前の話 次の話 目次へ 感想はこちらへ

「さて、今日はWestaの勇魚ちゃんが練習に来るわけやけど」

 ここは織物の町、西陣。
 観光公害が騒がれる京都でも、このあたりは静けさが残っている。
 天之錦の部長である寿葵ことぶき あおいは、部員たちへ向かってとうとうと語った。

「練習自体は胡蝶が見るとしても、皆おもてなしの心を忘れたらあかんで。
 特にここのところネットでの京都叩きがひどい!
 こういう機会からコツコツと、京都人の親切なところを広めるんや!」

 力説する部長に、家元の娘・早蕨胡蝶さわらび こちょうは呆れたような目を向ける。
 今日は勇魚の指導のため着物姿だ。

「叩きなんて前からとちゃう?」
「最近ますます激化してるんや。
 やれ京都人は陰湿だの、腹黒いだの、裏があるだの……。
 私は観光客には親切にしてるのに!」
「言わせといたらよろしおす。しょせん性根の曲がった田舎者のひがみですえ」
「せやからそういうこと言うのやめよう!? 内心では私もそう思うけど!」
「あ、あはは……」

 後輩たちは苦笑するが、元大阪人の九条小梅だけは本気で笑っていた。

「まあまあ、有名税有名税! 世間の期待に応えるのもアイドルの仕事やで」
「くそっ、ええなあ大阪は。なんか人情あるイメージで……。
 私が梅田で迷ったときは誰も助けてくれなかったのに……」
(そうネチネチ粘着してるあたりが京都っぽいんとちゃうかなあ……)

 と思う小梅だが、相手が落ち込みそうなので黙っておく。
 壁の時計を見上げた葵は、ひとりの一年生へと指示を出した。

「というわけで竹緒たけお、そろそろ勇魚ちゃんを迎えに行ってや」
「はぁい、かしこまりましたぁ」


 *   *   *


「わ! 京都御所や!」

 今出川駅で降りた勇魚の前に、石垣と木々が延々と続いている。
 小学生の頃、一般公開に連れてきてもらったことがある。
 紫宸殿ししんでんの前に左近の桜と右近の橘。当時は意味もよく分からなかったが、近いのだからまた来てもいいかもしれない。

「えーと、天之錦の人が迎えに……」
「佐々木さーん、こっちや~」

 声に振り向くと、三つ編みの女の子が手を振っていた。
 嬉しそうに駆け寄る勇魚に、自己紹介したその子は白峯竹緒といった。

「たけちゃんやね! うちのことは気軽に勇魚って呼んでや!」
「さすが大阪の人、フレンドリーやねぇ」
「そう言うたけちゃんは、はんなりした感じやね。さすが京都の人や!」
「ふふ、京都に住んでるだけの普通の女子高生やけどね。あ、バス停あそこやで」

 市バスに乗って西に向かいながら、話は自然と来月のラブライブのことになった。

「天之錦はまだ出るかどうかも決まってへんねん」
「そうなん!?」
「胡蝶先輩が引退しはったら、日舞を教えられる人は誰もおらへんしねぇ。
 正直、もっとウケのいい曲をやりたいって子もいるし。
 かといって私たちが最大の特色を捨てたら、埋もれるだけとも思うし……」

 天之錦の三年生は、来週のライブが最後の花道だ。
 自分たちにもいつか来る世代交代に思いをはせつつ、勇魚は元気に笑う。

「どんな方向へ行っても、スクールアイドルは楽しいと思うで!」
「かもねぇ。勇魚ちゃんは他の県まで練習に来て偉いなぁ」
「えへへ、うちはスクールアイドルがとにかく好きやから!」


 風情ある石畳の道を通り、西陣今宮学院に到着する。
 部室の扉を開けた途端、勇魚の目は本日の師匠に釘付けになった。
 周りが制服の中、一人だけ着物姿でたたずむ、長い黒髪の和風美人。
 慌てて皆に挨拶してから、和菓子の折詰を胡蝶に差し出す。

