この作品は小説「マリア様がみてる」(今野緒雪/コバルト文庫) の世界及びキャラクターを借りた二次創作です。
※2巻まで読んだ時点で浮かんだネタなので、いばらの森のクリスマスとはパラレルワールドと思ってくだされ。
――こんな場所に、身を置くとは思わなかった。
クリスマス前のファンシーショップ。色とりどりの商品を手に、笑いさざめく女の子たちの中で、小笠原祥子はそんな感想を持った。
本来、クリスマスのお祭り騒ぎに対してはあまり好意的ではない。
宗教的意義についてどうこう言うつもりはないが、それにしたってねじ曲げすぎだ。皆がそうだからというだけで意味もなく浮かれるなど馬鹿馬鹿しい。そんなわけで昨年までは、世間の風潮など無視して頑固に普段通りの日を過ごしていた。
それが今年は、なぜこんなことになったかといえば…
親の仕事関係から、クリスマス第九コンサートのチケットが3枚手に入って
捨てるのも勿体ないので、受験勉強中である姉の慰労を兼ねて出かけようかということになり
それならと妹を誘ったところ、あまりにも喜ぶものだから
プレゼントくらい用意してもいいかと――そんな気になってしまったのだ。我ながら甘いこととは思うけど。
「ねえ、令。一体どういうものを買えばいいの?」
勝手の分からぬ店内で、なるべく小声で案内人に尋ねる。
クリスマスは編み物が定番の彼女も、何年も続くとさすがにネタが尽きたらしく、今年は店で買うというので祥子も無理矢理ついてきたのだ。
「何でもいいと思うよ。祥子が贈るなら何だって喜んでくれるよ」
祥子の数少ない友人は、いつもの善良な顔で断言した。
「そうかしら。役に立たないものを貰っても邪魔になるだけだと思うけど」
「こらこら、そんな相手じゃないでしょ。少し想像してみるといい」
並ぶ人形に目をやりながら、言われたとおり想像してみる。
例えばこの何の変哲もない、ありふれたトナカイのマスコットを贈ったとする。
『お、お姉さまが私にですかっ!? ありがとうございますっ! 嬉しいっ!』
…たぶんあの子は、そんな風に言ってくれるだろう。
それは決して自惚れではなく、今までの日々から考えて、そんな光景しか浮かばなかった。
「あ、笑ってる」
勝手に口元がほころんでいたようだ。令に言われて、慌てて顔面を硬直させる。
「べ…別に笑ってなんかいなくてよ」
「まあまあ、いいじゃない。幸せそうでこっちまで嬉しくなる」
「笑ってなどいないと言ってるでしょう。ああもう、私はこれにするわ」
結局そのトナカイを手にして、足早にレジへと向かった。実を言えば、店に入ったときからちょっと可愛いと思っていたのである。
苦笑する令も後に続いて、会計を済ませてから外に出た。熱気から寒気への急転換に、思わずコートを引き寄せる。
綺麗にラッピングされた戦利品を鞄にしまおうとして、ふと令が声を上げた。
「あれ、一つだけ?」
「え?」
言われてみれば、令の手には二つの品が載っている。妹の分と……姉の分。
対して自分の手を見れば、大事そうに持った妹へのプレゼントのみ。
‥‥‥‥。
「ああ、紅薔薇さまの分はもう買ってあるとか?」
「まっ…まあねっ。き、今日は用事があるからこれで失礼させていただくわ」
「そ、そう? それじゃ、ごきげんよう」
「…ごきげんよう」
…何てこと。
心配そうな令に見送られながら、祥子はよろよろと歩いていく。目の前が真っ暗になりながら。
――本当、自分がこんな風になるなんて、まるで思いもしなかったのだ。
Priority
伝統と格式を誇るここリリアン女学園も、真冬の廊下が寒いのは他の高校と変わらない。
武嶋蔦子は購買で買ったパンを抱えて、大急ぎで教室へ戻った。
中に入ってまず目立つのは、やはり薔薇の妹たち3人だ。
志摩子と由乃だけだった頃は綺麗ではあるものの面白味がなかったが、最近は百面相の持ち主が中に入り、被写体としても実に興味深い。
さっそく蔦子はパンの袋を口にくわえて、カメラを取り出しパシャリとやった。
「もう、蔦子さん。また勝手に撮ってる」
「気にしない、気にしない。ところで皆さん何のお話中?」
3人とも机に弁当箱を並べていたので、蔦子も手近な椅子に座ってパンの袋を開ける。
「24日の話に決まってるじゃない。聞いてよ蔦子さん、どれだけ幸せなクリスマスになりそうかを」
「はいはい。相変わらず由乃さんのところは仲がよくて羨ましい」
「ふふふ。私もだけど、私だけじゃないのよね。ねえ祐巳さん?」
「ごほっ!」
パックの牛乳を飲んでいた祐巳は、むせ返って志摩子に背中をさすってもらう羽目になった。
「だ、大丈夫? 祐巳さん」
「へ、平気…。も〜、由乃さん。急に話振らないでよ」
「何言ってるのよ、大ニュースじゃない。ぜひ蔦子さんにも聞かせるべきよ!」
「そりゃあ、私も聞きたいなぁ」
にやにやと笑う蔦子と由乃に迫られて、しどろもどろで白状する祐巳。
「いや、だからね…。お姉さまが、一緒に、その…コンサートに行こうって、誘ってくれて」
「うわー」
笑い顔はそのままに、蔦子は大袈裟に声を上げる。
「祥子さまもやるわねぇ。さすが紅薔薇のつぼみ、やることが大胆でいらっしゃる」
「あら、それより祐巳さんを讃えるべきよ。出会って2ヶ月でもうクリスマスデートだもの」
「ち、違う違うっ! 紅薔薇さまも来るのっ! 別にデートじゃなくてっ!」
そうやって否定しながらも、やはり嬉しくて仕方ないのか、勝手に口元がにやけだした挙げ句、祐巳は真っ赤になって机に突っ伏してしまった。
