第31話 あなたの一番になれないなら
「みんな、改めて今年もよろしくね。
先輩たちはいないけれど、2019年の活動スタートや」
小都子の言う通り、立火と桜夜は初日から欠席である。
泉が明日には福岡に帰ってしまうので、今は必死で追い込み中だ。
七人でのミーティングが始まり、姫水は隣に座るつかさに横目を向ける。
(今ここで聞いたらどうなるんだろう……)
『つかさの私への気持ちは、ライクではなくラブなの?』
それはもう大騒ぎになるだろう。
もちろん実行したりはしない。部活の時間中は真面目にやらないと。
夕理が自信なさげにスマホを取り出した。
「何とか、二案作ってみましたが……」
おお! と皆が声を上げる。ようやく一歩前進である。
まず流れてきたのは、ひたすらノリと勢いに重きを置いた曲だ。
♪パララララパララララ パーラーラーラーラーラーラー
『1、2、3、それ!』と、夕理の少し恥ずかしそうな合いの手も入っている。
「あははは。これ、どんな顔して録音したんや」
「ほっといて! はい次の曲!」
つかさの笑い声に赤くなりながら、夕理はスマホを操作する。
♪チャンカチャン~カチャンカチャンカ ピーヒャラ~
「Westa音頭や!」
勇魚が嬉しそうに反応した通り、夏のお祭りで流れそうな曲である。
季節感はともかく、精一杯の楽しい雰囲気は伝わってくる、が……。
いつも怜悧な晴が、珍しく迷った表情だった。
「これで観客は笑ってくれるんやろか」
「わ、分かりません……」
夕理も似たような態度である。どうしても、笑ってもらえなかった場合を考えてしまう。
『滑る』 『冷える』
ようやく手にしたアキバドームの舞台で、そんな結果になってしまったら。
「熱い曲あたりをやった方が、ファンの皆さんは確実に喜んでくれるでしょうね……」
姫水もつい弱気なことを言う。
少なくともそれなら、大火傷は絶対になく無難に終わらせられるのだ。
予選突破の偉業をなした歓喜の一年を、最後に汚点を残したりせずに。
「せやけど!」
と、強く反論するのは花歩である。
「それやとファンの人は喜んでも、それ以外の人はどうなると思う?
たぶん次の日にはWestaのことなんて忘れてる!
それに熱い曲いうても、あのDueling Girls!を越えるライブは今は無理やないか」
「……そうね。花歩ちゃんの言う通りね」
皆の全身全霊に加え、つかさの暴走する想いを込めたあのライブは、たぶん二度と行えない。
全国の場で劣化版を見せるくらいなら、別の道を進んだ方がいい。
花歩もスマホを出して曲のファイルをコピーする。
「ありがとう夕理ちゃん。この二曲で歌詞を考えてみる。
小都子先輩、もう少し時間をください」
「大丈夫、時間はたっぷりあるからね。そうなると、他の議題は……」
「アンコールの曲はどうする?」
身の程知らずなことを言い出す晴に、小都子は怪訝な顔をする。
全国大会で優勝したグループは、アンコール後にもう一曲歌えるのが通例であるけれど。
「優勝の可能性はゼロや言うてたやん」
「あくまで私の予想や、外れる可能性もある。準備は不要というならそれでもええけど」
「うーん、おこがましいけど考えるだけはしておく?
笑いの曲をWestaらしさと位置付けるなら、なにわLaughing!が締めにはええかな……って」
うっかり乗せられた小都子は、我に返って思わず大声を上げた。
「私が決めることとちゃうやろ!? 立火先輩が来たらその時に聞いて!」
「もちろん確認はするが、お前も部長の立場に慣れていい頃や」
「小都子先輩、なかなか貫禄ありましたよ~」
つかさに誉められ赤くなる小都子だが、確かにこの三学期、徐々に移行することになるのだろう。
覚悟を決めて、小都子は立ち上がって号令をかけた。
「さ、お正月でなまった体を元に戻すで!
