・この作品は『さよなら絶望先生』の世界及びキャラクターを借りて創作されています。
・2chの絶望先生で百合スレに投下したものです。百合が苦手な方はご注意ください。










『非凡人と凡人の一緒』






「先生、なに見てるんですか?」
 昇降口を出たところで、糸色先生が感慨深げに何かを眺めていた。
「日塔さん、今帰りですか?」
「そうでーす。あ、千里ちゃんと晴美ちゃんですね」
 クラスメイトの二人が、お喋りしながら歩いていくのが見える。どこかに寄って帰るのかな?
「あの二人は、仲が良いんですね」
「ですね。幼馴染みらしいですし」
「殺伐とした私のクラスで、なんとまあ珍しい」
「べ、別に殺伐となんかしてないですよ。みんな仲良いですよ」
「ほー。ではあなたには、親友と呼べる人がいるんですか?」
 うっ、と言葉に詰まる私に、先先が気の毒そうに目を逸らす。な、なんかムカつく…。
「ああ失礼…。あなたは人間関係も普通なんですね…」
「普通って言うなぁ! いるもん、親友の一人や二人!」
「無理はしない方がいいですよ。なまじ親友など作るから酷い目に遭うのです! 親友になったせいで暴虐な王の人質にされたり、マッスルスパークの実験台にされたりするのです!」
「またワケのわからないことを…」
「しょせん人間、死ぬ時は一人ですよ!」
「寂しい大人だなぁ…」
 ズガーン
 何やらショックを受けたらしく、先生は涙目で走り去っていった。
「寂しい大人って言うなぁ! うわぁぁぁぁん!!」
(気にしてたんだ…)
 まあ先生は放っておくとして…。
 確かに、私って『普通の友達』ばっかりで、特別な親友っていないよね。
 誰も私の誕生日を知らなかったし…。さすがにあれはショックだったなぁ。
「よし、私も親友を作ろう! でもって、誕生日くらいはまともに祝ってもらえるようになろう!亅
「悲壮な決意だね、奈美ちゃん」
「うひゃう!?」
 いきなり耳の後ろから声がしたと思ったら、そこにいたのは可符香ちゃんだった。
「も、もう、脅かさないでよぉ…」
「でも心配しなくても大丈夫! 奈美ちゃんには私がいるんだから」
「か、可符香ちゃん…」(じーん)
「私と奈美ちゃんは親友じゃない。年賀状が余ったらついでに出すくらいの仲良しさんだよ」
「それって全然親友じゃないよねぇ!?」
 絶望した!と叫びかける私の口の前に、人さし指を一本立てる可符香ちゃん。
「それで、奈美ちゃんは誰と仲良くしたいのかな?」
「え? えーっと…」
 あはは、改めて聞かれると、ちょっと恥ずかしいけど…。
「実は…。大草さんと仲良くなりたいって、前から思ってたんだ」
「大草さんかぁ。いい人そうだよね」
「うん、あの人だけはまともそうだし…あ、別に可符香ちゃんがおかしいって言ってるわけじゃないよ」
「………」
 ひいっ!
 な、なんか一瞬、可符香ちゃんの目に殺意が見えたような!?
「大草さんなら、奈美ちゃんとの相性もばっちりだと思うよ」
 あ、いつもの可符香ちゃんだ…。気のせいだったのかな?
「そ、そうかな」
「うん。この前、連 帯 保 証 人を探してるって言ってたし…」
「パス! 大草さんはパス!」
 ううっ。やっぱ、このクラスにまともな人なんていないんだ…。
「いつものメンバーから選んだ方がいいんじゃない? まずは私の親友の芽留ちゃんからね」
「ち、ちょっと引っ張らないでっ」