「き、今日はよろしくお願いします! これ、つまらないものですが!」
(京都に和菓子を持ってくるなんて……)

 ええ度胸した子やなあ、と感心した胡蝶の目が、手提げ袋に書かれた菓匠の名を映す。
 大阪では一番あちこちで見る和菓子屋だ。

「ああ、千鳥屋宗家はん。あっこも歴史のあるとこやねぇ」
「うちもお店の人に聞きましたけど、大元は佐賀のお店で、四百年も経ってるんですよね! すごいです!」
「……へえ、ふーん」

 急に葵の眼鏡が光ったと思うと、小声で何か言い出した。

「まあ、四百年程度で大きい顔しはられてもねぇ?
 うちの校名にもなってる今宮神社のあぶり餅は、千年前の創業ですけど何か?」
「ち、ちょっと部長。何をいきなり張り合うてるんですか」
「あ、しもた」

 竹緒に言われて我に返る葵に、小梅は楽しそうに親指を立てる。

「ええでええで葵ちゃん、そういうとこ京都っぽい!」
「くうう、自分から嫌な京都人を実演してしまうとは……。
 ごめん勇魚ちゃん、京都を嫌いにならんといて!」
「え、なんで嫌うんですか? 千年前なんてめっちゃすごくて感動します!」
「ううっ、純粋な瞳が心に痛い」
「アホなこと言うてへんで、まずはお昼にしますえ」

 胡蝶の言う通り、ちょうど時計は正午を回ったところである。
 食べずに来るよう言われていた勇魚の前に、葵が重箱をどんと置く。

「勇魚ちゃんの分も作ってきたからね。これで名誉挽回ってことで!」
「わわ、ありがとうございます! 何から何までご親切に!」
「そうやろー? 大阪に戻ったらこの話を周りに広めるんやで」
「葵はん、みっともないからええ加減にし」

 胡蝶の苦言を聞き流しつつ、開けた重箱の中身はもちろん和食。
 たけのこ、ひじき、菜葉のお浸し、大根と蕗の炊いたん……。
 小梅が自分のことのように自慢した。

「これが! かの有名な京都のおばんざいや!」
「あの有名な!」
「その呼び方は観光客向けやけどね……」
「野菜も壬生菜とか聖護院大根なんやろ! さすが葵ちゃん!」
「いや、近所のスーパーのやつ……。ってさっきから小梅、ハードル上げるのやめてくれる!?」
「それにひきかえ……」

 着物で洋食を持ってきた友人に目を向け、小梅はブツブツと不満をたれる。

「なんで胡蝶ちゃんはハンバーグなんて食べてるんや……」
「やかまし。小梅はんもお弁当に湯葉なんて、相変わらず京都を勘違いしてはるわ」
「ええやろ好きなんやしー!」
「あはは、おいしければ何でもええやないですか!」

 すぐに場に溶け込んだ勇魚は、和気あいあいとランチタイムを過ごす。
 その口から語られるWestaの話に、小梅は湯葉を咀嚼しながらしみじみ言った。

「立火も桜夜も大変そうやなあ。
 私も引っ越さなかったら、そっちで必死にやってたんやろか」
「小梅先輩が残ってくれてたら、絶対うちと気が合ったと思います!」
「あはは、そうかもね。勇魚ちゃんと私、ちょっとキャラかぶってるけど」

 そう言って、小梅は天之錦の部室を見渡した。
 壁には祇園祭で買ったちまきが、厄除けのために吊るしてある。

「でも私は京都が好きやから! 胡蝶ちゃんにも会えたし、運命の赤い糸やったと思うで」
「小梅はんが好きなんは、家元の看板だけとちゃいますのん」
「もー、そんなんちゃうって! 胡蝶ちゃんの京都らしいとこ大好き!」
「そお? 胡蝶って割とキツいし、ズバズバ言ってくるけど……」

