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この作品は漫画「らんま1/2」(高橋留美子/小学館/少年サンデーコミックス) の世界及びキャラクターを借りた二次創作です。
# 原作終了後の話です。
祭の後のクリスマス
「もうこんな時期かぁ…」
冬晴れの日曜日。カレンダーを眺め、天道あかねは軽く溜息をついた。
何度も経験してきたこの季節。本当ならクリスマスを前に気分が沸き立つはずだけど、今年ばかりは勝手が違う。
受験勉強中のなびきが、大学に受かったら家を出ると言っているのだ。
(みんなで過ごすクリスマスは、これで最後かもしれないんだよね…)
あの姉のことだ、一度家を出れば滅多に帰ってこないだろう。あこぎで凶悪で金の亡者な姉だけど、いなくなると思うと寂しいものだ。
「どうしたの、あかねちゃん」
「かすみおねーちゃん」
もう一人の姉が、洗濯を終えて手を拭きつつ声をかけてくる。
「うーんとね、もうすぐクリスマスだなーって」
「そうね。今年は盛大なパーティにしましょうね」
「う、うんっ。あたしにできることがあったら…」
言いかけたところで、廊下から騒がしい音。見れば居候の親子二人が、血相を変えて追いかけっこをしている。
「てめーこのクソ親父! おれの卵焼き返しやがれ!」
「ばっかもん! 武道家たるもの常に生きるか死ぬかの真剣勝負。甘さを見せた自分を恨むがいいっ!」
「ったく、あの二人は…」
あかねが頭を抱えている間に外へ飛び出した二人は、池の周りの石に着地しようとして、見事に苔に足を取られた。
男二人が池に落ち、浮かんできた女の子がパンダの頭を殴る。
「ばっきゃろー! すべって落ちたじゃねぇか!」
「…ら〜ん〜ま〜」
「ん? 何だよあかね…でえっ!?」
振り返った乱馬の前には、オーラを発して竹刀を振り上げるあかねの姿。
「受験生がいるってのに何を禁句連発してんのよあんたはーっ!!」
「うわっ、やめろっ! なびきがそんな神経の細い奴かっての!」
「うるさいわね〜」
「あら、なびきちゃん」
頭をかきながら、当の受験生が階段から降りてくる。
「言ってくれるじゃない乱馬くん。人がノイローゼ気味だってのにその仕打ち?」
「え、マジで? いや。だって…」
「いいのよ、いいの。この憂鬱を解消するには…二千円あれば十分よっ! あ、逃げた」
てっ、と出された手から一目散に逃走する乱馬を見送り、あかねは慌ててなびきに駆け寄る。
「ご、ごめんねおねーちゃん。うるさくしちゃって」
「ったく、あんたが受験するわけじゃないでしょーが。そんなにピリピリしてどうすんのよ」
「そ、それはそうだけど…」
顔を赤くして人差し指を突き合わせる妹に、横からかすみがフォローした。
「なびきちゃん。今ね、クリスマスはどうしようって話してたのよ」
「そ、そうよっ。おねーちゃん何食べたい? 七面鳥? ローストビーフ?」
「あんまりお腹にたまるものはねー。むしろ甘い物が食べたいわね」
「あ、それなら、あたしがケーキ作ってあげよっか」
クリスマスケーキ――あかねにとっては憧れだ。お菓子全般についてそうではあるけど、やはり王様といえばクリスマスケーキであろう。
「前から作ってみたかったのよね」
すざっ
しかし姉の反応は、そんな音で表現されるようなものだった。
代わって早雲、玄馬、のどか、八宝斉といった大人たちが、ぞろぞろと出てきてあかねを取り囲む。
「落ち着きなさい、あかね。落ち着いて話し合おう」
『早まるな!』(←プラカード)
「あかねちゃん、焦っちゃダメ。10年くらい練習すれば上手くなるから。おばさんも協力するから。ね?」
