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(この九ヶ月、楽しかったな……)

 冬の動物園を眺めながら、つかさにそんな思いがよぎる。
 生まれて初めて、本気で誰かを好きになった。
 何度も悩んだり、泣いたりしたこともあったけれど。
 今、隣にいる女の子に、ここまで恋をし続けてきて良かった。

 気をしっかり持って、改めて運命の相手に向き直る。
 姫水は不安を押し殺し、真剣な目でじっと待ってくれている。
 そのことが既に嬉しくて、つかさは自然と微笑んだ。

「ありがと、姫水。あたしのこと、一生懸命考えてくれたんやな」
「つかさ……」

 姫水の表情が苦しそうに曇る。
 この状況は本意ではないのかもしれない。
 つかさのことが一番だと、言えるものなら言ってあげたいのかもしれない。
 けど、嘘をついても意味はないのだ……お互いに。

 つかさは小さく息を吸う。
 8合目を過ぎて、9.5合目くらいまでは登れたと思う。
 でも、目指した山頂には勇魚がいて。
 それを押しのけることはできず、かといってその場に留まることもできず――

 長く続いてきた恋を、つかさは自分の手で終わらせた。


「ありがとう。けど、やっぱり無理や。

 姫水の一番になれないなら、あたしは友達のままでいい」



 見開かれた姫水の目には、すぐに後悔が満ちていった。
 つかさを正視できず、顔を伏せ、震える声で懺悔する。

「そう……よね、ごめんなさい……」
「ちょっ、何を謝ってんねん! 断ったのはあたしの方やろ!」
「呑めるわけのない条件だった。
 二番目なら、なんて、あなたのプライドを傷つけるのは分かり切っていたのに。
 私は、こんなことしか言えなくて――」
「精一杯譲歩してくれたんやろ。それなのに蹴って、あたしの方こそごめん。
 けど……お互い、仕方ないやないか」

 二人とも、どうしても譲れない一線があった。
 それが交わらなかったのだから、仕方ないとしか言いようがない。
 なのに姫水の瞳は耐えきれず、ぽろぽろ涙をこぼしていく。

「ごめん……ごめんね……。
 でも私は勇魚ちゃんを、長い間ずっと傷つけてきた。
 なのにあの子は、私を友達だと思い続けてくれたの。
 だから、私の方からまた裏切ることだけは……」
「分かってる。分かってるから」
「あなたは私を助けてくれたのに、私はっ……!」
「……あれを恩に着る必要はないで。
 別に助けようなんて、ご立派なことは考えてなかったんやから」

 あのライブで、渾身の力でバトンを振るったのは、ただ自分の恋のためだった。
 こちらを振り向いて欲しかった。本当にただそれだけ。
 だから――こうして、つかさのためだけに姫水が泣いてくれるなら。
 それでもう、十分だ……。

 泣きやまない姫水を、つかさは優しく抱きしめる。
 これくらいのことなら、友達でも許されるだろうと。
 耳元に口を寄せて、今の正直な気持ちを伝えた。

「ありがとう姫水。あたしに色々なことを教えてくれて」
「つかさ……私こそ……」
「これからも、ずっと――」

 青く澄んだ冬空を見上げる。
 最後に選択の余地があったことを、せめてもの救いと信じて。
 呟くように、その未来を口にした。



「……これからも、ずっと友達でいようね」


 *   *   *


 売店の陰から見ていた勇魚は、その場にへたりこんだ。
 二人のためにと買ったジュースが手から転がる。

 話の内容までは聞こえなかったけれど、泣いている姫水の口の動きに見覚えがあった。
 今まで数え切れないほど呼ばれてきた、自分の名前。
 だから、何が原因なのかはおおよそ察せた。

(……うちさえいなければ、二人は幸せになれたんやろか?)

 もしそうなら、そのようにしたかった。
 姫水とつかさのためだったら、命の一つや二つ捨てたって――

『こらっ、勇魚ちゃん!』

 頭の中の花歩に怒られ、正気を取り戻す。
 それは周りを不幸にするだけだと、少し考えれば分かることだった。
 結局どうしようもなく、ジュースの缶を拾い、空元気を振るって飛び出していく。

「二人とも、お待たせー!」

 姫水はつかさに借りたハンカチで、流れた涙を拭いていた。
 それに気付かない振りをして、勇魚は腕の中の三つの缶を見せる。

「さっきの子のお母さんが、ジュースでも買うてってお小遣いくれたんや!
 はいっ、つーちゃん。オレンジでよかった?」
「……うん。ありがと」
「はい、姫ちゃんにはグレープ!」
「ありがとう……勇魚ちゃん」

 子供の頃から好きだった味が、二人の間で手渡される。
 まだ少し目が赤い姫水は、これだけで安心してしまう自分が嫌になる。
 それでも勇魚は巻き込むまいと、懸命に笑顔を作った。