 葵のツッコミに後輩たちもうんうんうなずくが、本人はしれっとしたものだ。

「私、回りくどいのは性に合わへんねや」
「京都人らしからぬ言葉!
 勇魚ちゃ~ん。後でこいつに泣かされそうになったら、部長の私に電話するんやで」
「だ、大丈夫です! 厳しくしてもらわへんと、うちだけ全国行っても応援席なので!」

 いつの間にか、重箱は空になっていた。
 葵は蓋を閉めると、来訪した下級生に真剣な目を向ける。

「私はこの前の地区予選で満足したから、それ以上を望む気はないけど……。
 でも、Westaの夢を少しでも後押しできたらええなと思う。
 絶対に問題点を何とかして、来週のイベントを一緒に盛り上げよう」

 勇魚も箸を置いて、居ずまいを正してしっかりと答えた。

「ありがとうございます! 必ず、一緒に楽しいステージを作りましょう!」


 *   *   *


 食休み後。体操着に着替えた勇魚の前で、胡蝶の雰囲気が変化する。ぴんと張った糸のように。

「――ほんなら、そろそろ稽古場へ参りましょか」
「は、はい! よろしくお願いします!」
『行ってらっしゃーい』

 自転車の鍵を借り、部員たちに見送られて外に出た。
 すいすいと漕ぎ出す胡蝶を、勇魚は驚きの目で追いかける。

「着物で自転車って乗れるんですね!」
「昔はみんな着物で生活してはったんや。今はなかなかねぇ。
 葵はんの家は呉服屋やけど、着物業界はピンチやーピンチやーていつも言うてはるわ」
「そ、そうやったんですか……うち、成人式は西陣織の着物にします!」
「ふふ、無理したらあきまへんえ」

 時々現れる町家のたたずまいに目を奪われつつ、小さな駐車場に自転車を停める。
 その先は左右にそびえる竹林の中を、細い小径が続いていた。

「この向こうや」
「な、なんや雰囲気が出てきましたね!」
「非公開のお寺さんやけど、話は通してあるから心配あらしまへん」
(胡蝶先輩、やっぱりすごいお人なんやなあ)

 風にざわめく竹林を過ぎると、古びた山門が見えてきた。
 小さな木戸を抜け、境内から本堂を回り込むと……。

「うわあ、能舞台や!」

 能は見たことがない勇魚も、この舞台のことは知っている。
 正方形のスペースに屋根があり、左側には通路が延びている。
 背景にあるのは松の絵だ。

「今日はここが稽古の場所や。ほな、まずは実際に見せてもらいまひょか」
「は、はいっ。ただいま!」

 本当に使わせてもらっていいのだろうか……と思いつつ。
 舞台に上がった勇魚は気合いを入れて、一人だけのライブを開始した。
 まずは歌だけ、ダンスだけ。夏休み中を費やしただけあってそれなりにはできる。
 でも二つを同時に行うと……

(空飛ぶ魚が跳ねていく~、ってここは右手をこうで、って次の歌詞はってあああ)

 いつものようにグダグダに終わり、木の床の上でしょんぼりうなだれる。
 顔の下半分を扇子で隠した胡蝶は、表情の分からないまま考え込んだ。

「ふうむ」
「ううっ、あかん子ですみません……」
「Westaの先輩方はなんて言うてはるん?」
「無心で踊れるくらいに、体に覚えこませたらええんやないかって」
「方向としては間違うてへんけど、三ヶ月くらいはかかりそうやねえ」
「そ、それやと困りますー! 何とか来週までにどうにかならないでしょうか!?」

 無茶を言ってるとは思うが、勇魚は涙目ですがるしかない。
 胡蝶の草履が、庭の上をしずしずと近づいてくる。

「文化祭で言うた通り、私も昔はそうやった」

 能舞台の端にたおやかに腰かけて、語る胡蝶の目は遠くを見つめていた。

「私は家元の宿命に生まれ、四歳の時から稽古漬けの毎日や。
 歌わず舞うのが体の芯まで沁みついてたんやもの。急に変えるんは無理やった」
「ど、どうやって克服したんですか!」