「頼むあかねちゃん。老い先短い年寄りの余命を奪わんでくれいっ」
「……」
わなわなと震えるあかねに、戻ってきた乱馬がとどめを刺す。
「せめて受験が終わってからにしろよ。それならなびきも寝込む暇があるだろ」
「〜〜〜っ! もういいっ、ケーキ作ったとしても乱馬には食べさせてやらないんだから!」
「けっ、だーれがてめーの作ったもんなんか食いたがる…」
「乱馬のバカーッ!」
飛んできた花瓶を顔面に受け、乱馬は盛大に池へ水しぶきを立てた。
翌日――風林館高校のいつもの教室。
「…と、いうわけなのよ」
「ほー、それで乱馬くんはあんな顔に…」
目の周りにあざを作ってそっぽを向いている乱馬は無視して、友人たちに手を合わせるあかね。
「お願い、ケーキの作り方教えてっ!」
「ええー? さすがにそれはちょっと」
「あかねに料理を教えることほど不毛なことはないわよ…」
「ううう…。みんなの薄情者…」
涙するあかねだが、クリスマス前の忙しい時期に無理な頼みだとは自分でも思う。特にこの友人たちには、以前もクッキーの作り方などを教わっては盛大に失敗しているのだ。
が、思わぬところから助け船が現れた。
「あかねちゃん、うちで良かったら教えたるで」
「ほんとっ、右京!?」
男子の制服に身を包んだ久遠寺右京が、親指で自分を指している。
「やめとけやめとけ。ウッちゃん、タコに曲芸を教え込むようなもんだぞ」
「あんたは黙ってなさい…よっ!」
手近にあった筆箱を乱馬のアゴに直撃させてから、大喜びで右京に向き直るあかね。
「右京ってケーキも作れるんだ!?」
「うちかてお好み焼きしか作れへんわけやないわ。ま、もちろんタダとは言わへんやろな?」
「う…」
どうも話がうますぎると思った。財布の中身を思い出して、あかねはごにょごにょと口ごもる。
「その、ケーキの材料買ったらほとんど手持ちが…」
「構へんでぇ、体で払ってもらうさかいなぁ」
くっくっくっ、と笑う右京に、納得してにっこり答えるあかねだった。
「いいわよ、お店を手伝えばいいのね?」
「…あかねちゃん、素で返さんでもええやん」
お好み焼き『うっちゃん』は繁盛していた。
季節がら、みんな温かいものを食べたいらしい。特に風林館高校の生徒には特別割引があるので、店内は学校帰りの高校生でごった返している。
「小夏! モダン焼き2丁上がりや!」
「はいっ右京さまっ! くノ一忍法、宙空皿の舞!」
ヘラで投げられたお好み焼きに、皿を放つのは抜け忍くノ一の小夏。お好み焼きと皿は空中で合体、正確に客の前へ着地する。店内から拍手がわき起こる。
(この店もなんだか超人化してきたわねー)
流しで皿を洗いながら、そんなことを考えるあかねである。
「あかねさま、空いたお皿ここに置きますね」
「あ、うん。ごめんね洗うの遅くって」
「いえいえ滅相もないっ。本来なら私がすべき仕事なのに、手伝っていただき感謝感激ですぅ」(ふかぶか)
「いちいち土下座せんでええっ!」
夜7時の閉店時間まで働けば、1時間ケーキ作りを教えてもらえる約束である。なんだか割に合わない気もするが、この際仕方ない。
「で、なんであんたがいるのよ」
皿を洗い終わって、どん、と水を置いたテーブルでは、乱馬がぶすっとしてお好み焼きを食べていた。
「うっせーな。いいだろ別に心配したって」
「え…。あたしのことを心配して…?」
「ああ、お前がお好み焼きなんか焼いてみろ。この店で死人が出るんじゃないかと…」
「なんの心配をしとるかっ!」
「乱ちゃん!」
乱馬の暴言に、右京が険しい目で抗弁する。
「いくら乱ちゃんでも言っていいことと悪いことがあるで…。うちが客に毒物食わせるような酷い商売人に見えるんか!?」