「あ〜っ、もう、どうしよっ」
「どうしよ、じゃないわよ祐巳さん! 人生最大の晴れ舞台なんだから、バッチリ決めなくちゃ!」
「バ、バッチリって、由乃さ〜ん…」
そんな漫才を笑って眺めながら、蔦子は焼きそばパンの袋を開いた。
と、やはり二人を微笑みながら眺めている志摩子が目に入る。
「志摩子さんは? やっぱり白薔薇さまと一緒?」
「お姉さまなら女の子を集めてパーティするらしくて、あちこちに声をかけていたけど」
「まったく、あの人は…」
起き上がった祐巳が、とほほという顔で嘆息する。
「じゃあ志摩子さんもそこに行くんだ」
由乃の問いに、志摩子は柔らかく微笑んで言った。
「ううん、私は午後のミサに参加するつもり。クリスマスだもの、一日くらい神様と共にありたいでしょう?」
「…はい、そうですね…」
「…まったくもっておっしゃる通りで…」
後光のささんばかりの志摩子を前に、祐巳と由乃は気まずそうにぼそぼそとお弁当を食べる。我が身を省みてなんと俗世に汚れていることよ…。だがそんなの知ったことじゃない蔦子だけが、遠慮なく二人に向けてシャッターを切った。
「タイトルは『凡人の嘆き』」
「うう、蔦子さんだって同じでしょっ。そうだ、蔦子さんの予定をまだ聞いてない」
祐巳に言われて、きょとんと自分を指さす蔦子。
「私?」
「うんうん。クリスマスは誰か大事な人と過ごすとか」
「私は自分が一番大事だけど何か?」
「いえ…。そこまで堂々としているなら何も言いません…」
引きつった顔をしている祐巳に、蔦子は拳を振って力説した。
「言いたいことは分かるけどね。でも私にデートなんかしてる暇はないのよ。クリスマスよクリスマス。女の子たちがまさに絵になる季節! 街も飾り付けられるし、これを撮らずして何を撮りますか。雪が降ってくれればさらにシャッターチャンスなんだけどね。まあ季節ものは写真家の命ってことよ」
「ところで祐巳さん、その卵焼きは手作り?」
「うん、お姉さまのために料理の練習中」
「って聞けぇ人の話を!」
「蔦子さんて面白いわねぇ」
放課後もたまたま祐巳と一緒になり、引き続きイブの話となった。
「でもまあ、すごい進歩じゃない」
腕組みしてうんうん、と首を振る蔦子。
「今じゃ、祥子さまの写真で釣るなんて手は全然使えないわね」
「あはは…。でも本当、今年は後半になって激動だったなぁ」
確かに、今年前半に今の状況を予想しろと言っても、およそ無理な話だったろう。
蔦子はただの傍観者だったが、かなり良い席で傍観できたのだから上々だった。お陰様で薔薇さまやつぼみの写真も撮りやすくなったし。
「今年の福が一気にやって来た感じかね」
「うん。蔦子さんともお友達になれて良かった」
あまり素直に言うものだから、一瞬固まってしまった。
「友達? 誰が?」
「つ、蔦子さ〜ん…」
「冗談、冗談」
照れ隠しに早足で歩く。まったく、恥ずかしいことを真顔で言うんだから。
と、校門が見える位置まで来ると、美しさを絵に描いたような当の人物が目に入った。
「おや、噂をすれば何とやら」
「お姉さま!」
弾かれたゴム鞠のように飛んでいく祐巳。蔦子もやれやれと歩いていく。
祐巳を待っていたのか、向こうもゆっくりと近づいてきた。
紅薔薇のつぼみこと、小笠原祥子さま。何をしても絵になるという点では校内随一だと、写真部のエースとしてはつくづく思う。
祐巳が口を開く前に、祥子はちらりと蔦子に目を向ける。が、早く用事を済ませたかったのか、構わず祐巳に話しかけた。
「祐巳、クリスマスイブのことだけれど」
「はいっ! 準備は万端です! バッチリ決め…あわわ、ええ、すっごく楽しみですっ」
祥子は言葉に詰まったように見えた。
しかしそれは後ろにいた蔦子だから気づいたのであって、当の祐巳は何の疑問もなく話の続きを待っていた。
「…祐巳、怒らないで聞いてくれるかしら」
「ええ!? そんな、お姉さまの言葉に怒ったりなどいたしません! 何でもおっしゃってください!」
「…じゃあお言葉に甘えるけど。
祐巳、やっぱりあなたは来なくていいわ」
…青天の霹靂。
「…はい?」
「元々、私のお姉さまの慰労会ですもの。あなたまで巻き込む必要はなかったのよ。
あなたにも色々と予定があるでしょうし、誘いは撤回するわ。振り回して悪かったわね」
「な…」
みるみるうちに祐巳の顔が青ざめていく。いつもは百面相を面白がってる蔦子も、これじゃあ笑い事じゃない。
「あ…ありません、予定なんて全然! ええ、あったとしてもお姉さまの方を優先しますとも」
「いいのよ、必要ないわ。今回は私とお姉さまだけで行きます」
「あ、あの、私…何かお姉さまの気に障ることでもしたんでしょうか。だったら謝りますから…」
「誰もそんなことは言ってないでしょう! ただ予定が変わったって言ってるの、聞き分けのない子ね!」
怒鳴ってからしまったという風に口を押さえた祥子だが、時すでに遅し。
祐巳はなおも食い下がろうとしたのか、それとも笑顔で了承しようとしたのか、どちらにせよ果たせず、涙が勝手に目に浮かんでいく。
「あ…」
泣き顔を祥子に見られまいと、顔を伏せて走っていく祐巳。
寒風の吹く校門前で、蔦子と祥子だけが取り残された。
「…何よ」
「いいえぇ、別に」
憮然とした祥子に、蔦子も指で眼鏡を押し上げ、冷ややかな声で答えた。
「ただ感心していただけですわ。さすがは紅薔薇のつぼみ、普通はあそこまでできません」
