この作品は「ONE〜輝く季節へ〜」(c)Tacticsの世界及びキャラクターを借りて創作されています。
七瀬留美シナリオに関するネタバレを含みます。


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『あなただけは変わらないでいてね。
 いつまでも、今のままのあなたでいてね』








虚構少女

















「折原…。あたしの彼氏になって」
 ものすごく嫌そうな顔でそう言われても、浩平としては対応に困る。
 一月も末の昼休み。折原浩平がコロッケパンを口に運んでいたところへ、七瀬留美が小声でそんなことを言ってきた。
「何か変な物でも食ったのか?」
「食うかっ! 一日だけあたしの彼氏役をやれって言ってるのよっ!」
「なんだ演技か…。どうしてまた」
「う…。やっぱり言わなくちゃ駄目?」
 そりゃそうだと頷く浩平に、留美はきょろきょろと周囲を見渡し、口元に手を当て話し出す。
「実は、前の学校の友達が遊びに来るのよ…」
「そりゃ良かったな」
「まあ転校してからも電話とか手紙でやり取りしてたんだけどね。こっちでのことも色々報告してたのよ」
「結構なことだな」
「…すっかり女の子らしくなって、素敵な彼氏もできたって言っちゃったのよ…」
 浩平は少し黙ってから、パンを一口かじると、留美へと冷たい目を向けた。
「お前…」
「ああっ! 何よそんな目で見なくてもいいじゃない。言いたいことはわかるけどぉっ」
「いや、もう乙女より詐欺師を目指した方がいいな。オレだってそこまで図々しい嘘はつけない」
「失礼ねっ! そ、そりゃ事実とはほんの少し違うかもしれないけど、本来ならそうなっていたはずなのよ。いやあんたが邪魔しなければきっとそうなってたわ。だからあながち嘘でもないのよっ」
「オレがいなくたって、遅かれ早かれお前の化けの皮ははがれてたろ。これはもう心の底から断言していい」
「そこまで断言すなっ! だいたい化けの皮って人聞きの悪い。あたしが乙女のフリしてるだけみたいじゃない」
「実際そうだろ…。ほら」
「うっ…」
 顔を上げれば、いつの間にやら教室中からこちらへ集中していた視線が、やれやれという感じで外される。
 主に浩平のせいで留美の乙女の仮面がはがれるたび、以前は驚きの顔を見せていた級友たちも、最近は『ああ、また七瀬さんが怒鳴ってるよ』という反応しかしない。
「ひんっ、あたしの乙女計画が…。これじゃ一体何のために転校したんだか…」
「泣くなって…。わかったわかった、一日くらいなら付き合ってやるから」
「ほんとっ?」
 浩平は溜息をつくと、残ったパンを押し込んだ。
「でもなんでオレが?」
「そりゃ演技で彼氏やってくれなんて恥ずかしいこと、普通の相手に言えるわけないじゃない。その点あんたには山ほど貸しがあるしね」
「金を借りた覚えはないぞ」
「みぞおちに肘入れたり、髪の毛ちぎったりしたでしょっ!」
「なんだ、まだそんなこと覚えたのか。オレは全然気にしてないのに」
「…瑞佳、なんとか言ってやってよ」
 途方に暮れたというより、これ以上付き合っていると拳が抑えきれなくなるというのを主な理由に、お弁当を食べている少女へ助けを求める留美。
 言われた相手は、困ったような顔で振り返った。
「え? う、うーん。浩平、あんまり七瀬さんを怒らせちゃ駄目だよ」
「オレは本当のことしか言ってないじゃないか。お前からも無駄な努力はやめろと言ってやれ」
「そ、そんなことないよ。女の子らしくしようと努力する七瀬さんは素敵な人だと思うよ」
「ううっ、なんて正直でいい子なの。まさに乙女の鑑だわ、折原も少しは見習いなさいよ」
「まったく物は言いようだな。実際に女の子らしいかどうかには触れないのがミソだよな。長森にも詐欺師の才能があるかもしれん…ぐほっ!」
 とうとうリミッターの切れた右拳が腹にめり込み、浩平は机に突っ伏す羽目になる。
「そんなわけで瑞佳、ちょっと折原を借りるけど勘弁してね」
「え? べ、別にわたしに断ることじゃないよ〜」
「そう? ならいいけど」
 会話を遠くに聞きながら、こんなのと関わり合いになった運命を呪う浩平。
 その時点では、いつまでも繰り返す日常の一風景だった。


※   ※



 日曜は一日潰れるのかと思ったら、来客の目的は隣の市にできたテーマパークで、留美の所へは帰りに一時間半ほど立ち寄るだけなのだそうだ。
「なんだついでか」
「だって片道の電車賃だけで三千円かかるのよ。何かのついででもなけりゃ会いになんか来られないわよ」
 それはまあ浩平だったら、友人に会うためだけに往復六千円も払いたいとは思わない。
 そんなわけで休日をごろごろして過ごし、四時過ぎに駅へ向かって家を出た。
 駅前には既に留美が来ていた。真冬だというのに、フリル満載のピンクのワンピース。呆れる彼氏役だが、よく見ると彼女役も同じ顔だ。
「もう少しましな格好してきなさいよ…」
「ご挨拶な奴だな。嫌なら帰るぞ」
「わ、わかったわよっ。とにかく、あんたは白馬の王子様ってことになってるんだから、それらしく振る舞ってよね」
「へいへい」
 程なくして線路の向こうから、聞き慣れた電車の音がする。
 車輌が停止し、扉が開く。改札で待つ二人の前へ人の一群が押し寄せ、そして…
「おーい、留美ー!」
 その声に、留美の表情が変わった。
 怒らせてばかりだったから当然なのかもしれないが、転校してきて以来、こんなに素直に笑う留美を浩平は初めて見た。
「慶子! 桜!」

