それが教室に入ってきた瞬間、好奇の視線が一斉に集中する。
来栖川の最新製品の、それもテストプレイ段階。ほとんどの人間は物珍しそうに、ぎごちなく自己紹介するその機械に見入っていた。
ただ一人だけ、長めの髪の女の子がじっと机に目を落としていて、それがロボットの視界に止まった。そこだけ隔離されたような異質さに気を取られて。
ふとその少女が顔を上げ、一瞬だけ互いの視線が合う。ほんの一瞬だけ。すぐに少女は目をそらす。
それが最初の出来事だった。
ロボットになりたい
「本当に何でもしてくれるの?」
「はいっ。私にできることならお申しつけくだされば何でもお役に立ちますっ」
教室の中心でメイドロボが質問攻めにされているのを、姫川琴音は別世界のことのようにぼんやりと聞いていた。
学校は苦痛だ。薄気味悪そうな視線に囲まれ、いつ予知が起きるかと脅えながら過ごす時間。どうにもならないし、どうにもできない。毎日席に座ったまま、ただじっと時の過ぎるのを待つだけ。中学の時から続く琴音の毎日は高校に入っても変わってなかった。
メイドロボの元気な声は琴音には遠い世界のことだ。どうせあの輪には入れない。心を閉ざした琴音には関係ない。ただ通り過ぎるだけの事、それだけの事のはずだったのだ。
そんな彼女に声を掛ける者がいた。
「あのー」
機械的に顔を上げ、思わず息を止める。当のメイドロボが何故か自分の前に立っている。
クラス中に緊張が走り、誰かが止めようとするが、琴音をちらりと見ると臆したように手を引いた。
「あのっ」
「は、はい」
間近に見るロボットは中学生くらいの女の子の姿で、耳の飾りがなければまず人間と見分けはつかない。生物としか思えない瞳がこちらを見ている。その理由に見当もつかず戸惑う琴音に、ロボットは意を決したように口を開く。
「何かご用はございませんか?何でもお申しつけください」
琴音の呼吸が少し回復する。
他人に奉仕するために作られたロボット──だからか。仕様だから仕方ないとはいえ、自分にまで声をかけることはないのに。
机に視線を戻すと、ぼそぼそと呟いた。
「何も…ありません」
「あ、あのっ」
「私に近づかない方がいいですよ…」
ぐいっ、と何かが引っ張られる気配がする。顔を上げなかったので見えなかったが、誰かが勇気を出して彼女を引き戻したのだろう。すぐに息を殺したひそひそ声が流れてきた。
『疫病神』
『変な事件ばかり』
『近づかない方が…』
彼らが逐一説明してくれる。呪われた予知がロボットにまで届くのかどうかは分からないが、近づかないに越したことはない。琴音はまた自分の扉の中へ戻っていった。
いつものように灰色の時間が過ぎ、意識せずにカバンをしまって帰途につく。家に帰り、夕食を取り、床について。灰色の世界は変わらない。今までと同じ何もない一日だった。
来なくてもいいのに朝は来る。
仕方ないので琴音は起きて、着替えて、今日も重い気分で学校へ行く。背中を丸めて、うつむき気味に。
学校に近づくにつれ自分の周囲にだけ不自然な空間ができていく。ひそひそ声。いつまでこんな日が続くのだろう。
「おはようございまーす」
…ぎょっとして立ち止まる。
校門の前で、メイドロボが箒を抱えて立っていた。一瞬あたりを見回したが側には誰もいない。立ち止まってこちらに目を向ける観衆が遠巻きにいるだけだ。自分に言ったのだろうか?
