精神的に疲れ果てて帰宅した花歩は、部屋に戻ってベッドに倒れ伏した。
「自分がここまで嫌な人間とは思わへんかった……」
こんな事をさらけ出せるのは、生まれたときから一緒の妹だけだ。
そして当の妹も、取り繕うことなく正直な感想を言う。
「あんなにいい子の勇魚ちゃんを邪魔者扱いなんて、いくら実の姉でも引くで」
「うわあああんクズでごめんよおおおおお!」
「私は部長のお気に入りなんやって、どこかで思い上がってたんとちゃうの」
「生きててごめんなさいいいい!!」
「ま、嫉妬や独占欲をどうにかするのが、簡単でないのは分かるけど」
芽生は読んでいた本を閉じて、姉に寄り添って語りかける。
「それでも花歩、早く何とかせなあかん。
天王寺福音でも、Westaの人気は日に日に上がってる。聖莉守と違って、全国は決して不可能やないんや。
なのにこんなことで足踏みしたら、きっと一生後悔するで」
「うう……うん、そうやな。一番大事な時期なんや……」
ゆっくりと身を起こす。
はっきり言ってもらえて、少し気が楽になった。
そして前から気になっていたことを、名前が出たのを機に思い切って尋ねる。
「聖莉守は……最近どうなん?」
「ボロボロやで。熱季は退部して、副部長は落ち込んでて、蛍は相変わらず上達しない」
「そ、そう……」
「それでも部長は、最後まで聖莉守の道を貫けるよう頑張ってる。
私はステージには上がらへんけど、精一杯サポートするつもりや」
「芽生……」
どの学校も、ラストスパートを懸命に走っている。
下らないことに気を取られず、今はラブライブに集中しよう。
この決意が、本人たちを前にしても揺らがないといいけど……。
「よし、ええで勇魚。その調子や!」
「えへへ、ありがとうございます!」
駄目だった。
勇魚が立火に誉められてるだけで、胸に黒いもやもやが生まれる。
今日のランチで、夕理からも注意されたというのに。
『さすがに今回は、勇魚がデリカシーに欠けるとは言えへんと思う。
花歩の気持ちを察して練習を辞退しろなんて、そんな要求は度が過ぎてる』
『うん……』
『……なんてことは、花歩なら言われなくても分かってるんやろな。
ごめん、友達やのに、実りのあることが言えなくて』
『う、ううん! 私こそごめん、つまんないトラブル起こして』
分かってるのに度し難い、そんな心を抱えて花歩は思う。
どうして夕理は、あそこまで自らを律することができるのだろう。
夕理や勇魚のような、身を犠牲にしても誰かの幸せを願える人間に、どうして自分はなれないのだろう……。
「おつかれー。さて帰るでー」
夜七時前。居残りの時間も終わり、桜夜と姫水が部室に戻ってきた。
桜夜が残る理由はもうないのだが、姫水が友達を待つのに乗じて、二人で勉強会を続行している。
何も気付いてない先輩を少し羨みつつ、姫水は立火に近寄り小声で尋ねた。
「どうですか。状況は」
「どうにもあかん……花歩もどうにかしようともがいてるんやけどな」
視線の先、屈託なく笑う勇魚の前で、花歩の笑顔はやはり固い。
考え込んでいた立火は、すまなそうな顔を隣の後輩に向けた。
自分が卒業した後まで考えるなら、これが一番だと信じて。
「姫水、二人をお願いしてええか」
「え……」
「私の立場やと、どうしても上からになる。あいつらの親友であるお前だけが頼りや」
「! は、はい、お任せください!」
そうだった。今まで何をしていたのだ。
二人なら大丈夫などと言って、放置して済む話ではなかった。
どちらも大事な友達と思っている、自分以外の誰が解決するのか!