 留美が駆け寄っていったのは二人の女の子。
 一人は浩平より高いくらいの長身に短い髪、ジーンズに皮ジャケットという服装の、見た感じ体育会系。
 もう一人はセーターにスカートとタイツ。可愛いポシェットを下げた、おそらくは文化系。留美と同じく髪を両脇で結んで下げているが、長さが肩ほどまでなのが違う。
 飛んできた留美の勢いに少し驚いたような二人だったが、すぐに笑顔へ変わり、留美の手を取ってぶんぶん振る。久しぶりー、元気だったー? とお決まりの会話。浩平は放置されたまま、駅舎の中央でぽつんと立っていた。
 しかしようやく思い出してもらえたらしく、伸びた留美の手に引っ張られる。
「ほらほら。この人があたしの王子様なのよ。嘘じゃなかったでしょ」
「…どうも、折原浩平っす」
 そんな紹介があるかい、と突っ込みたいのを抑えて、とりあえず挨拶する。
 背の高い方は礼儀正しく、軽く会釈して自己紹介。
「寺田慶子です。よろしく」
 そして背の低い方は
「宇津木桜でーす。ふーん」
 そう言って、浩平の顔を覗き込むように見た。
「まあそれなりに格好いいじゃない。留美も意外とやるもんねぇ」
「あ、あははは。そ、そんなことあるかな」
「こら、桜。失礼だろ」
「いや、別にいいけどな」
 立ち話もなんなので、商店街にある喫茶店へ行くことになった。お茶なら駅前でも飲めるのに、わざわざ女の子に人気の店へ連れていくあたりが乙女の見栄である。
 店へは歩いて十五分ほど。冬空が赤く染まる中、女の子たちは歩きながら喋り続け、浩平だけが蚊帳の外だ。
 しかし到着した店は休日とあって混んでいるようで、留美が様子を見に中へ入っていった。残された浩平の耳に、二人の小声が届いてくる。
「…何だか留美、全然変わってないね」
「うん…」
 喜んでいるのか、がっかりしているのか、どうともいえない微妙な口調が引っかかる。
「変わってないとまずいのか?」
「え? まさか、そんな事ないよー」
 笑って首を振る少女に、浩平は何となくこの先を予感した。
 どうもろくでもないことが起こりそうだ、と。

 幸い、すぐに四人とも座ることができた。
 めいめい飲み物を頼んで、再び女の子三人で雑談…と思いきや、そうは問屋が降ろさない。
「ところでぇ」
 仕掛けてきたのは先ほど桜と名乗った、背の低い方の女の子だ。
「ここいらで二人のなれそめなんかを教えてほしいな」
「な、なれそめっ?」
「といってもな。遅刻しそうで走っていたところへ、こいつがダンプカーみたいに突っ込んできて…痛っ」
 留美に思いっきり足を踏まれて、正直な報告は強制中断される。
「あ、あははは。そうね、あれはとてもロマンティックな出会いだったわ。桜の花びらが舞い散る中、見つめ合う目と目…まさに運命って感じよね」
「留美が転校したのって秋だったんじゃ…」
「はぅっ! も、紅葉よ紅葉。紅葉が桜みたいに散ってたのよっ」
 無理のありすぎる説明に、来客二人に怪訝そうな表情がよぎる。早くも雲行きが怪しくなってきた。
「ねえねえ折原くん」
 と、今度は浩平に穂先が向く。
「転校を機に女の子らしくなったって、留美は主張してるんだけどー」
「あ、ああ。まったくこれほど乙女な奴は見たことがないな」
「ふーん。彼氏から見て、どんなところが乙女らしい?」
「なにっ」
 いきなり何という難題を。黙秘権を行使したいところだが、横から睨まれていてはそうもいかない。どうにかして留美の乙女エピソードをでっち上げなくてはならないのだ。
「その…。スケ番グループがな」
「す、スケ番グループ?」
「そう、このあたりを荒らしていたグループだ。そいつらが気の弱そうな奴を取り囲んでカツアゲしてたと思いねぇ。
 そんな時、電柱の上に立つ謎の人影が!
『私の名はムーンライト乙女! 通りすがりの乙女を極める者よ!』
『へっへっ、あたいらに楯突こうってのかい。そのツインテールが台無しになるぜぇ』
『大勢で一人を虐めるなんざぁ、乙女じゃねえにも程があらぁ! くらえ必殺、乙女ワンダフルデリシャスバーニング…』」
 ボグシャー
 鉄拳が頬にめりこみ、ひしゃげた浩平はゴム鞠のように跳ねとんだ。
「ああっどうしたの浩平! え? 急に持病の発作が!? それは大変、ちょっと介抱してくるわね二人ともっ!」
「そ、そう…」
「それじゃっ!」
 浩平の襟を掴んで店の外へ逃げ出すと、そのまま首を締め上げる留美。
「お〜り〜は〜ら〜」
「オレの仕事は嘘をつくことだと思ったんだが…」
「そうだけどぉっ! もうちょっとマシな嘘つきなさいよ。何よムーンライト乙女って!」
「快速ラピッド乙女の方が良かったか?」
「わけわからんわっ! ああもう、とにかくお願いだから真面目にやってよね。うまくいったらクッキー焼いてあげるからっ」
「この上毒物まで食わされるのか…。オレはなんて不幸なんだ」
「だーっ!」
 戻ってくると、先ほどの質問者はおなかを抱えて突っ伏していた。笑いをこらえているようにしか見えないが、現実から目を背けた留美は額を手でぬぐって元の席に座る。
「ふぅ、何とか元気になったみたい。二人も健康には気をつけてね」
「だ、大丈夫ー? なんか派手に吹っ飛んだみたいだけど」
「ち、ちょっと特殊な発作なのよ。でもそれを健気に看病するのが乙女というものよ」
「あのさぁ…」
 難しい顔でコーヒーを飲んでいた背の高い方…慶子がその時になって口を開く。
「疑うわけじゃないんだけどさ、あんたたちって本当に恋人同士なの?」
 ぎくぎくぎくっ
 あっさり核心。少しは遠慮しろ、と言いたくなる浩平だが、留美は引きつった笑顔で肯定するしかない。
「や、やあねえ慶子ったら。あたしたちほどラブラブなカップルはないわよ? ねえダーリン」
「ハハハハ、もちろんだハニィ」
「ものすごく棒読みに聞こえるんだけど…」
「気のせい気のせいっ!」
「それじゃどういう経緯で恋人同士に?」
「そ、それはもう白馬が折原に乗ってきてってあああっ」
 とうとう錯乱し始めた留美を正視できず、浩平は紅茶をすすりながら窓の外へと目を逸らした。
 しかし横目でちらりと来客たちを見ると、状況は非常に悪い。眉をひそめている慶子はまだしも、にやにや笑っている桜は絶対良からぬことを考えてる。
「まあまあ慶子、こんなに仲いい二人じゃないの」
「そうかなぁ…」
「そうだよー。疑うなら証拠にキスのひとつもしてくれるって」
「え…えええええっ!」
 ほら来た。飛び上がる留美に加え、慶子も顔を赤くしてさすがに止めにかかる。
「お、おい桜っ!」
「いやあの、人前でそういうこと乙女の恥じらいとゆーものが」
「えー? そんな事言ったら結婚式の新郎新婦はどうなるのよ。大丈夫大丈夫、私たちしか見てないから」
 そう言って当人は引く気がない。絶体絶命の状況に、やむなく共犯者に耳打ちする留美。
(ど、どうしよう折原っ)
(オレに聞くなよ。とりあえず断るけど)
(そ、そうね、犬に噛まれたと思って…って断るんかい!)
(当たり前だ)
 二人の前では浩平を殴ってやることもできず、何とか取り繕おうとあたふたする留美の上を、時間だけが無情に流れ…
 代わりに響いたのは、慶子の怒鳴り声だった。
「――もういい!」