「お黙りなさい。これは私たち姉妹の問題、部外者には関係なくってよ」
普通なら震え上がるようなぴしゃりとした声だが、蔦子は全然恐くない。どう見ても祥子の方に非があるのだから。
というか、本人も自覚しているようで、か細い声でつけ加えた。
「…私だって、悪いとは思っているわよ」
だったらしなけりゃいだろうに…。
呆れてそう言おうとしたが、祥子はその前に踵を返すと、黒髪をなびかせて歩き去ってしまった。
結局蔦子一人になり、祐巳が走っていった方を眺める。とっくに彼女の姿はない。
「…あーあ」
とんだ悲劇になってしまったが、蔦子としてはお手上げだった。
何しろ、自分はただの傍観者なのだし。
* * *
翌日。祥子の教室で、クラスメートがひそひそ話を交わしていた。
「どうしたのかしら祥子さん。今日は朝から塞ぎ込んでらっしゃるみたい」
「きっと私たちには想像もつかないようなお悩みがあるのよ。大変なお家を背負ってらっしゃるのですもの」
「ああ、でもああして悩んでいる姿もお美しいわ。ため息が出てしまいそう」
ため息が出るのはこっちの方だ…。と言いたいところだが、自分にそんな資格はない。
今ごろ祐巳は、ため息どころではない気分だろう。
「(ああ祐巳、許して頂戴。この償いはいつか必ずするわ)」
でも今は駄目だ。今そんなことを言いに行けば、決心があっさり覆されかねない。
自分を制御しなくては。
簡単に変心なんかしない。父や祖父などとは…違う。
何にも身が入らぬまま昼休みになった。気が重いが、祐巳が来ないことを姉に報告しなくてはならない。
逡巡する自分を抑え、毅然として席を立った。今さら逃げるわけにはいかない。
三年生の教室でも意に介さず、祥子はまっすぐ姉の元へ向かった。
「あら、祥子。どうしたの」
机に参考書を広げていた蓉子は、普段通りに祥子を迎える。その顔を見て、少し落ち着いた。
「イブのことでお話に参りましたの」
「ああ、楽しみねぇ。本当、悪いわね。チケットまで用意させてしまって」
「どうせ貰い物ですわ。感謝されるほどのことではありません」
「祐巳ちゃんと出かけるのは初めてだものね。あなたも楽しみでしょう?」
うっ。
一瞬帰りたくなるが、後には引けない。覚悟を決めて一気に言う。
「祐巳は来ませんわ」
その言葉に、蓉子は怪訝そうに眉を寄せた。
「あら、何か予定でもできてしまったの?」
『ええ、祐巳は用事があるんです』とでも言えれば、どんなにか楽だろう。
しかしそこまで墜ちたくはない。自分で決めたことは責任を持たなくては。
「私が言ったのです、来なくてよいと。考えてみれば、祐巳が来る必要はないのですもの」
今度こそ本当に、蓉子の顔色が変わった。
椅子を回して祥子の方を向き、厳しい顔で詰問する。
「ねえ祥子。今度はどんなつまらないことを考えたの」
「どういう意味ですの。私が何か間違ったことを言ってまして?」
「ええ、間違ってはいないわね。正しくもないけど。祐巳ちゃんが来ることに何の問題があるっていうの」
もちろん祐巳に問題はない。問題があるのは祥子の方。でもそれを口にはできない。
姉にまっすぐ見据えられて、祥子はつい声を荒げてしまった。
「お姉さまは、私一人ではご不満でらっしゃるの!」
教室中の視線がこちらに集中する。
蓉子はため息をひとつつくと、諦めたように言った。
「…分かったわ。あなたの決めたことなら何も言いません。誘ってもらう立場の私が、どうこう言えたことではないわね」
胸が痛い。
また、この人にこんな顔をさせてしまった。
「…お姉さま。私はお姉さまにご恩返しがしたいだけなんです」
「分かっているわよ、祥子」
そう言って微笑む蓉子に、少しだけ気が楽になる。そのための微笑みなのだろうけど。
「それではまた。ごきげんよう」
そう言って教室を出る。あと何度、ごきげんようを言えるだろう。
…今までずっと変わらずに来られたのに。
* * *
「ねえ、祐巳さんに何かあった?」
由乃と志摩子に同じことを聞かれたが、蔦子は黙って肩をすくめるしかなかった。さすがに昨日のことは人には言えない。
「まあ、そう落ち込みなさんなって」
「あ、あはは。落ち込んでないよ。だいたい話が上手すぎたのよね、クリスマスイブに祥子さまとだなんて。ああ、もしかして祥子さまの妹になれたのも全部夢だったのかもしれない…」
「おーい、戻ってこーい」
魂が空中を浮遊している祐巳には、何を言っても無駄らしかった。まったく、そもそも誘われたりしなければ、平凡でもそれなりのクリスマスを過ごせたろうに。
「(本当、祥子さまも酷なことをなさる)」
そうこうしているうちに放課後。
祐巳のことはどうしようもないので、自分の仕事に専念すべく、寒風の中を根性で柔道場へ撮影に向かう。
その途中、ゴミ箱を抱えて焼却炉へ向かう上級生に会った。
ロサ・キネンシス。薔薇さまの一人にも関わらず、優等生のこの人だけはこんな姿も妙に似合っている。
「ごきげんよう、紅薔薇さま。お手伝いしましょうか」
「ごきげんよう、蔦子さん。大丈夫よ、ありがとう」
それじゃ、と通り過ぎようとしたところで思い出した。そういえば、この人も当事者の一人だ。
「つかぬことを伺いますけど、紅薔薇さまは24日にご予定はおありですか」
「ええ、祥子と第九を聞きに行くことになっているの…って、もしかして祐巳ちゃんの件かしら?」
「正解です」
さすがに鋭くていらっしゃる。紅薔薇さまはゴミ箱を地面に置いたので、蔦子も向き直って直訴する。