「おはようございまーす!」
「お、おはようございます…」
口篭もるように言うと、琴音は彼女の横をすり抜けて校門をくぐった。目立ちたくないのに。
「あっ、ま、待ってくださーい!」
追ってくる。何で?早足になり、小走りになる。とたとたとた…と足音がついてくる。目を伏せて、カバンを抱きしめ校舎に入ろうとした時だった。
「きゃあっ!」
悲鳴とともに足音が消える。反射的に後ろを振り返ると、メイドロボの姿が地面に伸びていた。思い切り蹴つまづいて顔面から落ちたらしい。そのままぴくりとも動かない。
数秒だったか数十秒だったか。周囲の視線が刺す中で、琴音は仕方なくかがみ込む。
「あの…大丈夫ですか?」
「はっ!す、すみませ…きゃあっ!」
弾かれたバネのように起き上がろうとして、勢いをつけすぎたのか今度は後ろへひっくり返る。今度は頭を打ったらしく足元が定まらない。
「ううっ、も、申し訳ありませ〜〜〜んっ!」
「保健室行った方がいいですよ…」
「は、はいっ!はっ、でも場所がわかりませぇぇぇん!」
「…連れてってあげます」
琴音は小さくため息をつき、先に立って歩き出した。辛いとか苦しいとか以外の感情は久しい。「呆れる」という名では大差ないが…。
ごめんなさいごめんなさいを繰り返しながらついてくるロボット。進む先の生徒が逃げるように道を開ける。たぶん今のトラブルも自分のせいだと思われてる。実際そうかもしれないので、琴音は何も言わなかった。
養護教諭はちらりと目を向けただけで、琴音たちを無視した。その横を通り過ぎる。
保健室は琴音のよく来る場所で、カーテンで遮られたベッドは校内で唯一の居場所だった。たどり着いて琴音が勧める前にロボットはばたりとベッドに倒れ込む。
「ここで少し休んで…直ったら教室に戻った方がいいですよ」
「は、はいっ!何から何までありがとうございますー。でも数秒でバランス機能は回復しますので大丈夫ですー」
「そうなんですか…」
便利、とか考えながら隣のベッドに腰を下ろす。もう1時間目は始まってるし、今からでは行きづらい。自分もここで休んでいこう…口実だけど。
「あのー、姫川さん?」
昨日と同じ瞳がじっとこちらを見る。そういえば誰かに名前を呼ばれたのは久しぶりだ。クラス名簿か何かを引いたのだろうか。
沈黙して言葉を待ったが続きが来ないので、仕方なく口を開く。
「なんでしょう…」
「あのっ、わたし、何か姫川さんのお役に立てることはないでしょうか?」
ロボットは純粋な善意を込めてそう言った。
そう意識しないと忘れてしまいそうだが、ロボットだ。膝の上で握られた自分の手に視線を落とす。カーテンで区切られた保健室の一隅で、こんな相手を前にしているのは奇妙なことだ。
「何もないですから…。他の人の役に立ってあげてください」
「でもっ!」
身を乗り出してくる。誰だ、こんな風に作ったのは。
「姫川さんはとても寂しそうですから!」
…琴音の周りの空気が凍る。
「あの、だからですね、姫川さんずっとお一人だし、何か悩んでらっしゃるようですし、わたしは人間のお役に立つため作られたメイドロボですからきっと姫川さんのお役にも」
「出てってください!」
思わず叫んでいた。メイドロボは全否定され、会話の途中で硬直する。その姿に一度上げた視線をまた戻す。こんな事したいんじゃないのに。
「出てってください。ロボットに私の気持ちなんて解りません…」
長い長い、重い沈黙の後、ロボットはゆっくりと立ち上がった。
「ごめんなさい…」
小さく聞こえて気配が去る。視界には手とシーツだけ。扉が開いて閉じる音がして、ようやく琴音はベッドに倒れ伏した。しばらく起きあがれそうになかった。
誰もいない狭い空間で、琴音は時間が過ぎるのを待った。
予知が起きなかったのがせめてもの救いだ。
昼休み、琴音は校庭を歩いていた。
暖かな春の日差しに、かなり散ってしまった桜が葉をのぞかせている。やはり先ほどのロボットには悪いことをした気がする。悪気があったわけではないのに。心配してくれたのに、あんなに傷つけることなかった。
午前中いっぱいうじうじと悩んで、ようやく琴音は保健室を抜け出して彼女を探した。教室をちらりと覗いたがいなかったので外に出ている。生徒たちの一団がサッカーに興じているのを横目に見ながら、彼女を探した。
中庭へ行きかけたところへ小さな影を2つ見つける。
「犬さん、犬さん、こんにちはっ」
「わんっ」
彼女だった。向こうもこちらに気づく。
「あっ、姫川さん、こんにちはっ」
「こ、こんにちは…」
「あのですねー。今朝バスの中でおばあさんにクッキーをいただいたんですが、わたしは食べられないので犬さんに差し上げましたらとっても喜んでくださったんですよー。嬉しいですー。あ、姫川さんも1枚いかがですかー? …姫川さん?」
…悩んだ自分がバカだった。
がっくりと力が抜けて、側のベンチに座り込む。小さなメイドロボはきょとんとして、少し待った後琴音の隣に腰を下ろした。小犬がふんふんと足元に寄ってくる。ロボットはクッキーを渡しながら、嬉しそうに笑っていた。