「彩谷さん、天名さん、ちょっといい?」
ちょうど部室に戻ってきた二人も巻き込み、姫水はさっそく動き始める。
* * *
「急にごめんね。早く行きたいなんて」
「ううん、土曜やからええけど……」
「姫ちゃん、何か面白いことでもあるん?」
「面白くはないけど……大切なことよ」
今日は土曜日。
部活は十時からだが、十五分早く学校に到着した。
部室の前に行くと、既に二人の生徒の姿がある。
「おっはー」
「三人とも、おはよう」
「あれ、つかさちゃんと夕理ちゃんも早く来たんや」
「私が呼んだのよ。花歩ちゃんの問題は、一年生の間で解決したいから」
罠にかかったことに気付いたように、花歩の体が固くなる。
姫水の鋭い視線が逃すまいと捕らえた。
「花歩ちゃん。あなたの心は、抑えたり隠したりして何とかなるものではないと思う。
私にも覚えはあるもの。
この場で皆に話すしか、結局は解決の方法はないの」
「ま、待って姫水ちゃん! そんな殺生な……」
花歩の横目に映るのは、まだ理解できていない勇魚の無垢な顔。
こんなに心が綺麗な親友の前で、自分の醜く勝手な中身を明かせというのか。
いや、それより姫水にも覚えがあるとは一体……。
混乱している花歩の前で、姫水は静かに言葉を続ける。
「あなたにだけ言わせるのはフェアではないわよね。
花歩ちゃん、正直に言うわね。中学生のとき、私はあなたが羨ましかった」
「え……」
花歩はもちろん、他の三人も驚きに目を見張る。
完璧な優等生の彼女がそんなことを!?
「勇魚ちゃんのすぐ近くにいて、勇魚ちゃんと楽しく毎日を過ごせるっていう、それだけの理由でよ。
身勝手が過ぎるわよね。私の方からメールを無視しておいて」
「姫ちゃん、それは……!」
「彩谷さんと天名さんには、急に意味不明な話をしてごめんなさい」
「あ、うん……」
つかさとしては詳細が気になるが、今の本題ではない。黙って続きを聞くしかない。
友達のために過去の恥をもさらした姫水は、手をゆるめず花歩に迫る。
「それでも勇魚ちゃんは私を許してくれた。そういう子だって花歩ちゃんなら分かるでしょう?」
「……せやから余計に嫌なんやって、姫水ちゃんなら分かるやろ」
「でも、あなたは勇魚ちゃんの親友じゃない」
それは、花歩の方こそ勇魚を受け入れねばならないと、そういうことなのだろうか。
つかさと夕理もじっと見ている。ここで逃げたら二人に追いつくことも、友達を名乗ることもできなくなる。
だからこそ姫水は、二人をここに呼んだのだろう……。
花歩は苦汁の面持ちで、やむなく口を開いた。
「ごめん、勇魚ちゃん」
先ほどから不安そうに見ている親友に、恥をさらすために。
「居残り練習で、私は勇魚ちゃんを邪魔に感じてた」
「え……」
「部長と二人きりでいたかったんや。
もうすぐ卒業って考えたら、一秒でも部長との時間を失いたくなかった。
自分のことしか考えてへんで、ほんまにごめん」
「あ……あー! なんや、そういう事やったんや!」
ようやく得心がいったように、勇魚は手を打った。
内心で邪険にされていたことも、それを隠されていたことも一切怒らず。
友達を信じ切ったまま、笑顔で残酷な言葉を吐いた。
「それやったら、うちは立火先輩に教わるのやめるで!
何やったらもう話もしない!