「私が口出しすることではないのですけど、祐巳さんがああも落ち込んでしまうと、撮影する側としても困ってしまいます」
「ああ、やっぱり落ち込んでるのね…」
「ええ。祥子さまも虫の居所が悪かった…というわけではなさそうだし」
蓉子は少し遠い目をして、静かな声で言った。
「祥子もね、たぶん考えなくていいことを考えてしまっているだけと思うのよ。別に喧嘩したとかではないのでしょう?」
「そうですね。少なくとも祐巳さんは、前にもまして祥子さまに夢中です」
「祥子の方も似たようなものよ。表には出さないけどね」
あれ。それならどうして祐巳が排除される羽目になるのだろう。
一応祥子の言い分は、自分のお姉さまの慰労会だから…という理由だったけど。
…蔦子の頭の中に仮説が浮かんだが、少しばかり紅薔薇さまに失礼な仮説だったので、口には出さないでおいた。
「まあ、当日に問い詰めてみるわ。祐巳ちゃんに来てもらうには間に合わないけどね」
「当日はまっすぐ会場にいらっしゃるのですか?」
「開演は4時だから、喫茶店ででも少し時間をつぶしてからになるかしら。たまにはゆっくり話もしたいし」
「差し支えなければ、場所を教えておいていただけません」
「あら、キューピッド役を買って出るつもり?」
笑いながら言う蓉子に、蔦子はカメラを持ったまま腕組みする。
「さあて、どうしましょうね。祥子さまが考えを変えるとは思えませんし、それに…」
「それに?」
「果たして、祥子さまは祐巳さんのお姉さまに相応しいのかどうか」
祐巳が聞いたら飛び上がりそうな恐れ多い物言いだが、蔦子はいたって本気だ。どんな事情があるにせよ、祥子が妹に辛く当たったことに変わりはない。これでも蔦子は結構頭に来てるのだ。
紅薔薇さまは困ったように頬に手を当てる。
「気持ちは分かるけど、許してやって頂戴な。あの子も悪い子ではないのよ」
「そりゃあ、私が許すも許さないもありませんけど…ていうか、本人が来ました」
ずかずか、という感じで昇降口からやって来るのは、紛れもなく話題の人だった。
上を見上げる。そういえば、ここは二年生の窓から丸見えだ。
「蔦子さん、私のお姉さまと何を話していらっしゃるのかしら」
「何でもいいでしょう。薔薇さまと話すのに、妹の許可が必要でしたっけ」
「二人とも、落ち着きなさいな」
蓉子が苦笑して止めにはいるが、火花を散らす祥子の視線を、蔦子は何食わぬ顔でひょいとかわした。
「ええ、許可は必要ないわね。でもそうやって他人のことに首を突っ込むの、迷惑だって分かっていらっしゃる」
「刺々しいですね。なんか個人的に嫌われてません」
「当然でしょう。平気で盗撮まがいのことを行う人間に、どうして好意が持てて?」
「おーや手厳しい。否定はしませんが、何の非もない妹を傷つけるよりマシだと思いますけどねぇ」
「くっ…」
その場にハンカチがあったら噛みしめかねない悔しがりようだったが、すぐにつんと澄まして、勢いよく顔を背ける。
「何とでもおっしゃい。行きましょう、お姉さま」
「はいはい。ごめんなさいね蔦子さん、しようのない妹で」
「お姉さまっ!」
去り際に蔦子の耳に口を寄せてから、紅薔薇さまは焼却炉の方へ去っていった。祥子も半ば強引にゴミ箱の片側を持って、それに続く。
聞こえたのはとある店の名前。リリアンの生徒御用達の喫茶店だ。男子が入りにくい雰囲気なので、イブでも混んではいないだろう。
「…ま、念のため聞いただけだけどね」
言ってからくしゃみが出て、蔦子は震えながら柔道場へ向かった。
* * *
そして、12月24日。
終業式の後、お聖堂で全校集まってのミサ。それが終われば冬休み開始。山百合会の幹部たちは薔薇の館に集まり、令お手製のケーキでささやかなパーティを開いた。
祥子にとっては二度目だが、昨年は退屈ながらも楽だった。付き合いでそこにいれば良かったのだから。
今年は元気のない妹と、普段通り過ぎて考えが読めない姉と、二人をどうしても目で追ってしまい、せっかくのケーキの味も分からぬまま。
「そういえば、何だか元気がないわね」
蓉子の声にぴくりとするが、彼女が言ったのは聖に対してだった。
「それがさぁ。女の子を集めたのはいいけど、40人近く集まっちゃって」
「呆れた。無節操に声をかけるからでしょう」
「うう、しかも江利子まで来るって言うし」
「当然じゃない。イブでどこも予約が埋まっているところに、どうやって40人も入れるところを探すのか? こんな面白そうな見物は滅多にないわ」
「鬼だこいつ…」
三年生たちのそんな会話に下級生たちは笑っていたが、ひとり祥子だけが頭を抱えたい気分だった。こんな人たちが白と黄の薔薇だというのだから憂鬱になる。
まあ、この二人の良さも最近になって分かってきたけど、それでも蓉子がいなかったら今ごろ山百合会は空中分解していただろう。
「はぁ…、仕方ないわね。他に場所がなければ、ここを使いなさいな」
「え、いいの?」
「その代わり、ちゃんと届けは出すのよ」
「蓉子〜っ、心の友よ!」
「ちっ」
「くぉらあ江利子!」
また喧嘩を始める聖と江利子を、蓉子はコーヒーを飲みながら微笑ましそうに眺めていた。ほら、自分の姉のなんとしっかりしていること。リリアン一素晴らしいお姉さまだと、贔屓目でなくそう思うのだ。
…だから、自らもそれに相応しい妹でなくてはならないのに。
「それでは皆様、よいお年を。お姉さま、少々よろしいですか」
「ええ、いいわよ」
