「戻りました」
「お疲れさーん」
晴たちが部室に戻ったのは六時少し前。
立火たちも練習を終えたところだった。
「これで明日から裁縫に入れそうやな。勇魚もご苦労さん!」
「はっはひっ!」
「?」
勇魚は変な反応を返してから、ぽーっとした目で晴を見ている。
部員たちは少し不思議そうだったが、特に気にするでもなく帰り支度を始めた。
(い……勇魚ちゃん……?)
不安の雲が湧き起こり始めた姫水を除いて。
校舎を出て、二年生二人が自転車置き場に行くと、都合のいいことに誰もいなかった。
晴が鞄から、梱包材に包まれた物体を取り出す。
「はい皿」
「あ、そやったそやった」
小都子が嬉しそうにそれを受け取る。
遠く岐阜から運ばれてきた、織部焼の皿だ。
「開けてもいい?」
「家に帰ってからにして」
「うーん、わかった。ほんまにありがとね。このお礼はいずれ」
「いらんわ。お前が持ってきてるお茶、本来ならマネージャーの仕事やし」
「まあまあ、そう言わずに。お茶は私の趣味なだけやから」
「それやったら、来週のライブ後に返してくれ」
「?」
自転車を出しながら、不穏な気配を感じて小都子の眉根が寄る。
それにお構いなく、晴は冷たく言った。
「あの新曲、好評ならばそれで良し。不評やったらさすがに夕理もへこむやろ。
その場合はチャンスでもある。もっと世間受けする曲を書くよう、小都子から説得してくれ」
「晴ちゃん……」
「夕理が一番なついているのはお前やからな」
結局はいつも通りの晴に、小都子は軽くため息をつく。
「私、晴ちゃんのそういうとこは好きになれへんわ」
「別に好かれようとも思わない」
「まあ、部のために必要なこと言うてくれてるのは分かるんやけどね……」
たとえ誰かから疎まれようと、自分が正しいと思ったことは貫き通す。
やっていることは晴も夕理も同じなのだが、なぜこうも受ける印象が違うのだろう。
とはいえ追及しても仕方ないので、別に気がかりだったことを聞く。
「勇魚ちゃんと何かあった?」
「特に何も」
「優しい子なんやから、あんまり冷たくしたらあかんよ」
「相手が優しかろうと私が冷たいことは、小都子が一番よく知ってるやろ」
一番優しい上級生は、苦笑いを返すしかなかった。
* * *
「おーい、勇魚ちゃーん」
帰りのバスの中で、花歩に目の前で手を振られても、勇魚は上気した頬でぼーっとしていた。
「晴先輩、かっこええなあ……」
「え、何で晴先輩? 部長ならともかく」
さり気なくひどいことを言った花歩だが、ピンときて勇魚の顔を覗き込む。
「買い物のときに何かあったん?」
「え、えへへー、実はちょっとね」
(いいいい勇魚ちゃん!?)
顔を赤くしてにやける勇魚に、姫水が動揺している傍らで、花歩は興味津々である。
「えー何々? 私にも教えてよー」
「あ……うん」
勇魚ははっと我に返る。
話すとすれば、あの三人のことも話さなければならない。
中学時代に遡る、できれば黙っていたい出来事だけど……
それは友達のすることではないと、今までの自分を反省して決意する。
「……ちょっと嫌な話も入るけど、聞いてもらえる?」
「何やねん、それ!」
怒った花歩が立ち上がった瞬間、バスが揺れて倒れそうになった。
慌てて座り直し、悔しそうにうつむきながら言葉を吐きだす。
「Mさん達やろ!? あいつら、たまに勇魚ちゃんに絡んでたと思ったらそんなことを……!」
「う、うん。けどまあ、もうええねん」
「……ごめん勇魚ちゃん。私、ずっと一緒にいたのに全然気付かへんで」
「ち、ちゃうよ! 言わなかったうちがあかんかった……これからは、ちゃんと話すね」
「うん……」
そして姫水は黙ったまま、内心で物騒なことを考えていた。
(そいつら全員殺してやりたい……!)
