☆1月12日

「♪ららんらんらん…」
 日曜日。朝から好天に恵まれ、真冬とはいえそれなりに暖かい。
 沙希は例によって早起きすると、鼻歌を口ずさみながらお弁当を作っていた。今日は弟のサッカーの試合で、これに勝てば決勝リーグ進出という大事な日である。
「わたしも張り切ってお弁当作らなくちゃ! あ、でもすぐ試合だから少なめの方がいいよね」
「姉ちゃん、おれもう行くよ」
「え、ち、ちょっと待ってぇ」
 台所にひょいと顔を出した弟が、わたわたと弁当を詰める姉を複雑な表情で見つめている。虹野亘(わたる)、小学5年生。近くのサッカーチームではセンターフォワードを務める少年である。
「はい、お弁当!頑張ってね!!」
「うん…」
「お姉ちゃんも応援に行くね」
「い、いいよっ!恥ずかしいだろっ!!」
「えへへ、そんなに照れないの。亘、根性よ!」
「…行ってきます!」
 虹野亘11歳。いろいろと難しい年齢。しかし姉にそれが通じることはなく、外に出たと思ったら後ろで沙希がぶんぶんと手を振っていた。
「わたるぅーーっ、ファイトーーーっ!!!」
「だからご近所に聞こえるだろっバカぁっっ!!」




虹野BDSS: Hoping Rainbow





 16歳最後の日曜日。お昼をすませた沙希はバスの座席で外を見ていた。
 亘の所属するサッカーチームは近所ではわりと有名で、6年生が引退した後亘たちが後を引き継いだ。しかもCFという大事な役を勝ち取ったとあっては姉としても鼻が高い。
「(だってあんなに練習したんだもの。きっと今日も大丈夫よね! ああ、将来はJリーグの選手とかになってくれたらいいなぁ…)」
 揺られながらぼーっとそんなことを考える沙希である。今沙希が向かうのは市営の総合運動場。望と彩子も見にやってくる予定だった。
「あ、どうぞ」
「おや、悪いねぇ。ありがとう。お嬢さんはどこかへお出かけかい?」
「はいっ、弟のサッカーの試合の応援なんです!」
「おやおや、それはそれは…」
 お年寄りに席を譲って再度バスが進む。目の前の老人と話しているうちに会場に着き、沙希はぺこりとお辞儀をしてバスを降りた。振り返ると老人が帽子を取って手を振ってくれていて、沙希は今日のお日様のように足取りも軽くグラウンドへと向かった。
「あ、沙希」
「ハーイ、来ちゃったわよぉー」
「望ちゃん、彩ちゃん! ありがとう、寒いのにゴメンね」
「チッチッ、この彩子様がルテルテ坊主を吊したおかげでこんなに暖かいじゃない」
「あはは、3月くらいの陽気だよね」
 3人揃ってサッカーコートへと歩く。応援とおぼしき観客たちが大勢、試合の開始を心持ちにしていた。
「あっ、わたるぅー」
「げっ、本当に来たっ!」
「なんだよ亘、お前の姉ちゃんか?」
「へぇ、可愛いじゃん」
「う、うるさいっ!!」
「亘、ちゃんとお弁当食べた?頑張ってね、でもケガしちゃだめよ。それから…」
「ばっ…帰れっ!今すぐ帰れよっ!!」
「そ、そんな事言わなくても…」
 しょぼんとする沙希を見て、亘はなんとも言えずそそくさとベンチの方へ引っ込む。彩子と望はといえば薄情にも、2人して必死で笑いをこらえていた。
「いやー、相変わらず亘クン可愛いわねー」
「えへへ、そ、そうかなっ。でもとっても頑張り屋さんなのよ」
「あーはいはい、姉バカ姉バカ」
「あ、そろそろ始まるぜ」
 選手たちがグラウンドに散らばり、試合開始のホイッスルが鳴り響く。3人は芝生に座って観戦していたが、すぐに沙希だけ立ち上がると手をメガホン代わりに応援を始めた。
「頑張って、ドライブシュートよ!」
「打てるか!!」

