「庶民は無駄なことをしたがるものだな。はーっはっはっはっ。では、失礼するよ」





「‥‥‥‥‥」
 外井の運転する車の中で、私の周囲50cmだけがブラックホールのようにどんよりと黒く染まっていました。
「そんなに落ち込むなら言わなければいいではありませんか…」
「‥‥‥‥‥‥」
 今日もまたあの人に嫌われました。
 たぶんもう私の顔なんて見たくないと思っているでしょう。それでいいんです。嫌われてしまえば楽に…
(‥‥‥‥‥苦しい)
 楽だなんて嘘。嫌われるのも憎まれるのも、考えただけで心臓に針が突き刺さるように痛い。「近寄るな」って言われるくらいなら、まだ何も言われずに遠くから見ていた方がいい。
 でも最初から叶わない恋なんです。あの人と私では住む世界が違うんです。だから…
 断ち切らないと、いけないんです。
「レイ様、到着いたしました」
「はい…」
 心配そうな外井の視線から逃げるように、私は屋敷へと入りました。
「お母様、ただ今帰りました」
「お帰りなさい、レイ」
 膝をついてふすまを開けると、お母様は生け花をさしています。
「学業の調子はどうですか」
「は、はい。次のテストに向けて勉強中です」
「今度こそ一番を取らないと駄目ですよ。あなたは伊集院家の人間なのだから…。それからあなたが女だと誰にも気づかれてはいないでしょうね」
「…はい…それは大丈夫です」
「伊集院家の伝統ある家訓ですからね。きちんと守らないと。それにあなたの学校にいるのはくだらない男ばかりですから。もっとましな学校に行かせたかったのにお父さまったら…」
 早く部屋に戻りたかったのですが、お母様の言葉が終わるまで待たなくてはなりませんでした。
(くだらない男ばかりではありません。知りもしないのに勝手なこと言わないでください)
 そう言えない自分がたまらなく情けなくて。
「それでは、くれぐれも家の名前を汚すことのないようにね」
「はい…」
 部屋に戻るとぐったりとしてベッドに横になります。
 こんな思いをするくらいなら、心なんて死んでしまえばいいのに…


「それでは、今日はここまで」
「ありがとうございました…」
 日曜日も家庭教師の先生が来て一日中勉強です。伊集院家を継ぐためには仕方のないことらしいです。
「はぁ…」
「あ、レイ様」
 お昼休みに自分の部屋に戻ると、昼食の準備をしていたメイドの茜が駆け寄ってきました。
「今日はまだあの方からの電話はないようですよ」
「そ、そう…」
「たぶんまたお昼の時に…」
「茜!」
「す、すみませんっ」
 茜を叱る自分がまた嫌になりました。だって本当はあの電話を心待ちにしている私を、私自身が消すことができないのですから。
 Trrrrr
 息が止まります。部屋に鳴り響くベルを確かめるように何度も聞いた後、震える手で電話を取りました。
「…何だ、また君か。相変わらず暇なようだね。それじゃ僕の自慢話を…」
 嫌われなくちゃ…。あの人が私を嫌うように。
 案の定、電話はすぐに切れました。
「おい、待ちたまえ!」
 ツー、ツー、ツー、…
 声はほとんど聞けませんでした。ずっと楽しみにしていたのに。
「…もう少し話してくれたら、もう二度と電話なんてしたくなくなるようにできたのに」
「レイ様…」
 ぽたっ
 滴が落ちます。自分の弱さを示すように。
「どうしてあの人は、こんなに私を苦しめるんですか…?」
 ぽたぽたと止まらない涙が幾筋も頬を伝い、しかしいくら泣いたからといって気持ちが軽くなることもないのでした。
 こんな恋をした私自身が悪いのでしょうか。




(その後色々あるが中略
 そして3年目のバレンタインの日)


 これを渡して最後にしよう…
 そう思って作り始めたチョコレートは泣きたくなるほど不格好なものでしたが、とにかく完成させて学校へ行きました。『余ったから一つだけ分けてあげる』…そんな言い訳しか考えつかなかったのですが。
「伊集院てめぇ!俺を馬鹿にしてんのかよ」
 彼の剣幕に私の心臓は止まりそうになりました。怒らせてしまった。どうしよう。にじむ涙をこらえてぺこぺこと謝りながら彼のもとを逃げ出します。人気のない校舎裏で、渡せなかったチョコレートを抱きしめてずっと泣いていました。
 ブロロロロロ…
 外では私宛のチョコレートを積んだトラックが走っていきます。女の子達の思いを裏切るのを知っていながらどうすることもできない私。深くため息をつくと、とぼとぼと教室へと戻りました。