 それが今日、一番聞きたかったことだった。
 胡蝶は具体的には答えず、くすりと抽象的なことを言う。

「そんなん、今までの自分を壊すしかないやないの」
「え……」
「あんたはんも、最初にできひんかったのは単に不器用なだけと思うけど。
 その後いつまでもそのままなのは、それで固まってしもうたからかもね」
「癖になった……みたいな感じですか!」

 確かにスポーツでは割と聞く話だ。
 胡蝶の流し目が、上から下まで勇魚を観察する。

「あんたはん、素直すぎて何事も一直線て感じやからねえ」
「ううっ、確かに猪突猛進すぎるって昔から言われてました。
 どうしたらこんな自分を壊せるでしょう! 性格を変えたらいいでしょうかっ!?」
「落ち着きや。
 そんなん来週までに変えられるわけないし、あんたはええ子なんやから変える必要もない。
 少しばかり、心を揉みほぐすだけで十分や」
「も、揉みほぐすんですか……」

 何をされるんやろ、とドキドキしてきた勇魚だが、胡蝶が命じたのは至極まっとうなメニューだった。

「まずは座禅やな」


 *   *   *


「そわそわ動かない!」
「はいっ!」

 本堂に移動して、固い床の上に正座する。
 お坊さんの木の板代わりに、閉じた扇子が後ろから勇魚の肩に触れる。

「心を無にするんや。雑念を捨て、自然と一体に」
「無……む……むむむ」

 外にある小さな石庭を眺めながら、勇魚の心は無我へと沈む……
 ……のは束の間で、二分後には足がもぞもぞし、三分後にはケーキのことを考え始めた。

(あのモンブラン、おいしそうやったなあ。あ、イチゴのタルトもええかも!)

 ぺしん、と扇子で肩が叩かれる。
 正座のまま飛び上がった勇魚の背後で、深々と溜息が聞こえた。

「五分もじっとしてられへんの……」
「すすすみませぇん! も、もう一度お願いします……」
「もうええ。あんたみたいな騒々しい子には向いてへんかった。
 無の境地は諦めるから、そのままの姿勢で話を聞きや」
「はいっ!」

 ぴんと張った勇魚の背筋に、胡蝶はやんわりと雑談を始めた。

「文化祭のときのあの子、おもろい子やったねぇ」
「花ちゃんですね!」
「姿勢を崩さない」
「はいっ」

 慌てて前を向くが、花歩を誉めてもらえたのは嬉しい。
 にこにこしている勇魚のうなじに、しかし浴びせられたのは冷や水だった。

「あんたはんはどうなん?
 あの子みたいに目立ちたいとか、唯一無二になりたいて気持ちはありますのん?」
「それは……」

 正直に言って、ない。
 なので最近みんなが、誰かに勝ちたいとか負けたくないとか言ってばかりなのは、少し距離を感じなくもない。

「うちは、みんなで仲良く楽しくやれたらそれでいいです……。
 こんなんやから、いつまでも出来るようにならへんのでしょうか」
「芸の道は人それぞれ。もっと自信をお持ちやす。
 一人くらい純粋に楽しむ子がいた方が、見る人も安心するものや」

 ほっと息をつく勇魚の方こそ、胡蝶の言葉に安心させてもらえた。
 少し軽くなった心で、そのまま質問を返す。

「胡蝶先輩はどうなんですか? って、先輩は最初から唯一無二のお人でしたね!」
「そんなんとちゃいますえ」
「え……」

 胡蝶は後ろに立つのをやめて、勇魚の目の前に正座した。
 古い石庭を背景にした姿は、まるで千年前から飛んできたようにも見える。

「私は早蕨流の跡継ぎ。先代から受け継ぎ、後代に伝えるのが役目や」

 個人よりも上位のものに殉じるように、彼女は言った。

「上方舞は江戸中期の起こりやから、そないな長い歴史でもないけれど……。
 それ以前の能の伝統、あるいは祇園の芸妓さんに伝わる座敷舞。
 そういった大きな流れの一部に私がいて、それでええんやと思ってる」
「先輩……」
「まあ、悩んだことも一度や二度ではないんやけどね。
 でも結局この道を選んだのは、やっぱりこの伝統が、私には大事なものなんやろなあ」