ロボットだから。きっと彼女は傷つかない。少なくとも自分よりは。気を使って、馬鹿みたいだ…。
「姫川さん、どうぞっ」
「ど、どうも…」
クッキーを差し出される。そっと受け取り、なんだか恥ずかしくなってもくもくと食べる。
「おいしいですかー?」
「は、はい」
「よかったですー。わたしはおいしいってどんな気持ちか分からないからうらやましいですー」
「そ、そうですか…」
なんだか悪い気がして急いで飲み込む。でも彼女は「まずい」という気持ちも知らない…そんなことを考えてしまい、ふと視線を移すと彼女がじっとこちらを見ていて、一瞬喉につまらせそうになった。
「‥‥‥」
「あ、あの…」
「はいっ」
「…ごめんなさい。お名前、なんでしたっけ」
「はいっ。正式名称はHMX−12型ですが、皆さんマルチと呼んでくださいますっ」
「じゃあマルチさん、クッキーありがとうございました…。そろそろ5時間目が始まります…」
「はっ、そうですねっ。それじゃ犬さんさようならー。お元気でーーっ」
「わんっ」
歩き出しかけて、ふと背中ごしに小犬とマルチを見比べる。
子犬同様、ロボットも人間じゃないから。
だから仲良くしてくれるだろうか…。
「姫川さ〜〜〜ん」
いつものように帰ろうとすると、もう耳に慣れた声が追いかけてくる。同じく帰ろうとしていた生徒たちが変な目で見る。マルチは気にしていない…というより気づいていなかった。
「あのっ、お供してもいいでしょうか」
「は、はい…」
「よかったぁ。ありがとうございますー」
「マルチさんがお礼言うことじゃないです…」
いつもなら早く出たいはずの校門の前。ちょっと苦笑する琴音に、マルチは困った顔をする。
「でも。あっ、"さん"なんて付けなくてもマルチで十分ですー」
「じゃあ、マルチちゃん」
「は、はいっ」
「わ、私も琴音でいいです」
「じゃあ琴音さんですねっ」
「は、はい…」
女の子が何人かくすくす笑いながら通り過ぎる。
かあっと耳が熱くなった。他人から見ればさぞ滑稽な光景だろう。相手がロボットでないとまともに話もできず、友達もできない琴音。でもロボットだから。他の「人間」のように偏見の目で見ない。琴音のことを傷つけない。優しく接してくれる。
人目を避けるように一緒に下校する。学校前の坂を下り、公園を通りながら、マルチから色々なことを聞いた。開発スタッフのこと、学校のこと、いずれ作られる妹たち、マルチの使命のこと…。望まずに試験機として生み出されたにもかかわらず、マルチは前向きで、明るくて、自然で、琴音とは正反対だった。
「わたし、琴音さんのお役に立ちたいです」
無表情に行き交いする自動車を横に、バス停に向かいながら、唐突にマルチがそんなことを言った。
「1週間の間に誰かのお役に立てないなら、わたしの作られた意味がないです。頑張りますから、何でもしますから、わたしにできることがあったらおっしゃってください」
「‥‥‥‥‥」
なんて言ったらいいのか分からなかった。
バス停ではもう一体のメイドロボが待っていて、並んでバスに乗ったマルチはぶんぶんと琴音に手を振った。
「さようならーっ。また明日ーーっ」
「さ、さよなら…」
バスが走り去っていく。一人ぼっちになって、マルチの消えた先をずっと見つめていた。
「行ってきます…」
声をかけても母親からの返事はない。いつものように。
早足で学校に向かう。マルチに会いたい。一時のものでしかないのは解っているけど、けど…。
「おはようございまーす!」
「お、おはようございます…」
深入りしない方がいいと思う。彼女はロボットで、週末には完全に消えてしまう。
でもたった一人の味方だった。みんなに嫌われている琴音に、マルチだけが笑顔を向けてくれる。マルチ一人だけが。
「今日もいいお天気ですねー」
「は、はい」
「楽しい一日になるといいですねー」
周囲からひそひそ声が聞こえる。琴音は聞かないことにした。
あの人たちがみんな消えて、マルチだけ残ればいいのに。
次の日も、次の日も、琴音はマルチと一緒だった。マルチの前では予知は起きず、マルチ自身その話はせず、琴音は安心して時を過ごした。
貴重な時間は矢のように過ぎていく。金曜日。明日にはテスト期間が終わるが、考えないことにした。
「それでは行ってきま〜す」
昼、マルチはパンを買いに出ていった。皆に押し付けられて。自分たちで買えって言おうとして、結局何も言えなかった。せめて手伝おうとしたが笑顔で固辞された。
「‥‥‥‥」
マルチのいない教室は元の灰色だ。周囲の目、話し声。壁に掛けられた時計が不自然に大きく時を刻む。
「あのロボットってさあ」
机だけを見ていた琴音に、そんな言葉が聞こえてきた。
「欠陥品だよね。姫川にばっかり構ってんじゃん」
…一瞬、血の気が引く。
「しっ、聞こえるよっ!」
「だってそうでしょ。メイドロボがあからさまに贔屓するなんて欠陥品じゃない」
反射的に顔を上げて相手を見る。
琴音の目は敵意に満ちていただろう。発言者も、その話し相手も、クラス中にたじろぐような緊張が走る。その生徒は脅えながら口をとがらせた。
「な、なによ、姫川…」
マルチちゃんを悪く言わないで!