今までの曲をもう一回練習してみようか。まずは最初のPVから……
花歩ちゃんと勇魚ちゃんは三年生のパートをやってもらえる? 何となくでいいから」
「は、はいっ。あのときはサビだけでしたけど、今の私ならやれますよ!」
「うちは動画で見ただけだったので! 一緒にできて嬉しいです!」
「姫水ちゃんは一目見ただけで覚えたんやったねえ。好きなパートをやってええよ」
「ふふ、懐かしいですね。では、つかさのパートを」
四月に時間が戻ったかのように。あるいは次の四月に時間が飛んだかのように、Westaは練習を開始する。
立火と桜夜が本当にいなくなるまで、もうしばらく猶予はあるけれど。
少しずつ心の準備をしておかないと……。
* * *
「姫水ー、お茶して帰ろー」
「あ、うん」
姫水がうなずくと同時に、夕理は無言でスタスタと部室を出ていった。
(いいのかな……)
(でも気高い天名さんは、私が気を使ったりしたら絶対怒るものね)
勇魚と花歩とはまた明日と別れ、並んで喫茶店に向かう。
姫水の隣で笑うつかさは、今日も幸せそうだった。
「次の日曜はどこ行こっか!」
店内の席について、開口一番これである。
もちろんつかさも、来年考えるという年末の言葉を忘れてはいないのだが。
(で、でも日曜までは冬休みやねんし!)
(もう少しだけ、このままでも……)
そして、姫水も似たようなものである。
(日曜までは冬休みだものね)
(確認はもう少し待ってもいいわよね)
今が楽しすぎて、どうしても問題を棚上げする方に動いてしまう。
二人で紅茶を注文してから、目の前の休日のことを話し出した。
「みさき公園に行きたいの。時間があったら和歌山城の動物園も」
「白浜の帰りには寄られへんかったからなー。これで近場の動物園は全制覇?」
「あとは神戸どうぶつ王国と須磨水族館があるけど……
神戸での思い出はもう十分作ったから、またの機会でいいかな」
「それやったら、次はいよいよ天王寺やな!」
自宅から十五分くらいの動物園の名前に、姫水の表情は少しだけ曇った。
「あそこは……色々思い出のある場所だから、勇魚ちゃんと行きたいの」
「え、あ、そ、そう」
「もちろん、つかさが嫌でなければ一緒に行きましょう?」
「あ、あはは、どうしよっかなー」
何も気付かなければ良かった、と姫水は一瞬思う。
そうすればつかさの動揺も、独占欲が強くて可愛いなあ、くらいで済んだのに。
いやしかし、それでは本当の友達ではない……。
つかさの方は気分を挽回するように、近くの水族館の話を持ち出した。
「それより海遊館はどう? 前行ったときはアホみたいに混んでたんやろ」
「そうね。夏に勇魚ちゃんと行ったけど、魚より人の頭しか見えなかったような……」
「あそこはもう休日に行く場所とちゃうって。三学期が始まったら、学校帰りに行かへん?」
「え、そういうの有りなの?」
「平日の夜ならめっちゃ空いてるで~。あの大きな水槽を二人じめや!」
「行きたい! ぜひ行きましょう!」
思わず身を乗り出した姫水は、もちろん魚が見たいのもあるけれど。
つかさの気持ちを確かめるのに、最適な場所だと思ったのだ。
(引き延ばしても仕方ないものね……人がいないところの方が聞きやすいし)
そしてつかさも、似たようなことを考える。
(そこで告白するかどうか決めよう)
(『そこで告白しよう』でないのが、我ながらアレやけど)
何とか進む先に目処をつけて。
二人は心おきなく、今だけの曖昧な状態を味わっていく。
* * *
「おお……感無量や」
始業式の日。立火の目の前で、慣れ親しんだ校舎に垂れ幕が踊っている。
『祝・全国大会出場 スクールアイドル部 -がんばれWesta-』
記念に写真を撮っていると、後ろから景子が声をかけてきた。
「何を寂しいことしてんねん。ほら、貸して」
「おっ、悪いねえ」
スマホを受け取った景子の手で、垂れ幕と部長がフレームに収められる。
自分が撮った写真をまじまじ見つめてから、景子は首をひねってスマホを返した。
「こんなアホが全国大会やもんなあ。世の中わからへんわ」
「ほっとけ! けどまあ、バトンの件はほんまに助かったで」
「な、何や、姫水ちゃんのためやっちゅーねん。
立火のことはすぐに忘れても、女優の姫水ちゃんはずっと追いかけるで!」
「……ああ、末永く応援してあげてや」
と、横から下級生たちがおずおず話しかけてくる。
「す、すみません立火先輩、よかったら私たちとも写真を……」
「おっ、ええよ。てことで頼むでカメラマン景子」
「何でやねん!」
景子はブツブツ言いながら、垂れ幕を背景に撮影の仕事をする羽目になった。
昇降口で上履きに履き替えるのも、あと何回だろう。
三階までの階段を上りながら、景子はふと尋ねる。
「立火は卒業旅行どうするん? 私は未波たちとヨーロッパ」
「はああ!? どこからそんな金が涌いてくるんや!」
「そう言うと思って誘わなかったんやけど。どこにも行かへんの?」
「うーん、桜夜と有馬温泉にでも行くかなぁ」
「近っ! まあ、ええとこやけどな」
教室に入って皆に挨拶するが、どこか地に足がつかない空気だ。
三年生の三学期は、実質的には一ヶ月だけ。二月からは自由登校期間になる。
今は賑やかなこの階も、来月からは生徒が消える。
立火と桜夜、まだ部活を続けている二人を除いては。
(せやけどブルーになるのは早い!)
