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「おはよう、勇魚ちゃん」

 自宅に戻る前に、つい勇魚の家へ立ち寄ってしまった。
 玄関に出てきた幼なじみの笑顔は、物心ついた頃と何も変わらない。

「おはよ姫ちゃん! つーちゃんちはどうやった?」
「うん……私はつかさが好きなんだって、改めて実感した」
「そうなんやね。うちもつーちゃんが大好きや!」
「ふふ。それじゃ、また午後にね」
「引っ越し、手伝うことない?」
「業者さんにお任せだから大丈夫よ」

 昼過ぎにその業者が来て、家財は次々とトラックに運び込まれた。
 一年間を過ごした家が、綺麗に空き屋へ変わっていく。
 トラックが出発し、後には母の車だけが残った。

「それじゃ、お母さんは先に東京へ行ってるから。……心変わりなんてしないわよね?」
「しないわよ! 私が決めたことなんだから。
 きちんと勇魚ちゃんとお別れして、明後日には品川にいるから」

 娘の断言に母が安心していると、佐々木家も見送りにやってくる。
 母親同士が別れを惜しみ、勇魚たちが手を振った。

「おばちゃーん! お元気でー!」
「ありがとう勇魚ちゃん。ずっと姫水と仲良くしてあげてね」
「……ばいばい、おばちゃん」
「え、ええ。汐里ちゃんも、ばいばい」

 八年前よりは遥かに穏やかに、車は走り去っていく。
 家には既に鍵がかかり、もう姫水が入ることはない。
 フェリーは夜行なのでしばらく時間がある。手荷物を持って佐々木家にお邪魔した。

「勇魚ちゃん、夕方まで何しようか。春休みの宿題? それとも衣装デザインの勉強?」
「衣装の方!」
「ふふ、宿題はいいのね?」
「もー、うちも上級生になるんやから大丈夫!」

 部屋で勇魚が広げたスケッチブックは、一年間の努力と成長が如実に現れている。
 それに感じ入りながらも、姫水は昨日のつかさとのことを正直に話した。

「つかさも二年生になったら、今まで以上に衣装に関わりたいみたい」
「そうなんや、つーちゃんが!」

 勇魚は嬉しそうながらも、少し寂しそうでもある。

「ほんまは全部つーちゃんに任せた方が、Westaのためなんやろな」
「もう、そんなこと言わないの。
 本当にやりたいことをするのがスクールアイドルでしょう?」
「うん……そうやね!
 新入生にも衣装が好きな子がいたら、一緒に頑張りたいな!」


 一段落ついた後は汐里と遊んで、そのうち出発の時刻が近づいてきた。
 と、玄関のチャイムが鳴り、外に立っていたのは花歩だった。

「姫水ちゃん、自転車持ってきたでー」
「あ、ありがとう! 私から借りに行くつもりだったのに」

 姫水の自転車はトラックで運ばれていったので、花歩から借りる手はずだったのだ。
 今回は留守番の友達は、いやいやと手を振った。

「どうせならスタート地点も、八年前と同じの方がええやん。そろそろ出発?」
「そうね。勇魚ちゃん、準備はいい?」
「ええよ、行こう!」

 勇魚の母に行ってきますを言って、靴を履いて外に出る。
 自転車の前かごに荷物を入れていると、汐里が着いていきたそうにじっと見ていた。
 しゃがんだ姫水が優しく頭を撫でる。

「汐里ちゃん、今回はごめんね。大きくなったら一緒に行こうね」
「うん……」
「なら明日は私とどっか行こうか」
「はなちゃんと!? わーい!」

 花歩に抱き着く妹の姿に、二人とも安堵して。
 並んで自転車にまたがり、大きな声で唱和した。

『Go! WEST!!』


 *   *   *


 踏切を二つ通り、住吉大社の南を通り。
 毎日乗り降りしていたバス停も通り過ぎる。
 頑張れば自転車でも通えた高校だけど、それだと三人でのお喋りの時間はなかったから。
 バスで通わせてくれた親に感謝するばかりだ。

 頭上を走るニュートラムや、貯木場の水面。
 あのときは初めての風景にはしゃいだが、今はもう見慣れた光景だ。
 右に曲がり、前回よりずっと早く、フェリーターミナルに到着した。