寂しいけど、花ちゃんのためやったら平気や!」
「何で勇魚ちゃんっていつもそうなの!?」
予想はできたのに、実際に聞くと限界だった。
怒鳴った花歩は悔し涙を浮かべ、姫水は下唇を噛んでうつむく。
そして勇魚は、全く訳が分からずに戸惑っていた。
「え、な、何で……。花ちゃん、何で怒ってるん?」
「どう考えても悪いのは私の方やろ!? 何で勇魚ちゃんが大事なものを捨てなあかんねん!」
「だ、だって友達のためやから……。うちは友達のためならどんな事だって……」
「そんなん本当の友達とちゃうわ!!」
「ち、ちょっと二人とも、落ち着いて……」
どちらも悪くない状況に、止める夕理も歯切れが悪い。
姫水の予想以上にこじれてしまったけど、それでも必要なことなのだ。
ここからまた時間はかかるかもしれないが、お互いぶつかることで必ずや真の友達に……。
「あーもう、どいつもこいつも不器用すぎや!」
不意に響いたのは、つかさの呆れた声だった。
「あ、彩谷さん?」
「時間かけてる余裕なんかないやろ! 花歩、根本的に勘違いしてるで」
「え……」
花歩が予想もしていなかった言葉が、つかさの口からはっきり告げられる。
「勇魚に嫉妬しても何の意味もないやん。
だって部長さんの本命って、どう考えても桜夜先輩やろ?」
………。
そんな……身も蓋もないことを……という姫水と夕理の表情の前で、花歩はその場に崩れ落ちる。
冷たい床に両手をついて、引きつった笑いを浮かべた。
「そ、そうやね……そうや……」
「なのに勇魚と取り合うって、正妻を前に愛人の座を争うようなアホさを感じるで。
おっ、痛いとこ突いちゃった?」
「は、はは、あはは……」
間の抜けた空気が流れる中、勇魚だけが状況を理解できずおろおろしている。
少しだけ恨みがましい目で、姫水がつかさに耳打ちした。
「こういう強引な解決方法はどうなの……」
「ええの! もう夢を見る時間は終わったんや」
「桜夜先輩の立場はどうなるのよ……」
「部長さんを手に入れるんや。代わりに少しは花歩の役に立つべきやろ!」
「あれ、一年生みんなでどうしたんや」
花歩が顔を上げると、立火と小都子が廊下を歩いてきた。
二人の心配そうな表情を見て、かけていた心労を理解する。
バネのように飛び起きた花歩は、ひたすら皆に平謝りするしかなかった。
「私がアホやったせいで、いっぱい迷惑かけてすみません!
もう大丈夫です。練習に集中します!
姫水ちゃんも、つかさちゃんも、夕理ちゃんも、ほんまにありがとう!
勇魚ちゃん、後でじっくり話そう!」
「う、うん。せやったら花ちゃんち泊まっていい?」
「もちろんや!」
「おっ、何の話? 勇魚、私んちにも泊まってや~」
呑気な声がしたと思うと、何も知らない桜夜が笑顔で歩いてくる。
勇魚とは、夜を徹してでも理解し合えるまで話そう。
でも、その前に――。
* * *
「……というのが、今朝起きた出来事です」
「へ……へぇー」
喫茶店で向かい合いながら、暗い目の花歩の前で、桜夜は冷や汗を流していた。
今日も一時間延長し、午後四時まで練習した後。
花歩がお茶していこうというので、嬉々としてついていったらこのザマである。
今までただ素直な後輩と思っていた子が、今は苦悩に満ちた瞳でこちらを見ている。
花歩の中での自分は、恋敵、として扱われてしまうのだろうか――。
「単刀直入にお聞きします。桜夜先輩は、部長のことをどう思ってるんですか」
「い、いややなあ急に! あいつとは相方、漫才コンビやって!」
「それだけですか!? ほんまに!?」
「それは……そのぅ……」
「ぶしつけなことを聞いてすみません。私が立ち入れる話とちゃうのは分かってます。
でも、そこがハッキリしないと私は前に進めないんです……!」
「あ、ね、ねえ花歩。このケーキおいしいで」
「………」
花歩は鞄を持ち上げ、何かを取り出そうとする。
一瞬見えた紙片に、桜夜は大慌てで制止した。
「ままま待って! こんな下らないことに使わなくてええから!」
「だって……!」
「も……もう! 私、真面目な話は苦手やのに……」
花歩は可愛い後輩で、今まで立火と仲良くしていても、別に気にはならなかった。
でもそれは、真面目に考えることから逃げていただけだったのだろうか。
卒業が近づき、真剣な後輩と二人きりの状況で……
いくら桜夜でも、これ以上は逃げられないのを悟った。
「……あのね、花歩」
「はい」
「立火への気持ち、自分でもよく分からへんねん。
少なくとも、漫画に出てくるようなキラキラした恋とはちゃう。
けど、私は……
卒業した後も、いつまでもあいつと一緒にいたいって、ずっと思ってる」
「そう……ですか」
恐る恐る上目遣いで見ると、花歩は穏やかに微笑んでいた。
穏やかすぎて、何だか泣きたくなるくらいに。
「つまり、同棲したいってことですよね」
「いやっ、そのっ、言い方によってはそうなるかもやけど!