「あの女の子は喜んでた?」
「うんっ! お母さんが許可してくれて、飴ちゃんも受け取ってくれたで!」
「そう、勇魚ちゃんは本当に……」
「勇魚」

 つかさの声に、幼なじみ二人はびくりとする。
 結果として、自分たちの絆のせいで傷つけてしまった。
 が、恐る恐る目を向けると、そこには穏やかな表情があった。

「改めて言うとくけど、あたしは勇魚のこと好きやで。
 あたしも勇魚みたいになれたら良かったのかなって、少しだけ思う。
 ……なーんて、あたしらしくないか。あと二年、一緒に部活楽しんでこ!」
「つ、つーちゃあん……」

 明るく言われて、勇魚の目にも涙がたまっていく。
 姫水も決意したように、ベンチから立ち上がった。
 たとえ言い訳に聞こえようと、今の心を伝えるべきだった。

「つかさ、結果はこんな風になってしまったけれど。
 私はあなたのことが大好きで、あなたに好きになってもらえて嬉しかった。
 それだけは……信じてほしいの」
「……うん、大丈夫や。分かってる」

 その気持ちに嘘がないことは、三人ともが分かっている。
 ただ姫水は、それ以上に勇魚が好きなだけだ。

 そして――それが全てだった。


 *   *   *


「まっ……待って……それで終わりなん!?」

 もたられた報告に、夕理は愕然として問い返した。
 つかさは苦笑いを浮かべながら、はっきりと断言する。

「そうや。これであたしの恋は終わりや」


 あの後は遊び人の意地で、二人を誘って夕方まで遊んだ。
 新世界の派手で明るい空気の中、スマートボールなどに興じつつ。
 姫水と勇魚がようやく元気になったのを確認し、今日は別れた。

 そうして打ちひしがれた心を引きずって、報告に訪れた天名家で。
 夕理は悲鳴のように詰問した。

「それで後悔せえへんの!?」
「後悔……するやろなあ。あのとき少しだけ妥協してれば。
 二番目であることを許容できれば、今頃あたしの腕の中に姫水がいたのにって。
 うん、めっちゃ後悔する。けど、選んだ以上はしゃあないわ」

 あはは、という乾いた笑いの前に、夕理は絶句するしかない。
 ひどい二択だ。姫水にもどうしようもなかったのだろうけど。
 やるせなくて、思わず拳で床を叩く。

「どっちでもない、第三の道もあるやろ!?
 もっと頑張って藤上さんにアタックして、気持ちを向かせたらええんや。
 いつかは勇魚を追い越して、つかさのことを一番と思ってもらえば――」

 言葉が途切れる。つかさの表情が、一瞬苦痛に歪んだから。
 夕理としても酷だとは思う。これ以上何をしろというのか。
 でも、つかさは頑張ってきたのに。あんなに頑張ってきたのに、こんな結末なんて……。

「うん……あたしがもっともっと頑張れば、勇魚に勝つ可能性もあるのかもね。
 でも本気でそれを目指すなら、勇魚を憎まないとやってられへん。
 あたしは……勇魚のこともほんまに好きで。
 ……そうや。勇魚を想い続けてる部分も含めて、姫水のことが好きなんや……」

 確認するように独りごちてから、つかさは穏やかに顔を上げる。
 その表情はどこか達観していて、夕理は思わず泣きたくなった。

「部長さんに言われた。優勝を求めるのは犠牲が大きすぎる。ここが足るを知る場所やって。
 あたしも同じ、ここまでで満足や」
「つか……さ……」

 夕理は何も言えなくなる。今回の優勝を――頂点を諦めているのは、自分も同じだから。
 しばらくの間、沈黙が下りた。
 つかさは義務は果たしたと、弱々しく立ち上がり。
 部屋を出ていこうとするところで、自嘲して笑う。

「あたしって普段は柔軟なのに、何で肝心なところで妥協できなかったんやろなあ。
 あいつの一番でないと嫌や、なんて……。
 恋に夢見てる乙女みたいやないか……」
「……みたい、でなくて、実際そうなんやと思う」
「……うん……そっか、そうやな……」

 たった一つの恋のため、そのために全てを捧げたからこそ、それを曲げることはできなくて。
 理想に届かなかったつかさは、最後に友人を振り返る。

「勝手なこと言うけど、夕理にはあたしみたいにならないでほしい。
 一番好きな人と、本当の意味で結ばれてほしい。
 いつも真っすぐな夕理には、それが似合うと思うから……」
「………」
「それじゃ、また部活でね」

 残酷な言葉を残して、つかさは家に帰っていく。
『あたし以外の誰かと』
 言外に、そう言っているのだから。

(……ほんま、勝手やな)

 脱力してベッドに伏せる。
 とどめを刺してもらえず、夕理の想いは宙ぶらりんになった。
 悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。
 ただ自分の中心が、拠り所を失ってふわふわしたままで。
 何をする気にもなれず、呆然としたまま夜は更けていく。


 *   *   *


(こうなったら、私がつかさと藤上さんをくっつけるでー!)