そう言おうとして口の中が乾く。言葉が張りついて出てこない。言わなきゃいけないのに、マルチは欠陥品なんかじゃないって…。言わなきゃいけないのに。
…勇気が萎えていき、結局なにも言えないまま、琴音は視線を元に戻した。安堵の息をついた生徒たちがまた元の雑談に戻る。無駄なざわめきが通り過ぎる中で、琴音はずっと小さな手を震わせていた。悔しい。なんで何も言えなかったんだろう。
「ただいま戻りましたーっ」
何も知らないマルチはパンを配り終えるとまっすぐ琴音のところへ来る。
固い笑顔で出迎えた。
「琴音さん?」
マルチの顔がのぞき込む。
「え?」
「どうなさったんですかー。元気ないですー」
「う、ううん。なんでもないですよ…」
放課後立ち寄った公園で。琴音は少しでも一緒にいたくて、マルチをベンチに誘った。いつものようにマルチは笑顔で話をする。琴音に気を使っているわけでなく、ただ自然に。
「もう明日なんですねー」
ぽつりとマルチがそんなことを言う。
明日にはもうテスト期間は終わってしまう。終わったらどうしたらいいんだろう? 琴音は何も変わってなかった。友達が悪く言われても何も言えない、意気地なしの臆病者。
「マルチちゃん、私…」
俯いた琴音の声が聞こえなかったのか、マルチはそのまま言葉を続ける。
「短い間でしたけど、とっても楽しかったです。ありがとうございましたー」
テストの終わったマルチはデータとしてのみ保管され、二度と目覚めることはない…。
そう聞いた。
なのにどうしてそんなことが言えるんだろう。
「寂しくないんですか?」
「え?」
「それでいいんですか? どうして…そんな平気な顔ができるんですか?」
暗い声で問う琴音に、マルチは困ったように笑った。
「わ、わたしはロボットですから…。心なんてないですから、平気です。最初からそのために作られたんですから」
息が苦しい。
ロボットだから。琴音に会えなくなっても平気。寂しいだなんて思ってくれない。
最初から解りきってたこと。マルチはロボットで、その動作はプログラムされたもので、その想いはデータで、琴音に優しくしてくれたのは…。
「おいしいとか、まずいとか、そういう気持ちはわたしにはわかりません。だから人間の方がうらやましいです。皆さん素晴らしいと思います」
マルチは知らない。知らないからそんなことが言える。
暗然として、琴音はずっと閉じこめていた思いを口にした。
「私はロボットになりたいです」
「…琴音さん?」
琴音が何を言っているのか解らなかったのだろう。ロボットにそんな思考はないから。
でも琴音の本心だ。せき止めていたものが外れたように、琴音は悲鳴を吐き続けた。
「ロボットになりたいです。寂しいのも、悲しいのも、苦しいのも辛いのも一人ぼっちなのも感じたくないです!あなたみたいになりたいのに。なんで私はこうなんですか?心なんて!」
制服の上から心臓を握る。抉り出せるなら抉り出したい…
「こんな心なんていりません!」
「なんで…そんなことおっしゃるんですか?」
マルチも俯いて、ぎゅっとスカートの膝を握って、少し震える声でそう言った。
「あなたの心はあなただけのものなのに。わたしみたいにプログラムされたものじゃない。ロボットなんて人間の役に立つためだけに造られた機械です。その目的のためだけの道具です」
「違います! 人間なんて卑怯で、身勝手で、平気で他人を傷つける最低の生き物です。ロボットが人間に劣るなんて誰が決めたんですか? あなたに心がないなら、なら心なんてない方がいいんです。汚い心を持ってる人間はロボットに劣るんです」
吐き捨てるように。マルチを困らせるだけなのに。
互いに目を合わせないまま、暗い空気が2人を覆った。
「…琴音さんの心は汚くなんかないです。そんなこと言わないでください…」
涙目になったマルチがそう言う。彼女には解ってもらえない。ロボットはそういうものだから。だから自分は、ロボットになりた…
「―――――― !」
不意に琴音の目が見開かれる。
「琴音さん?」
マルチも異変に気づく。琴音の顔は血の気が引き、死人のように真っ青だった。
「琴音さん、どうなさったんですか!?」
「マルチちゃんが、壊れる…」