……でも、もう十二月やのに、言い出す勇気が持てへんねん。
だって私と立火っていつもお笑いみたいな感じで、なのに急にこんな重い話して、もし今までの関係が壊れたらって……!」
「桜夜先輩」
止める間もなく、花歩は紙片を取り出していた。
『何でも言うことを聞きます券』
この子の誕生日に頑張って考えた、自分の文字が目の前にある。
「取っておいて良かったです。
クリスマスには少し早いですけど……
最近悪い子だった私に、良い子になるチャンスをください」
「花歩……」
花歩は一瞬だけ、苦しそうに息継ぎをした。
耐えられなくなった桜夜の瞳から、一粒二粒と涙が落ちる。
それを目にして、後輩はどこか断ち切れたように、ただひとつの願いを告げた。
「先輩。この券を使って、私からお願いします。
勇気を出して、部長に本当の気持ちを伝えてください」
* * *
「花歩はこんな終わり方でいいの?」
「いいの!」
姉に断言されながらも、妹の方は不服そうだった。
勇魚と仲直りするだけと思ってたのに、何でこんな急展開になるのか。
四月からずっと続いていた、花歩から立火への想いが、こんな簡単に――。
「いいの? その程度の気持ちやったの?」
「元からそういうんやなかったんやって!
私の部長への気持ちは、ただの憧れ! それだけ!」
「そう言い聞かせてるとしか思えへん。
あんな歌詞を書いておいて、戦わずして負けるの?」
机に突っ伏していた姉は、そう言われて黙ってしまった。
言い過ぎたかと、芽生は近寄って横顔を覗き込む。
姉が一人で貧乏くじを引いた気がして、妹として悔しいだけなのだ。
「花歩……」
「……私は、精一杯やれることをやった。
私だって一度くらい、誰かの幸せの手伝いをしたかったんや」
「そう……ごめん。花歩はちゃんと戦って、目的を達したんやね」
いたわるように、芽生の手が姉の髪を撫でたとき。
玄関の方から母の声が響いた。
「花歩ー、勇魚ちゃん来たでー」
家に鞄を置いてきた勇魚が、パジャマを持って丘本家にやって来た。
何度も泊まっていて慣れたもので、花歩が戸を開けると同時に部屋に飛び込んでくる。
「花ちゃんめーちゃん! 今夜はよろしく!」
「うん! 色々とよろしく」
「外、寒かったやろ? 先にお風呂入ったら?」
「そうやね! 今日から十二月やもんね、ほんま一年って早い!」
「あの……勇魚ちゃん」
花歩は少し躊躇しつつも、照れ笑いを浮かべて素直に提案した。
「よかったら、一緒に入らへん?」
「わーい! 初めて花ちゃんとお風呂やー!」
勇魚が小さいおかげで、狭い湯舟でも何とか並んで入れた。
「いつもは断られてばかりやったもんね!」
「私たちが友達になったのって中学生やろ。普通恥ずかしいって」
実際今も少し恥ずかしいのだが、二人きりで話したい気持ちが勝った。
お湯に体の芯から温められながら、それを推進力に真っすぐに説明する。
「あのね勇魚ちゃん。何で私が怒ったかっていうとね」
「う……うん」
「いやそんな脅えなくても。別に勇魚ちゃんは悪ないんや。