(私には受験と全国大会という、大きな仕事が残ってるんや)
(終わりよければすべて良し。全てが終わるまで気を抜かずにいくで!)
間もなくして未波が来て、紅白の2.5次元舞台について猛然と語り始めた。
こいつは最後まで変わらへんな、と景子と一緒に笑い、時間になったので体育館へ向かう。
* * *
今日は始業式とホームルームで終わり。
部室前の廊下で部長を待つ皆に、姫水とつかさは昨日撮った動物アルバムを見せていた。
「みさき公園は海が見えるのがいいですね。で、ここからが和歌山城の動物園でして……」
「そういえばあったねえ、お城に動物園」
「KEYsの部長が偉そうに自慢してきそう」
小都子の後ろから覗いた夕理がそう言ってから、既に旬は引退したことを思い出す。
合宿で一緒だった誰かが、新部長になったのだろう。柚以外は顔が思い出せないけど……。
そして愛らしい紀州犬を見た桜夜が、ぶんぶんと腕を振り回す。
「ああーもう、私も動物園行きたい!」
「卒業後は好きなだけ行けるじゃないですか。
私も引っ越しは三月の下旬ですし、それまでに一緒に行きますか?」
姫水の提案は魅力的なものだったが、素直にうんとは言えない桜夜である。
「なんて言うか、卒業式で感動的に別れた後で、またノコノコと後輩と会うのもカッコ悪いっていうか……」
「そういう恰好の付け方は桜夜先輩には似合いませんよ。立火先輩ならともかく」
「ねえ勇魚! 姫水って病気治っても私にキツいんやけど!」
「えへへ、姫ちゃんは先輩が好きやからこういうこと言うんです!」
「ふふっ、そうですよ。私の愛です」
(ぐぬぬ)
ちょっと傷つくつかさである。
恋人同士になれれば、目の前で他の女の子を好きとか、言わなくなってくれるのだろうか。
(って、あかんな。あたし束縛女やないか……)
(やっぱり、今くらいの関係の方がいいのかなあ)
そうこうしている間に、立火が鍵を持ってやってきた。
「晴は生徒会と遠征費の話をしてるから、少し遅れるで」
「結構お高いホテルとか泊まれるんですかね?」
「花歩! 遊びに行くんとちゃうで!」
「あわわ、ごめん夕理ちゃん!」
怒られてる花歩に笑いながら、立火は扉を開けて部室に入る。
「公立やからあんまり期待はできひんけど。
でも朝に大阪を出れば、向こうで半日は観光できるやろ。行きたいとこ考えといてや」
「やったー! 東京やー!」
特に勇魚は大喜びである。姫水を助けに行ったときは、観光どころではなかったから。
一方で小都子は少し心配そうだ。
「立火先輩、東京の人を怒らせるような言動は慎んでくださいね?」
「せえへんって! はいはい誉めればええんやろ。東京、ええとこでおますなあ」
「やっぱ美味しい店とか高いビルとか、いっぱいあるんやろなあ」
と、桜夜が流れを作ると、立火もあかんとは思いつつ乗ってしまう。
「はー!? そんなん大阪にも山ほどあるっちゅーねん!
そもそも東京にあって大阪にないものなんて何があるんや! 上野の西郷さんくらいやろ!」
「ねーみんなー、立火はここに置いてこかー? 部長は私がやるからー」
「この終盤になってクーデターされた!?」
「そう、それです!」
いつもの漫才に、いきなり花歩が割って入った。
みんな座って、なし崩しにミーティングを始めながら、新曲の状況を説明する。
「やっぱり歌詞だけで笑わせようというのは無理がありまして……。
間奏のところで台詞を入れる曲って、結構あるじゃないですか。
そこで先輩たちに漫才をしてもらえば、笑ってもらえるんじゃないかと!」
「な、なるほど」
「ってただの丸投げやんけ。先週の自信はどこへ行ったんや」
つかさに冷静にツッコまれ、花歩はたまらず机に突っ伏した。
「すみませえええん! 私にギャグセンスなんてありませんでしたあああ!」
「ま、まあまあ。花歩に頼まれたからには、五万人を笑わせるネタを考えてみるで! な、桜夜」
「でも私たちのコントってほんまに面白いの?