こんな思考だから、晴は姫水ではなく花歩に相談するよう言ったのだろう。
そうとは知らず、姫水に心配をかけてしまったと後悔しつつも、勇魚は努めて元気な声を出す。
「姫ちゃん、そんな顔せんといて! 暗い話はおしまい! とにかく晴先輩がカッコええのは分かったやろ!?」
「うーん、確かに話聞いた限りはクールなヒーローって感じやけど」
「で、でもね勇魚ちゃん。私だってその場にいたら、絶対に勇魚ちゃんのこと助けたよ?」
「もー、何言うてんの。姫ちゃんはそんな危ないことしたらあかんで!」
「そ、そう……」
あっさりとヒーロー役を却下され、内心しゅんとなりつつも……
「私やったら部長に助けてもらいたいなー。こう悪党どもをちぎっては投げちぎっては投げ」
「あはは、暴力はあかんってば」
そんな二人の会話を、姫水は微笑みながら聞いている。
勇魚に変化が訪れた今、明日からどうなるのだろうと不安に思いつつ。
* * *
「せんぱいせんぱーい」
翌日。晴がノートPCで作業をしていると、勇魚が元気にまとわりついてきた。
「今日は何をしてはるんですかっ」
「型紙作りや。このソフトでベースを作ると、各人の体格に合わせた型紙が自動で生成される」
「すごーい! 見ててもええですかっ!」
「ええけど、お前ちょっと近いで」
「えー? これくらいええやないですかー」
勇魚が馴れ馴れしくくっついてくるのを、晴が手で押し返す。
そんな様子を、姫水は暗い顔で、花歩は微笑ましく見守っていたが……
三人の上級生たちは、爆発前の危険物を見る表情だった。
(ちょっと可哀想やけど……)
(本人が経験するしかないねんな……)
結局、五分と持たなかった。
何度か注意されても距離を縮めてくる勇魚に、晴は諦めたように溜息をつくと、やおら立ち上がった。
「勇魚」
「はいっ」
明るく答えはしたが、すぐ勇魚も気付いた。
その瞳の温度が、氷点下まで落ちていることを。
「お前ウザいねん」
「え……」
「私がいつ、そんなに馴れ馴れしく接することを許可した?
人のパーソナルスペースを侵害するな。不愉快極まりない」
「あ、あの……」
心臓の鼓動が早くなったのは、昨日の状況とは全く違う。
切り刻まれるような痛みの中で、必死になって言い訳する。
「でもうち、先輩と仲良くなりたくて……」
「それはお前の勝手な欲求や。お前は自分のためなら他人の都合はお構いなしなのか?」
「い、いえ……」
「二度と私に近寄るな」
「……はい……すみませんでした……」
空気が凍った部室の中で、泣きそうな顔で頭を下げる。
そんな勇魚を無視して、晴は用は済んだとばかりにパソコンに向かった。
(うわあ……何もあそこまで言わへんでも……)
横目で見ていた夕理が首をすくめる。
正直自分も勇魚はウザいと思っているが、一応は善意の相手にああまでは言えない。
上には上がいるものだと、変なところで感心した。
とぼとぼと晴から離れる勇魚を、三年生二人が暖かい目で出迎える。
「ドンマイ! ま、ああいう奴なんや。早目に慣れるんやで」
「私も最初のうちは、何度しばいたろかと思ったか分からへんなー。夏くらいには慣れたけど」
立火と桜夜に慰められても、勇魚の目の奥からは涙が押し出されてくる。
「う、うち、晴先輩に嫌われてもうたんでしょうか……」
「残念やけど勇魚ちゃん、晴ちゃんは嫌いすらせえへんねん」
小都子が悲しそうに、伝えたくもない事実を後輩に伝えた。
「ただ不快な要素があったから排除しただけの、それだけの話や。せやから、まあ……慣れてとしか言えへんね」
「てことで晴なんかやめて、私を好きになったらええよ!」
桜夜が空気を読まず、にこにこ顔で自分を指さす。
「私やったらもー、ほんまに勇魚のこと可愛いがったるで!」
「は、はあ……ええと、うち桜夜先輩のことも好きです!」
「そっかそっかー、やっぱり素直な後輩はええなー。どっかの夕理とは大違いやー」
ガタン!
