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「はい、今週はここまでや」

 小都子の声で土曜の部活は終わり、立火と桜夜も問題集を閉じる。
 夕理の手で曲は手直しされ、歌詞も半分くらいはできた。
 皆でおどけた動きをしながら、笑える振り付けも考えている。

 センター試験まであと一週間、曲は何とか間に合いそうだ。
 それまで何事もなければいいけれど……。


(……いよいよ、明日や)

 今日はその前に、勇魚の家で思い出を聞き出す日。
 お泊りセットを持ったつかさは、長居組と歩みを揃えた。
 たぶん来ないだろうなと思いつつ、夕理にも声をかける。

「一緒にどう? 一年生全員で帰れるチャンス、今回が最後かもやで」
「やめとく。それより大事なことの直前やろ。つかさ、頑張って」

 距離を置くように、夕理は今日も一人で帰っていく。

(天名さん……)

 共に下校した日を思い出して、姫水は少し複雑である。
 だが、まずはつかさとの決着をつけないと、彼女とぶつかることもできなさそうだ。


「つかさちゃんと一緒のバスって、なんや新鮮やなあ」
「ふーむ。この座席が、いつも花歩のお尻に触れてるわけや」
「またそーゆー変な言い方するー!」

 二人席に前後で腰かけて、いつも以上の賑やかな下校路。
 明日起こることを、一人だけ何も知らない花歩だけれど、普段通りに振る舞ってくれた。

 その花歩とバス停で別れ、三人で南へ歩く。
 姫水と勇魚が、何百日も朝晩歩いてきた通学路を。

(子供の頃だけとちゃう。高校に入ってからも、この二人はずっと時間を重ねてきたんや)
(あたしに太刀打ちできるんやろか……)

 けれど、と敢然と顔を上げる。
 太刀打ちできようができまいが、明日やることは変わらないのだ。

「……それじゃ、また明日ね」
「うんっ、楽しみやねー!」
「また明日、姫水」

 藤上家の前で手を振ってから、家に入りかけた姫水は、足を止めて振り返る。

「勇魚ちゃん、本当に隠さずつかさに話してね」
「姫ちゃん……」
「私が犯した過ちのことも、全部……」
「……うん、わかった」
(な、なんや、穏やかでないなあ)

 少し怖くなりながら、住宅地をもう少し先へ。
 ここが昔の姫ちゃんちやで、と勇魚が指した家は、今は知らない表札がかかっていた。
 そこから三軒隣。佐々木家の塀から、小さな顔がぴょこんと出てくる。

「つーちゃんやー!」

 よほど楽しみにしていたのか、汐里がつかさを見るなり飛びついてきた。

「やっほー、汐里ちゃん。外は寒なかった?」
「へーきー!」
「あはは、子供は風の子やなあ」

 喜ぶ妹の姿に勇魚も嬉しくなるが、それではいけないと声をかける。

「汐里、つーちゃんは今日は用事があってきたんや。せやから……」
「まあまあ、少しくらいは遊んでもええやろ。
 はい、お土産のプレミアムポッキー。関西と福岡でしか売ってないんやでー」
「わーーい!!」
「わ、なんや高級そう! つーちゃん、大丈夫?」
「平気平気、お姉ちゃんからお年玉いっぱいもらったから」

 佐々木家に入ると、勇魚の両親が温かく出迎える。
 二人とも、勇魚からよく話を聞いていたのはもちろん、地区予選のライブも記憶に新しかった。

「つかさちゃん、ほんまに大活躍やったねえ」
「勇魚も家で言うてたで。つーちゃんがMVPやったって」
「あ、あはは、どうも、恐縮っす」

 つかさとしては未だに少し心苦しい。いい加減に慣れないと……。
 と、汐里が赤い何かを抱えてきた。

「つーちゃん、これみてー」
「おっ、ランドセル! 汐里ちゃんもいよいよ小学生なんやなあ」
「うん! ぴかぴかやー!」
「ううっ。うちの定規とか、汐里が使うと思って取っといたのに。お下がりは嫌やって」
「そりゃ子供は新品の方がええやろ。ま、予備に置いといたらええやん」