「あんたたちねぇ…」
そんなこんなで夜まで客足は途切れず、ようやく閉店して入口を閉めたと同時にあかねはへたり込んだ。
「つ、疲れた…」
「今はかき入れ時やしなー。ほな、ケーキでも作ろか」
「う、うん、よろしくねっ。材料は学校帰りに買ってきたから」
厨房の台の上に、スーパーの袋の中身を並べる。小麦粉、卵、バター…を見て、引きつる右京の顔。
「あの、あかねちゃん。生地焼くとこから始める気なん?」
「え? もっちろん」
「売ってるスポンジ買ってきた方がええんと…」
「ええー? それじゃ生クリーム塗って終わりじゃない。大丈夫大丈夫、あたしの料理の腕も上達してるんだから」
「ホンマかいな」
調理具を並べた小夏が、おそるおそる尋ねてくる。
「あの、右京さま…。ケーキって何ですか?」
「小夏はもう休んでええで…。ほなあかねちゃん、まずは小麦粉を振るうとこからや」
「わかった、振るうのね!」
「せやけど力任せにシェイクするとかお約束のボケしたらあかんでー、っておい!」
「え?」
袋の端を持ってぶんぶん袋を振り回すあかねが返事すると同時に、袋が端だけ残してちぎれ飛び、あたり一面は白い煙に覆われた。
「げほっ、ごほっ!」
「ひぃぃぃぃ! なんてもったいないぃぃぃぃ!」
その食べ物の粗末にしっぷりに小夏は気絶し、後には頭から真っ白になった右京とあかねが残る。
「…うち、今なら乱ちゃんの意見に同意できそうやわ…」
「あ、あははは。あの…ゴメン」
結局授業一日目は、厨房の掃除だけで終える羽目になった。
「あかねさぁ…。気持ちは嬉しいんだけど、あたしも大事な体なのよね」
「だ、大丈夫っ。イブまでには何とかするから。おねーちゃんのために頑張るから。ねっ?」
珍しくなびき、あかね、乱馬の三人で登校中。昨日の様子を白状させられ、返ってきた冷たい反応に、あかねはごまかし笑いを浮かべるしかない。
「イブまでって、あと五日しかねーじゃねーか。五日であかねの料理が上手くなるなら、おれだってシェフになれっぞ」
「うるさいわね〜。心配しなくても乱馬の分も作ってあげるわよ」
「おい! いつの間にそんな話になってんだ!?」
フェンスの上を歩いていた乱馬が叫ぶ。と、自転車のベルが鳴り、人影が乱馬に抱きついてくる。
「ニーハオ、乱馬!」
「どわっ!?」
水路に落ちそうになるところ、なんとか爪先を金網に刺して耐える乱馬。そして遠慮なく頬ずりするシャンプーに、おもしろくない顔のあかねである。
「乱馬、24日は当然空いてるあるな? 私とクリスマス過ごす、これ決定ね」
「ま、待て、ちょっと待て。いやー悪いんだけどよ、なびきが今年最後だからどうしても家族全員でクリスマスを過ごしたいと…」
「二千円払うんならそーいう理由にしといてやってもいいわよ」
「おいっ」
乱馬の逃げは聞き流して、シャンプーは話を続ける。
「それに、その日は乱馬のために猫飯店は貸し切りにしたよ。中華料理食べ放題ね。とってもお得」
「くっ! 確かにあかねのケーキと比べたら天国と地獄だぜ…。おれは一体どうすればっ」
げいん、とあかねの蹴りが炸裂し、乱馬はシャンプーともども水路に落とされた。
「ね゛こ゛〜〜〜っ!!」
「ふんだっ! えーえーシャンプーと二人きりでも何でも勝手にしなさいよ!」
「んっとに、あんたたち飽きないわねー」
なびきの呆れ声も耳に入らない。完全に頭に来た。絶対すごいケーキを作ってやる! と執念を燃やすあかねだった。
「…先に生クリーム作ろか」
「…ハイ」
三日を費やしてようやくできた生地は消し炭になってしまい、疲れた顔で提案する右京に、あかねもこくりと頷くしかない。