 天の助け!
 ぱっと面を上げる留美だが、しかしそうそう上手くはいかない。声を上げた相手は、本気で怒っている顔だった。
「あたしはさ、留美に会うのが楽しみだったんだ」
 怒って…そして半ば悔しそうに、留美の旧友は言う。
「慶子…」
「色々思うところはあったけど、離れてもあたしは親友のつもりだったし、元気そうな顔を見られて嬉しかった。
 なのにその返答がこれか! 友達に嘘ついて楽しいか!?」
 …嘘…。
 正面切ってそう指弾されると返す言葉もない。心持ち俯いて、留美はごにょごにょと口ごもる。
「そ、その…ごめん」
 けれどその声は小さすぎて、相手の耳まで届かない。苛立たしげに、慶子は席を蹴って立ち上がった。
「変わってないかと思ったけど、やっぱり変わったんだね。
 昔のあんたはこんな奴じゃなかった。
 こんな下らない嘘つく奴じゃなかった!」
 そうして千円札をテーブルに叩きつけ――
 大股で立ち去っていった。店の入口に吊されたベルが、やけに大きな音を立てた。

 真っ青な留美の前で、桜は何食わぬ風にオレンジジュースを飲んだ。作った笑顔が浩平へと向く。
「ごめんねー? あの子って空気読めなくてさぁ。本気で怒ることないよねぇ」
「さ、桜、あたし…」
「あーいいっていいって。バレバレの嘘なんて嘘のうちに入らないし」
「え…バレてたの!?」
「お前なぁ…」
 頭を抱えたくなる浩平だが、桜は呆れるでもなく、むしろ少し寂しそうに笑う。
「そういうところは昔のままなんだから。変わり方が中途半端なのがいけなんだよ。
 いっそ別人になっていてくれたら、慶子もあそこまで怒らなかったのに」
 そう言って伝票を見て、慶子と自分の分を計算し、正確な金額を重ねて置く。
「それじゃあね。クラスのみんなには、女の子らしくなってたって適当に言っとくから」
 言い残し、こちらは静かに視界から消えた。


 しばらくの間、浩平は何も言わずに紅茶の残りをすすっていた。
 とはいえカップもいつかは空になる。小さく震えている留美を促し、会計を済ませて外へ出る。
「で、どうするんだ?」
 冬の陽は既に落ちている。街灯が照らす留美の顔は暗いが、自業自得なのでかける言葉もない。
「…駅に行くわ。あそこで待ってれば絶対会えるし。ちゃんと謝らなきゃ…」
「そうか」
 謝るくらいなら最初からしなけりゃいいのに…と浩平は内心で追加するが、留美の詰めが甘いのはいつものことだ。
「折原も、ごめん。不愉快な思いさせちゃった」
「まあ、嘘はもっと上手につかないとな」
「……」
「おいっ、黙ることないだろ。『あんたに言われたくないわっ!』とか突っ込む部分だろ?」
「あはは…そうかもね」
 力なく笑って、駅の方向へとぼとぼ歩き出す留美。
 浩平にはもう用はない。あとは帰宅するだけで、この件との関わりは切れたのだけれど…
(――ええい!)
 結局足は家へは向かわず、そのまま留美の後を追った。
 別に七瀬のためじゃない。誰かと関わってないと、自分が無くなりそうな気がするからだ、と言い聞かせて。