『はあ? ウゼーんだよ、馴れ合いたけりゃテメーらだけでやってろ!』
 教室にいた芽留ちゃんに事情を話すと、さっそくこんなメールが送られてきた。
 予想はしてたけど、やっぱりへこむなぁ。
「そう言わずに、仲良くしようよお」
『ウルセー! 人の語尾に”める”とかつけやがったの、まだ忘れてねーぞ!』
「うっ、根に持ってたんだ。いいじゃん、可愛いんだし」
『そうナミねー。可愛いことこの上ないナミよ』
「私が悪うございましたぁぁ!」
 助けを求めるように可符香ちゃんの方を向くと、彼女はニッコリ笑って応えてくれる。
「やだなぁ、芽留ちゃんがこんな汚い言葉を使うわけないじゃない。これは文字化けしてるんだよ」
『してねーよ!』
「ネット上のちょっとした事故ですよ。私が元の文章に戻してあげるね」
 めるめるめる…と、可符香ちゃんから修正メールが転送されてくる。どれどれ…
『嫌ですわ日塔さん。貴女のような凡人と付き合うと、こちらのレべルまで平凡になってしまいますわ』
「口調は上品だけど、言ってることはもっと酷いじゃない!」
「そうだよ芽留ちゃん。いくら相手が奈美ちゃんだからって、これはないと思うな」
 ぶんばぶんば
『そこまで言ってねーよ!』
「そうなの? じゃあ実は奈美ちゃんのこと嫌いじゃなかったり?」
「………」
 芽留ちゃんは無言で身を翻すと、教室を出ていってしまった。
 付き合ってられない、って顔してたなぁ…。
「惜しかったねぇ。わざと酷いこと言って、逆の反応を引き出す作戦だったんだよ」
「へー、作戦だったんだ…。てっきり、可符香ちゃんの本音だと思ったよ…」
「ふぅん。奈美ちゃん、私をそんな目で見てたんだ」
「え? あ、あの、別にそんなつもりじゃ」
「あっ。あびるちゃんだ」
 窓の外を見ると、確かにあびるんの歩く姿が見えた。
「そうだ、あびるんにしよう。比較的まともな方だし」
「でも結構クールだよね。普通にアタックしたんじゃ、今以上に仲良くなるのは難しいかも」
「うっ。そう言われるとそんなような気が」
「でも大丈夫! こんな事もあろうかと、しっぽを用意しておきました」
 何かの秘密道具のように、キツネのしっぽを高く掲げる可符香ちゃん。
「どんな事を想定してたのか、一度じっくり聞きたいんだけど」
「スカートに留める方式だから平気だよ。刺したりしないよ」
「刺すってどこにだあ! ち、ちょっと、スカート引っ張らないでよっ」

 というわけでしっぽを装着させられ、あびるんのもとへゴー。
「私と仲良くなりたい? まあ、別にいいけど…」
 案の定、淡白な反応だなぁ。
 可符香ちゃんが待ってましたとばかりに、私の体を半回転させる。
「ほら。奈美ちゃんはあびるちゃんのために、しっぽまでつけてきたんだよ! その気持ちに感動してあげて!」
 ぴょこんと揺れる私のしっぽ。うう、恥ずかしいなあ…。でも親友を作るため我慢しないと。
 と、私の首に白い布が巻きつく。
 きゅーーっ
「ぐええ!?」
「何? そのしっぽは。全国のしっぽ好きに喧嘩を売ってるの?」
「主語が大きい人っているよね」
「大きいのか小さいのか分かんないわよ! ちょっ、苦しい苦しい苦しいーっ!」
「しっぽをつけるなら、ちゃんと刺さないと駄目じゃない!」
「だからどこに!?」
「だいたい、奈美ちゃんにキツネのしっぽなんて似合わない! ムツオビアルマジロのしっぽが一番よ! ううん、トガリネズミのしっぽかな?」
「変態だぁ! この子も変態だったぁ!」

 ほうほうの体で逃げ出した先は、宿直室の前だった。
「そういえば、ここに霧ちゃんがいるはずだよね」
「小森ちゃんかぁ…」
「初めての出会いがああだったし、案外奈美ちゃんの運命の相手かも?」
「やめて思い出させないで。そういえば、可符香ちゃんとの出会いもアレだったよね…」
「ねーこーの毛皮着るー」
「いやぁぁ不安定になる不安定になる!」
 耳をふさいで宿直室へ駆け込むと、先生が首を吊っていた。交くんは出かけてるみたい。
「先生、小森ちゃんいます?」
「普通にスルーですか! その戸棚の影にいますよ」
「…私に用?」
 顔を出す小森ちゃんに、かくかくしかじかと説明する。
「え…。私と親友になりたい…?」
 あ、ちょっと赤くなってる。これは脈ありかも?
「ど、どうかな」
「うん、いいよ。私で良ければ…」
「やったぁ! 可符香ちゃん、私やったよ!」
「良かったねぇ。それで親友になった二人は、休みの日とかはどうするの?」
「え? そりゃまあ、一緒に買い物に行ったり、人気のケーキ屋に並んだりとかかな?」
 ぼすっ
 いきなり小森ちゃんに、枕を投げつけられた…。
「私を引きこもりと知って、そういうこと言うんだ…」
「こもり続けるのが前提なの!? たまには外に出ようよ」
「奈美ちゃん。それって霧ちゃんの存在を全否定だよ」
「全否定された…」(すんすん)
「ええー。いいこと言ったつもりなのに」
「はっはっは。やはり、普通以上の関係になるのは無理なようですねぇ」
 先生が嬉しそうに近づいてくる。くそう、絶対仲間だと思われてる。
「やっぱり人生、一人が一番ですよ」
「残念ですけど先生、一人になんてさせません」
「いたんですか」
「ずっと」
 先生の背後から出てきたのは、言わずもがなの常月さんだった。
 さすがにストーカーの親友は遠慮したいなぁ…。まあ、向こうからお断りだろうけど。
「邪魔女たちなんていらない! 世界には私と先生だけいればいいの!」
 ほーら。
 と、急に可符香ちゃんが口を開く。
「でも、まといちゃんと私は仲良いですよ」
 ………。
 全員の視線が可符香ちゃんに集中してから、ゆっくりと常月さんへ動いた。
「…そうね。風浦さんは素敵な人よ」
 ええー!?
「だってストーカーという謂われのない非難を受けていた私に、初めて純愛と言ってくれたんだもの!」
「えへへー」
『余計なことをッッッ!』
 私と先生の内心が、見事にハモった気がした。
「そう、私が尾行なんてするわけないじゃない。行き先が運命的に一致しただけよ!」
「やだなぁ、まといちゃんが盗聴なんてするわけないじゃないですか。電波の息づかいに耳を澄ませただけですよぉ」
「ポジティブ最高ー!」
「さいこー!」
(さ、最悪の組み合わせだあ…)
 手を取り合っている可符香ちゃんと常月さんに、小森ちゃんまでが加わってくる。
「私も、可符香ちゃんには感謝してるよ…。おかげで全座連に入れたし…」
「友達だもの、当たり前だよ」
「感謝するところ!? それって感謝するところなの!?」
「どうやら、あなたよりも風浦さんの方が人望が高いようですねぇ」
 先生がまたムカつくことを言ってくる。
 なによぉ、心のスキマに入り込んでるだけじゃん…。