 そんなこと、勇魚は考えたこともなかった。
 京の伝統に比べたら、スクールアイドルの歴史はたったの七年ほどだけど。
 A-RISEからμ'sを経てAqoursへ繋がり、そして未来へ向かう流れの中に、確かに自分もいるのだ。
 少しくらい、そういう視野を持ってもいいのかもしれなかった。

「う、うちも受け継いでいきたいです!
 Aqoursみたいにラブライブの歴史に名を残せるなんて思えへんけど、それでも後輩に何かを繋げていけたら――」
「――そう」

 嬉しそうに微笑んだ胡蝶は、優雅な動きで立ち上がる。

「多少は揉みほぐされたみたいやね。
 ほんなら、効果のほどを試してみましょか」


 *   *   *


 再度能舞台に戻っての実演は、勇魚にはあまり違いが分からなかった。
 が、胡蝶の目には違ったようで、満足そうな笑みが浮かぶ。

「多少良くなってきはったね。あと一息や」
「ほんまですかっ! 次は何をしたらいいでしょう!」
「せっかく私がいることやし、少し日舞をやってみまひょか」
「やったー! 実はちょっとやってみたかったんです!」
「別の癖がついたらあかんから、ほんまに少しだけやで」

 まずは手本をということで、胡蝶が扇子を開いて雅に舞う。
 すり足は床を滑るように動き、扇は生き物のように宙に軌跡を描く。
 相変わらずの美しさに、勇魚は今日の目的も忘れて見とれていた。

「とまあ、これが一番簡単な舞や。あまり構えず気軽にね」
「はいっ。やったるでー!」

 扇子を渡され、さっそくお手本を再現しようとする。
 とはいえ落ち着きのない勇魚と、流麗な京舞は相性が悪い。
 悪戦苦闘していると、胡蝶が背後からそっと手を添えた。

「そこの腕の動きは、こう」
「は、はいっ」



 しばらくは、教えられた通りに舞っていたが……
 できるようになるにつれ、胡蝶の指示も細かくなり、体も近づいてくる。
 背中に触れる着物の感触に、お香のいい匂いも相まって、何だかドキドキしてきた。
 固くなる弟子を不思議に思った胡蝶は、横から顔を覗き込んで納得する。

「なんや。純朴そうに見えて、結構色気づいた子やねえ」
「すすすすみませんっ! あの、実は地区予選でお会いしたときから、素敵な先輩やなあって……」
「あれまあ、どないしましょ。年下の女の子から口説かれてもうたわあ」
「はわわわわ、ちゃうんですぅぅ!」

 ドツボにはまるばかりの勇魚に、胡蝶は我慢しきれずクスクス笑い出した。
 その端正な人差し指が、つつ、と勇魚の頬をなでる。

「ほんま、可愛かいらしい子。
 そちらがその気なんやったら、一口食べさせてもろてもええんかな?」
「えええええ!?」
「と、冗談はこれくらいにして」

 顔から湯気を出してへたり込む勇魚を残し、舞台を降りた胡蝶は庭で振り向いた。

「十分揉みほぐされましたやろ。今度という今度こそ、上手くいくはずや」
「は……はい!」

 慌てて立ち上がる弟子を、師匠の手が穏やかに制する。

「まず深呼吸して」
「すー、はー」
「落ち着いて、よく周りを見るんや。
 今いるこのお寺はん。洛中の風景。永々と続く都の姿を」

 言われた通りに、自分の置かれた状況を感じる。
 歴史のありそうな能舞台に、苔むした庭。
 二人以外に誰もいない、静まり返った古寺。
 壁の向こうに竹林が揺れる中で、黒髪をふわりと舞わせた先輩が、優しく微笑んだ。

「この都に積もる千年の想いが、きっと力になってくれますえ」

 やれそうな気がしてきた。
 勇魚がおよそ持っていなかった、わびさび、幽玄、そういった精神が……
 自分を壊せなくても、新たに足されることで、別の世界が見える気がした。