 まさか既に終わったとは思わず、三重野奈々は自室で張り切っていた。
 両想いの二人を結ばせる方法……なんてものを検索していると、当のつかさから電話がかかってくる。

『明日ヒマ? 遊ばへん?』
「え? うん、いいけど……」

 明日は祝日、久々につかさが誘ってくれたのは嬉しいが。
 嫌な予感がして、何気ない振りをしつつ尋ねる。

「ふ、藤上さんとは遊ばへんの? 最近いつも一緒やったやん」
『……姫水は桜夜先輩の勉強を見に行くって』
「そ、そっかー。受験が終わるまではしゃあないなー」
『終わっても変わらへんけどね。
 そう毎日一緒にいられるわけがないんや。
 あたしと姫水は……別に恋人でも何でもないんやから』
(つか……さ……?)

 電話越しの声が僅かに震えていて、奈々にも何となく分かってしまった。
 何で、と聞きたいことは山ほどあるけれど。
 ぐっとこらえて、今は明るい声を張り上げる。

「よし、晶も誘って遊びまくるで!
 またアメリカ村行こっか! その後は堀江で服見たりとか!」
『うん……ありがと、奈々』
「もー、何やねん水くさい。それじゃ集合時間は……」

 約束を決め、電話を切ってから溜息をつく。

(つかさやったら、って思ったのにな……)

 自分たち1-6の生徒も姫水を想い想われているけど、結局はファンでしかないことも自覚している。
 ファンでいることを拒否したつかさなら、姫水の特別になれると思ったのに。

(けど、色々事情があるんやろな……)
(よし! 明日は何も考えずとにかく遊ぼう!)

 そしていつか、思い出に変わった頃にでも、この恋の顛末を話してくれると嬉しい。
 晶も含めた三人の腐れ縁は、いつまでも続くのだから。


 *   *   *


 月曜が祝日だったので、火曜の部活には三年生も参加した。
 とはいえ時期が時期だけに、小都子は心配そうに立火へ尋ねる。

「ほんまに大丈夫ですか? あと四日でセンター試験ですが……」
「ここに至ってジタバタしても点数は変わらへんやろ。普段通りの生活が大事なんや」
「私も私もー」
「いや、桜夜はジタバタした方が……」
「何でや! 立火ばっかズルいやろ!」

 分かった分かった、と諦めて、本日の活動が始まる。
 立火が仕切れるのもあと僅かだ。
 何か連絡事項は、という部長の問いに、つかさがはいと手を上げる。

「実はっすねー。あたし姫水にガチで告白したんですけど。
 あたしが頑固すぎたせいで、結局上手くいきませんでした。
 まあ友達としては今まで通り仲良くしますし、部に迷惑はかけませんので! 以上っすー」

『………』

 軽い口調でとんでもないことを言われ、部員たちは唖然としている。
 勇魚と夕理は辛そうに顔を伏せ。
 昨日一緒に勉強して、何となく察していた桜夜だけが静かに見守った。
 そして姫水は、大慌てで自分も手を上げる。

「ま、待ってください!」

 けじめとして、簡潔な報告だけしたいとはつかさから聞いていた。
 でも、こんな内容とは聞いていない。

「頑固すぎたのは私の方です! 私のせいで、つかさの気持ちに応えられなくて……!」
「ちょっ、何言うてんねん! 悪かったのはあたしやろ!」
「いいえ私が!」
「いやあたしが」
「まあまあまあ、そこまで」
「もー、二人とも意地っ張りやなー」

 立火が割って入り、桜夜も呆れ笑いを浮かべる。本当、最後まで困った子たちだ。
 こほんと咳払いして、三年生たちは後輩へと説く。

「何があったかは分からへんけど、二人とも意地を張り通したんやろ。
 人にはハッピーエンドよりも、意地の方が大事な時もある。それでええやないか」
「お互いに大好きなのは変わらへんのやろ? ならそれでええやん」
「……はい、先輩。つかさもいいわね」
「せやけど……!」
「つかさ、いい加減にしろ」

 結局一刀両断したのは、晴の冷ややかな声だった。

「お前らの痴話喧嘩など興味はない。全国大会を控えて大事な時期だというのに」
「す、すいません……。でもあの、今まであたしが部を混乱させてきた原因なので、せめて最終報告はしようって」
「なら、もうええな」