「はぁ…。なかなか上手くいかないなぁ…」
 空はすっかり赤くなって、夕日が廊下に差し込んでいる。
「オ? 二人とも、まだ帰ってナイのカ?」
 声に顔を上げると、マ太郎が夕焼けをバックに窓枠に座っていた。
「マリアちゃんも、まだ残ってたんだ」
「ウン! 当局の目が厳しいカラ、夜まで学校に潜伏してるヨ!」
「そーいうこと笑顔で言わない!」
「ねえマリアちゃん。奈美ちゃんが親友募集中だって」
「わーっ! わーっ!」
 慌てて可符香ちゃんの口を塞ぐ。いや、マ太郎がいい子なのは分かってるけど、分かってるけどっ。ちょっと私には背景が重過ぎる…。
「?」
 きょとんとするマ太郎に、どう言い訳しようと焦る私。
 感づかれてしまったのか、マ太郎は少し寂しそうな笑顔を見せた。
「気にしないデ、ナミ。マリア、普通に仲良くしてくれるダケで嬉シイ」
「マ太郎…」
「じゃあ、また明日ネ!」
 走っていくマ太郎を呆然と見送った直後、耳元で責めるような声がする。
「マリアちゃんはいい子だよねぇ」
「うう…」
「あんなに苦労してるのに、純粋さを忘れないんだもの…。でも奈美ちゃんの気に入らなかったなら仕方ないよね?」
 ぐさぐさぐさ
「い…いいじゃん別に! 選ぶのは私なんだからあ!」
「開き直ったね。じゃあ結局誰にするの? 愛ちゃん?」
「謝られてばっかで会話にならなさそう…」
「じゃあ三珠ちゃん?」
「なんか怖い…」
「倫ちゃん?」
「あそこの家風にはついてけない…」
「カエレちゃん」
「友情とか興味なさそう…」
「藤吉さん」
「趣味合わなさそう…。ていうか、よく千里ちゃんと付き合ってるよね…」
「千里ちゃん」
「一番無理…。分刻みで管理されそう…」
「………」
 うっ…。
 どんどん、自分が最低の人間な気がしてきた。
 心なしか、可符香ちゃんの目も軽蔑の色を含んでいるような…。
「ねえ奈美ちゃん。何でもかんでも自分に都合のいい相手なんて、そうそういないよ?」
「ハイ、ごもっともです…。やっぱり私、親友を作る資格なんかないのかな」
「まあまあ。なるべく好きなところに目を向けて、そうでないところも個性と思えばいいよ。ポジティブ思考ですよ」
「可符香ちゃん…」
「というわけで、次はことのんちゃんにアタックを…」
 するんぱし
 歩き出そうとする可符香ちゃんの腕を、ぎゅっと掴まえる。
「奈美ちゃん?」
「あ…」
 掴んだのは反射的だった。
 けど、自分でも理由は分かってる。目の前にいる、小柄な女の子。何だかんだで、一緒にいる時間が多かった子。
 玉に瑕がないわけじゃない、壁も色々と多い気もするけど。そういう事を乗り越えなきゃ、私はいつまでも普通のままだ。
 心を決めて、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「――私、可符香ちゃんがいい」

