暗くなる前にと急いでお風呂へ行き、浴場から見える海を楽しんだ。
部屋に戻り、寝間着で布団の上に座ると、姫水が何やらぼやき始める。
「別にエコノミーでも十分だったわね。それなら遅い便でも空いてたのに」
「うちはどっちでもいいけど、何で個室にしたん?」
「そ、その……もしかしたらこの部屋で、私たちが結ばれるかもしれないって」
「ええー!? 姫ちゃん、そないなこと考えてたん!?」
「あ、あくまで可能性としてよ! 今となっては笑い話ね……」
情けない顔で苦笑する姫水に、勇魚もつい吹き出してしまう。
もし姫水からそういうことを求められた場合、自分が一体どうしていたのか、少し興味はあるけれど。
でもやっぱり、どちらも友情だったことに勇魚は安堵する。
結果論かもしれないが、二人で大人の階段を上るよりは、仲良く手を繋ぐ方が似合っていた。
「明日は四時半起きやったっけ」
「そうね。五時半に大阪港着だから」
「なら九時くらいに寝たらええかな。それまで思いっきりお喋りや!」
「うんっ!」
フェリーに揺られながら、他愛のない話をのんびりと続ける。
お腹が空いたらドーナッツを食べて、子供の頃と同じように。
でも、今の二人は十六歳。話は自然と、将来のことへと移っていく。
「勇魚ちゃんは看護師になる」
「姫ちゃんは女優を続ける!」
「絶対、なりたい大人になろうね」
「約束やで!」
瀬戸内海を進みながら、小指を絡ませ誓い合う。
これから寝て起きて、港に着いたら……
次は別々の道へと、大海を漕ぎ出していくのだ。
* * *
「花ちゃん、ただいまー」
「自転車、どうもありがとう」
「どういたしまして! 旅はどうやった?」
朝早くの訪問を受けた花歩に、幼なじみたちは笑顔で親指を立てた。
『最高だった!』
それは何よりとお土産を受け取った花歩は、残念そうに家の中を振り返る。
「芽生はさっき講習に行っちゃったんや」
「そう。私も名残惜しいけれど、もう行かないと」
二日も引っ越しを遅らせた姫水は、東京で色々と待たせている。
これ以上はもう引き延ばせない。
勇魚が率先して、元気に駅へと歩き出した。
「さっ、後は姫ちゃんをお見送りするだけやー!」
帰りの船での顛末を聞いて、花歩は地下鉄の中でひっくり返りそうになった。
「へ、へー、キスをねえ」
「勇魚ちゃんには悪かったけど、どうしても必要なキスだったの」
「あはは、別に悪ないで! うちも初めてが姫ちゃんで良かった!」
すごい幼なじみたちやなあ、と感心しつつ、花歩はスマホで密かに連絡する。
勇魚が怪訝そうに覗きこんできた。
「花ちゃん?」
「何でもないでー。そうそう九州といえば、私たちの修学旅行は……」
話しながら天王寺も難波も通り過ぎ、地下鉄は本町駅に着く。
そして、発車する瞬間だった。
「姫水!」
届いた声に、姫水ははっと窓の外を見る。
つかさと夕理。
二人がホームで手を振っていた。
笑いながら、つかさは大きく、夕理は小さく。
車両は速度を上げ、二人の姿は瞬時に遠ざかっていく。
とっさに反応できなかった姫水は、一杯になった胸をきゅっと押さえる。
勇魚が嬉しそうに声を跳ね上げた。
「姫ちゃん、良かったね!」
「うん……!」
「さっきの花ちゃんは、うちらの場所を教えてたんや」
「あはは。無事届いて一安心やね」
息をつく花歩は、本来ならつかさ達と一緒にいる側だった。
それを勇魚のために、こうして同行させてもらっているのだ。
幼なじみたちがお別れするのを、きちんと見届けないと。
とうとう、新大阪駅の改札前まで来た。
切符を発券した姫水は、まず花歩の手をしっかりと握る。
「花歩ちゃん、仲良くしてくれて本当にありがとう。
あなたは私にとって、特別な女の子。それは東京に行っても変わらないわよ」
「私も毎日楽しかったし、あなたは私の永遠の理想や。
部活だけでなく自分の進路も、姫水ちゃんを見習って早く決めないとね」
「ツッコミ芸人を目指すなら、事務所の社長を紹介するわよ?」
「何でやねん! いや、一応選択肢に入れた方がええやろか……?」
冗談を言って笑い合ってから、最後に幼なじみ同士が向かい合う。
既に言葉は尽くしているのか、ただ思い切りハグを交わした。
「……今度は私の方から、メールを送るからね」
「うん……楽しみにしてるで」
繋いだロープが二度と離れないことは、端から見ている花歩も確信できた。
勇魚の小さな体を離し、姫水は決然と顔を上げる。
花歩が初めて会った日の、浮き世離れした綺麗さとは違う。強い意志を秘めた戦う女の子の姿で。
「それじゃ、行ってきます!」
「姫ちゃん、体に気をつけて!」