「え…?」
映像。
道路に飛び出すマルチに車が突っ込んでくる。無音のスローモーション。腕が砕け、部品を飛び散らせながら地面に落ちたマルチはもうピクリとも動かなかった。虚ろな目。千切れた胴体から回路が覗く――
「い……や……」
「え、あの、予知ですか!?えと、琴音さん、琴音さぁん!」
マルチががくがくと肩を揺する。何もできない。予知に対してどう抵抗しても無駄だ。もうすぐマルチは物言わぬ鉄の塊になる。優しくて、前向きで、ドジだけど一生懸命なメイドロボが。自分のせいで。
「琴音さん!?」
マルチを振り払うようにして走り出す。
方法はひとつだけ。これがただの予知でなくて、自分が呼んだ不幸なら。
自分がいなくなればいい。走った先には道路がある。ガードレールの切れ目からそのまま道へ飛び出した。
猛スピードの車が近づいてくる。
マルチの悲鳴。ブレーキの音。すべて何かにかき消され、景色が黒く変わっていく。
琴音は何か安心したようにその場で立ち止まった。
マルチが残るべきなんだ。
「――ねさん!」
まだそんな声がした。
ぼんやりと意識が戻り、うっすらと開けた目に光が飛び込んでくる。
「琴音さん!よかったぁ、琴音さん…」
涙でぐしゃぐしゃになったマルチの顔があった。生きてる?何も変わらずに…。
呆然とした表情でゆっくりと身を起こす。
「マルチちゃん…」
「こ、琴音さぁぁん」
「大丈夫ですか?」
「は、はいっ」
「どこも壊れてないですか…?」
「はいっ! 予知があったんですね?でも外れました!わたしは無事です、琴音さんも無事です。琴音さんは疫病神なんかじゃないです。だから、だから…」
ぽろぽろと落ちる涙が琴音の手を濡らした。
「だからもうあんな事しないでください!わたし、回路が壊れるかと思いました。琴音さんに何かあったらわたし、どうしたらいいんですか…」
マルチの言葉を放心したように聞いていた。何故なんだろう? どうしてこんな。
マルチの話では確かに琴音は車にはね飛ばされたが、その瞬間に何か透明な壁のようなものが琴音を守ったように見えたという。気のせいかもしれませんけど…とマルチは自信なさげだった。
混乱して、頭のはっきりしないまま家に帰り、そのまま金曜日は終わった。
こんな心が、なんでまだ生きてるんだろう…。
最後の日。
学校に行きたくなかった。マルチと別れたくなかった。重い気分でベッドから起きた。
やはり誰とも関わるべきじゃなかったのかもしれない。たとえ相手がロボットでも。予知だって、昨日は何故だか実現しなかったけど、今日はどうなるかわからない。
それでもこのまま、このままマルチが世界から消えてしまうのは怖くて…琴音は足を引きずるように学校へ向かった。
「おはようございまーす」
校門で、マルチは箒を動かしながら皆に挨拶していた。琴音の姿を見ると目を輝かせて駆け寄ってきた。
「おはよう、マルチちゃん…」
それに答える前にマルチの声が響く。
「琴音さん、超能力の謎がわかりました!」
校舎裏に引っ張ってくる。マルチが大声であんなことを言うものだから周りの注視を浴びて、琴音は慌ててマルチの手を取り誰もいない場所へ連れてきたのだ。
「な、何かわかったんですか…?」
にこにこしているマルチに、少し脅えて琴音は聞く。何を言われるのだろう。
「はいっ、セリオさんに聞いたんです。最初からセリオさんに相談すればよかったんですよね。すみませんー、わたしが気づかなくて…」
「そ、それより何がわかったんですか?」
「は、はいー」
セリオというのが先日会ったもう一体のメイドロボだと説明した上で、マルチはまず核心を口にした。琴音の能力は念動力ではないかと。
「セリオさんがデータベースで検索してくださったんですが、琴音さんと似た例はいくつかあるそうです。超能力はストレスがきっかけでよく起こるそうで、特に思い詰めたり物事を悪く考えがちな人にそれが多いらしくて。起きないといいようなことに『起きたらどうしよう』と思うあまり、それが頭から離れなくなって、結局自らの念動力でそれを起こしてしまうと…」
「ま、待ってください!」
混乱して琴音は思わず頭を押さえた。予知じゃなくて念動力?それじゃ今までのことは?