「…え?」
 いつもマイペースな可符香ちゃんが、一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、呆気に取られたように見えた。
「えっと…本気?」
「駄目かな、可符香ちゃん。私の親友になってもらえないかな」
 言っている間にもう、元の顔に戻ってる。というか、少し目が細いような…。
「ふぅん…本当にいいの? 心の中では私のこと、胡散臭いやつだって思ってたんじゃないのかな?」
「うっ…」
 正直、そういう部分がないわけじゃないけど…。
 出会いがああだったし、電波なこと言うし、なんか腹黒い気もするし、よく分からない部分も多いけど。
「で、でも、それがカフカちゃんの個性だと思うし! ポジティブなところは好きだし、今日だってずっと付き合ってくれたじゃない…」
「………」
「あ、あはは…。やっぱ駄目だよね。私みたいな凡人、可符香ちゃんには物足りないよね」
「やだなぁ。私が断るなんて、そんなネガティブなことするわけないじゃない」
「え…」
「うん、いいよ。私でよければ、いいよ」
 可符香ちゃんの笑顔が、この時ばかりは天使に見えた。
 冷静に考えれば、その理由はないだろうって思ったかもしれない。
 でも、OKしてもらえたってだけで、私はすっかり舞い上がってしまった。
「ほ、ほんとにっ!? 後から冗談とか言うのなしだよ!?」
「そんなこと言わないよぉ。あ、でも一週間はクーリングオフ期間ね」
「え…やっぱりそうなんだ…」
「私じゃないよ。奈美ちゃんが、後で嫌になるかもしれないから」
「な、なーんだ。そんな事あるわけないじゃない」
「…なら、いいんだけどね」
 何か引っかかる気もするけどスルースルー。とにかく、これで普通から脱却できたんだ! 先生にも自慢できる。誕生日もちゃんと祝ってもらえる…よね? たぶん…。
 気付けば外はすっかり暗くなって、校内には私たちの姿だけ。
「じゃ、一緒に帰ろっか! そういえば、可符香ちゃんの家ってどこなの?」
「結構近くだよ」
「じゃあじゃあ、そのうち遊びに行っていい? 可符香ちゃんも…あ」
 とんでもない事に思い至って、急に言葉が途切れた。
 うう、今更こんなこと言うのも気まずいけど…。
「私、可符香ちゃんの本名知らないや…」
「え…」
「ああっ、呆れないで! 風浦可符香ってペンネームなんだよね? 苗字は…出席取る時、赤木って呼ばれてよね。ごめーん、下の名前教えて」
「可符香だよ」
 その声は、彼女にしては妙に冷たかった。
「え? だからそれってペンネーム…」
「別にいいんじゃないかなぁ? 夏目漱石だって松尾芭蕉だって、ペンネームが本名みたいなものでしょう?」
「いやいやいや、それはないでしょ。親友の本名知らないって、普通あり得ないでしょ」
「こんな時だけ普通? 奈美ちゃん、普通が嫌なんじゃなかったの?」
「そういう問題じゃ…」
 急に可符香ちゃんが歩き出し、私は慌てて後を追う。
「か、可符香ちゃんっ。私たち、親友になったんだよねっ!?」
 校門まで来て、ようやく可符香ちゃんは振り返った。
 薄闇の中で、その瞳には何の色も見えなかった。
「昔の人は言いました。友情は成長の遅い植物である。それが友情という名の花を咲かすまでは、幾度かの試練・困難の打撃を受けて耐え抜かねばならぬ……私の本名を知りたいなら、まず本当の親友にならなくちゃね?」
「え…ええー!?」


「ひ、ひどい目にあった…」
 家に着いた頃にはすっかり暗くなっていて、私はよろめきながら部屋に戻った。
 可符香ちゃんによると、親友が不良に絡まれてたら助けなきゃいけないし、親友が財布を落としたら一緒に探さなきゃいけないし、親友がトラックに轢かれそうになったら身代わりにならなきゃいけないらしい。
「だからって、それを実演しようとするなあ!」
 壁に向かって叫んでから、ぱたりとベッドに倒れ伏す。
 …可符香ちゃん、本当は私のこと嫌いなのかなぁ…。
 思い返せば、今日の私って結構ウザかった気がするし。嫌々OKしてもらえた気がしなくもない。
 もう、いきなり親友とまでは言わないから、せめて普通くらいには思われてるといいな…。

『…普通』

 ん?
 今、なんか思い出しかけた。
 数分の間、ベッドの上で悶々として、ようやく思い当たる。
(…杏ちゃん)
 私にトラウマを植え付けた子。
 記憶の中のその子が、何だか可符香ちゃんのイメージに重なるような…?
(まさかね、そんな偶然…)
 けれど考えれば考えるほど、声も、姿も、小さい可符香ちゃんだったような気がしてくる。
 がばと身を起こすと、私は大慌てで台所へ行った。
「おかーさーん!」
「なあに奈美、早く夕ご飯食べちゃいなさいよ。片付かないんだから」
「そんな普通の会話はいいから! 幼稚園のとき、杏ちゃんって子いたよね? 苗字覚えてる!?」
「杏ちゃん…? どうだったかしら、奈美と仲いい子だった?」
「いや、普通だったけどぉ…。もしかして赤木じゃなかった?」
「赤木さん、ねえ。あ、そういえば…」
 空腹なのを思い出し、テーブルの上のコロッケを口に入れる私に、お母さんの言葉が続く。
「お父さんが自殺して、お母さんがおかしくなっちゃって、幼稚園辞めてった子がいたわねぇ。その子が確か赤木さん…だったような? よく覚えてないけど」
 え…?
 言われた内容と、可符香ちゃんのイメージのギャップに、思わずコロッケを取り落としそうになった。
 まさか…そんなわけない。
 ちょっと変なところもあるけど、可符香ちゃんはポジティブで明るい子だもの。
(ないない。お母さんの勘違いだよね)
 そう思いながら夕食に取りかかるけど…やっぱり何か、心の奥に引っかかった。