 帰宅すると行き場の無くなったチョコレートを茜に渡します。
「残り物で悪いんだけど処理してもらえないでしょうか…」
「レイ様…」
 見つめる茜の目は悲しそうでした。
「あの方にお渡しするんじゃなかったんですか?どうしてそのまま戻ってきてしまったんですか?…一生懸命作ったんじゃなかったんですか!」
「…もういいんです。もう彼には完全に嫌われてしまったし、これで諦めも…」
「レイ様!」
 茜の声にびくっと震えます。
「レイ様にこんなこと言う権利も資格もありませんけどっ、誰かを好きになるのが間違いなんてそんなこと絶対にないと思います!なんで何もしないで諦めちゃうんですか!?」
「‥‥‥‥」
「これ、受け取れません。私も外井さんもレイ様のお祖父さまも、きっとあの方だって、みんなレイ様の幸せを願ってるのに、肝心のレイ様がそれでは誰も報われないです…」
 最後の方は泣き声になって、茜はチョコレートを私に押し返しました。
「生意気言って済みませんでした。失礼します」
 ぺこりとお辞儀して足早に部屋を出ていきます。閉まる扉の音を聞きながら、私は手に残ったチョコレートをじっと見つめていました。

 卒業式の日。今日が最後の日です。3年間耐えてきて、今日さえいつも通りに過ごせば私は女の子に戻れます。
 でも戻ったとして私の望んだ姿になれるわけではありません。お母様の言いつけ通りアメリカへ行き帝王学を学び、伊集院家の後を継いで…大嫌いな今の自分のまま。
「おはようございます、レイ様」
「おはよう、茜。実は頼みがあるんだけど…」
 お母様に逆らうのは怖い。ずっと家に従ってきた私だから。私はとんでもないことをしようとしているのかもしれない。
 それでも何度も何度も考えて、ようやく出た結論でした。
「女の子の制服を持ってきてもらえませんか?」

「茜、誰もいませんよね?」
「は、はい」
 こっそりと、お母様に見つからないように…
「レイ!?なんですかその格好は!」
「きゃっ!」
 おそるおそる振り向くとお母様が憤怒の形相で立っていました。
「家訓を平気で破るなんて…。私はそんな娘に育てた覚えはありませんよッ!」
「お、お母様…っ」
 消え入りそうな声だったけど、私は必死で抵抗しました。
「お願いします、見逃してください!このまま何も伝えられずに卒業するなんて私には…」
「…ええわかっていますとも、あの男のためね。私がなにも知らないとでも思っているの?自分で間違いに気づけばと思って放っておいたけれど、あんなどこの馬の骨とも知らない男に熱を上げるなんて少し買いかぶり過ぎていたようですわね。構わないわあなたたち、レイを部屋に連れ戻しなさい!」
「はっ!」
「嫌っ…」
「レイ様ぁっ!」
 お母様の命令で黒服たちが私と茜を取り囲みます。ああっ、やはり駄目だったのでしょうか?せっかく最後に決心できたのに…
「フォォォーーーッ!」
「ぐはぁっ!」
「!?」
 突然目の前の黒服が吹っ飛びました。その向こうに見えた太い腕は…外井!
「レイ様、ここはこの私におまかせを!」
「で、でもっ」
「外井!あなた私に逆らってただで済むと思っているのですか!」
「残念ですが奥様、自分の首のためにレイ様を裏切るこの外井ではありません!茜殿レイ様を早く!」
「は、はいっ!」
「きゃ…」
 茜に手を引かれて外へ飛び出します。後ろでは激しい闘いの音が遠ざかっていきました。ああ、ありがとう外井…
「レイ様、自転車乗れますかっ?」
「いえ、車にしか乗ったことはないので…」
「それじゃ私がこぎますから後ろに乗ってください!」
「は、はいっ」
 茜の運転する自転車は軽快に走り出します。もうこの家には戻れないかもしれないけど、不思議と後悔がなかったのはもっと大事なものを知ったからかもしれません。



 茜に何度もお礼を言うと、誰もいない校門をくぐります。この制服で学校に来られるなんてまだ夢のようでしたが…
 みんながお喋りしてた玄関や、廊下や、教室は今は卒業式なので空っぽです。あらためて二度と戻らない3年間を無駄にしたことに涙がこぼれそうになりながら、それでも私はもう泣くまいと決めたのでした。


『伝説の樹の下で、待っています』


 いつも楽しそうだった彼の机。本当はそばに行きたかったその机に手紙を忍ばせて、私はそっと校舎を出ます。目の前に広がる伝説の樹。
 自分にこんなことができるなんて。まだ少し信じられません。
 でも今まで大嫌いだった自分が少しだけ好きになれたのだから、もう彼に嫌われる必要もないのだから、せめて少しでも希望は持とうと、そう思う私でした。
 彼がこちらへ駆けてきます。

 彼に見せられるようになった本当の自分を…




<END>



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 茜と外井さんはその後伊集院家を追い出されたものの、茜はレイの祖父に引き取られ、外井さんはきら校の用務員となり男子生徒の肉体を目に焼き付けながら幸せに過ごしているとのこと(笑)
(レイの祖父伊集院光輝は伊集院家とは距離を置き、ために一高校の理事長でおさまっている…という設定。ノーブルランチ参照)

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