 しかし沙希に調子を狂わされたのか、亘の動きはいまいちだった。必死に攻撃をしかけるのだがどうにもボールさばきが硬い。
「わたる!ファイトぉーーーっ!!」
「少し落ち着いて応援しろよ…」
「え? あ、そ、そうよね」
 とりあえず腰を下ろしはするが、押され気味とあってやはり落ち着かない。前半が終了し、試合は2−1で負けていた。
「うーん、やっぱりかなわないかなぁ」
 近くにいた男がぼそりと言って、沙希は不安そうな目を向ける。
「あの、ちょっといいですか?相手のチームってそんなに強いんですか?」
「ん?ああ、昨年は全国でベスト8だしね。うちのチームもそこそこいくんだけど、やっぱねぇ…」
「そ、そんなことありませんっ!頑張ってできないことなんてないんです!」
「え、あ、ああ、そうだね…。茂、頑張れよーっ!」
 どうやら一選手の父親らしいその男の声援を受けて後半が始まる。しかし焦っているのがはた目にも分かり、開始早々点を入れられてしまった。
「最後まで諦めちゃダメよ! 頑張って!!」
「イエース、Never give up! そんな連中大したことないわよぉー」
「自分たちの力をすべて出し切るんだ!」
 亘がちらりと沙希の方を見る。果敢に攻撃を挑むが、相手ディフェンダーの守りは堅い。直接やり合う以上どうしても実力の差というものがわかってしまった。
「試合終了!!」
 フタを開けてみれば5対2の完敗。少年スポーツの原則にのっとり双方に惜しみない拍手が送られるが、亘のチームは疲れ切ったように自陣へと引き上げる。
「Ouch、残念だったわね」
「ああ…でも大事なのは結果じゃなくて、全力を尽くしたかどうかだよ。なぁ?」
「う、うん…」
 亘がまたちらりとこちらを見て、沙希と目が合いあわてて横を向く。選手たちは道具を片づけ、乗ってきたマイクロバスの止まる駐車場へと歩いていくところだった。
「…わたし、ちょっと行ってくる!」
「あ、沙希?」
 亘は一同の一番後ろを歩いていた。沙希は一生懸命走ると、とぼとぼと歩く彼に声をかける。
「亘!」
 びくっ、と体が止まり、嫌そうにこちらを向く。
「…まだいたのかよ」
「え…え〜〜〜〜〜と」
 なんと言ったらいいものか。しかしここで励まさなくては姉ではない。目の前の弟の手を取ると、ぎゅっと両手で握りしめた。再度亘の体が硬くなる。
「元気出して! 大丈夫、亘は一生懸命やったんだもの。次はきっと勝てるわ!」
「‥‥‥‥‥‥」
「負けた悔しさをバネに頑張ればいいじゃない。なんならお姉ちゃんがつきあってあげるから、ね? また頑張ろう?」
 ぱしっ
 亘が沙希の手を振り払った。思わぬ反応に、沙希は微笑んだまま硬直する。
「‥‥‥てるよ‥‥」
「え?」
 聞き取れなくて、少し身を寄せる。亘が顔を上げた。
 にらみつけるように。

「おれ、頑張ってるよ!!毎日遅くまで練習してるだろ!?今日だって精一杯やったんだよ!!」
「亘…」
「頑張ってるよ…」
 亘はうなだれて言う。沙希の顔が青くなっていった。そうじゃない、そんなことを言いたかったんじゃない。でも沙希の声はひからびたかのように音にはならずに。
「だ、だって!…その…だから…」
「…姉ちゃんなんか…」
 上手く言えない。拳を握りしめた弟の目には、うっすらと涙が浮かんでるように見えた。
姉ちゃんなんか大嫌いだ!!!
 力一杯そう叫んで、沙希の顔を見ずにバスへと走っていく。すでに全員が乗り込んでいて、亘が乗り込むと間もなくエンジンをふかせて発進した。
 沙希は呆然としたままそこに立ちつくしていた。指の先まで自分の体ではないかのように動かない。
 不意に肩を叩かれて、怯えたようにびくっと反応する。振り返ると彩子と望が、ばつの悪そうに立っていた。
「Don't so mind…気にしない、こういうこともあるわよ」
「ちょっと負けた後だからさ。カリカリしてたんだよ、彼」
「う、うん。気にしてないよ…」
 沙希はなんとか笑顔を作ろうとするが、うまくいかなくて何かゆがんでしまう。
「気にしてない…」