 一応まだ一月ということで、三人でカルタや福笑いで遊ぶ。
 お風呂は三人が入れる広さではないので、つかさと汐里で入って。
 夕ご飯はみんなで鍋を囲んで……。

 そして、過去を遡る時間がやってきた。

「汐里、お姉ちゃんたちは話があんねん」
「ごめんね、汐里ちゃん」
「うー……うん」

 汐里はこくんとうなずいて、両親と一緒に居間でテレビを見始めた。
 良い子やなあ、そうやろー!? なんて話しながら、二人で勇魚の部屋に入る。

「アルバム、用意しといたでー! はい、これが最初の!」
「いっぱいあるなあ……って、ヤバ!」

 写真の中には、幼い頃の姫水がいた。
 あまりの愛らしさに、つかさの声も震えざるを得ない。

「こ、こんな子が目の前にいたら……思わず声をかけて通報されかねへん!」
「あはは、つーちゃん大げさやなあ。
 この頃の姫ちゃんは引っ込み思案で、うちの後ろによく隠れてたんや」
「そっかあ。会いたかったなあ……」

 彼女の存在も知らなかった当時、その写真には常に勇魚が一緒に映っている。
 つかさだって、10kmも離れてない場所で生きていたのに。
 どうして会いに行かなかったんだと、幼い日の自分に理不尽に憤ってしまう。

 たくさんの写真と、勇魚の長いお喋りで時間は過ぎる。
 どこか悲しそうな八歳の姫水を最後に写真は途切れ、引っ越した後の話へ移った。
 話題が中学生時代になると、勇魚の顔が少し陰り、来たかとつかさは身構える。

「あ、あのね、うちとしては、姫ちゃんは全く悪くないと思うんやけど」
「擁護しなくていいから、事実だけ教えて」
「……夏休みに会いに行こうとしたら、またの機会にって断られて」
「え……」
「メールの返事もだんだん遅なって……とうとう返事が来なくなって……」
「な、何で!?」

 あの幼なじみ至上主義の姫水が、そんな仕打ちをするとは信じられない。
 言いづらそうに勇魚から語られた理由を聞いても、すんなり納得はできなかった。
 成果を得るため演技を始めて、それを勇魚に知られたくなかったから、なんて。

「その頃にはもう病気が始まってたみたいやから! そのせいもあったと思うで!」
「……でも姫水自身は、そうは思ってへんのやろ」
「うん……何度も謝られたし、今も気にしてるんやと思う……」
「そう……」

 そのことに対して、つかさが何か言うことはできない。
 ロープを繋ぎ続けたことと、救出したときのことを黙って聞いて、長い話は終わった。

「……勇魚は、ほんまに優しい子やな」
「えへへ、花ちゃんが背中を押してくれたからやで!」
「うん……花歩もほんまにいい奴や」
「けど、つーちゃんがうちやったら、きっと同じことをしたやろ?」
「―――」

 勇魚が返事のない友達にメールを送り続けた中学二年生の頃。
 つかさはといえば夕理を裏切って、世間に迎合して暮らしていた。
 それだけ比較すれば、姫水が勇魚でなくつかさを選ぶ理由など皆無だけれど。

(……けど、完璧と思ってた姫水も、あたしと同じやったんや)
(友達を傷つけて、深く後悔して反省して、今この時間を過ごしてる)

 自分だって昔とは違う。
 姫水と出会い恋をして、生まれて初めて本気になって、あのライブで振り向かせた。
 もう自虐的になるのはやめにしよう。

「ありがとう、話してくれて。それで、明日の動物園なんやけど」
「うんっ」
「あたし、姫水に告白するつもりやねん。恋人として付き合ってほしいって……そう言うつもり」
「え……」

 姫水に輪をかけて鈍感な勇魚は、全く気付いていなかったようだ。
 でも直接知らされた今、浮かぶ表情は満面の笑顔だった。

「わー! そうやったんやー!
 めっちゃ嬉しいで! つーちゃんと姫ちゃんなら絶対にお似合いや!」
「……応援してくれる?」
「当たり前やないか! 二人とも、うちの大事な友達やもん!」

 予想通りの反応は、つかさにとってもう一つのプラス要素だ。
 幼なじみを取られようとも、勇魚に嫉妬は全くない。
 勇魚から姫水への気持ちは、純然たる友情で、家族愛なのだ。

(だからこそ――勇魚に姫水は渡せへん)

 もちろん種類が異なるだけで、勇魚の想いが劣るわけでは決してないけれど。
 応援すると言われた以上は、もはや気後れすることは何もない。
 ほうと息をついて、つかさは肩の力を抜いた。

