より部活を取るの? うっわサイテー」
「悲しいなあ。女の友情なんてしょせんそんなモンなんやなあ」
「う、ううう……」
(どうしよう。どうしようどうしよう)
(一応財布は持ってきたし、うちがお金出したら丸く収まるんやろか)
(でも、ほんまにそれでええんやろか)
(晴先輩……!)
「おい」
路地裏に響いたのは、氷点よりも低い声。
不良たちが振り返ると、目つきの悪い女子高生が凍てつく視線を向けていた。
「お前ら、うちの部員に何しとんねん」
* * *
「あー?」
「晴先輩!」
勇魚の声に相手の正体を理解し、三人は舐め切った態度を返す。
「へー、先輩っすか。ウチらは勇魚の友達やねん」
「これは友達同士の話なんや。部外者は引っ込んでてくれます?」
「なー勇魚?」
「え、えと……」
肩を抱かれ、確認を求められた勇魚は答えることができない。
友達ではない、なんて口が裂けても言えない。せっかく晴が助けに来てくれたのに。
だが当の晴は勇魚の返事など待つ気はなく、さっさと端的に決め付けた。
「嘘をつけ」
「はあ!?」
「ほんまに友達やったら、そんな脅すような態度や馬鹿にした目を向けるわけないやろ。
勇魚はお前らを友達と思っているかもしれないが、お前らは勇魚をカモとしか思っていない」
「な、ちょっ……」
ずばずばと本当のことを言われ、さすがに不良女子たちも狼狽する。
それを相手にせず、晴は自分の後輩を見て質問を投げた。
「勇魚、事実だけを話せ。こいつらにいつから何円貸してるんや」
晴の視線に温かさなど全くなく、勇魚に対しても怒っているように見えた。
蛇に睨まれた蛙のように、正直に言うしかない。
「半年前に、五千円です……」
「それを未だに返していない、と」
「な、何やねん、文句あるんか!?」
「いつでもええって言うたのは勇魚やで!」
晴は呆れたように嘆息する。どうせ督促も全くしていないのだろう。
勇魚も悪いが、その百倍はこの三人が悪い。
「民法591条1項により、期限のない借金は相当の期間を定めて返還の催告ができる。勇魚、一週間以内に返せって言うとけ」
「え、でも……」
「こいつらがこんな風になったのは、お前にも多少は責任がある。
お前の方だけでも友達と思ってるんやったら、少しは当人のためになることをしろ」
「あの、でも、ほんまに困ってるのかもしれへんし……」
「せ、せやでー勇魚。ウチらマジで困って」
「深刻に困窮している人間が難波で遊んでるわけないやろ。常識的に考えろ」
ぐうの音も出ない正論に、勇魚は少しの間迷っていたが、ようやくおずおずと言うべきことを口にした。
「あ、あの、やっぱり半年も音沙汰ないのっておかしいと思う……。一週間、ううん一ヶ月以内でええから……」
「勇魚てめえ!」
三人は激高するが、勇魚を相手にしても無駄だと思い直す。
この状況の原因――晴に向けて、敵意を込めて一歩近づいた。
「おい先輩、調子こくのもええ加減にせえよ」
「こっちは三人いるんやで! そんな細腕で勝てると思てんのかコラア!」
「アイドル部やったっけ? 暴力事件なんて起こしたら、一気にイメージダウンやろなあ!」
「なっ……や、やめて!」
勇魚が泣きそうな顔で止めようとする。みんなの夢、ラブライブ全国出場が、もしこんなことで駄目になってしまったら……!