「勇魚ちゃん、あそこへ行ってみましょう」
「うんっ!」

 ターミナルの北の、釣り場になっている岸壁へ行く。
 タイミングも計算通りで、真っ赤な夕日を眺めることができた。
 八年前、ただ泣くしかできなかった勇魚は、今は誇らしく隣の姫水を見上げる。
 と、その向こうの大きな橋が目に入った。

「晴先輩は、あの橋を自転車で通ってるんやね」
「あそこに階段があるわよ。登れるんじゃない?」
「行ってみよう!」

 南港大橋に登り、改めて港と沈む太陽を見る。
 高いところから見る風景は、自分たちの視野まで広くなったように感じた。


「名門大洋フェリー!」

 ターミナルに入った勇魚は、看板の社名を見て感動の声を上げる。

「すごいで姫ちゃん、ここは名門なんや!」
「残念だけど、昔は名古屋と門司を繋いでいたからその名前みたいよ」
「あ、名と門やったん……。えへへ」

 照れ笑いの勇魚にくすくす笑いの姫水は、乗船手続きを済ませて待合室へ行く。
 平日とはいえ、春休みとあって混雑していた。
 最初は楽しく喋っていた勇魚だが、六時を過ぎてしばらく経つと元気がなくなってくる。

「どないしょ、お腹すいてきた……」
「も、もうすぐ乗に船れるから、あと少し我慢してね?」

 船内でバイキングが食べられるというので、お昼は少なめにしてしまったのだ。
 姫水に励まされつつ耐えていると、乗船開始の放送が流れた。

 すぐに長い行列ができ、さらに待った二人はようやくタラップへ踏み出す。
 既に暗くなった海上に、巨大な船が白く浮かび上がっていた。
 きょろきょろ見回しながら乗船し、女性用エコノミー室へ向かう。

「わー! こういう部屋なんや!」
「行きはね。帰りは個室を取ったから」

 広い部屋に20人が雑魚寝し、自分のスペースは寝られる広さだけだ。
 勇魚としては、こんな賑やかな方が面白い。
 隣のお姉さんに挨拶していると、胃が盛大に音を立てた。

「え、えへへ、姫ちゃ~ん」
「はいはい、もうレストランは開いてるみたいよ。先にご飯にしましょうか」


 バイキングで鰹のタタキやハンバーグを口に運びながら、勇魚は申し訳ない気分である。

「ごめんね。ほんまは出港してから食べたかったやろ?」
「まあその方が旅情はあったけど、八時を過ぎちゃうしね。旅は楽しくいきましょ」

 優しく微笑む幼なじみは、今日も上品に春巻きなどを食べている。

(姫ちゃんは、ほんまに大人やなあ)

 今回の旅行の手配も、全部一人でやってくれた。
 これから女優で稼ぐからと、旅費まで出してくれた。
 体育祭ではまぐれで勝ったけれど、あれ以降は競おうとすら思ったことはない。
 それでも近くにいられたから、安心しきっていたけど……。

(でも姫ちゃんはプロに戻って、これからは自分の意志で、大人の世界を渡っていくんや)
(うちももっと頑張らないと、姫ちゃんに置いてかれてまうで!)


 食べ終わった頃に船は動き出し、大阪港を後にした。
 お風呂から夜の海を見たり、同じ部屋の子供とトランプで遊んだりしていると、姫水のスマホでアラームが鳴る。

「そろそろ明石海峡大橋を通る頃ね」
「わ、行こ行こ!」

 三月下旬の夜はまだまだ冷え込む。
 デッキに出て思わず身震いしたが、前方に見える大きな橋に寒さも吹き飛んだ。
 すっかり夜も更けた海上で、ライトアップされ、明石と淡路島を繋いでいる。