「あかん。うちんとこ電動泡立て器ないんよ。普通の泡立て器しか」
「へーきへーき、手で泡立てればいいんでしょ? 任しといて、こういうのは得意だから!」
「と、得意って、ものごっつう嫌な予感がすんねんけどっ!」
「でりゃああああああ!!」
気合いとともに、あかねが手に持った泡立て器がボールの中身を攪拌する! それはまさに目にも止まらぬような高速の動きであり…数秒後にはボールの中身は全て飛び散っていた。
「ああもったいないっ。もったいないっ」
小夏が厨房中のクリームを指ですくって舐めている中、右京は再び頭から真っ白になっている。
「あかねちゃん…。うち、そろそろ怒ってもええ…?」
「ゴメンナサイ…」
それが今から22時間前の出来事。
(はあ…)
今はお店で皿洗い中。クリスマスイブはもう明後日だ。
無理だったら出来合いのケーキを買ってきて許してもらおうか…などと弱気の虫がよぎり、あわてて頭を振る。
(ダメダメ、それじゃシャンプーに負けちゃうじゃない!)
そういえば、右京はどうするつもりなんだろう。
今のところ乱馬にアタックしている様子はないみたいだけど…。
「あっ。あかねさま、お手伝いしますね」
「そう? ありがと」
たまった生ゴミを出そうとすると、小夏が半分持ってくれた。
ゴミ袋を店外のポリバケツに入れ、いい機会なので尋ねてみる。
「ね、小夏さん。右京ってイブはどうするつもりなのかな」
「はいっ。いつも通りお店を開けるっておっしゃってました」
「え、休まないの?」
「ええ、クリスマス大セールの予定ですし、それに…」
少し言いよどんだが、聞きたい気満々のあかねの顔に、押しに弱い小夏は話し始めた。
「実は今朝、シャンプーさまがいらっしゃったのです」
「シャンプーが!?」
小夏の話によると、自分が乱馬を誘うから邪魔するなと勝手なことを言いにきたらしい。
右京の答えはさっき小夏が言ったとおり、イブは店を開けるから、と。
『ホントか? 信用できないね。抜け駆けは許さないあるぞ』
『アホ、客が待っとるのにそうそう店を閉められるかい。それに――』
そう言ってシャンプーから視線を外した右京の目を見て、小夏は胸が苦しくなったという。
『乱ちゃん誘ったって、どうせ無駄やろ』
数瞬の沈黙の後。
シャンプーは過剰なほど胸を反らして、居丈高に言った。
『は、ははーん。そうか、ようやく私に敵わないことが分かったね。これ賢明な判断』
『なんとでも言い。あんたも玉砕するだけやで。ええ加減分かっとるんやろ、乱ちゃんが本当に好きなんは…』
『うるさいね!』
シャンプーの声は、少し悲痛に響き…
『お前の寝言なんて聞く耳持たないね。敗北主義者は勝手に諦めて寂しいクリスマスを過ごすよろし!』
『くっ…さよか、好きにし! うちは忠告したで!』
結局そのまま決裂し、小夏はその朝は右京に声をかけられなかったという。
「そ、そうなんだ…」
あかねとしてはどんな顔をすればいいのか分からない。
自意識過剰を恐れずに言えば、右京の言おうとしたのはやはりあかねのことなのだろう、けど…。
「あの日、右京さまは自分の失恋を覚悟されたのだと思います」
小夏は空を見上げ、ふっ…と遠い目をする。
「あの日?」
「あかねさまと乱馬さまの祝言の日」
「あ、あれは! その…」
恥ずかしい記憶が甦る。確かに…あんな騒ぎにならなければ、自分と乱馬は今ごろ夫婦だったのかもしれない。なんだか想像つかないけど。
「ううん、もしかするともっと前から。『いつかこんな日がくるって思ってた』って、そうおっしゃってましたから」
「あたしは…その…」