でもいくら友達のためやからって、勇魚ちゃんが何でも捨てるのが辛くて、心配やった」
肩が触れ合う距離で、勇魚は心底不思議そうな顔をした。
やっぱり何かが欠落しているとしか、花歩には思えない。
「うちは別に無理してるのとちゃうで? 友達が笑ってくれるなら喜んで……」
「それやから余計に心配やねん。
晴先輩のときは、その方が都合よかったから黙ってたけどね。
でも今回は、もし私のせいで勇魚ちゃんと部長が話せなくなったら、私は罪悪感でもう笑えなかった」
「そ、そっか……。そこまで気が回らへんで、ごめん。
これからは、相手を心配させないかも考えるようにするで!」
「あーもう! 結局私は自分の都合で、勇魚ちゃんは他人の都合ばかりなんや!」
やるせなくて、花歩は顔面を湯船につける。
だがどうしたって、勇魚はこういう子で、自分はこういう人間なのだ。
顔を上げて、皮膚を流れ落ちていく湯の中で微笑む。
「せやから、勇魚ちゃんの善意がやり過ぎと思ったら、私はまた怒るかもしれへん。
でないと勇魚ちゃん、そのうち人のために自分の命だって捨てそうやからね」
「い、いくらうちでもそこまではしないと思うけど!
……うん、でもちょっと自信ない。花ちゃんが見守ってくれるなら安心や」
だったら死ぬまで友達でいないとね。
どちらからともなくそう言って、二人で笑い合った。
それから花歩は、桜夜との一件をぽつぽつと話した。
恋とか愛とか、不慣れな勇魚には気の利いたことは言えなかったけど。
ただ、黙って真剣に聞いてくれていた。
話し終えてから、花歩の空元気が浴室に響く。
「まっ、これで部長のことはきっぱりすっぱり諦められたで!
もう勇魚ちゃんに嫉妬したりなんて、見苦しいこともしなくて済むんや!」
「花ちゃん……」
まだ顔が濡れたまま、泣いているのかも分からない親友の。
その肩の上に、こてん、と勇魚の頭が寄り掛かった。
ほどいた髪を触れさせながら、いつもと違って落ち着いて言う。
「明日、一緒にライブしよう」
「え……二人で?」
「ザ・ハリセンズが、奈良の一回きりなのは寂しいと思うんや。
Saras&Vatiみたいに、うちらも外に出て思いっきり歌おう」
「うん……そうやね。
私にはまだ、スクールアイドルが残ってるんやなあ」
想いを離して終わらせても、あの日あの人に誘ってもらった世界は、宝物として残り続ける。
湯船の中で勇魚の手を握って、花歩は自分の頭も寄り掛からせた。
「……ちょっとだけ、練習しとこうか」
「花ちゃん、やる気やね!」
そうして笑いながら、鼻歌は浴室に響き始めた。
早く出ろと親に怒られるまで、親友たちの小さなライブは続いた。
* * *
「そろそろライブの時間とちゃう?」
「まだ三十分もあるやろ。集中して勉強!」
十二月最初の日曜日。立火と桜夜の受験勉強は、今日は木ノ川家で実施中。
何とか三十分を乗り切り、スマホでWestaの配信チャンネルを開く。
まずは海遊館前で、Saras&Vatiのライブだ。
『今日で私たちのライブはいったん最後です』
『この先は地区予選に集中します!