「先生、可符香ちゃんの本名を教えてください」
「なんですか、藪から棒に」
 本当なら一緒に登校したいところだけど、昨日は約束もできなかったし、先に学校へ行って先生に突撃する。
「だっておかしいじゃないですか。クラスメートの本名を知らないなんて」
「うちのクラスでそんな普通のこと言われても困ります。マリアさんとかどうなるんですか。ていうか先生も知りません」
「それくらい調べてくださいよー」
「あいにく今は個人情報にうるさいご時勢ですからね。だいたい本当の名前を知ると大抵ロクでもないことが起きるのです! 例えば」
「あ、羅列ネタは結構です。そんな暇じゃないので」
「絶望した! 人の芸風を頭から否定する生徒に絶望したあ!」
 そして今日も泣きながら走り去る先生。つくづく厄介な人だなぁ…。
 そうこうしている間に、可符香ちゃんが登校してくる。
「おはよう、奈美ちゃん」
「うん、おはよう…」
 なんだか人が隠していることを嗅ぎ回っているようで、ちょっと心苦しい。
 でも相変わらず、可符香ちゃんの表情からは内心が読めないし、こんなんじゃとても親友とは言えない…んじゃないかな。
「ねえ可符香ちゃん。幼稚園ってどこ行ってた?」
「うん? ポロロッカ幼稚園」
「真面目に答えてよ…」
「やだなぁ、私が嘘つくわけないじゃない。奈美ちゃんは親友を疑うのかなぁ?」
 くっ…。
 いいわよ、そういう態度を取るなら、こっちにも考えがあるんだから。
 昼休み。可符香ちゃんの目を盗んで、几帳面なクラスメートに耳打ちする。
「は? 風浦さんの本名? そういえば聞いたことがないわね」
「だよねだよね、きっちりしてないと思わない?」
「そう言われれば確かにそうね。ああ、イライラしてきた! きっちり明かしてもらわないと!」
 よーしよしよし。普段は怖い千里ちゃんも、こういう時は使いようだよね。
 と、思ったんだけど…。
「それはきっちり隠してるんだよ。千里ちゃんにだけ教えたら、かえって揃わないことになっちゃうよ」
「そう言われれば確かにそうね」
「おおい! 簡単に言いくるめられすぎ!」
 あっさり外れる目論見に、可符香ちゃんがくすりと笑った…気がした。
「千里ちゃんの『きっちり』の基準って、結構曖昧だよね」
「あ、曖昧!? この私が!?」
「マリアちゃんには甘いし、法律すらきっちり守ってないし、結構いい加減だと思うなぁ」
「私がいい加減……私がいい加減……くけーーー!!」
 あ、壊れた…。
 スコップを振り回す級友が廊下の向こうに消えた後、背後から肩に手が置かれた。
「奈美ちゃん、ちょっと屋上行こっかぁ」
「ハイ…」

 びょおおおお
 意味もなく風が吹き荒れる屋上で、私は金網を背に、可符香ちゃんと相対していた。
 というか、蛇ににらまれた蛙って言った方が正確だけど…。
「親友になって早々、こんな仕打ちを受けるとは思わなかったなぁ。ねえ、奈美ちゃん?」
「だ、だってしょーがないじゃない! 可符香ちゃん、何も話してくれないんだもん!」
「別に怒ってるわけじゃないよ? 常に進化を目指す奈美ちゃんの姿勢に、むしろ感動してるんだよ」
「は、はあ…」
「そう、奈美ちゃんは常に飛翔を忘れない女の子! 今も大空に羽ばたこうとしてるんだよね!」
「あ、あのう、屋上で羽ばたけとか言われるのはちょっと…」
「大丈夫、奈美ちゃんならどこだって飛べるよ! You can fly!」
 こっ、殺 さ れ る … 。
 私の中で何かが切れた。やられる前にやるしかない!
「”赤木杏”!」
「!」
 可符香ちゃんの目が見開かれる。やった、効いてる!
「だよね、可符香ちゃんの本名!? 別に普通の名前だし隠すことないじゃない、まあ隠し事されたからって気にしたりはしないよ!? だから私が千里ちゃんをけしかけたのも水に流してくれると嬉し…」
 急に視界が暗転した。
 背中に感じる金網の衝撃。首を絞められ、金網に叩きつけられたと理解したのは、数秒経ってからだった。
「かっ……可符香ちゃん……?」
「どうして…。何で、今頃出てくるの…?」
「……杏、ちゃん……」
「赤木杏なんて人間はいないの、いちゃいけないの! どうして!? 全部消したはずなのに。出てこないでよ、消えてよ…っ!」
 あ…。
 可符香ちゃんが、あの可符香ちゃんが、泣きそうな顔をしてる。
『お父さんが自殺して』
『お母さんがおかしくなっちゃって』
 線が繋がる。鈍い私でも、今の彼女の表情を見れば、何となくの事情は分かる。
(…親友に、こんな顔をさせちゃった…)
 ごめん、踏み込んじゃいけない領域だったんだ…。