いきなり響いたのは、姫水が立ち上がった音だった。
桜夜がびくりとするが、今回のターゲットは違ったらしい。姫水の目は真っ直ぐ晴を睨んでいる。
このまま晴が無罪放免になることが許せないようだった。
怒気を発してマネージャーに近づこうとする幼なじみを、勇魚が大慌てで止める。
「ち、ちちちょっと姫ちゃん! 何する気なん!?」
「だってあの人、勇魚ちゃんに酷いことを……!」
「悪かったのはうちの方やろ? うちはもう反省したから、ねっ!」
「くっ……!」
「ほ、ほら姫水、歌の練習始めるで!」
立火に促されて、仕方なく姫水は報復を諦めた。
つかさが複雑そうな顔で見ている。
気まずい空気の中、少し経って晴の声が響いた。
「花歩、勇魚。型紙打ち出すから、印刷室まで行くで」
「は、はあ……」
何でさっきの今で、この人は平然と勇魚の名を呼べるのか、花歩には信じられなかったし……
「はいっ、お供します!」
明るく返事をする勇魚のことも、やはり理解できなかった。
* * *
型紙が完成したので、生地を持って皆で被服室へ移動する。
「ちわー。部室交換頼むでー」
「あ、こっち使う? みんな視聴覚室へ移動やー」
いつも被服室を使っている手芸部には、衣装作りの間だけ部屋を替わってもらっている。
作りかけの編み物を抱えて部員たちが出ていく中、手芸部長が立火に話しかける。
「何なら衣装、うちの部で作ろうか?」
「え? いやいや、そういうわけにはいかへんやろ」
「けど今年は本気で全国目指すんやろ? こっちに衣装任せて、その時間を練習に充てた方が勝てるんとちゃうの」
「んー、まあそうなんやけど」
そうだとしても、勝つことを最優先するなら、まず日曜に練習すべきだろう。
それを断念した以上、こんなところで効率を追求しても仕方がない。
「ま、多少下手でも自分で作るのがスクールアイドルの美学ってもんや。気持ちだけありがたくいただいとくで」
「そう? まあ、何か手伝えることあったら言うてな」
「おおきに!」
(ええ……別に美学とかどうでもええのになあ……)
つかさが内心でブツブツと愚痴る。
彼女にとっては服とは厳選して買うものであって、素人が作った服なんか着たくはない。
もちろん、それを口に出して和を乱したりはしないが……。
メンバーたちが作業台につき、立火が教壇の前で臨時の部室を見渡した。
晴だけは部屋の隅で、楽譜の打ち込みを行っている。
「みんな家庭科で服作ったやろし、説明はいらへんやろ?」
「ううっ、結構経ってるし、ミシンとかまだ覚えてるかな……」
「花ちゃん花ちゃん、分からへんかったらうちが教えるで!」
本当に先ほどの出来事はあったのかと思うほど、いつも通りの勇魚が話しかけてくる。
花歩も嫌なことは忘れて、できるだけ自然に対応した。
「勇魚ちゃん、結構縫い物得意だよね」
「うんっ、汐里にぬいぐるみとか作ってあげてんねん!」
「ほほう、なかなか頼もしいやないか」
誉められてはにかむ勇魚に、立火も自分の型紙を手にして全員に号令をかける。
「割とシンプルな衣装やし、できれば三日で完成させたいところや。今週中に衣装着て練習始めるで!」
『はいっ!』
部員たちは裁断作業に取り掛かったが、つかさだけが軽く立火へと手を上げる。
「あのー、あたし明日バイトっす」
「あ、つかさはそれがあったか。まあ一日遅れてもええから、完成したら練習に合流してや」
「はあ」
気乗りしない返事が口から出る。
もしかすると皆が元の部室に戻った後、一人で手芸部員の中で作らないといけないのだろうか。
できないわけではないが、やりたくはない。
ふと目を止めると、勇魚が型紙をチョキチョキ切っている。
先ほどのダメージはもうないようで、強メンタルに感心しつつ、近づいて小声で話しかけた。
「勇魚さあ。裁縫得意なんやったら、明日あたしの衣装進めといてくれない?」
「え? ……う、うん、ええよ」
「ほんま? 悪いねー」
「ううん、つーちゃんは友達やもん! こういう時は助け合いやで!」
(ラッキー、こいつ結構使える奴やな)
などとつかさが上機嫌になったのも束の間だった。
「彩谷さん」
姫水の声で呼ばれ、一瞬どきりとして振り返るが……
待ち受けていたのは冷ややかな視線だった。
「あなた、勇魚ちゃんを便利な道具とでも思ってるんじゃないでしょうね」
「え!? い、いやそんな……」
「ち、ちょっと姫ちゃん! 今日はどうしたんや!」
ご機嫌斜めが続く幼なじみに、勇魚は慌てて二人の間に割って入る。