『それは一面の花畑――』

 気がするじゃない、やれる!
 今までとは違う感覚の中、手足と同じように喉を動かしていく。

『花はそこから動けないから 魚たちを憧れの目で 見送るしかないけれど』

 現実は魚の方こそ、見事に開いた花を水底から見上げるばかり。
 でも心が浮上する。揉みほぐされ、空気を十分に含んで、真っすぐに水面を目指す。
 ようやく歌とダンスが一体になったまま、サビも一気に走り抜け――

『咲き誇る花は もう見失わないね
 フラワー・フィッシュ・フレンド!』


 ライブを終え、数回息をしてから、勇魚は靴下のまま庭に飛び出した。
 心を抑えきれずに胡蝶へ抱き着く。

「できました、先輩!」
「おめでとうさん、よう頑張ったねぇ」
「ほんまに……ほんまに、ありがとうございます! 何てお礼を言うたらええのか……」

 涙があふれかけるが、着物を汚してはいけないと慌てて顔を離す。
 鼻をすすり上げ、勇魚は胸に起こる気持ちを正直に話した。

「うちには誰かに勝ちたいとか、特別になりたいって気持ちはないけど……。
 でも、できなかったことができるようになるのが、こんなに嬉しいって初めて知りました!
 もっともっと上手くなりたい! 上達して、できることを増やしたいです!」
「うん――芸の世界で、それは何よりも純粋な気持ちや」

 胡蝶も微笑んで、勇魚の頭を優しく撫でた。
 椿のかんざしを抜いて、今だけ花丸代わりに弟子の髪に差す。

「なんや私も、初心を取り戻せた思いやねえ」


 *   *   *


「いやー良かった良かった」

 学校に戻ってきた二人の笑顔に、葵は心から安堵した。

(これで勇魚ちゃんの中では、京都のイメージはうなぎ登りやろ!)

 なんて思われるとも知らず、部員たちにもお礼を言っていた勇魚は、思い出したように胡蝶へ尋ねる。

「そういえば胡蝶先輩は、どうやって今までの自分を壊したんですか?」
「うーん、壊されたいう方が正解かもねぇ。そこの葵はんと小梅はんから」
「え、私たち?」

 きょとんと自分を指さす二人に、胡蝶は思い出し笑いを扇で隠した。

「ま、今日はええ時間や。続きはまたのお楽しみにしまひょ」
「はいっ、来週また会えるのがめっちゃ嬉しいです!
 ほな今日は失礼します。皆さんほんまにお世話になりました!」
「またねー」
「楽しみにしてるでー!」

 部員たちに手を振られ、勇魚は喜びを抑えることなく、スキップして帰っていった。
 足音が遠ざかったのを見計らい、眼鏡を直した葵が胡蝶にひとつ尋ねる。

「良かったのは間違いないんやけど、やっぱり不思議や。
 座禅して禅問答して日舞するだけで、根深かった問題が解決するものなの?」
「敢えて言うなら、それに加えて雰囲気作りが上手くいったんやろねぇ」
「雰囲気?」
「竹林に古寺、能舞台に石庭。
 そういった場所なら、何か特別なことが起こりそうな気がしますやろ。
 幸いあの子は、素直にその気になる性格やったから」

 小梅が大いに納得して、ぽんと手を打つ。

「なるほど! ただの湯豆腐でも、京都で食べればみんな有り難がるようなもんやな」
「人聞きの悪い……ちゃんとしたとこはちゃんとした豆腐使ってるっての」
「いやいや、誉めてるんやって。それが京都のブランドってこと!」

 言い合っている二人に笑いながら、胡蝶は後輩たちへ向き直った。
 もうすぐ部を受け継がせる、自分の初めての弟子たちへ。

「それも京の先人たちが、十重二十重に積み重ねた結果や。
 私たちも糸の一本を紡げるよう、来週のライブは気張りますえ」
『はいっ!』



前の話 次の話 目次へ 感想はこちらへ