「ちょっと、何をしてるの!」
 我に返った可符香ちゃんが、瞬時に身を離した。
 徐々に戻る視界の隅に、長い金髪が揺れている。
「カエレちゃん…」
「風浦さん…。見てたわよ、状況を説明してもらいましょうか」
「…やだなぁ、私が立ちくらみして、奈美ちゃんに寄りかかっちゃっただけですよ。ねえ、奈美ちゃん?」
「あ…うん…」
「嘘つけ! どう見ても首絞めてたじゃない!」
「そう思うなら、奈美ちゃんに聞いてみるといいよ。…まあ、別にどう言われても構わないけど」
 勝手にたすきを渡して、可符香ちゃんは私を見ようともせずに、屋上を出て行った。
「…訴えるなら、いい弁護士を紹介するわよ?」
「そんな事しないって…」
 苦笑しながら身を起こす。落ち着いてみると、そんなに強く紋められたわけでもなかった。
 教室に戻ろうとして、まだ納得いってなさそうな級友に目を向ける。
 ふと、一つの疑問が頭に浮かぶ。
「楓ちゃんって、今もカエレちゃんの中にいるんだよね?」
「ヤツのことは言うなあ!」
「まあまあ。…楓ちゃん、普段は出てこないけど、どんな気持ちなんだろ」
「何よ、唐突に」
 渋い顔のカエレちゃんだったけど、少し考え込んでから、目線を逸らしつつも話してくれた。
「…まあ、仕方ないと思ってるんじゃないの? そりゃ、誰とも話せないし認識してもらえないのは少し寂しいけど、あくまで主人格は私なんだから」
「そっか…。そういうものなんだ」
「ていうか私だって迷惑してるのよ! なんで私があのヘンテコ教師に惚れなきゃいけないのよ!」
「ま、まあまあ…。ありがと、カエレちゃん」
「ふん…」
 …杏ちゃん。
 彼女は別人格ってわけじゃないけど、可符香ちゃんの奥深くに潜んでいることには違いない。
 もう一度遭いたいと思うのは、やっぱり良くない事なのかな…。


 その日の午後、可符香ちゃんに特段変わった様子はなかった。
 観察していて分かったけど、何か事を起こすとき以外は、結構おとなしいみたい。
 こういうとき、この子は一体何を考えてるんだろう。

 授業が終わるなり帰ろうとするので、慌てて後ろから声をかける。
「か、可符香ちゃん!」
 彼女の動きが止まる。
 その小さい背中までの距離が遠い。でも、縮めなきゃ。今を逃したら、きっと永久に近づけない。
「一緒に帰ろ」
 可能な限り明るく言って、そうしてようやく、可符香ちゃんは振り向いてくれた。
 何も変わらない、本心の見えない笑顔を浮かべたままで。
「クーリングオフしに来たのかと思ったよ」
「い…言ったでしょ。そんなことしないって!」
「そうかなぁ? 私なんかと本気で親友になろうだなんて、普通思うわけないよ」
 聞いてるうちに腹が立ってくるけど、今はぐっと抑える。それより先にやる事をやらなきゃ。
「ごめん!」
「…奈美ちゃん?」
「やっぱり、人が言いたくないことを無理矢理探ろうだなんて良くなかったよね。謝るから、もう一度最初からやり直させてくれないかな…」
 頭を下げているので、彼女の表情は分からない。
 いきなり首筋を何かに触られて、思わず飛び上がりそうになる。
「…私こそごめんね、苦しかった?」
 可符香ちゃんの細い指が、優しく私の首を撫でていた。
 上げた顔の前に彼女の瞳があって、なぜだか鼓動が早くなる。
「あ、あびるんの包帯ほどじゃなかったよ。可符香ちゃん、腕力はあんまりないね」
「あはは…そうかも…」
 屋上での負い目があるからか、その笑顔は妙に弱々しかった。
 今掴まえないと、本当に消えてなくなってしまいそうだった。
「一緒に帰ろう、可符香ちゃん」
 もう一度強く伝える私に、彼女は呟くように返す。
「いいよ…。それで、私はどこへ行けばいいの?」