 せっかく総合運動場まで来たからということで、望につきあわされて全員体育館に入る。中のトレーニングルームにはベンチプレスやらバーベルやらが並べられ、彩子はあまり芸術的感情を刺激されなかったのか肩をすくめた。
「こういうときは体動かすのが一番!スカッとして嫌なことは忘れよう」
「で、でもっ!」
 目の前で見た弟の顔。泣き出しそうだった。自分のせい?自分のせいだ。
「わたしが、無責任に頑張れって言ってたから…。そうよ、だいたいあのチームに入れって言ったのもわたしだったの。それでも亘はきつい練習にも耐えてたのに、なのに…」
「い、いや、そんなことはないと思うぜ」
「でも望ちゃんも!」
 沙希が真剣な目で望を見る。ちょっと気休めを言える雰囲気でも、そういう望の性格でもなかった。
「ま、まあ…。プレッシャーになっちゃうってことも多少はあると思うよ、そりゃ」
「うん…」
「ナ〜ンセ〜ンス!」
 いきなりの彩子の声にそちらを向く。本人は体を鍛える気はないらしく、トレーニングルームだというのにベンチプレスにだらしなく寄りかかっていた。
「頑張れって言われたって実際に頑張るかどうかはその人のfree choice、自由じゃない。違う?別に周りのためにやってるんじゃないんだから、周りが何言おうが自分の思うようにやったらいいのよ」
「そ、そりゃそうだけどさぁっ!」
 思わずムッとして望が言う。
「誰もが彩子みたいに傍若無人でカエルの面に小便な人間じゃないんだよ!」
「ハハーン? 納得できない結果だからって周りの応援のせいにするのはお門違いってもんよ」
「んなっ…!」
「ふ、2人ともやめてよぅっ」
 公共施設でケンカを始める2人に、あわてて沙希が止めに入る。
「わたしが悪かったの!わたしがちゃんと亘の気持ちを考えてればこんなことにならなかったんだから。家に帰ってちゃんと亘に謝るから。ね、ねっ?」
「ま、まあ沙希がそう言うなら…」
「そーやって自分一人悪者になって収めようってのがサッキーの良くないとこねー」
「おまえはしゃべんな!!」
「お、落ち着いてよ…他の人だっているんだし…」
 とにかく弟に謝ろう。彼を追いつめたのは事実なのだから。