「お仕事、大阪から応援してるで!」
うなずいて、背を向けて、改札に吸い込まれていく彼女を、花歩は黙って目に焼き付ける。
勇魚は本当にこれだけで良いのかが、少し心配だったが……
それを口に出す前に、本人が動いていた。
「姫ちゃん!」
改札の内と外を隔てる柵に飛びつき、大声で叫ぶ。
新大阪の雑踏の中で、誰の目もはばかることなく。
「困ったらいつでも呼んでや! どんなときでも何があっても、うちは必ず――」
振り返る彼女へと、大きく息を吸い込んで。
幼なじみへの想いの全てを、勇魚は全力で絶叫した。
「助けに行くから!!」
姫水は微笑みながらも、必死で泣くのをこらえていた。
その足は再び歩き出し、今度こそ完全に人混みの中へ消える。
勇魚は柵を掴んだまま動かず、花歩は恐る恐る声をかける。
「あの、勇魚ちゃん……」
「さ、うちらは帰らないと!」
大したことでなかったとでも言うように、振り向いた勇魚はいつもの笑顔だった。
目を合わせず、来た道を戻ろうとする親友を、花歩は慌てて追いかける。
「勇魚ちゃん」
「花ちゃん、春休みの宿題はどう? うちは結構進んでるでー」
「ねえ、勇魚ちゃん」
「そうそう、昨日将来の話をしたときに聞いたんやけど。
姫ちゃん、数十年したら引退して大阪に戻るかもしれへんねんて!
そうしたらWestaの九人で集まって、またみんなでわいわい騒いで――」
「勇魚ちゃんっ!」
勇魚の早足が仕方なさそうに止まる。
せっかく明るく振る舞ってるのだから、そっとしておいた方がいいのかもしれない。
でも花歩は、こんな勇魚の姿を見たくはなかった。
「いつも前向きで元気なのは、確かに勇魚ちゃんの長所やで。
でも私は、それが時々心配になるんや。
勇魚ちゃんは泣きたいときにすら、平気なふりをしてるんやないかって」
しばらくの間、勇魚は背を向けたまま黙っていた。
花歩も今はじっと返事を待つ。
目の前の小さな肩は、少しずつ震えだして……
振り向いた彼女の、瞳からはぽろぽろと涙がこぼれていた。
「平気なわけあらへん!」
「勇魚ちゃん……」
「もう明日から、姫ちゃんにおはようって言われへん!
一緒にご飯を食べることも、手を繋ぐこともできひんやんか!」
「そうやね……寂しいね」
「でもっ……うちが笑ってないと、姫ちゃんが安心して頑張れへんからっ……!」
絞り出すようなその声に、花歩は一歩進んで親友を抱きしめる。
「今の姫水ちゃんはそんな弱い子とちゃうよ。
それに勇魚ちゃんだけやない。この一年間、姫水ちゃんと関わった人は、みんな同じように寂しいんや」
「花ちゃん……」
「でも、勇魚ちゃんには私がいる。
姫水ちゃんの代わりになれへんけど、それでもずっと、勇魚ちゃんのそばにいるからね」
「花ちゃん……。姫ちゃんっ……!」
花歩の胸の中で、勇魚は子供のように泣きじゃくりながら、何度も姫水の名前を呼んだ。
新幹線が発車する音が、頭上のホームから聞こえた気がした。
勇魚の頭を撫でながら、花歩は天井へと目を向ける。
(行ってらっしゃい、姫水ちゃん)
(あなたの一番大切な人は、私が必ず近くで支えるから――)
去りゆく姫水へと、その心の声が届くと信じながら。
花歩は友情を込めて、腕の中の勇魚をもう一度抱きしめた。
* * *
「……もう、出発した頃やろか」
夕理の呟きが耳に届いても、つかさは空を見てぼんやりしていた。
弁天町に戻ってはきたが、そこから動く気が起きず、駅のベンチに腰掛けたまま。
これから、姫水がいない日常を過ごしていくのだ。
スマホを取り出して、昨晩送られてきたメッセージを改めて読む。
『勇魚ちゃんは世界で一番大切な、私の友達』
昨日これを読んだときは、色々と複雑な思いが渦巻いたものだ。
でも今はもう落ち着いていた。どのみち、つかさの状況は変わらない。
勇魚と友達でいることを選んだ姫水は、いつか他の誰かと結ばれるのかもしれない。
それは二番目であることを許容できるような、心の広い人物なのだろう。
「んっ……」
大きく伸びをして、スマホをしまってから隣へ向く。
「夕理、あたしは一人で大丈夫やで。先に帰ったら」
「う、うん、でも……」
何かを決意したように、今度は夕理がスマホと、そしてイヤホンを手に取った。
「聞いてもらえへん? 作りかけやけど」
「新曲作ってるの?」
「入学式の歓迎ライブ、Western Westaは正直もう完成してるやろ。
今後は何事も、もっと挑戦していかなあかんと思って。せやからもう一曲」
花歩と小都子先輩がいいって言えばやけど、と付け加えるのを聞きながら、つかさはイヤホンを耳に付ける。
流れてきたのはゆったりした曲。