令と江利子が部屋を出た。由乃の目の前でプレゼントは渡せないという令の配慮だろう。
「由乃ちゃん、ご機嫌斜め?」
「とんでもありません。どうせ後で独占しますから」
聖のからかいにも、由乃は余裕の笑みで答え、挨拶をして出ていった。
聖と志摩子も、挨拶だけで相変わらず淡泊にその場を去る。
そして蓉子も。
「じゃあ祥子、また後でね」
「はい、お姉さま」
蓉子は祐巳にも意味ありげな視線を向けたが、結局ごきげんようとだけ言って部屋を出た
残ったのは祥子と祐巳のみ。
さすがに何も言わないわけにはいかない…というか、まず言うべきだった。
「…今日はごめんなさいね、祐巳」
「え!?」
少しびくびくしていた祐巳が、驚いて目を見開く。
「ひどい姉だと思っているでしょうね」
「めめ滅相もございませんっ! そんな、どうせ毎年家族クリスマスなんですから、予定通りになっただけですしっ」
落ち込んでいた反動で、本当に熱心に、自分は大丈夫だと訴える。
「だからそんな、お姉さまが気になさらないでください。お姉さまに嫌われたわけでないなら私はそれで十分です。その、だから…いつものお姉さまでいてくださいっ」
そう言って、ぺこりと頭を下げて、祐巳はばたばたと部屋を後にした。
…本当、しようのない子。
そう呟く口も、勝手にほころんでしまう。汚れた自分は変わらないけど、せめて言われたとおり、いつもの毅然とした自分でいよう。
可愛い妹。健気な妹。
今すべきはそんな妹に傾倒するのではなく、祐巳のそういうところを見習うことだ。
祐巳という妹ができて、色々なことに気づかされたけど…
その一つが、自分がいかに可愛げのない妹だったかということだから。
* * *
「祐巳さん、メリークリスマス」
「メリークリスマス、蔦子さん。改まってどうしたの?」
カメラ片手に駆け寄る蔦子。校門を出て少しの所で、なんとか祐巳を捕まえることができた。
「なんだ、思ったより元気そう。祐巳さんを慰めようと、色々企画を練ってたのに」
「まあ、いつまでも落ち込んでいられないしね。でも企画って?」
「クリスマスだよ・祐巳さん大撮影会」
「いい、遠慮しとく…」
「私が撮りためた山百合会幹部のアルバム観覧会つき」
「行く! 行きます!」
この前はあんなことを言ったけど、結局写真に釣られるあたりが祐巳らしいというか何というか。
話はまとまり、3時に街で待ち合わせることになった。
ひとまず祐巳と別れて家に戻りながら、自分でも何をしているのかと考えてしまう。クリスマスなんて、今までは外から撮影するためのもので、自身が関わるなんて考えもしなかった。
私服に着替えて、お昼を食べて、クリスマスの街にシャッターを切りつつ待ち合わせ場所へ向かうと、ぎりぎり待ち合わせ時間だった。
マフラーと手袋で武装した祐巳が既に来ている。
「冬らしい格好でよろしい。じゃあモデルの方よろしく」
「本当に私なんか撮るの?」
「ここまで来て撮らずにどうしますか。まず使用するフィルムだけど…トライXで万全。これを4号か5号で焼いてこそ味が出る」
「ごめん蔦子さん。私写真やってないから突っ込めない…」
そんなこんなでクリスマスの街を背景に撮影会を始めたのだが…
紅薔薇のつぼみの妹を射止めたシンデレラガールも、いざフレームに収めてみると、しごく平凡な女子高生でしかなかった。
「くっ、この蔦子さんとしたことが誤算だったわ。祐巳さん単独で撮っても全然面白くない」
「そりゃあ悪うございましたねぇ」
顔にタテ線の入った祐巳に目もくれず、蔦子は拳を握って悔しがる。結局、祐巳が映えるのは、祥子や他の誰かと一緒に笑っている時であるらしい。
「しゃあない。アルバム観覧会に移行しましょ」
「え、いいの?」
「まあね。やっぱり寒いし」
蔦子は祐巳を案内して、喫茶店に向かった。
祐巳を店の前に待たせ、きょろきょろと中を偵察してから、手で招き入れる。
「こっちこっち」
店員の案内を待たずにテーブル席に向かい、祐巳をカウンターに背を向けるように座らせた。
「蔦子さん?」
「ほらほら、これが一年生の頃の紅薔薇さま」
「ええーっ!? ていうか、何で蔦子さんがこんな写真を?」
「そりゃあ、高等部に侵入してたから」
口をぱくぱくさせて何も言えない祐巳のかわりに、蔦子は紅茶を2杯注文した。
祐巳も開き直って、この機会を逃すものかと食い入るようにアルバムをめくる。校庭、お聖堂、桜の下…リリアンのあらゆる場所で、蔦子が写し取ったあの人たちの姿。確かに存在しているそれに、涙まで浮かべんばかりの祐巳を見て、写真部のエースは実に満足だった。
そしてめくられたページにあったのは…マリア像の前。
「これ…」
静止している時間の中で、制服のタイを直す上級生と、直される下級生。
「ああ、祐巳さんには見飽きた写真だわね」
「見飽きるわけない。ここから始まったんだもの」
…そう。この一枚の写真から。
思えば、その始まりの本当に最初から、蔦子は関わっていたのだ。だからかもしれない。今回も柄にもなく首を突っ込んでしまったのは。
祐巳は感慨深げに、いつまでもその写真を見つめていた。
「馬鹿だなぁ、私。何を贅沢言ってたんだろう、イブを一緒に過ごしたいなんて。お姉さまの妹でいられるだけで、こんなに幸せなのに」
「謙虚ね、祐巳さんは。少しは頭にこないの」
「頭にって?」
「祥子さまに約束を反故にされて」
「と、とんでもないっ! 祥子さまにも事情があるんだろうし…それに、さっきも謝ってくれたし」
「あ…そうなの」