「ただいまー」
 沙希が帰ってくると、料理上手の祖母が夕飯の支度をしているところだった。
「おやお帰り、亘も今帰ってきたとこだよ」
「う、うんっ」
 祖母と両親と弟と柴犬が沙希の家族の全員である。沙希が素直に育つだけあって和やかな家庭で、そういえば姉弟ゲンカもほとんどした覚えがない。
「亘、いる?」
 亘の部屋のドアをノックするが返事がない。開けようとしても開かない。カギなんてついていないので、向こうからなにか重しがしてあるようだ。
「はぁ…」
 ため息をついて沙希はすごすごと自分の部屋へ引き返した。夕飯になれば弟も出てくるだろう。
 そしていつものような楽しい食卓。弟は出てはきたが、ぶすっとして沙希の顔を見ようとしなかった。両親も祖母もまあそういう歳だからということで気にもせず、一人沙希だけがやきもきしていた。
「ああ、とうとう沙希も明日で17歳だねぇ」
「う、うん。そうね」
「来年の今ごろは大変だろうから、明日は2年分くらいお祝いしないとな」
「沙希は何が食べたい?」
「え〜〜〜っと」
 母の問いかけに、沙希はちらりと弟を見る。
「ね、ねぇ。亘は何がいいかな」
「…なんでおれに聞くんだよ」
「え、あ、あはははは」
 なるべくさりげなくしようとしているのだがどうにも上手くいかない。それが弟を苛立たせているのだろうということはわかってはいる、わかってはいるのだが…。
「あ、ねえ、ミートボールもう1個あげようか?お姉ちゃんもうお腹一杯で…」
「ごちそうさまでした!」
「わ…わたるぅ〜〜〜っ」
 さっさと食器を片づけてずかずかと出ていく弟。情けない声を出す沙希に、残り全員は素知らぬ顔で箸を動かしていた。
「まぁ、若いうちは色々あるからねぇ」
「そうそう、これも経験だね」
「そんな無責任な…」
 結局その後テレビを見ているときも、お風呂から上がったときも亘に無視されて、ようやくつかまえたのはもう寝る直前だった。パジャマ姿の弟が部屋に入ろうとするのを、同じくパジャマ姿の姉が駆け寄って呼び止める。
「待ってよ、亘!」
 ノブに手をかけながら、こちらを向いた顔はやっぱり嫌そうだった。
「…何だよ」
「ごめん!お姉ちゃん反省してる!」
 とにかく誠意を持って謝るしかない。沙希はそう思い、弟に手を合わせる。
「亘の気持ちも考えないで勝手なこと言ってたよね。ごめんね。もう無理しなくていいから、ね?」
 弟はうつむいていた。駄目だったらしい。何もしない方が良かったのだろうか?
「…頑張らなかったら、おれレギュラーから落ちちゃうよ…」
「わ、亘…」
「どうしろって言うんだよ!!」
 ドアを開けて沙希の目の前から消えようとする。必死に腕をつかんで引き留めようとするが、いとも簡単に振り払われた。
「…ごめん、亘…。ごめん…」
「誰も謝ってくれなんて言ってないよ!!」
 もうどうしたらいいか解らない。本当に、これでも姉なのだろうか。
 しばらく廊下に沈黙が流れ、ふと亘がぼそりと口にした。
「…姉ちゃん、明日誕生日だよな」
「う、うんっ」
 少しだけ期待を込めて顔を上げる。だが弟の視線は別に友好的なものではなかった。
「昔から全っ然進歩ないよな!無駄に年食ってる!!」
 バタン!!
 沙希の眼前で乱暴にドアが閉められる。
 しばらく沙希はその場に立ちつくしていたが、しばらくしてよろよろと自分の部屋に入ると、叱られた子供のように頭までベッドに潜り込んだ。



☆1月13日

 如月未緒はいつものように鳴る寸前の時計を止めると、規則正しく朝の行動を始めた。朝食を食べ、髪をとかし。しかしすべて準備が整ったところで、今日だけは小さなプレゼントの包みを鞄の中に入れる。
「(沙希ちゃん、受け取ってくれるかな…)」
 そんなことを考えて思わず未緒は苦笑した。いささか自虐的に過ぎる。あの沙希が、自分に贈られたプレゼントを突っ返すなどということがあるだろうか?
「行ってきます」
 手袋をはめて外に出る。今日は冬らしく冷たい風が吹いていた。

 学校へ着いてみると、やはりというか沙希の周りには人だかりができている。人気者らしく皆から祝福される姿に、未緒は割り込めず少々ためらっていた。
「(…あれ?)」
 しかしよく見ると当の沙希は少しばかりいつものような元気がない。嬉しそうに笑ってはいるが、なにか無理しているように感じられるのだ。大勢から祝ってもらって恐縮しているのだろうか?
「(…やっぱり、迷惑かもしれませんね…)」
 そう考えてしまう自分と、そう考えてしまう自分が嫌な自分とを比べながら、未緒はとりあえず昼休みまで待った。教室にはいなかったので探して歩く。しばらくして体育館の2階の観客席で一人でぼーっと座っている彼女を見つけた。らしくない。何があったのだろう?
「沙希ちゃん」
「え? あ、み、未緒ちゃん」
 突然声をかけられて、あわててベンチから落ちかける。なにか怯えているようなものを感じたが、なんとも言えず未緒はプレゼントをポケットに隠したまま微笑んだ。
「誕生日、おめでとうございます」
「あ、ありがとう」
 未緒は隣に腰かける。眼鏡の奥からじっと見つめて、おもむろに口を開いた。
「何かあったんですか?」
「え!?別に何にもないよ。ほらこんなに元気元気!」
「…話してはくれないんですね。嫌なら無理にとは言いませんけど…」
 卑怯な物言いである。沙希としては「うん、嫌」とは言えるはずもない。しかし卑怯を承知で敢えて未緒は尋ねた。
 沙希はしばらく下を向いていたが、迷いのある口調でぽつぽつと語り始めた。
「あのね…」