「そ、そんなこと急に言われても…」
「えと、それじゃあそこに小石がありますよね。あれ動かせますか?」
「う、動かせるわけないです…!」
もしあれが動いたら。それはすべて自分のせいだったということだ。予知したのでも、呼び寄せたのでもなく、正真正銘自分が起こしていたのか。そんな馬鹿な。
動かないで…。
そう思ったとたん、小石がふわりと宙に浮いた。
「ほら!」
呆然とする琴音に、マルチが嬉しそうに手を握る。
「やっぱり念動力でした!これで正体がわかりましたねー。…琴音さん?」
マルチの言葉が途切れる。小石が落ち、琴音は真っ青になってそれを見つめていた。
「私のせい…だったんですか?全部私が起こして…」
「ち、違います!琴音さんの超能力は無意識で起きたものです。でも、それを自覚すれば意識してコントロールできるはずです。そうセリオさんが言ってました。だからもう大丈夫です!」
はっとして不安そうなマルチに気づく。琴音を心配して、調べてくれて、喜んでくれると思って教えてくれたのに。琴音は慌てて笑顔を作った。
「あ、ありがとうございます…。それじゃ後は、私次第なんですね」
「そうです!琴音さんならきっと大丈夫ですよー」
その時始業を告げるチャイムが鳴り、2人は手を繋いで校舎へ急ぐ。途中、マルチが心配そうに聞く。
「あの…わたし、琴音さんのお役に立てましたか?」
「は、はい。もちろん!」
微笑んで答える琴音に、マルチは輝くような笑顔を向けた。
琴音は目線を逸らして、マルチから見えない位置で笑みを消した。
その日の授業は上の空で聞いていた。
結局今まで心のどこかで自分は不幸だと思っていた。自分の責任でない予知能力に捕らわれ、周囲から迫害を受ける悲劇の主人公。でも実は全て琴音が起こしていたことになる。自分のやったことで自分が不幸だと思ってた、馬鹿か。
『後は琴音次第』
でも自分に何ができるだろう?
もう変な超常現象のせいにできない。今までのことはすべて私の念動力でしたと、それが明らかになったとき許してもらえるだろうか。説明して、謝って、許してもらって、マルチ以外の友達を作る…?