「ありがと勇魚。正直あたし、明日は玉砕する気やってんけど。
 今日話したおかげで、1%くらいは望みが持てそうや」
「もー、弱気すぎるで。つーちゃんなら絶対大丈夫や!」
「あはは、あいつの幼なじみがそう言うてくれるなら、信じてみようかな。
 さて、あとは汐里ちゃんと遊ぼうか」
「うんっ、呼んでくるでー」

 廊下に出ていく勇魚を見送り、つかさは改めて部屋を見回す。
 想い人が何度も訪れたであろう、この場所を。

 準備は整った。
 結局選ぶのは姫水なのだけれど、つかさも万全の態勢で臨める。
 どんな結果になろうと、きっと受け止められる――。


 *   *   *


 運命の日が到来した。
 顔を洗った藤上姫水は、沈みがちになる気持ちを懸命に引き上げる。

 ここ数日、考えに考え抜いて。
 つかさに返す答えは決まったはずなのに、まだ迷ってしまう。
 少なくとも、彼女が望むものではないのは分かっているから。

(いっそ何も考えずに断った方がマシなんじゃ……)
(……ううん、何度も自問して、これが私の気持ちだって認めたじゃない)
(桜夜先輩、私に勇気をください……)

 今は勉強中であろう先輩を思いながら、出かける準備をする。
 完了して待っていると、玄関からチャイムが鳴った。

「ひーめーちゃーん、あーそーぼー!」

 物心ついたときから、何度も何度も聞いた声。
 自然と安心感があふれ、元気に立ち上がったところへ、変に色っぽい声が続いた。

「ひーめーちゅわ~ん、あっそびましょ~」

 思わずずっこけそうになる。
 玄関を開けてジト目を向けた先に、にやにや笑っている彼女がいた。

「朝から変な声出さないでよ……」
「あっはっはっ、一度言ってみたかったんや」
「二人とも今日も仲良しさんやね! あんまり寒くないしいい日になりそう!」
「うん……そうね勇魚ちゃん。それじゃつかさも、行きましょう」
「あ、うん……」

 ちらちらと、影になっている右手を気にしているので、苦笑して指輪を見せた。
 赤くなるつさかの左手にも、もちろんお揃いの指輪がある。
 そして胸には、緑色に輝く翡翠のブローチも。

(USJの時のあれって、もしかして私と関係してたのかな)
(だとしたら……ずいぶん前から私を好きだったんだ)
(本当、私って鈍感だったな……)

 二人の間で感情が渦巻く中、勇魚だけが純粋に動物を楽しみに、一同は駅へと出発する。


「てんしばの方から行かへん? だいぶ変わってるし、姫水も見てみたいやろ」

 昔はいつも動物園前駅の方から行っていた、という話を聞いて、つかさがそう提案してきた。
 うがった考えが姫水に浮かぶ。過去に執着するな、新しいものを見ろと言いたいのだろうか。

(考えすぎね。つかさはそんなこと一度も言ってないじゃない)
(私が勇魚ちゃんを大好きな気持ちを、ちゃんと尊重してくれている……わよね?)

 天王寺駅で降り、聖莉守のライブでは北へ行ったところを西へ向かう。
 かつてはホームレスも多かったという天王寺公園。
 姫水が物心ついた頃には、既に無許可カラオケ等は撤去され、このあたりはあまり印象に残っていない。
 それが東京に行っている間に、「てんしば」として芝生広場と商業施設に生まれ変わり、今日も賑わっている。

「ちょうど汐里が外遊びする頃にできたから、うちも助かったで! 春は混み過ぎてて遊べへんけど」
「来年にはまた新しい施設ができるんやって。バーベキューとかアスレチックとか」
「そうなんだ……本当、何もかも変わっていくのね」

 後ろを振り返れば、五年前に建ったあべのハルカスにより、姫水の記憶の風景とは一変している。
 世界が子供の頃のままでないことくらい、姫水にも分かってはいるが……。

 芝生の横を通り過ぎ、動物園の入口に到着した。
『ゾウはいません』
 看板に書かれた注意書きに、つかさはやれやれと肩をすくめる。

「いなくなってからもう一年やで。神戸にも京都にも負けてて情けないなー」
「仕方ないわよ。ゾウは世界的に保護の意識が高まってるから。
 動物園はあくまで、自然に負荷をかけない範囲で楽しませてもらわないとね」
「そうやでつーちゃん! うちはどんな動物さんも大好きや!」