「…そうですか…」
「やっぱりわたしが馬鹿だったんだよね。ううん、わかってるの。今日もみんな誕生日を祝ってくれるんだけど、なんだか申し訳なくて…」
 そこまで言って、あわてて手を振って釈明する。
「あ、べ、別にお祝いされるのが迷惑っていうんじゃないの。みんなの気持ちは嬉しいの。ただわたしにそんな資格あるの?って思っただけで」
 こんな風に自分に気を使う沙希が、未緒は少し寂しくもあった。彼女は自分のたった一人の親友なのだが。
「でも、沙希ちゃんは弟さんのことを思って言ったんでしょう?」
「うん…。でも結局、頑張れって言っても重荷にしかならなかったんだもの。なにか思い違いしてた気がする…」
「そうですね…」
 心の中に浮かんだ苛立ちを押さえるように、未緒はつとめて冷静に言う。
「『頑張る』なんてことはもともと無意味なんです。そんなこといちいち口にすることではないんです。結果が出ないのに『自分はこれだけ頑張ったんだから』という言い訳にしてる人が多いですね」
「そっ…そうかなぁ!?」
 思いがけぬことを未緒に言われて、沙希は少し声を大きくした。自分の思い入ればかり大事にしてたのは間違いとはいえ、それはちょっと違うと思うのだが。
「でもわたしは、結果なんてどうでもいいと思うな。自分が全力で頑張れたならそれでいいんじゃないかな?大事なのは頑張るってことなんだから…」
「…あなたは綺麗ですね」
 未緒の眼鏡の奥の瞳は、深い湖のように底が見えなかった。
「初めて会ったときからそうでしたね。誰にでも優しくて、思いやりがあって、他人もそうだと信じていて…あなたは、綺麗な所しか見ようとしないのですね」
 周囲の温度が下がったかのように寒気がする。自分を見つめる未緒の瞳に、吸い込まれるような錯覚を覚える。
「世の中はあなたが思っているほど綺麗ではありませんよ。
 美しい部分だけ見て綺麗事を並べる人は…あまり好きではありません」
 沙希は立ち上がると、逃げるようにその場から走り去った。後ろで遠くを見つめてる未緒を振り返ろうともしなかった。

 そんな風に思われてたなんて。親友だとばかり思ってた。自分が良かれと思ってやっていることは、未緒には、亘には、みんなには迷惑でしかないのだろうか?
「きゃっ」
「おわっ!」
 前を見ないで走って人にぶつかる。いつもこうだ。
「ご、ごめんっ! ごめんなさい!」
「いてて…あ、いたいた。おーい、彩子」
「あ…」
「どこ行ってたのよ。探したわよ…サッキー?」
 ふと自分が泣いてることに気がついた。あわてて目をこすって、元気よく笑おうとする。
「え、えへへ、ちょっと転んじゃって。ドジだね、わたし…」
「‥‥‥‥‥」
 見ていて痛々しい。望も彩子も、沙希のためになにかしたいという気持ちは変わらないのだが。
「…まだ、昨日のこと気にしてるのか?」
「え? そ、そんなんじゃないよ。ただわたしに思いやりがなかったから…」
「やめろよそういうの! 沙希が思いやりがないなんて言ったら、思いやりのあるヤツなんていやしないよ」
 そうじゃない、別に思いやりでも、綺麗なことでもないのだ。ただ周りが幸せだと嬉しいから優しくしたいし、頑張ることは貴重だと思うから応援したい。当たり前のことなのだ、別に意識してるわけじゃなくて、当たり前の。
「サッキーは私なんかに比べたらずっと偉いわよ。お願いだからそんな風に言わないで、ね?」
「…偉くなんか、ないよ…」
 当たり前のことだった。特に考えてたわけではなく、当たり前の。
 でもそれなら自分は
 自分は何?