無理だ。
「琴音さん」
びくっ、と体が震える。マルチの言葉で現実に引き戻される。
「お掃除終わりましたから…一緒に帰りませんか?」
「は、はいっ…」
いつの間にか土曜の学校は終わっていたようだ。並んで校舎を出て、最後に学校にお辞儀するマルチを遠くのように見る。
(明日からどうしよう)
(明日からどうしよう)
(明日からどうしよう)
自分で何かしなくちゃいけない。でも無理だ、できるわけない。
最後の日に。もうマルチは学校に来ることすらできないのに、なのに自分のことしか考えない自分。何も変わってない。
並んで歩きながら、マルチも口数は少なかった。
あれだけ多くのものをもらって。これから消されるメイドロボに、何のお返しもできない。
坂を下り、公園の前を過ぎる。一歩一歩、バス停が近づいてくる。
「わたし…」
不意にマルチが口を開いた。
「琴音さんにお会いできて良かったです。おかげで本当に楽しい毎日でした。ありがとうございました」
まっすぐに琴音の目を見て。笑顔でぺこりと頭を下げる。
優しい言葉のひとつひとつ。自分と比べて、すべて自分に突き刺さる。
「わたし、人間の方々が大好きです」
琴音の心に気づいてるのか。気づかずにか、屈託のない笑顔でそう言った。
「琴音さんが大好きです。大好きです。琴音さん…どうかお元気で」
バス停に着いた。
マルチに言いたいこと、言わなくちゃいけないことは山ほどあるのに。
セリオが来た。超能力のことを調べてくれたことに、細い声でお礼を言う。お気になさらずに、と機械的な返事が聞こえた。
バスが来る。
「それじゃ、琴音さん…」
セリオが先に乗り込み、続こうとするマルチの体がふと止まる。琴音の手が、マルチの制服の袖をつかんでいる。
「琴音さん…」
「行かないでください…!」
ようやく口にしたのはそんなことだった。俯いたまま、唇を噛んで、琴音はそんなことしか言えなかった。
「お願い…」
バスのクラクションが鳴る。マルチはあたふたと前後を振り返る。
「い、いずれわたしの妹が発売されます。わたしのデータは彼女たちに受け継がれますから…。琴音さんからいただいた気持ちも、きっと大事にしますから。妹たちも琴音さんみたいなご主人様なら」
クラクションが再度鳴る。マルチは琴音の手を取ると、そっと放して、そのままバスのステップを登った。
「…わたしも、行きたくないです」
ぽつりと、そう呟いて。
ドアが閉まる。弾かれたように琴音は走り出した。
「マルチちゃん!」
窓の下に駆け寄る。マルチに心があるのは、そんなの分かりきったことだったのに。優しいのも、寂しいのも、笑顔も、涙も、みんなマルチの心だったのに!
「マルチちゃん!」
エンジンがかかる。マルチが不器用に窓を開けようとするのを、後ろから別のロボットの手が助ける。窓が開いてマルチが身を乗り出した。琴音は精一杯の力を込めて叫んだ。
「ありがとうございました!」
「琴音さん…」
「私、あなたから沢山のものをもらいました!幸せだったのは私の方でした!あなたがいなかったら私、私は…」
バスがゆっくりと動き出す。それに合わせて足を進めながら、マルチの姿を目に焼き付けて。
「そう言っていただけて幸せです!わたし、琴音さんみたいなご主人様にお仕えしたかったです!」
「マルチちゃんは友達です!」
琴音は走っていた。マルチは虚を突かれたように戸惑う。
「でも、わたしはロボットで…」
「知ってます!でもマルチちゃんは友達です、私のたった一人の、一番大切な、最高の友達です!!」
だんだんと遠ざかっていく。もう追いつけなかった。琴音が最後に見たマルチは…戸惑いながら、それでも少しだけ嬉しそうに微笑んでいた。
バスの姿が小さくなる。琴音は息を切らせてその場に座り込んだ。
「マルチちゃん…」
何もかもが凍ったように、泣くこともできなかった。
春の日は暖かい。
制服姿で、公園のベンチに座って、琴音はぼんやりと鳩を見ていた。
結局琴音はマルチの期待には応えられなかった。
今日は学校には行ってない。マルチのいない学校なんて行きたくない。朝からこの公園に来て、何をするでもなく時間が過ぎるのを待った。たぶん明日も行かないだろう。マルチのこと、超能力のこと、立ち向かう気力も、勇気も、意志も、琴音には何もなかった。
そろそろ夕方が近い。
「どうですか、あなたも」
不意に鳩の餌を差し出される。顔を上げると白衣を着た中年の男が立っていたが、琴音は再び視線を戻した。少し前なら逃げ出したかもしれない。今の琴音にはそんな力もなく、ただ廃人のように座っているだけで、男は小さくため息をついて隣に腰かけた。
「いやぁ、いい天気ですなぁ」
反応がないので男は諦めて、鳩に餌を撒きつづけた。
「…ロボットに心は必要だと思いますかね?」