※   ※



「剣道部のことって話したっけ?」
 駅への道を七割ほど来たあたりで、ぽつりと留美が口を開く。
「いや、初耳だ」
「じゃあ瑞佳にしか言ってなかったかな。昔ね、ずっと剣道やってたんだ」
 思い出すように顔を上げ、留美は昔のことを話し出した。
 腰を壊したこと。部長として敢えて厳しく振る舞ったこと。引退の日に先輩から言われたこと。
『髪を伸ばして、リボンをつけろ』
『そうすれば、違う幸せがおまえを待ってるよ』
 黙って聞いていた浩平だったが、ふと疑問が浮かんで口を挟む。
「ちょっと待て。それって中学の時の話か?」
「当たり前でしょ。二年生で部長になって、それから一年頑張ったって言ったじゃない」
「じゃあその時から転校してくるまで何してたんだよ」
「う…」
 中学三年の終盤から、高校二年の十一月まで。乙女になれと言われた後、二年の期間があったことになる。
「その…髪伸ばしてた」
「それだけか?」
「…乙女になろうとはしてたんだけど」
 少し沈黙してから、言い辛そうに。
「でも駄目だった。あたしのイメージなんてとっくに固まってたし、今さら可愛く振る舞ったって、違和感持たれるだけだった。
 一度だけ、まだそんなに髪が伸びてない頃に、リボンをつけていったことがあったけど――」
 その手が無意識に、髪に結んだリボンに触れる。
「みんなが『留美らしくない』って目で見た」
 暗く溜息混じりの声。被害妄想にも聞こえるが、そう言ってやる根拠は浩平にはない。以前の留美なんて知らないのだから。
 彼女は顔を上げ、気まずそうに笑う。
「しょうがないんだけどね。実際、自分でも無理があるとは思ってたし」
「で、転校したってわけか」
「うん。本当は転校しなくても良かったんだ。叔父さんの家に下宿できたし、友達もみんなそうしろって言ってくれた。
 なのに転校しちゃった。自分の為だけに。
 あたしって裏切り者かもって頭の隅で思ってたけど、手紙出したらちゃんと返事くれて…」
 駅に到着する。
 駅前の広場の、道路が見渡せる青いベンチに、二人は並んで腰を下ろした。
「前の学校が嫌だったわけじゃないの。でなけりゃいくら可愛いからって、前の学校の制服を着たりしない。
 いい奴ばかりだったし、仲いい子とは本当に仲良かった。
 ――でも」
 膝の上で手を組んだ留美は、じっと地面を見つめている。
「あたしは、自分が嫌だったんだ」

 隣に浩平がいるのを思い出したように、はっとその面が上がる。
「け、けどさすがに今日はやり過ぎちゃったわね。失敗失敗」
 舌を出してこつん、と頭を叩くが、自分でも似合わないのが分かっているのか、憂鬱な顔に戻って下を向く。
「友達に嘘ついちゃいけないよね…」
「いや、でも今さらだろ」
「え?」
 再度顔を上げる留美に、浩平の、何の気なしの言葉が流れた。
「嘘をついていたのは、転校してきて以来ずっとだろ。お前は」

 深い意図はなかったが、どうも余計なことを言ってしまったらしい。
 留美は言葉もなく凍りつく。目の前をバスが通り過ぎ、その音でようやく口が動く。
「あ、あんたねえっ。あたしの乙女への努力を、そんな風に言わなくなって…」
「いや別に悪いとは言ってないが。でも乙女の為せる技とか言って、読書したり外を眺めてたじゃないか」
「う…」
「転校してきた日から、うちのクラスの全員を騙そうとしてたじゃないか」
「うぅぅ…!」
 余計な一言を重ねる浩平に、留美はうめいて下を向く。
 何の気なしだった。ただ浩平は、いつものように悪口を叩き合う感覚で言っていた。
 それがまずかったのかもしれない。留美にとっては、ずっと目を逸らしていた袋小路なのだと…
 そのことに気付かなかったのが、失敗だったのかもしれない。
「乙女に見られたいからそう振る舞う奴なんて、乙女からはほど遠いだろ」
 そこまで言って、ようやく黙った方がよさそうなことに気づいたが、今さら後の祭りだった。

「し…しょうがないじゃないっ!」

 開き直りというには半ば悲鳴に似た声が、日没後の駅前に響く。
「じゃあどうやったら乙女になれるのか教えてよ。他に方法なんてないじゃない!
 今は嘘でも、いつか本当になるって信じてそう振る舞うしか、あたしには思いつかない。
 どうせ実際のあたしは、がさつで乱暴で男みたいなんだからっ…!」
 ぎゅっと膝の上で手を握ったまま。
 呆気に取られる浩平の前で、追い詰められた風の留美の目線は、彼を外れてその手に落ちる。
 他にどうやったら、と。
 答えられず、浩平が停止している間に、嘘つきの少女のうめくような声は、寒風に混じって飛んだ。
「あたしがあたしらしくしていたら、永遠に乙女になんかなれない…」


 強烈な風に吹きつけてられ、浩平は身を震わせる。
「…まあ、落ち着け」
 じっと動かない留美の、肩を叩いてそう言ってみる。けれど…
「どうしてあたしは、瑞佳みたいな性格に生まれてこなかったのかなぁ…」
 返ってくるのは、そんな何の建設性もない愚痴だけ。一応自分が原因らしいので、浩平は慰めを口にしてみる。
「まあ、演技が下手で良かったじゃないか。お陰で笑い話で済んでるんだから」
 けれど例によって逆効果だった。彼女の顔は能面のように固まってしまった。
「もう喋らないで。頼むから」
「そうまでして乙女とやらになりたいかねぇ」
「…レディに憧れる女の子の気持ちなんて、あんたにはわからないわよ」
「ああ、さっぱりわからん」
「もういいっ」
 ぷい、とそっぽを向くが、内心かなりしょげているのが見え見えだった。
 それ以上かける言葉はなく、折原浩平は肩をすくめ、留美を残してその場を離れた。


※   ※



 七瀬留美の演技が上手かったら、一体どうなっていたのだろうか。

 浩平も瑞佳も、本当の彼女を知ることもなく、可憐な乙女として接したのだろうか。
 誰からも本性を隠して、彼女は延々と偽り続けたのだろうか。
 しかしそれが、当人にとっては理想的なのだからどうしようもない。