いつも本気で笑ってくれてるのって、小都子だけの気がするんやけど……」
桜夜の今さらの疑問に、小都子は飛び上がって一年生にフォローを求める。
「な、何言うてるんですか、いつも抱腹絶倒ですよ! ね、勇魚ちゃん!」
「はいっ、めっちゃ大爆笑です! ねっ、姫ちゃん!」
「………」
「何で目を逸らすんや!?」
お約束の反応をしてから、ごめんごめん冗談よ、と言おうとした姫水だが。
扉を開けて晴が入ってきたので、タイミングを逸してしまった。
「すっかり芸人集団になってるようやな。夕理はほんまにええんか」
「……今回はこれも経験です。次に全国へ行くときはまた違いますけど」
「なら結構。部長、宿泊先は普通のビジネスホテルになりました」
(とほほー)
花歩が密かにがっかりする一方で、晴は何やら渋い顔をしている。
「生徒会長はともかく会計がしみったれた人で……
『新大阪を始発で出ればぎりぎり間に合うから、前泊でなくても良くない?』とか抜かしてきました」
「新大阪までどうやって行けっちゅーねん!」
「会長にも協力してもらって押し返しましたが。
小都子、次の予算会議は気合いを入れなあかんで」
「そうそう、私たち全国出場なんやからー。今の五倍くらい予算もらってええやろ」
調子に乗ってる桜夜に、小都子はいえいえと控えめである。
「そうすると他の部が削られてしまいますし……お互い思いやりを持ちませんと」
「もー、小都子は優しすぎ!」
「よし、話はこんなもんやな」
立火が頃合いと見て立ち上がる。
センター試験間近だが、三学期の初日くらいは部活に打ち込んでもいいだろう。
「新曲を考えたいのは山々やけど、私も桜夜も受験勉強で脳がしなびてるんや。
まずは体動かすのを優先させてや」
『はいっ!』
それからお昼を挟んで二時までは、ここで敢えての基礎練習とランニング。
そして新曲について一時間ほど議論して活動を終えた。
最後にそれぞれ連絡事項を伝える。
「部長、これ大吉のおみくじです!」「うちからも桜夜先輩に!」『ありがとー!』
「離人症は二週間再発しなかったので、寛解とみて良いようです」『おめでとー!』
「すいません、あたしと姫水、明日は一時間早退させてください」『おっ、デート?』
海遊館っすよー、明日からは空きそうやし、とヘラヘラしているつかさに、姫水の内心は渦を巻いている。
明日確かめる。絶対に確かめる。
それで、つかさとの関係が壊れたりはしないはずだ……。
* * *
翌日からは授業も再開し、通常の学校生活が始まる。
部活もいつも通り……と思いきや、さすがに三年生はフル活動とはいかなかった。
「当面は月曜と木曜だけ参加する。
ここで勉強してるから、何かあれば声かけてくれてええけど。
基本的には小都子、お前に任せるで」
「は、はい! とにかく新曲を、センター試験が終わるまでに用意します」
まだ二週間もある。大丈夫大丈夫……。
夕理と花歩だけに任せず、皆のセンスを総動員して笑える曲を作るのだ。
小都子を中心に笑いを追求する中、部室の後ろで勉強していた桜夜が、ひょいと首を伸ばす。
「ねー、いいネタ浮かんだんやけど」
「桜夜! 集中できひんのやったら、図書室に移動するで」
「ううう、分かったってば……」
そんな先輩たちに悪いと思いつつ、五時になるとつかさと姫水は早退した。
「お先っすー」
「すみません、お先に失礼します」
『楽しんでくるんやでー』
見送る部員たちは、いつものイチャイチャだと思っている。
二人が事態を動かすつもりだとは、誰も予想はできない。
姫水がニュートラムに乗るのは団結会以来だ。
少し日も長くなった一月。この時間でも辛うじて夕焼けの残滓が見える。
「これが、つかさがいつも見ている通学の風景なのね。……天名さんと一緒に」
「夕理とは帰りだけやけどなー」
つかさが楽しそうに喋っているのを聞きながら、眼下を思い出のフェリーターミナルが流れていく。
大阪港駅で降りてから少し歩き、天保山に着く頃にはだいぶ暗くなっていた。
そして同時に、姫水の目が見開かれる。
「綺麗……!」
「あはは、ここもなかなかのもんやろ?」
冬のイルミネーションはこの場所でも行われていた。
光り輝く観覧車の下で、水族館へ続く道が青く照らされている。
まるで海の中の通路のように。