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。沙希が心配ではあるが、あまりしつこくしてもいいものだろうか?
「サッキー、根性でしょ!」
「そうだぜ、根性!」
「う、うん。そうよね」
 既に5時間目が始まっている。それだけ言うと、3人はそれぞれ自分の教室へ戻った。2人とも大事な友だちだった。心配かけたくなかった。だから沙希が口にしたのは、2人が見えなくなってからだった。
「根性なんて、なんの役にも立たない…」

 未緒の言うとおりかもしれない。自分の言ってたことは綺麗事かもしれない。
 根性ですべて解決するなら、誰も苦労はしないのだ。
(昔から全然進歩ないよな)
 自分はいったい何だろう? 考えたこともなかったけど。
 自分のやってきたことは間違いだった?


「マネージャー、誕生日くらいゆっくりしてていいよー」
「う、ううん。これがわたしの仕事だもの」
「虹野さんは本当に熱心だなぁ」
 サッカー部の部室で、みんなの練習メニューを作っている。熱心に打ち込まないとやっていられなかった。
(『これだけ頑張ったんだから』という言い訳のために)
 未緒の言葉を思い出して気が滅入る。今の自分はまったくその通りかもしれない。
「俺たちも虹野さんに負けないように頑張らないとな!」
「へーいへい。それじゃ、マネージャー」
「う、うん…」
 今は『頑張って!』と言える気分ではない。もちろんみんなの頑張りが自己満足とは絶対に思わないが。
 でも
 でも自分とみんなとそんなに違うのだろうか?同じ部活の仲間だと思ってたけど。
 自分のやっていることは、そんなに悪いことなのだろうか?
「…未緒ちゃんのバカ」
 思わずそう口にしてしまい、あわててはっと口をふさぐ。周りに誰もいなかったとはいえひどいことを言ってしまった。おまけに噂をすれば影で、部室のドアをノックして未緒が入ってくる。
「み、未緒ちゃん!?」
「…少々、よろしいでしょうか?」
 3歩ほど後ずさる沙希を見てさすがに嫌われたと思ったか、未緒は寂しそうに微笑んだ。沙希がこくこくとうなずく中、少しだけ気まずい沈黙が流れる。
「ええと…お誕生日おめでとうございます。これ、受け取ってもらえますか?」
「え!?」
 今日の未緒の行動は沙希を混乱させてばかりだ。目の前に差し出されたリボンのかかった箱をおそるおそる受け取る。
「あ、ありがとう…。わたしのこと、嫌いじゃなかったの?」
「はい? 誰かそんなこと言いましたか?」
「‥‥‥‥‥‥」
 からかわれているのだろうか? 未緒から渡されたプレゼントは木でできたスプーンセットで、沙希は思わず抱きしめる。
「ありがとう!嬉しい…」
「いえ…」
 また少し沈黙が流れる。未緒は沙希を見たまま、静かに口を開いた。
「さっきはすみませんでした。酷いことを言ってしまって…」
「う、ううん。未緒ちゃんの言うとおりだもの」
「そうですか?」
 眼鏡の奥の瞳が沙希を見つめている。プレゼントを抱きしめたまま、沙希は思わず硬直する。
「私の言うとおりなんですか?」