それでいて元気と希望をもらえるような、この季節に相応しい、春の陽光のような旋律だった。
「なんか……新生活への応援って感じやな」
「うん、うんっ! そのつもりで作ったんや」
「おっ、あたしも音楽が分かるようになってきたなあ」
新入生だけでなく、四月から新たな日々を生きる全ての人への曲。
嬉しそうな夕理と、リピートする音楽に背中を押されるように、つかさはベンチから立ち上がった。
イヤホンを耳に差したままで。
「ちょっと散歩してかへん?」
「いこう!」
中学校への通学路を少し歩いてから、何となく道を曲がった。
しばらく進むと見知らぬ風景。
生まれ育った弁天町なのに、意外とまだ歩いたことのない道があるものだ。
民家から顔を出す桜の木が、いくつか花を咲かせていた。
その下でつかさはイヤホンを外し、曲への意見を述べてからスマホごと返す。
真剣に聞いて受け取る夕理に、微笑んでつかさは告げた。
いつもの軽い口調のままで。
「ねえ夕理」
「ん?」
「あたしと付き合ってみる?」
……数秒間固まっていた夕理は、目を見開いて飛び上がる。
「えええ!? いいの!?」
「まあ、形から入ってみれば、あたしの気持ちも変わるかもしれへんし。
って、あんまり期待されても困るで!?」
目を潤ませ輝かせている夕理に、つかさは慌てて弁明した。
これでも真面目に考えた上だけど、未来は相変わらずあやふやだ。
「上手くいくかはあたしも自信がない。
やっぱりあいつへの気持ちが消えないままやったら……ただ謝るしかできひんで」
「構わへん! チャンスがもらえるなら!」
予想していた通り、夕理は真っすぐな瞳で即座に断言した。
「今は仮初めにでも、つかさの彼女にしてほしい。
いつか本当のパートナーになれるよう、もっともっと頑張るから。
それでも姫水さんのことを想い続けるなら……むしろあっぱれや。そのときは潔く諦める」
(――この純粋な恋に、応えられたらええのにな)
そんな風に、今のつかさは素直に思う。
簡単なことではないけれど。
少しだけ自分からも歩み寄るため、つかさは右手を差し出した。
「ほな、改めてよろしく。あたしの彼女さん」
「うん! つかさ、大好きや!」
握手して、ひとまずのお付き合いを始めた二人は、再び春の街を歩き出す。
「今後は、二人でどこかに行くのはデートやな~」
「デ、デート……。
う、嬉しいけど、私たちは高校生なんや。交際は清く正しくやで!」
「あはは、夕理は夕理やなあ」
なら行き先はどこにしよう、なんて話しながら。
あまりに幸せそうな夕理の笑顔に、少しの痛痒を感じつつ、つかさは遥か東の空を見上げた。
(姫水……あたし、これでええねんな――)
夕理も察したように、同じ方角へ目を向ける。
午前の柔らかな太陽が、新たな関係の二人を優しく包む。
* * *
新幹線の二時間半にも既に慣れ、姫水は何事もなく品川に到着した。
大阪でやるべき事はやり切った。
今からこの東京の地で、役者の仕事と、高校生活と、そしてWestaの応援を続けていくのだ。
新幹線の改札を出て、京急のホームに向かおうとしたときだった。
「姫水さん」
一年ぶりに聞いた声が、姫水の耳へと届く。
おずおずと進み出てきた彼女は、まるで初めて会うかのように思えた。
だって今は確かな現実感と、鮮やかな彩りに満ちている。
「ご、ごめんなさい。駅まで押しかけてきてしまって。
でも私、あなたに会えると思ったら、いても立ってもいられなくて……」
そう済まなそうな相手に、姫水の微笑も罪悪感に歪む。
こちらこそ散々待たせてしまって、本当に申し訳なかった。
けれどそのおかげで、姫水は十分に見つけられていた。
自分の本当の気持ちを。彼女をどう思っているのかを。
「弥生さん」
しっかりした足取りで、歩み寄った姫水は弥生の手を取った。
「あなたと、お友達になりたいの」
「姫水さん……」
「もう一度最初から、やり直させてほしい!」
胸を詰まらせたように、彼女は言葉もなく何度もうなずいた。
その潤んだ目もまた、出会った頃の夢見る瞳でなく、確かな現実の姫水を見つめている。
「今目の前にいるのが、本当の姫水さんなのね」
「うん、あなたに好きになってもらえるといいんだけど」
「既に胸が高鳴ってるわ。初めてあなたのお芝居を見た、あのとき以上に」
片手は離して、もう片手は繋いだまま、並んで前へと歩き出す。
大阪よりも一週間早く、桜の咲いた東京で。
姫水と弥生は、離れていた間のことを話し始めた。
きっと長くかかる思い出話。
でも二人の前には、十分足りるだけの時間が広がっている。
<第36話・終>