 笑顔の二人に、つかさも思うところがあったのか。
 園内に足を踏み入れるや、いきなり幼なじみたちに謝ってきた。

「せっかくの思い出の動物園やのに、こっちの都合で振り回してごめん。
 あたしの用事は後でええから、まずは一回りして動物を見よう?」
「え、つーちゃんの方が先でええよ?」
「まあまあ勇魚ちゃん。せっかくこう言ってるんだから」

 仮に二人の関係が不幸に終わったら、お通夜状態で歩き回ることになりかねない。
 動物たちを見終わるまで、問題は棚上げしよう。
 八年ぶりに訪れた、姫水の大切な場所なのだ。

「さっ、まずはあの大きいゲージに行きましょう。
 昔と何も変わってない、鳥の楽園へ!」


 *   *   *


「姫水~、そろそろ次行かへん~?」
「待って! もうちょっと!」

 渓流から鳥が飛び立つ瞬間を撮ろうと、姫水は先ほどからスマホを構えている。
 にこにこして待っている勇魚は、邪魔しては悪いとつかさの方に尋ねた。

「つーちゃん、姫ちゃんが狙ってる鳥は何ていうん?」
「さあ。青いからアオサギちゃう?」
「これはゴイサギよ。アオサギはそこの岩の上にいる脚の長い鳥」
「灰色やんけ! 文字通りの詐欺やな!」
「年を取るともう少し青みがかって……ああっ」

 解説している間に、目当ての鳥は飛び去ってしまった。
 仕方なく飛翔する姿をカメラに収めてから、ごまかし笑いを浮かべる姫水である。

「灰色つながりで、次はコアラを見に行きましょうか」


「うーん、見えづらいで!」

 ユーカリの木の上にいるようだが、ちょうど葉の影になって見えない。
 少しだけ出ているコアラの手を撮影しながら、姫水が例によって解説する。

「四頭いた神戸に比べると少ないけど、屋外で飼育しているのは世界的にも珍しいのよ」
『へえー』
「でもこのアーク君を最後に、飼育からは撤退するのよね……」
「京都のライオンも、あれが最後なんやったっけ」

 つかさが年老いたライオンの姿を思い出す。
 年末に二人で京都市動物園へ行ったときは、力なく寝そべったままだった。
 動物園を取り巻く環境もなかなか厳しいものがあるが、勇魚はやはり前向きだ。

「今日会えて良かったやん! コアラがいなくなっても思い出は残るで!」
「その通りね、勇魚ちゃん」
「思い出いうても手しか見えへんけどなー」

 しばらく待っても動かないので、仕方なく次へ行く。

 キツネザルやマンドリルを見てから、中に入ったのは夜行動物舎。
 暗い建物の中にアライグマや、神戸でアピールしたキーウィがいる。
 コウモリの大群に少し怖がった後は、ふれあい広場で羊や山羊と遊んで。
 ペンギンに手を振ったりしながら、いよいよツル舎へ。

「素敵!」

 すっかりテンションの上がった姫水が、七種類の鶴たちに張り付いている。
 ここは三年前にリニューアルしたので、姫水の記憶にはない展示だ。
 そんな新しい場所でもここまで喜ぶのだから、つかさには少しだけ自信になった、が……。

「お~い、何時間いるつもりや」
「もう少し。もう少しだけ!」
「あはは。今日のつーちゃん、お父ちゃんみたいやな」
「ピチピチのJKなんやけど!」

 とはいえ周りは親子連ればかりだ。
 やっと満足して鶴から離れた姫水と、ほっとしたつかさの間に入って、勇魚は両側の手をしっかりと繋いだ。

「パパー、ママー、次はどこ行くー?」
「こんな騒々しい娘を持った覚えはないっちゅーの」
「ふふっ。勇魚ちゃんちのおばさんみたいな包容力は、まだ持てないかな」



 でも、と二人の胸に同じ考えがよぎる。
 本当に勇魚が自分たちの娘なら、何も問題はなかったのに。
 姫水が勇魚を一番に考えても、つかさだって文句はなかったろうに。
 無意味な空想とは分かっているけれど。