 予定より早く終わってしまい、帰る気にもなれずに浩平は街を歩いていた。
 留美のように行き違いになると困るわけでもないので、適当にあの二人を探してみる。会ってどうなるでもないのだが、昔の留美のことを聞けるものなら聞いてみたい。
 しかし商店街の中央へ来たところへ、出会ったのは別の人間だった。
「よう、折原」
「なんだ住井か」
 目つきの悪い級友が、ジャンバーのポケットに両手を突っ込んで歩いてくる。
「いかにも住井様だ。七瀬さんと偽装デートじゃなかったのか?」
「なんで知ってるんだ…」
「知られたくないならもっと小声で話せって、七瀬さんに言っとけよ」
 全く。結局のところ、留美は覚悟が徹底していないのだ。それで救われてるのかもしれないけれど。
「それより、背の高いのと低いのの女子高生二人組を見なかったか? ここらで見かけない顔の」
「情報料はないのか?」
「つけとけ」
「まあ、俺とお前の仲だ。それらしいのなら向こうの通りで見かけたぞ」
 礼を言って、指し示された方面へ向かう。暇なのか、住井も一緒についてきた。

 留美の旧友たちは、商店街でウィンドウショッピングに興じていた。
 といっても楽しんでいるのは片方だけで、もう片方はうんざり顔だったが。
「桜、もう帰ろう…」
「えー? 今から駅行ったってどうせ電車待つじゃない。せっかく遠くまで来たんだから、いろいろ見てこうよー」
「こういう店はどこだって一緒だろっ」
 そんな会話をしているところへ近づいていくと、向こうから浩平に気づいて顔を向ける。
「ああ、さっきは…」
 慶子は済まなそうに頭をかいた。
「悪かった。あんたは巻き込まれただけだもんな」
「ごめんねー。でも白馬の王子様なんだから別にいいよね」
「わかってて言ってるだろ、お前」
「うん」
 悪びれる様子もない相手に何か言ってやろうとしたところへ、背後から住井の手が伸びて、浩平は脇へと押しやられる。
「どーもー。俺は住井ってんだけど、七瀬さんの友達なんだって? 遠くからわざわざ来てくれたんだし、良かったらこのへん案内するけど」
「ごっめーん。気持ちはすごく嬉しいんだけど、あと三十分くらいで電車の時間なんだー」
「くっそー残念。じゃあそれまで一緒にゲーセンでも!」
(まめな奴だなぁ…)
 結局三人は目の前のゲームセンターに入ることになり、浩平の方がついていく羽目になってしまった。

 住井と桜はさっそく格闘ゲームで対戦を開始。浩平がそれを眺めながら自販機で缶コーヒーを買っていると、隣に来た慶子も硬貨を入れて、同じくコーヒーのボタンを押す。
「留美とは中学からの付き合いでさ」
 休憩用の椅子に座り、彼女は蓋を開けながら話し出した。
「あたしは柔道部で、あいつは剣道部。大会の時はいつも競ってたっけ」
「へえ」
 懐かしそうな目をした慶子は、コーヒーを飲みながら浩平の方を向く。
「ほら、あたしって男みたいな性格だろ?」
「まったくだな」
「うん」
 平然とそう答えるあたり、留美とは別種の人間なのだろう。
「だから留美のこともそう扱っちゃって。でも、あいつはそれが嫌だったんだよな」
「と言っても七瀬が男みたいなのは事実だけどな」
「そうだけど、でも留美の気持ちも聞かずに決めつけてたからさ。それで転校したんだとしたらあたしが悪かったって。
 …だから、今日はあいつに謝りに来たんだ。直接会って謝りたかった」
 そこまで言って、喫茶店での怒りが舞い戻ってきたのだろうか。一気に飲み干して、空になった缶を握りつぶした。
「なのに下らない猿芝居しやがって、あの野郎…」
「まあ、見栄を張りたい年頃なんだろ」
「ふん、友達相手に見栄張ってどうしようってんだ。お互い隠し事なんてしない、それが親友ってもんじゃないのかい」
「はあ、そいつはごもっともで…」
 浩平の答えになおさら気分を害したらしく、慶子は目の前のゴミ箱に缶を思い切り投げ込んだ。
「今日の留美なんて、見てられなかった。自分を偽ろうなんてどうして思うんだろう。
 どこまでいったって、自分は自分でしかないじゃないか」
「じゃあ自分を変えようとするのは悪いことなのか? 気弱な奴が自分が嫌だから強気になろうとするのは間違いで、自分らしく気弱でいるのが正しいのか?」
「そっ…そりゃまあ、そういう考えもあるかもしれないけどさ」
(って、なんで七瀬の弁護なんかしてるんだ、オレは…)
 お互い何となく不機嫌になって、黙って座る。けれど間が持たず、浩平の方から話を再開した。
「てことはもしかして七瀬が主目的で、テーマパークの方がついでか」
「う…うん、まあ」
 痛いところを突かれたように口ごもる彼女。
「桜がさ。あたしたちはもう留美にとって過去の存在みたいなもんだから、長居はしない方がいいし、行くなら何かのついでってことにした方がいいって」
「つまりお前らも嘘をついてたってことだな」
「し、仕方ないだろ。桜がうるさかったからっ。あたしは正々堂々と会いに来たかったんだ」
「へー」
「くっ…」
 慶子が悔しそうに歯がみしていると、当の桜が笑顔を振りまきつつやってきた。
「慶子、交代ー。あの人強いよー」
 見ると筐体の前では、住井がVサインを向けている。慶子はやれやれと立ち上がり、同時に浩平の質問が、その向こうにいる桜へ飛ぶ。
「で、あんたも七瀬に謝りに来た口か」
「なんで? 周りが希望通りに扱ってくれないのは、主張しない自分の責任でしょ。こっちだってエスパーじゃないんだし、留美の本心なんてわかるわけない」
「こいつはこういう奴だしなぁ…」
 長身の少女は嘆息すると、頭を振りながら対戦へと赴いていった。
 入れ替わりで、桜は先ほどまで友人が座っていた場所へと腰を下ろす。
「今日の留美だって別におかしくないしね。自分の見え方を操作するなんて、多かれ少なかれ誰でもやってることじゃない?」
「お前、敵多いだろ…」
「まあねー」
 浩平の呆れ声にも、平然と答えて言葉を続ける。
「小学生の頃もね。絡んできたガキ大将どもに言いたい放題言って、怒らせたことがあったっけ」
「やりそうだな」
「でも殴られそうになった時に、助けに来てくれたのが留美だった。
 『あんたたち何やってるのよっ!』って」
 そう言って、自分の膝の上に頬杖をついたまま、少女は遠くを見るように目を細める。
「かっこよかったなぁ…」
 結局それが、彼女が素直な表情を浩平に見せた最初で最後だった。
 すぐに元の表情に戻って、その顔を浩平へと向ける。
「私はひねくれた人間だから、留美のそういう真っ直ぐなところ、すごく好きだった。
 でも転校しちゃったけどね。私たちを捨てて」
「…そういう言い方はないだろ」
「あ、別に恨んでるとかじゃないよー? 無理してまで付き合ってくれとは言えないし」
 会話が途切れ、ゲームの電子音だけが耳を打つ。横目で桜を見て、浩平は質問を投げた。
「さっきはああ言ってたけど…。お前だったら転校前から、七瀬の本心くらい気づいてたんじゃないか」
 一瞬きょとんとしてから、彼女は観念したように苦笑した。
「まあ、私はね。慶子は単純だから、手紙で乙女乙女言ってるのを見てショック受けてたけど」
「知ってて黙ってたのか」
「うん、黙ってた。女の子っぽくなんて、そんな留美らしくないこと、早く諦めてくれって願いながら」
 くすくすと、口に手を当て自嘲気味に笑う桜に、浩平は何だか気分が悪くなってきた。
「あのなぁ…。そんなねじくれた付き合いしなくても、今の七瀬が好きだってはっきり言ってやりゃ良かったじゃないか」
「そうかもね。でも意味ないよ」
 そうして桜の表情が消える。
 人形のように、色のない呟きがその口から漏れた。
「私たちが留美を好きでも、留美が自分を嫌いならどうしようもないじゃない」