 散々考えて、ハンバーガー屋しか思いつかなかった自分が憎い。
「女子高生が帰りにこういう店に寄るのって、ものすごく普通だよね」
「ものすごく普通って言うなぁ! いや確かに普通だけど! ああもう、だったら可符香ちゃんが選んでよぉ…」
「別に悪いだなんて言ってないよ? たまになら私も、こういう普通のことをしても良いのかもね」
 何やら意味深なことを言って、さっさと店内に入ってしまう。
 後を追って、一緒に注文。こうなったら普通じゃないメニューを選んでやるーって思ったけど、値段を見て結局普通のセットにする私って…。
「可符香ちゃん、もしかしてこういう所って初めて?」
「うん。私は、少しおかしい子だからね」
「べ、別にそんな事は…ないと思うけど」
 可符香ちゃんは特に気にする様子もなく、ポテトを口に放り込んだ。
「ねえ奈美ちゃん。せっかく普通の場所に来たんだから、普通の話をしてよ」
「あのねえ、普通普通って…私だって結構事件に遭遇してるんだよ? メール書いてる最中にパソコンがフリーズしたとか」
「とてつもなく普通だね」
「いいよもう…何とでも言ってよ…」
「まあまあ、そういじけなくても。それが奈美ちゃんの可愛いところなんだから」
 あ、可符香ちゃんが笑ってる。
 いつもの事ではあるんだけど、ついさっきまで元気がなかったから、やっぱり嬉しい。
 そうだ…。
「ねえ可符香ちゃん。私生活の詮索はしないから、それ以外で一つだけ教えて」
「…何かな」
「本当は、私の事どう思ってるの?」
「………」
 可符香ちゃんは何も言わず、ハンバ一ガーを食べ始めた。
 私も付き合って、パンと肉の塊を口に運ぶ。
 あらかた食ベ終った頃、ようやく答えが返る。
「…あんまり好きじゃなかったよ」
 …大ショック。
 でも、過去形であることに一筋の希望を託してみる。
「そ、そっかー。やっぱり、凡人だからかなー」
「普通なのは良いことなんじゃない? 今のクラスに入るまで、私の周りはそういう人ばかりだったし」
 そりゃあ…数が多いから『普通』って言うんだろうけど。
「逆に私の方が浮きまくっててね、『あいつは普通じゃないから』って、いつも言われてたよ。
 ペンネーム使ったり、ポロロッカ星人とか言ってれば当たり前なんだけどね。
 でも、私はそうしないと生きていけなかったの。
 そしてようやく、私にも居場所が見つかった」
 淡々と話しているのに、なぜか気圧される。口を挟めないまま、可符香ちゃんの話は続く。
「先生も生徒も絶望的なクラス。
 みんなおかしな人ばかりだから、私が居ても大丈夫。
 こんなに歪つで壊れてて、居心地のいい場所なんて他になかったよ。
 なのに一人だけ、異分子が紛れ込んできたの」
「わ、私…だよね…」
「奈美ちゃん、最初は今のクラスのこと、嫌いだったでしょう?」
「そ、それは…まあ」
 だって変人だらけのクラスだったし。
 あの中じゃ、私はちっとも特別になれないし。
「で、でも今は違うよ!? 色々言ってるけど、何だかんだでへ組のことは気に入ってるよ!?」
「うん、割とあっさり馴染んじゃったね。おっかしいなぁ、奈美ちゃんは普通なのに」
 そう言って、本当におかしそうに笑う。
「…おかしいの。普通なのに、私と仲良くなりたいだなんて」
「おかしくないよ」
「そうかな…」
「おかしく…ないよ」
 そう、あんな出会い方をして、その後も散々振り回されて。
 それでも、この子を嫌いになんてならなかった。
 普通じゃない彼女に、どこか憧れてたんだ…。
「親友になろう、可符香ちゃん」
 少し強引に、両手で可符香ちゃんの手を握る。
 「みたいな普通の人間でも、今の絶望的なクラスを好きになれたんだから。
 可符香ちゃんも、少しだけ普通の世界を好きになってくれないかな…なんて」

 周囲からは下校途中の女学生たちの、他愛もない会話が聞こえてくる。
 可符香ちゃんはじっと、手で作られた結び目を見つめていた。
 それが急に目を伏せ、椅子から立ち上がる。
「出よう、奈美ちゃん」
「え? ああっ、まだポテト残ってるのに…」
 小市民な言葉を残し、繋がれた手はそのままで、店外へ引き出される。
 そのまま可符香ちゃんは、振り向かずにどこかへ歩いていく。
 私は、手を離さないようにするのが精一杯だった。


 人通りのない小道に着いたところで、彼女は立ち止まった。
 背を向けたままなので、私からはバッテンの髪止めしか見えない。何か言おうと口を開きかけたところで、遮るように声が響く。
「…無理だよ、奈美ちゃん。『風浦可符香』は、そんないい子じゃないもの」
「可符香ちゃん…」
「いつも何か企んでいて、奈美ちゃんや先生を振り回して面白がってる。そんな子が、本当の親友なんて作れっこないよ」
「そ…そんな事ないってば!」
「でもね…」
 ゆっくりと、可符香ちゃんは振り返る。
 何も変わらないはずなのに、なぜだか…私と同じ、普通の女の子に見えた。
「『赤木杏』は、奈美ちゃんのいる世界に、どうしても惹かれてしまうみたい」
「え…?」
「約束してくれる? 私の名前を呼ぶのは、二人きりの時だけにするって。
 世界で一人だけが相手なら、そんな時間も許される気がするから…」
 胸の奥から、何かがこみ上げてくる。
 返事より先に、私は彼女の体を思い切り抱きしめていた。
「杏ちゃんっ…!」
「奈美ちゃん…」
「約束する。絶対誰にも言わない!
 だから、二人で一緒の時間を過ごそう。買い物したり、ケーキを食べに行ったり。
 私には、そんな普通のことしかできないけど…。二人なら、きっと特別な時間になるから…!」
 小柄で、華奢な体。
 私の腕の中で、杏ちゃんはゆっくりと、私を抱き返してくれた。
「うん――ありがとう、奈美ちゃん」