 爬虫類生態館では、巨大なヘビやワニに悲鳴混じりの歓声を上げ。
 サバンナゾーンでは、立火先輩に見せたいねと話しながら、トラの前で写真を撮る。
 カバ、キリン、オオカミ、シマウマ……。
 一つ一つ、動物を見終わる度に、その時は近づいていく。


 *   *   *


 空のゾウ舎にはゾウの遺影があって、三人で合掌した。

「えーと、あとはホッキョクグマくらい……」

 園内マップを見ている姫水の言葉で、終わりが近いのが分かる。
 緊張が高まってきたつかさは、楽しそうな勇魚に困った視線を向ける。
 カッコつけて連れてきてしまったけれど、本当にこの子の前で姫水に告白するのか。

『姫水を幸せにできるのは勇魚でなくあたしや! 結婚して!』
『そんな、勇魚ちゃんの前でなんてことを……。
 でも幼なじみへの執着はもうやめないとね。つかさ、今からはあなたが一番よ』
『さすがはつーちゃんや! 後は任せたで!』

(なんて都合のいいことが起きるわけないやろ!)
(ううっ、正直やりづらいけど……でもやるしかないんや……)

「うわーーん!」

 不意に子供の泣き声が聞こえた。
 弾かれたように反応した勇魚が、迷うことなく走り出す。
 つかさと姫水がとっさに動けずいる間に、泣いている女の子の前にしゃがみ込んだ。

「どないしたん? ママとはぐれたん?」
「うう……うん、どっかいっちゃった……」
「お姉ちゃんが来たからには大丈夫や! すぐに会わせてあげるで!」

 勇魚の太陽のような笑顔に、その子もほっとして泣きやんだ。
 立ち上がって女の子と手を繋ぎつつ、友人たちを振り返る。

「迷子センターまで行ってくるから、二人はちょっと待っててや!」
「勇魚ちゃん、私も一緒に……」
「うちだけで大丈夫! ほな行こか。飴ちゃん食べる?」
「ママが、しらない人からものをもらっちゃいけませんって……」
「ううっ、世知辛いけど正しいで!」

 情けない笑いを浮かべながら、勇魚は女の子と歩いていった。
 心配そうに見送る姫水の後ろで、つかさは少し深呼吸する。

(……ほんま、勇魚っていい子やな。迷わず誰かに手を差し伸べられて)
(負けを認めるみたいで何やけど、この状況も巡り合わせや)
(勇魚が戻ってくる前に、ここで決めよう――)

 また自分を視界から外してる彼女へ、引き戻すように声をかける。

「ちょっと座らへん? 大事な話があるんや」

 姫水は一瞬びくりとして、ゆっくりと振り返った。
 どこか固い微笑みを浮かべながら。

「うん――いいわよ」


 主なきゾウ舎の入口前にあるベンチで、並んで座った。
 お互い目を合わせず、来園者たちが眼前を行き交う。
 けれど無駄に費やす時間はない。
 つかさの口から流れ始めたのは、一番最初の気持ちだった。

「恥ずかしながら、一目惚れやねん」

 少し動揺した姫水は、こちらを向いてはくれなかったけれど。
 つかさはそのまま話し続けた。
 四月の下旬から始まった、とある小さな恋の軌跡を。

「姫水が転入してきた日。そっちはあたしに気付かなかったろうけど。
 あたしにとっては、世界が変わるくらいの衝撃やった。
 こんなに綺麗な子がこの世にいるんやって、ずっと目を離せなかった」
「……つかさ……」
「あたしも初めての経験やったから、しばらくは戸惑っててさー。
 マウント取られたくないとか、下らないこと考えてたんやけど。
 決定的やったのはファーストライブや」

 懐かしむように、つかさは目を細めて空を見上げる。

「あの時、動けなくなったあたしを助けてくれて、完全に恋に落ちた」
「そん……なの。終わった後に言ったじゃない。
 私はライブのためにやっただけで、あなたのことなんて全然……」
「ほんまやで! めっちゃ腹立った!
 何でこんな奴を好きになったんやって、自分自身にも」
「ご、ごめんなさい……」
「あはは、謝ることとちゃうって。
 素直に気持ちを伝えられない、あたしがいつも悪かったんや。
 今さらやけど改めて言わせてや。ありがとう。あの時の姫水、王女様で王子様みたいやった」