「あの時はあんなことになりましたので、今は恋も復活されたみたいですけど…」
「ご…ごめんね、あたし達がいい加減なせいで」
「い、いえいえいえっ。ごめんなさい、私ったら余計なことをっ」
小夏は慌てて手を振ってから、バケツの蓋を閉めた。
「えと…小夏さんは、クリスマスはどうするの?」
「私は、右京さまのおそばにいられればそれで」
そう言って微笑む小夏に、あかねは何も答えられず…
「こらー! 二人とも何しとんねん、さっさと戻ってこんかーい!」
店内から怒鳴られて、大慌てで右京のもとに戻った。
一方の乱馬といえば、翌日も女の子に言い寄られていた。
「おーーっほほほほほ! 乱馬様、イブはこの私と約束してくださって嬉しゅうございますわっ!」
「してねえっ!」
「豪勢な料理としびれ薬を用意してお待ちしておりますっ!」
「用意すんなそんなもん!」
あかねが例によってむっとして歩き出そうとすると、電柱から飛び出した影が抱きついてくる…前に、顔面にパンチを叩き込む。
「…おはようございます、九能先輩」
「はっはっはっ、ハードな愛情表現だ天道あかね。クリスマスは我が九能家に伝わる格式あるパーティでぼくの胸に飛び込んでくるがいいっ!」
「今日も元気ね、九能ちゃん」
「おおう写真屋もとい天道なびき。おさげの女を連れてくるなら、お前も特別に誘ってやってもよいぞ」
「あんたさー、クリスマスくらい二股がけはやめなさいよ」
「くっ、天道あかねかおさげの女か、はたまたおさげの女か天道あかねか…。できーん! どちらかを選ぶことなどできるものかぁぁぁっ!!」
「先、行ってますね…」
九能のことは置いておいても、実際、選ばないままの方が幸せなことだってあるかもしれない。
今頃になってそんなことを考えてしまう。なびきや九能がいなくなって、自分たちもどう変わるかわからない。そんな日が近づいてくる今頃に。
乱馬はどうして自分を選ばないんだって、むくれていた自分も一方にいるのに。
(…あたし、嫌な子になってるかな)
今はケーキのことだけ考えることにして、あかねは早足で学校へ向かった。
一夜明けて。
いよいよ明日はクリスマスイブ。そして今日は天皇誕生日である。
2時から5時まで『うっちゃん』は閉店なので、集中的に修行することにした。小夏は買い出しに行っている。
「ええか。うちが泡立てるから、あかねちゃんは真似し」
「う、うん」
氷水に浸したボールがふたつ。生クリームを1パックずつ開けて、泡立て始める。昨日と一昨日で無駄にしたパックの数を思うと気が遠くなる。今日こそ成功させないと。
「あかん! ボールに泡立て器ぶつけたらあかんっちゅーとるやろっ!」
「ううっ、難しいなぁ…」
空気を巻き込む右京の見事なホイップに、あかねとしてはつくづく自分の不器用さが嫌になる。
「明日までに間に合うかなぁ…」
「何言うとるの。間に合うかやなくて、根性で間に合わせるんや」
「な、なんか右京の方が熱くなってない?」
「ええい、ここまで来たら意地やで。『ダメだったら店で買えばいいや』なんて考えとるんやったら許さへんからなっ!」
(ひ〜〜〜)
シャカシャカシャカ…
しばらくの間、厨房には泡立ての音だけが反響した。
わずかだが生クリームが固くなってきた。それだけのことで嬉しくなって、ぽろりと言葉が零れる。
「あの…ほんとにありがとね」
「な、なんやいきなり。ギブアンドテイクやないの」
「うん。でも一生懸命教えてくれたし」
「ま、まあもうじき家を出るお姉さんのために作ろうっちゅうんや。手伝いたくなるんが人情やで。これが乱ちゃんのためとか言うんやったら絶対手伝わへんけどなー」
「あ、あははは…」
またしばらく沈黙。