 未緒の口調は静かだったが、それだけに逃げを許さなかった。沙希は混乱する頭を必死で整理して、午後の間ずっと考えてたことを口にする。
「ええとね…。うん、そうだよね。わたしの言ってたのって綺麗事かもしれない」
「ええ、そうですね」
 今までずっと、ずっと自分を嫌いながら生きてきた未緒には。沙希のそういう一面がどうしても見えてしまう。
「頑張るとか、信じるとか、強くとか自分らしくとか、みんな綺麗な言葉ですね。でも光があれば影もあるんです、絶対」
 言葉だけなら簡単だ。でもそれは現実にどう繋がる? どんな意味を持つ。
「意味なんてないかもしれないね…。でもね!
 でもわたし、やっぱり頑張らないよりは頑張る方がいいと思う! 亘のことは反省してる。でも、だからって何もしないのは嫌なの。それじゃ何をしたらいいのかって言ったらまだわからないけど、やっぱり頑張る方が好きだと思う。そのために何かしたいなって思う」
 頑張るという言葉も根性という言葉も、それだけで済むほど人間は簡単じゃない。でもそれを否定してしまったら、自分に何が残るのだろう?
「何か変かな? 間違ってたら直すから、わたしそんなに頭よくないから。
 未緒ちゃんが迷惑ならやめる。だから本当のこと言って。わたし…」
 未緒は黙って沙希の手を取った。言葉というのは難しい。でも伝えなくては始まらない。
「…あなたのこと、好きです」
 きょとんとする沙希に、未緒はにっこりと笑いかけた。
「最初の頃は嫌いでした。あなたが私に話しかけたのも、同情からだろうと思ってました」
 いつも一人で本を読んでいた未緒に、唯一話しかけたのが沙希だった。同情と言われるとそうかもしれない。しかし無謬の善意などあるのだろうか? 何もしない方がいいのだろうか。
「でも結局あなたに惹かれてます。私は嫌な女の子だから、あなたのする事にも偽善かもと思ってしまいます。それでもやっぱり惹かれるんです。あなたは、綺麗だから…」
 何と答えていいのかわからず、沙希はそのまま下を向く。
「わたし、別に綺麗じゃないよ…」
「あなたのこと好きです。今日お祝いしたみんな、あなたのことが好きなんです。完璧な人間なんていないと思います…。私も、自分にできることをしますから」
 昼休みにあんなことを言って、承知の上だったけどやっぱり後悔してた。
 でも沙希は自分で答えを見つけてくれた。だから今はこれだけで十分。
「未緒ちゃん…」
「…他に何も言えないけど…。よかったら、ずっとお友だちでいてくれますか?」
「う…うんっ!」
 彼女の純粋な心が、どうかいつまでも守られるように。たとえどんなに否定しても、それはやはり救いだから。


「ふーん…」
 帰り道。沙希の話を聞いて、さすがに2人も考えこんでいた。
「でもあたしは結構励まされてるよ。沙希が応援してくれてさ」
「ほ、ほんとに?」
「ああ」
「当たってみなきゃわからないわよね」
 もちろん相手の気持ちは考える。それが大前提。
 でも他人の本当の気持ちなんて、神様でもないとわからない。そんな時どうしたらいい? 少しだけ、答えが見えただろうか。
「ま、そんな難しく考えても仕方ないわよ。フランクでいきましょ」
「あ、あはは。そうだね」
「彩子はもうちょっと遠慮しろよな」
「ワッツ、何言ってるのよ、親しき仲に礼儀ナシって言うじゃない」
「あのなぁ!」
「まぁまぁ…」
 駅まで来て別々のホームに別れる。鞄の中には2人からのプレゼントが入っていた。健康用の小さなダンベルと、写真立てに入った風景画。
(お祝いしてくれた人たちみんな、あなたのことが好きですよ)
 それだけが今の自分の拠り所。みんなに好かれたい。みんなを好きでいたい。
「沙希、頑張れ!」
 ぱしっ、と頬を叩くと、沙希は幸せそうに電車に揺られるのだった。