「そういえば花歩ちゃんは、前に淡路島へ行ったんだったわね」
「そうやね! 今頃何してるんやろ」
「一生懸命、作詞の勉強でもしてるんじゃないかな?」

 話している間に、橋は頭上を通り過ぎていった。
 船内に戻った勇魚は、既に大いに満足している。

「姫ちゃん、来て良かったね!」
「うふふ、まだまだ序の口よ。明日も面白い場所がいっぱいあるんだから」
「わー、めっちゃ楽しみ!」

 体が冷えたのでもう一回お風呂に入って、部屋でくつろぐうち消灯時間になった。
 船のエンジン音と大部屋の人の音で、静かな寝室とはいかなかったが、勇魚は気にせず眠りにつく。
 隣に横たわる幼なじみが、どうして旅へ誘ったのかなんて考えもしないまま――。


 *   *   *


(勇魚ちゃん……)

 目が覚めてしばらくの間、姫水は勇魚の寝顔を堪能していた。
 やっぱり天使だとは思うけど。
 現実感を取り戻し、つかさ達とも深く関わった今は、前みたいに神格化はしない。
 勇魚だって普通の女の子だ。

(いつ確認しよう)
(私が勇魚ちゃんとどうなりたいのか。私だけのものにしたいのか)
(それとも、誰か他の人と結ばれても許容できるのか)
(今……?)

 結局、帰りの船まで延ばすことにする。
 目的のある旅だけれど、それはそれとして観光自体も楽しみなのだ。
 幸せそうに寝ている彼女の、ほっぺたをそっと突っついた。

「勇魚ちゃん、起きて。海が見えるわよ」


「海の真ん中やー!」

 昨日は真っ暗で見えなかったが、今朝は周囲全てが青い水面だ。
 遠くには別の船と、その向こうにうっすら陸地が見える。

「あれが九州みたいね」
「すごーい! ほんまに寝てる間に着いたで!」
「お腹は空いてる?」
「ちょっとだけ」
「今は軽めにしておきましょう。今日の食事時間は少し変則的になるけど、許してね」
「ええよ、そういうのも旅の楽しみやね!」

 自販機に焼きおにぎりを見つけ、珍しさにはしゃぎながら軽く食べる。
 そうこうしている間にフェリーは着岸。
 部屋で仲良くなった子に挨拶している勇魚と、それを微笑ましく見ている姫水は、同時に新門司港へ降り立った。

「初九州やー!」
「私も!」

 バスで門司駅へ行き、電車で門司港駅へ。
 先日復元工事が終わったばかりの、大正時代の駅舎を出る。
 そこは門司港レトロ地区である。



 『バナナの叩き売り発祥の地』の碑に笑ってから、海辺を少し歩いた。

「わあ、港町って感じやねえ」
「うん、でも少し独特ね」

 他と違うのは、海峡の向こうがすぐ山口県ということだろう。
 海が狭く感じると同時に、レトロの名の通り、煉瓦造りの建物がそこここに見える。

 展望台や大正モダンの洋館を見学してから、朝食兼昼食のため喫茶店に入る。
 お楽しみの九州グルメは、門司港名物の焼きカレーだ。
 バナナジュースを飲みながらわくわくと待っていると、こんがり焼けたカレーが運ばれてきた。

「おいしー!」
「勇魚ちゃん、昔からカレー好きよね」
「うんっ! 次の合宿でも、また晴先輩の作ったカレーが食べたいで!」
「ふ、ふーん」

 姫水は少し複雑な顔で、カレーとご飯をかき混ぜた。

「東京に泊まりに来たら、私もカレー作ってあげるわよ? 岸部先輩より絶対おいしいのを……」
「もー、姫ちゃんは負けず嫌いやな!」

 続いて観光用のトロッコ列車に乗り、終点の一つ前で降りた。
 ノーフォーク広場へ行くと、錨のモニュメントの向こうに巨大な吊り橋が見える。

「あれが関門橋よ」
「うわあ、本州と九州を繋いでるんや。スケールめっちゃすごい!」



 遊歩道を進むと、横の海を貨物船や漁船が行き来していく。
 山に挟まれた海峡は、大阪では見られない風景でなかなか新鮮だ。
 橋の真下でいっぱい写真を撮ってから、反対側へと抜けた。