思わず拍子抜けした。なんだ、それなら自分が怒る理由なんてない。
「でも、その事情は話してくれなかったし、考えても全然分からないから…そこは自分が情けないけどね」
そう言って、あははと笑う祐巳に、蔦子は運ばれてきた紅茶をすすった。
「あ、写真に紅茶こぼさないでね。そんなことしようものなら百回は殺す」
「ほんとにしかねないね、蔦子さんは…」
「でまあ、祥子さまの事情だけど」
おそるおそる紅茶を飲む祐巳に、大したことではなさそうに話を繋ぐ。
「紅薔薇さまに気を遣ったんじゃない?」
「は?」
祐巳の頭にクエスチョンマークが浮かんでる。まあ、この人には想像の範囲外だろう。
「祐巳さん、祥子さまに誘われたとき、何が楽しみだった?」
「それは祥子さまと一緒にクリスマスを…あ」
「紅薔薇さまのことなんてどうでも良かったでしょう」
「いや、それはその……ねえ?」
それはまあ、クリスマスイブに誰かと過ごすなどと言われれば、一番大事な人で頭が占められるのは自然だけど。
「ああ、おかわいそうな紅薔薇さま。祐巳さんからも祥子さまからも疎んじられ、老兵はただ去りゆくか」
「蔦子さんっ!」
「冗談だって、そう怒りなさんな」
ひらひらと手を振る蔦子に、祐巳は困ったように言った。
「そりゃあ…世界中の誰よりもお姉さまが大事だけど、紅薔薇さまだって大好きだよ。本当に素敵な人だと思ってるし、疎んじるなんて、そんなこと――絶対にしない」
「まあ、祐巳さんはね」
というか、普通はそうだけど、祥子さまは普通じゃない。
「祥子さま、私がそんな風に考えるって思ったのかなぁ…」
「いやいや、祥子さまだって祐巳さんがどんな子かくらい分かってるわよ。私が言いたいのは、祥子さまがそうなんじゃないかってこと」
祐巳は一瞬きょとんとして、しげしげと蔦子の縁なし眼鏡を見つめた。
「蔦子さん、それって何か根拠ある?」
「んにゃ、単なる推測」
「なんだぁ。絶対外れだよ、そんなの。祥子さまがそんなこと考えるわけない」
「うん…思うわけないんだけどね」
誰もがそう思うような祥子だからこそ…
ほんの僅かでもそんな気持ちが生じたとき、一体どういうことになるだろう。
「まあ、人の心なんて分からないものだわ」
蔦子はそう言って、祐巳の肩越しに、気づかれぬようカウンター席へと視線を送った。
* * *
「順調よ」
「はい?」
「『受験勉強の調子は?』って、聞きたそうな顔をしているから」
喫茶店のカウンター席で、コーヒーの香りに包まれながら、祥子の姉はそう言って笑った。
「失礼な。こんな日に勉強の話を持ち出すほど野暮ではありませんわ」
「はいはい。そういうことにしておきます」
まったく、この人にかかれば何でも見通されてしまう。
予定では開演近くまで時間を潰して、お堅い自分たちらしくベートーベンの楽曲を鑑賞。クリスマスイブといっても品行方正なリリアンの生徒。終演後はまっすぐ帰る予定である。
既にプレゼント交換も済ませたし――結局、特注品のハンカチを贈ったけど――このまま予定通りに過ごせば何の問題もない。
「それにしてもなんだか申し訳ないわね。妹にここまでしてもらうなんて」
「お気遣いなく。忙しいのにかえってご迷惑ではなかったかしらって、心配していましたの」
「まさか。聖も江利子も羨ましがっていたわよ。祥子みたいな妹がいて羨ましい、って」
「そんな事…ありませんわ」
言いながら、つい視線を逸らしてしまう。
祥子が本当は何を楽しみにしていたか。
誰へのプレゼントを、まず第一に考えてしまったか。それを知られたら、この人はどう思うだろう。
…言えない。絶対に知られちゃいけない。
「あなたを妹にしてから、もう随分と経つのね」
コーヒーカップを手に、蓉子はしみじみと言った。
「そうですね。手のかかる妹で苦労されたでしょう」
「あら、あなたこそ意地悪な姉で、後悔しているのではない?」
「本当。お姉さまって私にだけ時々妙に意地悪なんですもの」
「いやねえ、愛の鞭よ」
顔を見合わせてふふと笑う。約1年半、こんな風にこの人と過ごしてきた。
それを今さら変えたくない。変わったなんて認めない。
…ふと、会話が途切れる。
蓉子はカップを置いて、ぽつりと言った。
「謝らなくてはいけないわね。この前の文化祭のこと」
「な…」
柏木優を王子様役にして、祥子の男嫌いを治そうとしたこと。
「あなたが柏木さんをどう思っていたか、まるで気づかなかった」
「それはっ…! 違います、私が言わなかったのだから…!」
もし蓉子が事情を知っていれば、まず却下したような馬鹿げた作戦だったけど。
でもそれは祥子の方が隠していたのだ。好きだった相手に告白する機会もなく終わったなんて、そんな惨めな事実、この人にだけは気づかれたくなかったから。
…そうだ。なのにその話を、祐巳にはあっさりしてしまったのだ。
不愉快に思われてしまったのだろうか。
祥子が固まっている間に、蓉子はカップを両手で挟んで言葉を続けた。
「あれから思うのよ。もしかしてあなたのお姉さまは私でない方が良かったのではないか。聖みたいなタイプの方が相応しかったのではないか…って」
「じ…冗談じゃありませんわっ! 何で私が白薔薇さまとっ!」
「ええ。でも私もあなたほどでないにせよ、完璧主義なところがあるでしょう? だから祥子も構えてしまうのかもしれない、とかね」
「それは…っ」
…当たってる、けど。
必死になって抗議しようとする祥子を、蓉子は笑顔で押しとどめる。