 隣を向いて彼女の横顔へ、あの日は言えなかった言葉をまっすぐに伝える。
 こくん、とうなずくしかない姫水に、つかさは照れたように胸のブローチを触った。

「この翡翠のブローチ、同じ名前やと思ったら衝動的に買ってたんや。我ながらキモいなあ」
「そんなことは……」
「USJで魔法をかけてくれたこと、帰りの電車で支えてくれたこと。
 姫水には何でもないことやったろうけど、涙が出るくらい嬉しかった」
「………」

 映画に誘おうとして誘えなかったこと。
 光に姫水を悪く言われて悔しかったこと。
 地区予選の姫水のピンチに何もできず、せいぜい怒らせるしかできなかったこと。
 合宿のお風呂で助けてもらって、好きで好きでどうしようもなくなったこと。
 部室で無防備に寝ていたところへ、こっそり告白しかけたこと。
 ぽつぽつと続く回想を、姫水は地面に目を落としたまま、一言もらさず聞いていた。そして――

「あたしはずっと、姫水の特別になりたかったのに。
 文化祭の後の屋上で、アンタは花歩を特別とか言い出して――。
 あ、立ち聞きしたの花歩にしか謝ってなかった。ごめん」
「……別に、いいわよ」
「うん……で、ヤケになって退部しようとしたら。
 化学室に呼び出されて、現実感がないって言われて。あとは知っての通りや」
「そう……だったの……」

 気付かれなかった重すぎる心に、姫水は押し潰されそうになっている。
 話す意味があったのかは分からない。
 でも、我がままだけど、知っていて欲しかった。
 ここで自分の恋が終わるのであれば、なおさら。

「ねえ、姫水」
「!」

 彼女は膝の上で拳を握って、ますます身を固くする。
 ここから先はもう、引き返せなくなる、けど……

(ああ……でも、このために頑張ってきたんや)
(一度は墓場まで持っていこうなんて、逃げようともしたけれど)
(やっぱりあたしは、こうしたかったんや)
(初めて本気になって、必死で届けようとしたのは、この気持ちなんやから――)

 好き、という単語は神戸で既に言った。
 だからつかさは別の言葉を持ち出す。
 誤解のしようもなく、友達以上を求めていると伝わるように。


「姫水、キスしたい」



 苦渋。

 顔を伏せたまま、姫水に浮かんでいた表情はそれだった。
 少なくとも、恋されて嬉しいというものではなかった。

(あかんかったかあ……)

 笑おうとしたのに、目の奥から涙がにじんでくる。
 無理だって分かっていたのに。
 1%の希望なんて持ったものだから、つかさはつい食い下がってしまった。

「駄目?」

 胸に手を当て、泣き笑いを浮かべながら。
 こちらを向いてくれない彼女に、必死になって訴えかけた。

「あたしじゃ駄目……?」



「駄目じゃ……ない」

 ぽつりとこぼれたその声を、つかさは耳を疑って反芻した。
 姫水は目を左右させて、少し赤くなって言葉を続ける。

「あなたと、その……友達以上のことをする自分を、ここ数日で何度も想像したわ。
 私は決して、嫌じゃなかった。
 つかさとだったら、そうなってもいいって……私は思ってる」
「え……え……!」
「でも!」

 初めて、姫水の瞳がつかさを捉える。
 相手の舞い上がる心を押さえつけるような、険しく悲痛な視線で。

「私の一番大切な人は勇魚ちゃん! その一線だけは譲れない!
 あの子は私の命と同じで、何と言われようと切り離せない。
 それを認めてもらえないなら、誰であろうと一緒にはなれない!」

 怒濤のように言い放ってから、姫水は苦しそうに息をつく。
 つかさは混乱の極みにあった。
 つまり――どういうことなのだ?

 姫水は息を整えて、申し訳なさそうに……質問をしてきた。

「私にはこういう条件しか出せないけど……
 つかさは、どうする?」


 ようやく、つかさも理解した。
 こちらにボールが渡されるという、予想外の状況を。
 姫水が真剣な目で、つかさの答えを待っている。

 これが姫水にできる最大限の譲歩。
 どうしても譲れぬ一線がある中、どうにかできないか一生懸命考えて。


 二番目でよければ、付き合っても構わないと。
 そう、言っているのだ――。



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