かき混ぜられるクリームを見ていると、自分の頭の中まで混ざっていく気分になる。
真似するために右京の手を見る。女の子の細い手。見た目は自分と同じ、はず…だけど。
「右京ってすごいよね…」
再びの呟きに、右京は少し顔を赤くした。
「な、なんやねんさっきから。誉めても何も出んで」
「だってまだ高校生なのにお店切り盛りして、ちゃんと自立して。あたしなんて将来の進路もまだ考えてない」
なびきの受験ばかり心配していたけど、来年は自分も同じ立場なのだ。
なのに大学に行くのか、就職するのか、道場を継ぐのか、それもまだ決めていない。考えても何も浮かばない。これをやりたいというものもない。
「あたしなんて…」
右京の恋を壊してまで、乱馬と一緒にいる資格なんてあるんだろうか。
その言葉はさすがに飲み込んだけど、顔に出ていたのかもしれない。
「…小夏に、何か聞いたん?」
「う…」
鋭すぎる右京を恨めばいいのか、軽率な自分を恨めばいいのか。
「あ、あのね。あたしが無理矢理聞き出して…」
「言うとくけどな、うちかて乱ちゃんを諦めたわけとちゃうで」
そう言って手を止め、右京は強気に笑う。
「単に今は動いても不利やから大人しうしとるだけや。そらあかねちゃんは手強いけど、女なら一発逆転狙いやで」
「あ、あたしは…」
その目を受け止められず、あかねはそっぽを向いた。
「別に、乱馬のことなんか…」
「あかねちゃん!」
びくん、とあかねの体が固まる。
右京の眼は一変して、厳しくあかねを睨み付けていた。
「この期に及んでまだそないなこと言うてるんか。ええ加減にし!」
「右京…」
「振り向いてもらえようがもらえまいが、乱ちゃんはうちにとっては大事な人や。ええ加減な奴には渡されへん。本気やないんやったら、とっとと許嫁の座を降り!」
泡立て器を持つ、あかねの手がぎゅっと握られる。
悔しい。言い返せない。そんな気持ちじゃないのに。
本気でないとか、いい加減な気持ちだとか、そんなんじゃないのに。でも右京が怒るのも分かる。どうして自分は、こう素直になれないんだろう。
「…分かった」
心の中で深呼吸して、整理して、ようやくそれだけ言った。
「あたしだって、右京には負けない」
ぎゅっと身を固くして、ボールの中身を見つめたまま。
「……」
右京は少し笑って、何も言わないままだった。
「おっ、ツノが立ったやん」
いつの間にか、生クリームは泡立っていたようだ。
指ですくって、一口なめてみる。
「おいしー! すごーい、あたしもやればできるじゃない!」
「いや、味は誰が泡立てても同じやろ…」
「でもでもっ、一応食べられるものができたんだもん。やったーっ!」
思わず右京の手を握って上下に振って、ようやく我に返る。
さっきの今で、一体何をやってるんだか。
「はいはい、ようできました」
必死で笑いをこらえてぽんぽん、と恋敵の肩を叩く右京に、あかねは顔から火が出そうだった。
結局生地を焼くのは諦めて、市販のスポンジにデコレートするだけにした。
5時になったので店を手伝おうとしたが、『そんな暇があったらとっととケーキ完成させんかい』と右京に言われ、あかねは一人でケーキ作り。
時々右京や小夏が様子を見にくる。単にクリームを塗って苺とトッピングを載せるだけのはずだが、あかねにとっては苦難の道だ。
絞り袋を握りすぎてクリームを噴射させたり、苺の場所をあちこち変えていたらクリームまみれになったり、トッピング用のカラーチョコをケーキの上にぶちまけたりと…考えつく限りの失敗をやらかしはしたが、閉店後に右京と小夏がやって来ると、なんとかケーキと呼べなくもない不格好な食品が出来上がっていた。