「でもね、だからこそ祐巳ちゃんがいてくれて良かったと思うのよ」
ずきん
姉の口から祐巳の名が出た途端、罪悪感が突き刺さる。
「近頃のあなたは、前よりずっと良くなったもの。私がやり残したことも、祐巳ちゃんになら任せられる。これで安心して卒業できるわ」
「どうして今、そんな話をなさるのですか!」
「それはね祥子。なのにあなた一人で抵抗しているからよ」
‥‥‥。
祥子は何も言えず、押し黙ってしまった。
そうだ、この人は…
いつだって、祥子のことなんてお見通しではなかったか。
クリスマスソングが流れる店内で、長く思える沈黙の後…
蓉子は妹を見て、優しく微笑んだ。
「祐巳ちゃんが好きだから、祐巳ちゃんを誘わなかったのね」
「‥‥‥」
「祐巳ちゃんがいると、彼女を優先してしまうから」
何も言えない。
気づかれた時点で終わりだった。お姉さまのプライドを傷つけた。自分がされたら、こんなこと絶対に許せない。
「…私は、不実な妹です」
言い訳はしたくない。膝の上でぎゅっと拳を握って、頭を垂れたまま姉の裁きを待った。
なのにその頭に置かれたのは、柔らかな手の感覚。
「馬鹿ねえ祥子。姉妹といっても、単なる先輩後輩の関係じゃない。恋人じゃあるまいし、私なんかに義理立てしてどうするの」
「でもっ…!」
顔を上げ、姉の顔を見られなくてまた目を伏せる。
でも、ただの先輩なんかじゃなかった。
蓉子が習い事を全てやめさせて、山百合会の手伝いに引き込んでくれたから、他の薔薇さまや令とも知り合えたし、本当に高校生でいることができた。
この人がいなかったら、学生生活なんて通り過ぎるだけの空虚なものにしかならなかった。
なのに祥子がしてきたのは、迷惑をかけることだけ。
自分が悪いのに逆切れして、「お姉さまの意地悪!」と怒鳴ったきり、一週間口をきかなかったこともある。
その時だって、結局蓉子の方から話しかけてくれた。こんな妹でも決して見捨てずに。
生まれてからずっと一人で戦ってきた祥子にとって、初めてできた無条件の味方だったのだ。
「でも、私は…!」
『祥子さま、ロザリオをください』
『お姉さま!』
『はい、お姉さま…!』
妹ができて、あんな風に真っ直ぐに慕われるのは初めてだったから。
少しずつ、いつの間にか心が占められていた。
ずっとお世話になった姉よりも、数ヶ月前にできたばかりの妹に惹かれてる。
そんなこと、マリア様がお許しになろうはずがない。
「大丈夫よ、祥子」
うなだれる祥子を、蓉子の声が柔らかく包む。
「人の心には、あなたの思う以上に余裕があるものなの。
誰かを一番に思っても、それは決して他の誰かを軽んじることではないのよ」
…そういえば、この人の一番は誰なのだろう。
確かに、それが自分でなくとも、自分への愛情を疑ったりはしない、けど…。
「…分かりません。私は未熟者ですから」
「本当ねえ。他のことは完璧なのに、こういうことだけ不器用なんだから」
くすと笑った姉の声は、いつもより楽しげな気がした。
「それじゃ、今からでも慣れなさいな」
今から…?
怪訝に思う間もなく、蓉子は席を立った。
* * *
「どうしたものでしょう、紅薔薇さま」
店の隅で、邪魔にならないように小声で話す。
「祥子はもう大丈夫よ。蔦子さんさえ良ければ、祐巳ちゃんを譲ってもらえないかしら」
「譲るも何も、暇つぶしに付き合ってもらっていただけですからね。他に用事があるならそちらを優先してもらうのは道理です」
「ふふ、ありがとう」
話が済んで、それぞれ互いの同行者のもとへ戻っていった。
まったく、世話の焼ける姉妹だけど。
まあ、たまにはこんなのもいいか…。
* * *
「えーーーっ!?」
祥子も驚いたのだが、先に妹の声が響き渡ったものだから、表に出す機会を逸してしまった。
「店の中で大声を出すのはおやめなさい」
「あ、す、すみませんっ」
縮こまった妹が、上目遣いにこちらを見る。
「で、でもお姉さま、どうしてここに…?」
「コンサート前の一休みよ。あなたこそどうして」
「私は、蔦子さんに誘われて」
じろり、と横にいるカメラ小僧に目を向けるが、当人はそっぽを向いて鼻歌などを歌っていた。
「あのね祐巳。クリスマスはもっと有意義に過ごすべきではなくて」
「こら、祥子」
ぺし、と後ろから頭を叩かれる。
「まったく、何を言っているのかしらね。言うべきことは他にあるでしょう」
う、と詰まる。ある意味危機かもしれない。
といっても、この人に知られた時点で、もう崩れてしまったのだし…
これ以上、みっともない真似はできないから
いつもの自分を引き寄せながら、祥子はそれを言ったのだった。
「祐巳、こんなことを言えた義理ではないのだけれど…。
もし怒ってなければ、一緒に来てもらえないかしら」
* * *
目の前で、祐巳と祥子が仲良そうに歩いている。
お役ご免となった蔦子は帰ろうとしたのだが、ここまで来たのだからと祐巳にコンサートに誘われてしまった。しかも、チケット代は祥子が持ってくれるらしい。いわく、あなたに借りを作るのは御免だから。
まったく、足して2で割れば丁度いい姉妹だ。
最初はまだ、あっさり切り替えることに抵抗があったらしい祥子も、幸せな子犬のように話しかけてくる祐巳に陥落して、表には出さないけど随分と嬉しそう。彼女の危惧も、あながち見当はずれではなかったということか。
それにしても。
隣を歩くお方を横目で見る。こういうクリスマスになるなんて、誰が予想したろう。