「つーちゃんはお仕事なんやからしゃあないやん。ほんまは自分で作りたいのに、練習遅れさせたくないから、うちに任せてくれたんやで!」
(り、良心が痛い……)
「でも、勇魚ちゃんだってボランティア部の活動もあるのに……」
「忙しいときはこっち優先でええって言われてるから! 今はライブを成功させるのが大事やろ?」
「………」
つかさは内心で冷や汗をダラダラ流している。
姫水はしばらく沈黙してから、仕方なくという風につかさへ謝った。
「……そうね。彩谷さん、変な言いがかりをつけてごめんなさい」
「べ、別にええで、あははー。勇魚、そのうち何かおごるから!」
「もー、何言うてんの。水くさいで!」
姫水はくるりと背を向け、つかさもしょぼんとして自分の作業に戻る。
(あたし藤上さんに嫌われたんやろか……)
(まあ実際ちょっとクズかったな……反省しよ……)
同時に姫水も、心の中で反省していた。
(ちょっとピリピリし過ぎかもしれない)
(でも、何でこう立て続けに、勇魚ちゃんに辛いことばかり起こるの……)
誰よりも善良で思いやりがある子なのだから、神様はまず勇魚を幸せにすべきなのに。
どうして世界は、勇魚に優しくしてくれないのだろう。
(……って、誰よりも長期間傷つけていたのは私だった……)
(私に何を言う資格もない……)
自分が勇魚にした仕打ちを思い出し、姫水が沈んでいくのは自己嫌悪の沼。
そんな様子を横目で眺めながら、立火は空気の悪さを感じていた。
(うーん、どうも今日はあかんなー)
一年生には初めての衣装作り。楽しくいきたいものだが、現状黙々と作業するしかない。
何か一発ギャグでもやろうかと考えていると……。
「うひゃあ!」
「花歩!?」
ハサミを手にした花歩の悲鳴に、慌てて駆け寄る。
指でも切ったのかと思いきや、切ったのは布のようだった。
「うう、型紙より内側に切っちゃいました……」
「あらら、よくあることやな。そういう時は裏から布を当てて……」
「もっと簡単な方法があるでー」
単純作業に飽きた桜夜が、横からしゃしゃり出てくる。
「え、どんな方法ですか?」
「そのサイズに合わせて花歩が痩せる」
「それ出来たら苦労しませんよね!?」
「いやいや、衣装を無駄にしたくないという気持ちが痩せさせるんや。これをスクールアイドル衣装ダイエットと……」
「耳つぼダイエット並にうさんくさい!」
花歩のツッコミの連続に、小都子が口を押さえて笑いをこらえている。
ようやく空気が和らぎ、安堵した部員たちは作業を続ける。
立火が横へ目を向けると、勇魚が屈託なく笑っていた。
あまりに屈託がなさすぎて、少し不安になるほどに。
* * *
「では、今日はここまで!」
三割ほど完成した衣装を後ろのロッカーにしまって、仮の部室を後にする。
廊下に出たところで、いきなり勇魚の声が響いた。
「晴先輩っ」
部員たちがぎょっとする中、勇魚は相手から一定の距離を取って、深々と頭を下げた。
それを見る晴の目に感情はない。
「今日はほんまにごめんなさい」
「別にもう気にしてないし、お前も気にする必要はない」
「あの、これくらいの距離なら大丈夫でしょうか」
「大丈夫やけど……」
晴のパーソナルスペースぎりぎり外から、勇魚は安心してにっこりと笑う。
「良かったです! それやったら、ここから頑張って仲良くなりますね!」
「……おい。お前まだ諦めてないんか」
「?」
何が?というような後輩の顔に、晴は粛々と常識を説く。
「あれだけ酷いこと言われたら、普通は嫌いになったりするやろ」
「何でですか? うちは晴先輩のこと大好きです!」
「―――」
一瞬、ほんの一瞬だけ、晴の目に未知のものへの恐怖が浮かんだ。
それを振り払うように、彼女はきびすを返して昇降口へ歩いて行く。
ヒヤヒヤしながら見ていた小都子が、勇魚に呆れと感心混じりの声をかけた。
「勇魚ちゃんてめげない子やねぇ……」
「はいっ、それが取り柄なので!」
「うーん、応援はしたいけれど、あんまり無理はせんといてね。晴ちゃん、ほんま手強いから」
「分かってます! 不快にさせへんように気を付けながら頑張ります!」
断言してから、遠ざかっていく想い人の姿を見る。
全てを拒むような後ろ姿に、勇魚はうっとりと頬を染めた。
「はぁ……晴先輩、やっぱり素敵やなあ」
「え、どのへんに素敵な要素が?」
「さあ……」
つかさと夕理がひそひそ話している後ろで、姫水の思考が沈んでいく。
守らなきゃ。
勇魚を傷つけるもの全てから、彼女を守らなきゃと……。