「おかえり、亘」
「…ただいま」
 今日も亘は遅くまで練習してた。帰ってもよかったのだが、残って練習してきた。別に沙希のためじゃない。自分のためだと思いたいけど。
 もうみんな待っていて、急いで風呂に入って着替えてくる。沙希の誕生パーティがつつましやかに行われ、ぶすっとしながらおめでとうを言った。沙希が嬉しそうにお礼を言うので、いささか調子を狂わされる。
 何事もなく夕食が終わり、何事もなく夜が更ける。練習で疲れた体を伸ばして、寝ようとしたところにノックが聞こえる。
「ねぇ、亘」
「…何だよ」
 亘が渋々顔を出すと、17歳になった姉が立っていた。照れくさそうに頭をかきながら。
「え、えへへ…。ええとね」
 決意は簡単。問題は実行。
 でも沙希も沙希なりに考えたのだ。
「ええと、亘のことちゃんと考えてなかったのは謝るね。ごめん。
 お姉ちゃん、人のことをどうこう言う前に自分のこと考えようと思う。でもやっぱり、何でもいいから亘の力になりたいな」
「‥‥‥‥‥」
「だからお節介でも亘のこと応援する。わたしがそうしたいから。嫌だったら言ってね。そうじゃないならやめないから」
「だ、誰も応援してくれなんて言ってないだろ!」
「嫌?」
「い…嫌だとも言ってないけど…」
 顔を見られたくなくて後ろを向く。誰だ、この姉に余計な知恵をつけたのは。いきなりこんなこと言われて立つ瀬がない。
「べ、別に…姉ちゃんの好きにすれば…」
「良かった…」
 ほっと安心したように沙希は胸をなで下ろした。かなりのエネルギーを要した。心地よい疲労感とともに、弟の頭をそっとなでる。
「姉ちゃんはいい子すぎるんだ…」
 亘がぽつりと言う。そうなのだろうか? そうじゃないと思う。
「そうじゃないよ…。でも悪い子よりはいい子になりたい。周りを傷つけるよりは幸せにしたいな…。お姉ちゃんはそうなりたい、そうなれるように頑張るから」
「‥‥‥‥‥‥」
「亘のこと…大好き」
 かぁっ、と頬が赤くなる。おやすみという声とともに背後で静かに扉が閉まった。
「なんだよ、姉ちゃんなんて…」
 小さくつぶやいて、急いで電気を消した。今の自分を隠すように。
 ずっと前から用意してたプレゼントが、静かに机に乗っていた。



☆1月14日

 いつもの朝。寒いので急いで着替える。
 虹野沙希。17歳の普通の女の子。料理以外これといった取り柄もなくて、ドジでおっちょこちょいで、でも心だけでも誇れるようにしたい。誰でも持ってるもの、だから自分も…。
 朝日が射し込んで、まだ眠いまぶたに虹を作る。
 希望。大好きな言葉。それさえあれば前に進める。昨日見つけた。みんなから受け取った、だからもう大丈夫。
「…姉ちゃん、起きてる?」
「あ、うん」
 ドアを開けると弟がためらいがちに立っていた。なに?と聞く前に、ぶっきらぼうに包みを差し出す。
「…わたしに?」
「遅くなっちゃったけど…。べ、別にただのついでだけどさ。ちょっと買い物の用事があって、それで…」
 最後まで聞けなかった。体が勝手に動いて、目の前の弟を思いっきり抱きしめた。
「ばっ…な、なにするんだよっ!放せよ!!」
「ありがとう…亘ぅ…」
 なんでこんなに嬉しいんだろう?ううん、嬉しくて当たり前。
「放せってばっ!」
「ね、ねえ、開けていい!?開けるよ!」
「勝手にしろっ!」
「う、うんっ!」
 中から出てきたのは虹の柄の入ったハンカチ。小学5年生の小遣いで、きっと一生懸命選んだ。
「嬉しい…。一生大切にするね!」
「べ、別に安物だよっ!だいたい姉ちゃんは大げさなんだよ!」
「えへへ、だって嬉しいもの」
 真っ赤になった弟が、ぱたぱたと逃げるように階段を下りていく。朝日にハンカチをかざしてみた。虹の向こうに希望が見える。
「亘、待ってよぉ」
 後を追って下りていく。たとえ小さな力でも。
 自分が、みんなが頑張れるように。 きっと架かってる、Hoping Rainbow.







<END>






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