 発車の十五分前になったので、ゲームセンターを出る。ここから駅までは五分ほどだ。
「何だかよく分からなくなってきたよ。結局こっちでの留美って、どんな様子なんだ?」
 慶子の質問に、浩平と住井は思わず顔を見合わせると、小声でひそひそと相談を始める。
「おい、どうする。七瀬さんの失敗の数々を喋っていいものか?」
「お前が言え。オレは七瀬に殺されたくない」
「あー、いいよ。何となくわかったから…」
「とりあえず、いじめられてなんかないよね?」
 桜が冗談めかしてそう尋ねるが、あいにく冗談では済まなかった。
「そういえば、一時期クラスの女に嫌がらせされてたな」
 口を滑らせた浩平に、さっと二人の表情が変わる。
「何それ、どういうこと…!」
 あまりの圧力に、浩平は住井の両肩を掴んで盾にした。
「な、七瀬さんは平和的に解決しようとしてたぜ。クッキー作ってったんだっけ。なあ折原」
「そうだな。鼻で笑われて投げ捨てられたけど」
「どこのどいつだ! あたしがぶん殴ってやる!」
「いや、お前が殴るまでもなく…切れた七瀬が『何てことしやがるっ!!』て凄い剣幕で怒鳴ったせいで、その後手出しはされてない」
「そ、そうなんだ」
 ほっとした慶子の声。あの時は僅かの差だった。浩平が怒鳴るより、留美が切れる方が数秒早かったというだけの話。
 その数秒が逆転していたら、留美にも浩平にも別の運命が待っていたのかもしれないが、それは単なる可能性に過ぎない。
「留美らしいなぁ…」
 桜は少し嬉しそうにくすりと笑ったが、すぐに思い出したように表情を消した。
「でも、あれで七瀬さんのイメージはとどめを刺されたな」
「ああ、本人もショックで三日くらい休んでたな。それでもめげずに演技を再開するあたり、根性だけは大したもんだが」
 その時の、何事もなかったかのような笑顔を必死に作っていた姿を、浩平は思い出す。
 端から見れば滑稽だったが、今にして思えば、留美には他に道などなかったのかもしれない。
「ショックねぇ…。そこまでされて怒鳴らない方が、人としてどうかと思うけどな」
 慶子は納得いかないようにそう言ったが、誰もそれには答えなかった。