だが晴は平然としたものだ。
何ら表情を変えず、射るように言葉の矢を繰り出した。
「日本は法治国家や。そちらが暴力を振るうなら、私は躊躇せず被害届を出す」
「んなっ……」
「お前らの名前も学校も、勇魚経由ですぐ特定できることを忘れるな。警察の追及をかわす自信があるなら止めへんけどな」
「こ、このアマぁ!」
「ね、ねえ、もう行こ? こいつちょっとヤバいで……」
ようやく一人が気付いたようだった。晴が一般的な女子高生ではないことに。
あとの二人も、歯噛みしながら目を右往左往させていたが……
「くそっ、覚えとき!」
ありきたりな捨て台詞を残し、三人揃って逃げるように走り去っていった。
そちらに目を向けることもなく、呆然としている勇魚に晴は尋ねる。
「五千円、どうする?」
「え……」
「自発的に返すとは思えへんし、取り返す気なら協力するけど」
「それは……いえ、もういいです……」
「そうか。まあ取り返すにもエネルギー使うからな」
晴は淡泊に応じたが、勇魚は自分の言葉にダメージを受けていた。
さすがにこの状況で、『きっといつか返してくれます! 信じて待ちます!』とは言えなかった。
自分の善意が踏みにじられたことを、自覚するしかなかった。
「勇魚」
地面に倒れている生地の袋を取り上げながら、晴は抑揚のない声で言う。
「あいつらは悪意が分かりやすいからまだ対処しやすかった。
けど、善意を装って近づいてきたらどうするんや。
本当に困ってる、助けてくれと泣きつかれたら金出すんか」
「だ、出します……友達が困ってたら、助けるのが当たり前やもん……」
「それで身ぐるみ剥がされて、裏で馬鹿にされながら散財されていたとしても?」
「……それは……」
「お前ほんまに、よく今まで無事に生きてこられたな……」
本日何度目かの呆れ顔をするが、これ以上責めても仕方ない。
とりあえずは今後のことについて忠告する。
「金のこと、どうせ花歩にも話してへんのやろ」
「し、心配かけたくなかったので……」
「自分が逆の立場やったらどう思うんや。
今後は何でも花歩に相談しろ。あいつならいつでも常識的な意見を言うてくれるはずや」
「……はい……」
「ほな行くで」
「はい……」
重い足を引きずるように、勇魚は歩き出す。
数分前まで明るく元気に笑っていた子が、少しの悪意で簡単にボロボロにされた。
だが、こんなことは現実にはよくあることだ。
そう考えつつ、さっさと学校へ戻ろうとする晴だが……
「あ、先輩。荷物持ちます!」
勇魚が慌てて駆け寄ってくる。
こんな時までそんな献身か。
軽く頭を振って、晴は蚊取り線香が入ったレジ袋の方を差し出す。
重い布地は自分で持ったままで。
「じゃあこれ」
「あ……はい」
勇魚も抵抗する気力はなく、レジ袋へと手を伸ばす。
その手は、まだ小さく震えている。
それを見たからか、元々そうする気だったのか。
袋を受け取った後も、晴の手は差し出されたままだった。
「ほら」
「え?」
「手」
意図を理解するまで数瞬かかった。
恐る恐るその手を掴むと、軽く握り返してくれる。
そのまま、手を繋いで歩き出した。
「今の精神状況で迷子になられたら、後が面倒やからな」
「先輩……」
「私はさっさと仕事を終わらせたいだけや」
勇魚の暗く冷えていた心が、一気に温かくなっていく。
それどころか、頬まで熱くなってきた。
心臓が高鳴る中、じっと先輩の後ろ姿を見つめる。
「勇魚」
「はっ、はいっ!」
前を向いたまま話しかける晴に、勇魚の声は裏返ってしまう。
「お前の善意は間違うてへんけど、世の中が間違うてるんや。
ああいう手合いが一定数いるのはどうしようもないんや。
せやから、善意を向ける相手はきちんと選ぶようにな」
「は……はい……」
「ん」
それ以上は何も言わないまま、彼女は後輩の手を引いて駅へと向かった。
勇魚が誰かれ構わず向けていたのが善意なら。
今このとき、自分がこの先輩に向けている気持ちは何なのだろう。
明確な答えを得られないまま、勇魚はただ、この時間ができるだけ続くようにと願う。
その恋が、わずか数日後に潰えるとは思わずに。