「さて、これで福岡観光はおしまい」
「ええ!? まだお昼やで、もう帰るん!?」
「ふふふ、あそこの建物からエレベーターで降りるわよ。看板は見ないようにしてね」

 幼なじみにそう言われて、勇魚は顔を伏せてついていく。
 かなり深く潜り、エレベーターから出てみると……

「え、トンネル?」
「そう、関門トンネル。ここから歩いて山口県に行けるのよ」
「ええー!? ほんまに!?」

 『↑下関』と床に書かれた先には、向こう側が見えないほど長いトンネルが続いている。
 海の底を通る道を、勇魚は大はしゃぎで歩いていった。
 生活道路としても使われているようで、自転車を押したおばさんと挨拶してすれ違う。

 歩くこと15分。本州に到着した二人は、エレベーターで地上に出た。
 海辺には幕末における馬関戦争での大砲のレプリカ。平家滅亡の壇ノ浦の記念碑に、少し離れれば武蔵と小次郎の巌流島……
 歴史を感じつつ、先ほどとは反対側から橋を見上げる。

「私は中国地方に来るのも初めてね」
「そうやったん? うちは修学旅行で広島行ったで!
 あ、よく考えたら、昨日は寝てる間に瀬戸内海通ったんや」
「うん……瀬良さんが住んでた島の近くも通ったかもね。どこだかは知らないけど」

 勇魚の思考を先回りして、姫水は光の名を挙げる。
 ロープウェイ乗り場へ向かいながら、ぽつりと本音が呟かれた。

「私は勇魚ちゃんなら、瀬良さんにも負けないと思うんだけどな」
「ちょっ。姫ちゃん、ひいき目がすぎるで~」
「確かに才能では瀬良さんに誰もかなわないわよ。
 でもアイドルってそれだけじゃないじゃない。勇魚ちゃんはこんなに可愛くていい子なのに」
「も、もう姫ちゃ~ん」

 勇魚は照れているが、姫水は至って真面目である。
 この一年、自分のことで精一杯で、勇魚の人気を上げられなかったのは断腸の思いだ。
 本人は気にしないとはいえ、後輩に追い抜かれでもしたら姫水は耐えられない。
 今後は一番のファンとして、外から思いきり応援しないと。

「次のアキバドームでは、オレンジ色のサイリウムを山ほど持っていくわね。
 あ、勇魚ちゃん専用の応援幕も作らないと」
「普通に応援してくれればええから!」


 火の山ロープウェイで登った山上から、眼下に広がる関門海峡を楽しみ。
 海遊館と一文字違いの海響館で、ペンギンのショーに歓声を上げる。
 赤間神宮や日清講和記念館も行きたかったが、夕方にはフェリーに戻らなければならない。
 時計はもうすぐ三時。勇魚と手を繋いで、最終目的地のカモンワーフへ向かった。

「ここで鯨料理を食べて締めにしましょう」
「あはは、うちは共食いやね!」

 優しい勇魚と動物好きの姫水だが、それはそれとして生き物を食べることに躊躇はない。
 食い倒れの大阪人らしく、鯨の刺身や竜田揚げを大いに味わった。
 楽しく食事をしながらも、姫水ははっと気付いてしまう。

(鯨を食べる……つまり勇魚ちゃんを食べる……?)
(って、何を考えてるの私はっ)
(いやでも、これからそうなる可能性もあるんだから……)

 旅行を満喫しすぎて、うっかり目的を忘れるところだった。
 目の前で味噌汁をすすっている幼なじみは、いつものように愛らしい。
 この無垢な笑顔を悩ますようなことを、本当にするべきなのだろうか。

 だが姫水は、揺れる心を固定し直す。
 みんな今まで、それぞれの想いにしっかり向き合ってきたのだ。
 最後に残った自分だけが、逃げるわけにはいかなかった。

「……腹ごなしに、このへんを一回りしましょうか」
「うんっ!」


 *   *   *


 散策の後は船で門司港に戻り、お土産と、夜食用のドーナッツを買って観光は終わった。
 フェリーターミナルに向かうバスで、勇魚は屈託なく笑いかけてくる

「おおきに姫ちゃん、最高に楽しかった!」
「私もよ。付き合ってくれてありがとう」
「姫ちゃんとの時間がずっと続けばいいのにって、ちょっと思ったで」

 息をのむ姫水に、勇魚は慌てて手を振る。

「で、でもうちらは離れてても友達や! 東京と大阪で、それぞれ頑張ろうね!」
「うん……勇魚ちゃん……」

 そちらの心も再度固定する。
 離れがたい気持ちは増すばかりだけれど、それで未来を投げ出すようでは、どのみち勇魚の隣にいる資格はない。
 船が大阪に戻った後は、何があろうと東京へと発つ。
 その前に、今こそ最後の決着を――。