「こ、これがケーキというものですか! ああっ、なんて神々しい…」
「ま、味は売ってるスポンジに生クリームやしな。いくらあかねちゃんでも食べられはするやろ。いやー良かった良かった」
「悪かったわねぇ…。あーあ、苺が足りないから梅干しで代用しようと思ったんだけど、売り切れてて残念」
「そないなこと考えてたんかいっ!」
さて、誰が味見をするのか。
味は問題ないはずだが、何しろあかねの料理であるのでどんなダメ奇跡が起きているかわからない。
あかねと右京は顔を見合わせ、その視線がそのまま小夏へと動く。
「? あの、お二人ともどうかしましたか?」
「…あかねちゃん、小夏を実験台にしようとしたやろ」
「や、やあねっ、変なこと言わないでよ。それにせっかく綺麗な形なんだし、一部だけ切るのもちょっとやだよね。ね?」
「何が綺麗な形やねんっ! この蹴りまくられてボロボロになったゴム鞠みたいな物体がっ!」
「そ、そこまで言うことないでしょっ! これでもあたしは精一杯…」
「はぁ…。しゃあない、切るくらい手伝ってもええやろ」
右京は包丁を取り出すと、手際よくケーキを8つに切った。
8つのショートケーキを並べ直すと、なんだか本当に綺麗な見栄えになったのだから不思議である。
「あ、ありがと…」
「それより味見や!」
切り分けたときに余った部分が三切れ。
それぞれが手に持ち、ごくりと生唾を飲み込む。
「小夏…もしもの時は後を頼んだで」
「そんなっ。地獄の底までお供いたしますぅ」
「いいから黙って食べなさいよっ!」
いっせーの…
せ、で口の中に押し込む。
市販のスポンジと、生クリームと、苺の味がした。
それだけのことだけど、あかねが初めて作ったケーキだった。嬉しくて、あかねは両手で頬を押さえた。
「なんや、つまらんオチやったな…」
「一体何を期待してたのよ!」
「まーまー、とにかく出来上がったんや。おめでとさん」
「はー、これがデザートというものですか…。感激ですぅ…」
「こらっ! うちの店で働いといて、こんなもんで感激するとは何事やねん!」
「こんなもんで悪かったわねぇ!」
大騒ぎしながら、皿に盛りつけて、ラップをかけて、本当に完成。
失敗と苦難続きの数日だったけど、終わってみると少し寂しい。何だかこんなのばっかり。
まだ天国をさまよっている小夏は後にして、右京に真っ直ぐに向き直る。
「ありがと、右京」
「なーに、うちのライバルやったらこれくらい出来てもらわんとな」
「うん、あのね…」
少し、視線を落として。
「あたし、右京には負けない」
「望むところや」
「…でも」
素直になるのなんて。
ケーキを作るよりはまだ簡単なことだ。落ち着いて、少し勇気を出せばいい。簡単なことだ。だからあかねは顔を上げる。
「それは別にして、右京とはずっと友達でいたい。こんなの、虫がいいかな…?」
右京はしばらくぽかんとしていた。
困って、呆れて、照れて、どこから出したのかお好み焼きのヘラを持って、ぺしんとあかねの頭を叩く。
「痛あっ。ちょっと、何するのよっ!」
「ええい、あかねちゃんが虫のええこと言うからやっ!」
「だから自分でもそう言ったじゃない!」
「そういう問題とちゃうわ! ほら、もう遅いし早く帰った方がええで。小夏、あかねちゃんを送ってき」
「はい〜、右京さまぁ」
ケーキの載った皿を持ち、小夏に連れられて店を出る。
出口で振り返ると、誰もいない店の中で右京が一人、こちらに背を向けていた。
…結局、答えはもらえなかった。
そしてクリスマスイブ当日――
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