「驚かそう思て黙ってたんや」
「うん、驚いた。つかさは本当に、遊びの達人ね」
素直に喜んでくれる姫水を、つかさはますます愛おしく思えた。
目の前の商業施設で夕食を済ませ、再度外に出るとすっかり夜だ。
いっそう鮮やかになったイルミネーションを楽しみながら、二人は海遊館に突入する。
* * *
「すごい、本当に誰もいない!」
「そうやろー? ま、先の方に進めばさすがに客もいるけど。
今この場は、あたしと姫水だけの水族館やで!」
休日は家族連れでごった返すトンネル型水槽で、今は好きなだけ魚の写真が撮れる。
一見楽しそうな姫水の内心までは知らず、つかさは夜の海を進んでいく。
コツメカワウソなどの水辺の生物や、寝転がっているアザラシをしばらく眺め。
最大の淡水魚であるピラルクも、好きな角度から観察できた。
ちらほら客の姿も見え始めたが、魚を見るには支障ない。
本当、大阪に住む高校生の特権だ。
(いい雰囲気や……)
(告白するならまたとないチャンス……やけど……)
この雰囲気を壊したくない気持ちもあり。
その一方で、近くでベタついているカップルが正直うらやましく。
天秤のようにつかさの心は揺れながら、大水槽に到着した。
海遊館の目玉である巨大なジンベエザメは、今日もゆったりと泳いでいる。
その周りでは大きなエイや、何かの魚群が回遊していた。
「この赤い魚、ヒメフエダイだって」
「あはは、姫で始まるから姫水の仲間やな。
でもこの時間の欠点は、エサやりとかはやってへんことやなあ」
「うん……でも、落ち着いて見られる方がいいかな」
瞳をきらめかせながら、じっと水槽の中を見つめる姫水。
魚よりもその横顔の方に、つかさの目は吸い付けられた。
(ほんま、綺麗や……)
この顔に一目惚れした四月が、遠い昔に思える。
そして病気が治った今、表情豊かな彼女は、あのとき以上に魅力的だった。
何度生まれ変わっても、きっと恋に落ちると信じられるほどに。
深海の底のような場所で、天秤はゆっくり片側に傾く。
この想いは、墓場まで持っていこう。
こんなに綺麗な姫水を、汚したくないし困らせたくない。
何も変えず、変わらず、このまま時間が続いていけばいい――。
(――え?)
その姫水が、おもむろに魚から目を離し、まっすぐにつかさを見ていた。
少し寂しそうに、無邪気な時間は終わったのだと言わんばかりに。
「ひ、姫水?」
「つかさ、聞きたいことがあるの」
この期に及んでは姫水に躊躇はない。
少なくとも自分の方は友達と思ってるなら、遠慮などすべきではないと信じて。
容赦なく、全力で直球を投げ込んだ。
「あなたは、私のことが恋愛的な意味で好きなの?」
つかさが理解するまで数秒かかった。
あまりに身も蓋もない質問に、口をぱくぱくさせてから、頬が熱いことを自覚する。
ようやく絞り出したのは、全く意味のない言葉の羅列だった。
「は、はいー!? ななな、何言うて……」
「違った? だったらごめんね、聞かなかったことにして」
「いやっ、そのっ、違わな……あ! そ、そうや!」
わたわたと不審な動きをしてから、顔を伏せたつかさは早口で言った。
「あたし、急用があったんや! ごめん姫水、また明日!」
「え……」
「そっ、そのっ……それじゃ!」
館内を走らないだけの分別はあったものの……
かなりの早足で、つかさはその場から一目散に逃げていった。
夜の水族館に、たった一人取り残され。
姫水は溜息をついて、近くのベンチに腰を下ろす。
(そうなの……つかさ……)
(ちゃんと、自分の口で話して欲しかったけど)
(……分かりやすすぎるのよ、もう!)
真っ赤に紅潮した顔も、今まで見たことがないほどの動揺も。
言葉以上に如実に語っていた。いつからかは分からないけど。
自分はつかさから、そういう風に想われていたのだ。
そして間の抜けたことに、何も考えてこなかった。
いざ事実がこうだったとき、具体的にどうするのかを。
(どうするのよ、藤上姫水……)
(あんなに私を想ってくれるつかさに、どう答えるのが正しいの?)
(……どうしよう、勇魚ちゃん……)
頭上で泳ぐジンベエザメは、小さな人間の悩みなど気にもかけない。
しばらくして、つかさからメッセージが届いた。
『ごめん』
『心の準備ができたら、ちゃんと話すから』