「まあ、何にせよ二人が上手くいって良かったわ」
同じく予想外のはずの紅薔薇さまは、心の底から満足そうに笑っている。
「自分が主役なのも良いけれど、誰かを幸せにするクリスマスも良いものよねぇ」
「さすがは紅薔薇さま。私にはそんなマリア様のような慈悲はありません」
「あら、私だってマリア様にはほど遠いわよ。今回だって相手が祥子だからだもの」
そういうものかな、と天を仰ぐ。曇ってはいるが、雪は降りそうにない。
「それに蔦子さんだって、貴重なクリスマスを祐巳ちゃんのために費やしてくれたじゃない」
「そんなのじゃありませんよ。ほんの気の迷いです…私は、祐巳さんの友達らしいから」
『蔦子さんとも友達になれて良かった』
祐巳があんなことを言うものだから、つい気が迷ってしまった。
自分が一番大事だったはずなのになぁ…。
「蔦子さんは、姉妹は作らないの?」
「私ですか? 性に合いませんね。一人に束縛されるのは御免です」
「そう…。まあ、それもいいかもしれないわ」
紅薔薇さまはそう言って前を向く。
「特定の誰かを作らなくても、全ての生徒は姉妹だものね」
「何ですか、それ」
「これから聴きに行く歌。そんな一節があったでしょう?」
「ああ…第九ですか」
Alle Menschen werden Brueder. 全ての人は兄弟となる。
なるほど、リリアン風に言えば蓉子の言葉になるのかもしれない。同じ学校に通っている以上、結局は縁があるということか。
「でも紅薔薇さまはともかく、祥子さまが姉っていうのはぞっとしないなぁ」
「聞こえていてよ、蔦子さん」
思わず首をすくめる。祥子さまが、腕を組んでこちらを睨んでいた。
「お姉さま、蔦子さんを貸していただけるかしら」
「お、お姉さまっ! どうかお手柔らかにっ!」
「落ち着きなさい祐巳。別に取って食おうというのではなくてよ」
祐巳は冷や汗をかいていたが、蔦子を祥子に引き渡した紅薔薇さまに、腕を取られて連れ去られてしまった。
そんなわけで、今度の相手は祥子さま。
蔦子は眼鏡の位置を直して、彼女の言葉を待つ。
「…とりあえず、お礼を言っておくわ」
「はあ」
「祐巳を連れてきてくれたことよ」
「いえいえ、おやすいご用です。報酬は祥子さまの私生活撮影権で」
「調子に乗るんじゃありません」
ぴしゃりと言われる。まったく、冗談が通じないんだから。
「でもまあ…」
心の底から、渋々と。
「これからも、祐巳のことをよろしく頼むわね」
なんてことを、祥子さまは言った。
「あらら、私を祐巳さんの友人と認めてくださるわけですか」
「仕方ないでしょう。その代わり、私を祐巳の姉と認めていただくわ」
「まあ、仕方ないですね。何があっても、祐巳さんにとっての一番は祥子さまらしいから」
一瞬嬉しそうな顔をしかけて、すぐにふいと横を向く。まったく、どこまでも難儀なお人だ。
そしてまた、自分でも自覚しているのか、小声でつけ加えるのだ。
「本当、心っていうのは厄介なものね…」
「ふっふっ、趣味一直線なら楽なもんですよぉ。祥子さまも写真の道に入りません」
「丁重に遠慮させていただくわ」
きっぱりとそう言って…
「それにね、私も少しだけ認めることにしたのよ。こんな風に誰かを思えるのは、あるいは貴重なことかもしれない、とね」
その言葉とともに、迷いのない顔で微笑む祥子さまは、本当に格好良くて。
不覚にも、少しだけぐらついてしまった。なるほど、祐巳さんが夢中になるわけだ。
「あ、綺麗なツリー」
その祐巳の声が前から聞こえる。
見上げると、街の中心にある広場で、大きなクリスマスツリーが電飾の光に飾られている。
「あら、本当」
「ねえ蔦子さん、写真取るのに丁度良くない?」
なんてことを言ってくれる祐巳。撮影会も無駄ではなかったらしい。
「えらい祐巳さん、撮影ポイントを分かっていらっしゃる。祥子さま、記念写真よろしいですか?」
「何で私に聞くのよ。よろしいに決まっているでしょう」
つんとして、祐巳の隣に並ぶ。
その時、紅薔薇さまが一瞬躊躇したけど…
祥子はためらわず手を伸ばした。
「お姉さま、さあ」
「早く、紅薔薇さま」
祐巳にも何の迷いもなく誘われて、紅薔薇さまは微笑んでから、その輪の中に入った。
クリスマスツリーの下、並ぶ紅薔薇の姉妹たち。
こんなことはもう数えるほどしかないかもしれないけど、だからこそ写真に残すのだ。
「蔦子さんも一緒に入らない? そのへんの人に撮ってもらって」
「ご冗談を。他人に写真を撮らせるなんて、この蔦子さんのプライドが許しませんって。いいから笑って笑って」
祐巳と蓉子の笑顔に比べて、祥子は少しぎこちなかったけど。
そんな光景こそ記帳に思えて、蔦子はシャッターを押す。3人の揃った、そのフレームの中で…
これから聴くはずの歌が、既に聞こえてくるのだった。
『歓喜よ! 美しき神の煌めきよ
楽園から来る乙女たちよ
我らは情熱に満ちて、汝の聖殿に足を踏み入れる…』
<END>
感想を書く
ガテラー図書館へ
マリみての小部屋へ
プラネット・ガテラーへ
時間なかったのでとりあえず練習用。
本編が百合だとかえって友情が見たかったりするので、蔦子さんが好きです。
(ウァレンティーヌス後編の祐巳&由乃も良かった…)
祥子&蓉子の絡みはもっと本編で見たかったなー。
今は祥子×祐巳が正義ですが、将来祐巳ちゃんに妹ができて、祐巳ちゃんにとって妹>祥子さまとなる可能性も皆無ではないよな…とか考えたりします。
(2001/12/25)