「桜、やっぱり留美に会ってこう」
 角を曲がれば駅というところで、いきなり慶子がそんなことを言う。
「会ってどうするの。もう電車来ちゃうし」
「腹を割って話すんだよ! 電車なんて一本遅らせりゃいいじゃないか」
「別に遅らせなくても、七瀬なら駅で待ってるぞ」
 熱弁する彼女に、あっさりと浩平の声。
 一瞬呆気にとられてから、見る間に慶子の顔が紅潮する。
「どうしてそういうことは早く言わないんだよ!」
「それもそうだな」
「〜〜〜〜! 桜、行くよ!」
 結局桜の手を無理矢理引っ張って、角の向こうへと消えてしまった。
「面白そうだな。俺たちも行くか」
 住井も後を追おうとするが…
 それを浩平が手で制した。
「悪いが、ここで帰れ」
「何だ? 理由を聞こうか」
「たぶん七瀬は、昔の自分に関わることを、今のクラスの奴には見せたくないと思う」
 その言葉に、悪友は当然の疑問を呈する。
「お前はどうなんだよ」
「オレは七瀬にとって特別だからいいんだ」
「うわ! なんか自惚れてる奴がいる!」
「アホ、悪い意味での特別だぞ」
 それは質の悪い絆だったが、それでも絆には違いない。
 住井は少し考えてから、当人はニヒルと思っているのであろう笑みを浮かべた。
「まあ今日のところは退いてやる。住井護はクールに去るぜ」
「ああ、そうしてくれ。さすがは住井大先生だ」
「でもあれだな。なんだかんだで、お前って七瀬さんを気にかけてるのな」
「は? 何だそりゃ。ちょっと待て」
 浩平が反論する前に、住井はスキップするように立ち去ってしまった。
 憮然として、街灯の下を北風が吹き抜ける中、浩平は駅へと向かった。


※   ※



「ごめんね。ごめんねっ」
「いや、あたしこそごめん」
「それじゃみんな水に流すってことで」
 先ほどのベンチに到着した頃には、既に話は終わっていた。
 歩いてくる浩平に、気づいた桜が留美に尋ねる。
「ところで、結局折原くんは何者だったの?」
「う…。いやまあ一口では説明しにくいんだけど…」
「過去をネタにゆすられて強制参加させられた、哀れなクラスメイトだ」
「人聞きの悪いこと言うなっ!」
 怒鳴る留美の姿に、来客たちは笑っていいものか困った様子だった。
 発車の時間が近いので、三人は話しながら駅に入る。傍観者の浩平も一緒に。
 帰る二人は切符を、留美と浩平は入場券を。それぞれ買ってから改札をくぐる。帰りのホームは向こう側だ。
「まあ、これからも留美のことを頼むよ。鳥原君…だっけ?」
 渡るための階段を上りながら、慶子が後ろの浩平に言う。
「折原だ…」
「ち、ちょっと慶子、変なこと言わないでよ。こいつのせいであたしはひどい目にあってるんだから」
「ははっ、それはお互い様みたいじゃないか。結局、転校したって似たようなもんなんだな」
 何も考えてない慶子の言葉に、留美の顔は一瞬強ばってから、強引に笑おうとする。
 その前に、斜め上から桜の声が飛んだ。
「――だったら、戻ってくればいいのに」

 留美の足が止まる。
 激突しそうになり、慌てて浩平は横に避けた。続けて言葉が振ってくる。
「まだ、留美の場所は空いてるよ? 結局乙女なんて嘘だったんなら、戻ってくればいいのに」
 他の乗客たちが脇を通りすぎていく。答えに詰まった留美は、助けを求めるように浩平に目をやる。
 それを彼は丁重に無視した。留美が決めることだった。
「…あはは」
 少しの間の後、結局、桜の方から打ち切った。
「やだぁ、冗談だって。そうそう頻繁に引っ越しなんてできないよね」
「そ、そうなのよ。やっぱり荷造りって…大変だし」
 互いにごまかして。
 それから階段を上り、ホームへ下りるまでの間、黙っていた留美が何を考えていたのか、浩平は知らない。
「あ、あのねっ…」
 いずれにせよ、黄色い線の内側で待とうとする二人に、留美はすがるように声をかけた。

「今日は嘘…になっちゃったけど、手紙で書いたこと全部が嘘じゃないのよ。いや本当に。
 転校したばかりの頃は、少しは乙女として見られてたし。
 その、だから…やだな、何言ってんだろ」
 口の中が乾いてきた。
 留美はともかく、聞いているだけの浩平までが。
「次に会う時には、ちゃんとした乙女になってる。
 それでも、友達で…いてくれるよね」

 その問いに、二人が答えられなかったのは一瞬だったのに。
「そんな日は」
 妙に長く感じて、浩平の口が勝手に動いてしまった。
「永遠に来ないから安心しろ」
「うるさいわねっ! 仮定の話くらいしたっていいでしょ!」
 いつもの反応。緊張が解ける。慶子は安心したように
「ば、馬鹿だな、当たり前だろ。あたしたちはいつまでも友達だよ!」
 そう言い切って、それで丸く収まるはずだった。
「…ごめん、そんなの約束できない」
 桜がそう、余計なことを言わなければ。

 強ばる留美と、怪訝そうな慶子の前で、桜は落ち着いた声で言った。
「だって私が好きになったのは、今までの留美だもの。
 変わっちゃうなら、友達になれるかなんて、その時でないと分からないよ」
 鼻白む一同に、なれるといいけどね、とフォローのようにつけ加えて。
 電車が入ってくる。
 皆が言葉を探す中、停車し、扉が開く。桜はそれに乗り込むと、車内の明かりを背に、振り向いて留美へと微笑んだ。
「私は、留美のことを吹っ切るために来たの。
 できたかどうか自信はないけどね。私が言うことじゃないかもしれないけど…
 昔の友達として、留美が、留美の望む自分になれるように祈ってる」
「桜…」
 慶子は二人の顔を見比べていたが、結局は「じゃあな」とだけ言って電車に乗る。
「あ、あの、あたしっ…!」
 無言の浩平が見ている前で。
 肝心なときに、留美の言葉は浮かんでこない。扉が閉まる。焦燥で泣き出しそうな彼女に、友人たちはガラス越しに手を振った。大丈夫、と。
「……!」
 サイレンが鳴って。
 あっけないほど簡単に、二人を乗せた鉄の箱は、遥か遠くへと走り去った。