 手を繋いだまま、私の家の前まで来た。
 また明日も会えるのに、なんだか離れるのがすごく寂しい。
「それじゃあね、奈美ちゃん」
「う、うん…。ね、少しだけ寄ってかない?」
「うーん、また今度にするよ。もう遅いしね」
「そ、そっか…」
 うー、我ながら未練がましいけど…もう一会話だけ、何か話したいなぁ。
 あ、そうだ。
「ねえ、クーリングオフの放棄って、どうすればいいのかな」
「放棄?」
「うん。必要ないし、持ってるのも気持ち悪いじゃない」
「どうなんだろ。できるのかどうか知らないけど、するとしたらハンコがいるんじゃないかな?」
「ハンコかぁー。持ち歩いてないや」
「じゃあ、これでいいよ」
 ちゅっ
 …一瞬の出来事だった。
 唇に残った感触に、ようやく何をされたか理解する。
「○×∞£*☆◎▼!?」
「あはは、それじゃまた明日ねー」
「か、可符香ちゃ〜ん…」
 ううっ、やっぱりいつもの可符香ちゃんじゃないかぁ…。
 悪戯っぽく笑いながら去る親友を、恨みがましい視線で見送る。
(…でも)
 唇にそっと手を当ててみる。
 女の子にファーストキスを奪われたのに、不思議と理不尽な感じはしなかった。
 あの子が心を開いてくれるなら、これくらいの重い鍵は当然な気がした。
(杏ちゃん…杏ちゃん)
 心の中で呼びながら、玄関の戸をくぐる。私だけが知っている名前。
 私は相変わらず、普通の人間のままだけど…。
 杏ちゃんの前でだけは、世界で一人だけの存在になれるんだ――。


「はぁー、宿題あったの忘れてたよ…」
「あはは。先生なら上手くごまかせば大丈夫だよ」
 そんな普通の話をしながら、学校へ向かう。いつもの通学路なのに、二人で歩くとなんだか新鮮。
 校門をくぐったところで、先生がロープを持ってうろうろしている。
「先生、おはようございまーす」
「何してるんですか? こんな朝から」
「いや何、朝の散歩ついでに死に場所探索中です」
「あっそ」
 スルーされて傷ついた顔をしながら、先生の目が私たちの繋いだ手に向く。
「というか、あなた方はそんなに仲良かったんですか」
「え…」
 何気なく聞かれただけなのに、私の身体は固まってしまう。
 先生という立場の人に、その質問を受ける。
 それは、あの時――。

「仲いいですよ」

 ――――!
 可符香ちゃんの、はっきりした声。
 呪縛から解くように、背中から私を抱きしめて、もう一度言った。
「すごーく、仲いいですよ」
「は、はあ、二回も言わなくていいですよ。…ん? 日塔さん、どうかしたんですか」
「な、何でもないですっ…」
 どうしよう。泣きそう。
 私のトラウマなんて、一瞬で吹き飛んでいった。
 誰かに、特別だって思ってもらえる。それがこんなに嬉しいことだなんて。
「行こう、可符香ちゃん! それじゃ先生、失礼します!」
「あ、ちょっと、昇降口は逆方向ですよ!?」
 先生の声を無視して、可符香ちゃんの手を引いて走っていった。
 誰もいない校舎裏まで来て、我慢の限界を越えた言葉が溢れ出る。
「杏ちゃんっ…!」
「…もう、大げさだなぁ、奈美ちゃんは」
 杏ちゃんの両手が、私の顔を包んでくれる。
「だって、嬉しかったんだもん…」
「心のスキマに、入り込まれちゃった?」
「あはは…。そうみたいだね」
「まあ、お互い様なんだけどね」
 その顔が近づいて、一瞬だけ唇を重ねる。
 もう抵抗はなくて、でもさすがに、心臓が早鐘を打つのは避けられない。
「行こ、授業始まっちゃうよ」
「ちち、ちょっと待ってよ。こんな真っ赤な顔じゃ、教室に入れないよ」
「やだなぁ、普通じゃないって思ってもらえるチャンスじゃない」
「うう…。いくら普通じゃなくても、こんなに恥ずかしいのはちょっと…」
 それに今は少しだけ、普通が嫌じゃなくなっていた。
 だって…。

「奈美ちゃんの、そういうところが好きだよ」

 この子が笑いながら、そんなことを言ってくれるんだから。





<END>






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