 帰りの船は和室の個室。並んだ布団を勇魚は素直に喜ぶが、姫水は変に意識してしまう。
 デッキに出て、一緒に散歩しつつ勝負の場所を選ぶ。
 五時になり、船は夕方の福岡を出港した。
 ここと決めたベンチへ勇魚を誘い、座って話している間に、他の客は船内へ戻っていく。

 周りの海は静かで、世界には自分たち二人だけに思えた。

「ねえ、勇魚ちゃん」
「なーに、姫ちゃん」

 こちらを信じ切っている笑顔に、ごくりと唾をのんで――
 藤上姫水は、ひと思いに跳躍した。


「キスさせてくれない?」
「!!?」
「あ、いや、待って。話を聞いて」

 熟考した末の言葉のはずなのに、いざその時がくるとしどろもどろだった。
 必死で気を落ち着かせ、姫水は一生懸命に説明する。

「あなたが私に向けてくれるのが、純粋な友情であることは重々知ってる。
 でも私の方もそうなのか、自分でも分からないの」
「姫ちゃん……」
「あなたと恋人になりたいのか、友達のままでいたいのか。
 病気だった頃は、唯一の現実だった勇魚ちゃんなのに。
 現実を手に入れたら、逆に近すぎて分からなくなった。
 それを確かめるために、その、キスさせてもらえないかな……?」

 そんなことのためにファーストキスを渡せなどとは、我ながら無茶苦茶だと思う。
 だが本当に、これしか思いつかなかったのだ。
 完璧だった少女は消え失せて、ただただ両手を合わせて頭を下げる。

「お願い勇魚ちゃん、幼なじみのよしみで!」
「う、うん……ええよ。幼なじみやもんね」

 優しい勇魚ならそう言ってくれると、最初から分かっていた。
 普通の幼なじみは、こんなこと絶対頼むわけがないというのに。
 罪悪感に胸が痛みながら、本当にいいのね? などとは今さら聞かず、彼女の体に手を触れる。

「そ、それじゃいくわよ、勇魚ちゃん」
「ど、どんとこいやで!」

 早くしないと乗客が通りがかるかもしれない。
 焦りつつも、顔を近づけていくにつれて、姫水の心は落ち着いていく。
 生まれてからずっと、家族も同然だった女の子。
 その一線を今だけ越えて――

 何もない海の上で、二人はゆっくりと唇を重ねた。





 どれくらいそうしていたのだろう。
 長いようで、でも重ねてきた時間に比べれば、ほんの一瞬。
 唇を離し、姫水はおずおずと相手の顔を見た。

 いつも通り。
 勇魚の表情はそれだけだった。
 少し照れ笑いを浮かべて、恥ずかしそうにもしていたけれど。
 いつか晴に見せた上気した頬や、浮足立った様子はどこにもなかった。

「えへへ……何や、こそばゆい感じやね」
「勇魚ちゃん……」
「……やっぱりうちは子供で、キスはまだ早かったみたいや」
「そんなことない……。あなたはいつだって、私よりずっと大人だった」

 首を横に振る姫水も、やはり穏やかだった。
 誰よりも愛しい人であることに、何ら変わりはないけれど。
 その愛おしさは、激しい慕情ではなかった。

 鈍感だった自分が、つかさに恋してもらえて。
 花歩や夕理の想いを間近に見て、そして今、直接勇魚に確かめられた。
 胸に広がる温かさの中で、彼女の両手を強く握る。

「あなたを尊敬してる」
「うちもや」
「あなたが笑うだけで幸せになれる」
「うちも!」
「勇魚ちゃん、あなたは私にとって――」

 あの日に行けなかった海の上で。
 ようやく認識できた現実を、姫水ははっきりと口にした。

「世界中の誰よりも何よりも、一番大切な友達よ」


 幸せに包まれながら、二人で笑い合う。
 この世には、恋より愛より強い友情だって、きっと存在するはずだ。



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