ま、その前に期末テストもあるんすけどねー。
今までありがとうございました!』
ええー、という残念そうな声の後で、ねぎらいと激励の拍手が大きく響く。
最初に比べると、現地も配信もずいぶん客が増えた。
つかさと夕理の、決戦を期待させる堂々としたライブに、見終わった立火はしみじみと言う。
「ほんま、私たちはいい後輩を持ったで」
「う……うん」
桜夜は少し口ごもる。
その後輩の一人が、自分を犠牲にしてまで頼んできたことを、まだ実行できていない。
ポケットに忍ばせた例の紙片を、ぎゅっと握りしめる。
今、言わないと。
だってこの後の花歩のライブを、澄んだ気持ちで鑑賞したいから――。
「あ、あのね、立火!」
「うん?」
ごくりと唾を飲んで、桜夜はなけなしの勇気を総動員した。
「その……そのね。
卒業したら、二人で一緒に暮らさへん……?」
「ええでー」
「………」
「………」
しばしの静寂の後、桜夜は思いきり両手でテーブルを叩く。
「いやいやいやいや!!」
「もー、何やねん。真面目に勉強しいや」
「軽っ! めっちゃ軽っ! 私がずっと迷ってようやく告白したのに!」
「そう言われてもなあ……」
立火は鉛筆の尻で頬をかくと、少し照れくさそうにそっぽを向いた。
「桜夜とは多分そうなるんやろなって、前から思ってたから」
「え……あ、そう……」
「……うん」
「………。やっぱり嫌や! もっとロマンチックにOKして!」
「やかましいわ、そういうキャラとちゃうねん!
あ、言うとくけど大学に受かればの話やからな。浪人生と暮らす気はないで」
「ええー」
現実に引き戻されて、桜夜は溜息をついて天井を見上げる。
そしてすぐさまテーブルに手をついて抗議した。
「って、何で私が落ちてそっちが受かる前提やねん! 逆になる可能性もあるやろ!」
「うわあ……そんなんなったら私、恥ずかしさで道頓堀に身を投げるで」
「そこまでかーい!」
結局いつもの二人になって、いつもの笑みが浮かんできた頃。
花歩と勇魚のライブの時間になった。
『こんにちは! ザ・ハリセンズの小さいほう二名です!』
『立火先輩は受験勉強を頑張ってるので、今日はうちらでミニ・ハリセンズです! 楽しんでいってやー!』
子供も多い長居公園で、道行く人たちが振り返る。
撮影は姫水と芽生がしているのだろう。
Saras&Vatiのような質の高さはないけれど、心底楽しそうなライブが繰り広げられる。
『Laughing! Laughing! なにわLaughing!』
スマホのこちら側で見つめながら、もう聞くことはないと思った曲を、純粋に観客として楽しんだ。
終了後のアイドル二人は、MCで地区予選の宣伝。
姫水もちょっと出てきて挨拶する。
そして再び切り替わったカメラに、ミニ・ハリセンズはずずいと近寄ってきた。
『部長、桜夜先輩、見てますかー!』
『うちらは応援しかできひんけど、勉強頑張ってください!』
『今からエールを込めて、この曲を歌います。
どうか――どうかお幸せに!』
花歩の少しだけ震えた声に、画面のこちら側の二人は胸が詰まる。
素直に喜ぶことは許されるのだろうか。あの後輩はどんな涙をこらえて、ああして笑っているのだろうか。
でも決して、花歩を入部させたことを、花歩と過ごしてきた時間を、間違いとは思わないし後悔もしない。
同じ思いを持った三年生たちの耳に、一年生たちの声は元気に届く。
『聞いてください! ”フラワー・フィッシュ・フレンド”!』
二人のための曲が、二人だけで舞い歌われる。
自由に使える最後の日曜。何の憂いもなく、心から楽しそうに。
鼻をすすった桜夜が、思わずぽつりと言った。
「勝手な言いぐさかもしれへんけど……花歩に勇魚がいてくれて良かった」
「ああ……お前たちこそ、どうか末永く親友で、や」
立火の小さな祈りの向こうで、サビに入った親友たちは歌で答える。
『フラワー・フィッシュ・フレンド 出会いは宝物』
『フラワー・フィッシュ・フレンド いつまでも友達!』
よく晴れた十二月。クリスマスへ向け走り出した大阪の街で。
祝福と願いは、透き通った冬の空気に吸い込まれていった。