 ちょっと晴ちゃん、と小都子が止める前に、晴の視線は勇魚へ向いていた。
 同じく自分が悪いと思ってる、ある意味今回の一番の被害者に。

「今私たちがすべきは、笑える曲を作ることや。
 傷ついたお前たち三人が、自分で自分を笑わせられるくらいの曲ができれば……
 アキバドームでも通用するかもしれへんな」
「! 晴先輩っ!」

 勇魚の顔がぱっと輝いた。
 やるべきことを見つけ、姫水とつかさへも笑顔を向ける。

「はいっ! うちと、うちの大事な人をまず笑わせないと!
 そうやろ姫ちゃん、つーちゃん!」

 問われた二人もそれ以上の言葉はなく、微笑みとともにうなずいた。
(何やかんやで、晴も先輩らしくなってきたなあ)
 そう感慨深い立火の指示で、その日も曲作りが始まった。


『あっはっはっ お腹の底から
 どんな痛みも 吹き消すくらいに
 素で参るほどのスマイルで 笑って走ってわっしょいわっしょい!』

 花歩は皆の助けで作詞を進めながらも、夕理のことが気にかかる。
 昼休みからずっと、心が宙に浮いたような不安定さを感じる。

(二人が上手くいかなかったのは私も残念やけど……)
(でも夕理ちゃんにはチャンスとちゃう? つかさちゃんはフリーになったんやから)
(……なんて、この機に乗じてつかさちゃんを狙うなんて、潔癖な夕理ちゃんは絶対せえへんよね……)
(どうしたもんやろなあ……)


 *   *   *


「ねー姫水、お茶して帰らへん?」

 部活終了後、ヘラヘラしたつかさのお誘いに、他の部員たちの方が驚いた。

「……ええ、いいわよっ」

 姫水が明るく答え、部室内の驚きは安堵に変わる。
 二人が故意にそうしているのが、分かっていたとしてもだ。


「それで、結局勇魚のことはどうするんや」

 喫茶店で二人きりになり、笑みの消えたつかさは真剣に問いただした。
 姫水は困ったようにコーヒーを飲む。

「ど、どうって? 勇魚ちゃんは私を、純粋に友達と思ってくれてるわよ」
「んなことは分かってんねん。姫水の方は勇魚に、どういう感情を抱いてるのかって話や」
「それは……」

 煮え切らない相手に、つかさは腕を組んで背もたれに寄りかかる。

「そのためにあたしの恋は破れたんやから、はっきりしてもらわな納得いかへんで。
 特に四月からは、東京と大阪で離ればなれになるんや。
 姫水の望みが分かってれば、近くにいるあたしがフォローできると思うし……」

 驚いて、そしてくすくす笑い出す姫水は、本当にお人好しねと言いたそうだった。
 赤くなるつかさに、姫水は静かに約束する。

「そうね……今すぐは精神的に無理だけど。
 引っ越すまでには、私と勇魚ちゃんの関係にも決着をつけるわ」
「よろしい。で、昨日アメ村に行ったんやけどー」

 何事もなかったように雑談に切り替え、姫水も相づちを打ち始める。
 けれどその笑みはぎこちなくて、つかさほど自然にはならなかった。
 諦めたように困り笑いを浮かべ、正直な感想を伝えてきた。

「つかさは本当に器用なのね。そういうところ、見習わないと」
「な、何言うてんねん。姫水があたしみたいになったら、ファンからブーイングやで」

 ひねたことを言いながらも、つかさは少しだけ嬉しい。
 ずっと追いかけてきた子から、そんな風に評価されたのだから。でも――

 実際はそこまで器用でもなく、昨日の今日でいきなり気持ちが変わるわけでもない。
 目の前で笑う彼女が、今もどうしようもなく好きだった。
 姫水だって気付いてて、それも含めて器用と言ってるのかもしれない。

(あたしが自分で選んだんや。この気持ちは消さないと)
(少しずつ減らしていって、普通に仲のいい友達になるんや)
(……ああ、そっか)

 夕理はずっと、こういうことを続けてきたのだ。
 改めて思う。
 自分以外の、誰か相応しい人と幸せになって欲しいと。

「つかさ?」
「ん……何でもないで。姫水もアメ村行ってみる? 花歩あたりも誘って」
「そうね。残り少ない大阪の時間、行き残しがないようにしないとね」
「お年玉で懐は豊かなんや。パーッと使うで!」
「もう、少しは貯金しておいた方がいいわよ」



 他愛のない、穏やかな会話を交わしながら、喫茶店での時間は過ぎていく。
 後悔がなくはないけれど、これが自分の意志で選んだ結果。
 いつか痛みも消えて、素直に友達同士として笑い合えるよう――
 つかさと姫水は、次の関係に向けて歩き出す。


<第31話・終>

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