「…ばいばい…」
 少し経ってから、それだけが浩平の耳へと届いた。

「そう…だよね。切り捨てたのは、あたしの方なんだから…」


※   ※



 二人とも黙ったまま、改札を出た。
「…今日はありがと、折原」
 沈黙に耐えかねたのか、ベンチを通り過ぎたところで留美が振り返る。
「ちゃんとクッキーは焼いてあげるから、安心しなさいよ」
「本当に作るのか…」
「当たり前じゃない。乙女にしか為せない技よ」
 そうしてまた元通り。
 明日からも、何も変わらない日々が繰り返す…はずだ。
 留美は何か言おうと口ごもっていたが、形にできず、再び歩き出そうとする。
「本当にいいのか」
 そして浩平は、そんなことを言っていた。


 真冬の風が吹きつける。
 振り向く留美に対して、浩平の口は止まらない。
「嘘は良くないなんて言う気はないし、お前が何の仮面をかぶってようがオレの知ったことじゃない。
 でも、お前にとってそれでいいのか。
 今までの居場所も友達も捨てて
 本当の自分を殺して
 周りに嘘をつき続けて――

 それでお前は幸せなのか」


 街灯に照らされた彼女の顔は、急速に血の気を失っていった。
「な――」
 何か言おうとして、浩平の目を受け止められず、留美は震えながら視線を落とす。
「だ、だって他に方法なんか…」
「諦めればいいだろ」
「……!」
「あの二人が言わないならオレが言ってやる。お前に可憐な乙女なんて全然似合わない。
 無理してそんなもの目指して何になるんだ。
 …長森も椎名も、さっきの二人も、今までのお前が駄目だなんて誰も言ってないのに」

 一体何を言ったのか。
 浩平自身にもよく分からなかった。救いなのか、死刑宣告なのか、単なる大きなお世話なのか。
「…七瀬」
 『諦めろ』なんて。
 普段なら殴られるだけの言葉だけど、むしろその方がましかもしれない。
 浩平の頭で警鐘が鳴る。これこそ余計なことだったのではないか。今まで通り、中途半端な乙女ごっこに、ちょっかいを出しつつ眺めていれば十分だったのではないか…。
 けど一方で、いつかこんな時も来るのだと、理解している自分が片隅にいた。


「…そうね、折原」

 苦しそうに。
 俯く彼女は息を吐いた。
 進むか戻るかの二択の上で、七瀬留美の躊躇はすぐに終わった。

「たぶん、その方が楽なんだろうけどね」

 顔を上げる。
 浩平とは別の場所を見たまま。
 楽、という言葉を使った時点で、それを選ぶ気がないのは明白だった。

「でも、もう少し頑張ってみる。
 乙女になりたいの。瑞佳みたいな優しい女の子になりたい。すぐに怒るような今のあたしじゃなくて…」


 …無理にでも笑って、そう、言った。

 真冬の風が吹きつける。彼女は再び前を向き、追い立てるように足を動かす。
 その隣に並んで帰ればいいのに、浩平はその場から動かない。
 ただ黙って、留美の後ろ姿を見送っていた。

「…ずっと、憧れだったんだ…」

 かすかな声が、北風に乗って届いた。



※   ※



「ほら、起きなさいよーっ」
 何も変わらない日常。
 今まで無数に繰り返したとおり、遅刻の危機が迫る中を、走って学校に向かう。
「そういえば、昨日はどうだった?」
「七瀬か? 乙女のフリを続けることを決めたらしいぞ」
「そ、そうなんだ」
 是とも非とも言えず、瑞佳は曖昧に笑う。
 そんな幼なじみに、何故かその時は疑問が湧いた。
「なあ、長森」
「うん?」
「どうもオレはお前に迷惑ばかりかけていた気がしないでもないんだが、もしかして我慢してなかったか」
「え? ど、どうしたの、そんなわけないよ〜」
「…そうか」
 無意味な質問をしてしまった。
 そうであってもそうでなくても、『うん、我慢してるよ』なんて瑞佳が言うわけがない。
 本当のことなんて、結局は誰にも見えないのだ。

「よう、七瀬」

 自分の席へ行って、留美が転校してからの二ヶ月間、繰り返したと同様に声をかける。
 リボンをつけた友人は、ゆっくりと振り返る。
 現実を知りながら、なおどこかで期待していた浩平に――
 彼女は穏やかに微笑んで、言った。

「おはよう、折原くん」

「……」
 停まったのは一瞬だけで、すぐに浩平は席に着く。
 使い慣れた机の上に、立ち上がった留美の影が落ちる。
「昨日は協力してくれてありがとう。色々迷惑かけてごめんね」
「…ああ」
「これ、大した物じゃないけどお礼だから。良かったら食べてね」
 そう言って、可愛い紙の包みを差し出した。約束していたクッキーだろうか。
 顔を上げる。ぎこちない彼女の笑顔。下手な演技。それでもいつか、本当になると本人だけが信じてる。
『どうした七瀬、不気味な笑みを浮かべて。いつものように鬼みたいな顔で怒鳴ってみせてくれ』
 それは喉まで出かかっていた。
 けれど、その先へは上がらない。今までの居場所も友達も捨てて
 本当の自分を殺して、周りに嘘をつき続けて、それでも尚、なりたいものがあるというなら、一体何が言えるだろう?
「それじゃ…」
 努めて落ち着いた声で言い、留美は席に着くため浩平に背を向けた。

 もはや留美は覚悟を決めた。
 何かを得るには何かを失うことを承知して。必死で虚構を建て、夢への努力を続けるのだ。
 他人の勝手な願いなんて、その想いと交差すらしない。
 永遠を望む想いと同じくらい、望まない想いもこの世界には存在するから。

 そしてふと浩平は気づく。そう考えながらも諦め悪く、少女の髪を引っ張ろうと伸びている右手に。
 そもそも先程から、こんなことばかり考えていることに。これじゃあ、まるで――
(オレが今までの七瀬を気に入っていたみたいじゃないか)
 不本意な仮説に、彼は憮然として、二度と伸ばすことのない手を引っ込めた。







<END>





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