自分が聞かれてるのだということに気づくのに暫くかかった。
疑念の目を向ける琴音に、男は眼鏡の奥で苦笑いする。
「いやなに、うちの職場にもロボットがたくさん入りましてね。どいつもこいつも人間味がない連中でして…。あなたは、ロボットに心があった方がいいと思いますか?」
「心にも、いろいろありますから…」
問われた琴音は、目線を落として自嘲気味に呟いた。
「この前、私の学校にメイドロボが来ました。とっても優しくていい子で。あんな心を持ったロボットならきっとみんなを幸せにできると思います。
でも私みたいに弱い心ならそんなの必要ないです。ただの機械の方がずっとましです。周りに迷惑をかけるだけです…」
「そう卑下したもんでもないと思いますがねぇ」
男はそう言って立ち上がると、懐から白い封筒を取り出し、琴音に差し出す。
「マルチからの手紙です」
数瞬。
死んだような琴音の目に色が戻る。驚きの表情で男を見上げる。ようやく言葉を理解し、震える手で封筒を受け取る。
「あなたは…」
「私からもお礼を言わなくちゃいけませんね。私たちの娘と仲良くしていただいたことにね」
琴音が何をしたろう?マルチに救ってもらって、その10分の1もお返しできなくて。
「お、お礼だなんて…。マルチちゃんには大事な時間だったのに、なのに私、私は…」
「自分の作ったものが誰かを救うなんて、技術者としてこれ以上の喜びはないですよ。それじゃ」
男はそう言って立ち去った。本当なら謝らなくちゃいけなかった。マルチにあれだけ心を砕かせて、当の琴音はまだこんなところにいるのだから。
焦るように封筒を開ける。折り畳まれたプリンタ用紙を広げると、綺麗に印刷された字が並ぶ。
マルチの最後の言葉だった。
『
琴音さんへ
もうすぐわたしの役目も終わりますが、最後に主任さんがプリンタに接続してくださいました。
もっと時間があったら琴音さんと色んなお話ができたのですが…せめて今はお手紙を書きますね。
初めてお会いしたとき、琴音さんはとても寂しそうに見えました。
何かお役に立ちたいって思いました。ロボットなのに思い上がりだったかもしれませんし、一人の方にだけ係わるのは試作機として失敗品だったかもしれません。でも後悔はしてません。
わたしなんかのこと友達だって言ってくださって、本当に本当に嬉しかったです。
ロボットがこんなこと思ってはいけないのかもしれないけど、でも嬉しかったんです。あの言葉だけで、短い間でもわたしが生み出された意味はあったって、わたしがそう思ってるだけかもしれませんけど、でもそう思うんです。ありがとうございました、琴音さん。
ひとつだけ、わがままなんですが…。
封筒の中に、わたしの回路で使われたネジが入ってます。琴音さんさえよかったら学校へ行くときは一緒に連れてってもらえませんか? あんまり意味はないかもしれませんけど、気持ちだけでも琴音さんや皆さんと一緒に卒業したいです。気が向いたらで構いませんので、よろしくお願いします。
…今主任さんが、それは『感傷』と呼ぶんだよと教えてくださいました。
ロボットのわたしに本当にそんなものがあるのか分からないけど、でもあるのなら嬉しいです。わたしの憧れでしたから。
わたしを保健室に連れていってくれた琴音さんは、犬さんと仲良しさんだった琴音さんは、私と仲良くしてくださった琴音さんは綺麗な心の持ち主です。わたしはそう思います。だから大好きでした。
そろそろ時間なのでこれでお終いにします。
想いを言葉にするのって難しいですね。でも琴音さんと出会えて本当に幸せでした。琴音さんのこれからが幸せでありますように。
お元気で。さようなら。
マルチ
』
「マルチちゃん…」
封筒を逆さまに振ると、小さなネジが転がり出てきた。
手のひらに乗せる。誰よりも優しかったメイドロボ。こんな姿になってしまった。ネジを握りしめて、手紙を何度も読み返す。
涙で滲んでも。何度も、何度も。嗚咽が漏れ、初めて流れる涙を拭わずに。もうマルチはいないのだ。
日は落ちて、空の星と街灯の光の下で、琴音はずっと泣き続けた。
「行ってきます」
家を出る。生徒手帳に小さなネジを挟んで。
今日も空は晴れて、日に日に初夏が近づいてくる。今まで灰色だった世界は、よく見れば生命に満ちている。
でもマルチはいない。この世のどこにも、もうマルチは存在しない。ただ、たった8日間でも彼女がいたこと。その残してくれた心を胸に、琴音は通学路を歩いていく。
校門の前で立ち止まる。
弱くて、意気地なしで、臆病な自分の心。目的のために作られ、それゆえ純粋で綺麗なロボットの心にはどうしたってかなわない。でもマルチがいなくて寂しいのは、彼女を想って辛いのは、それは自分に心があるから。どんな形でも自分の心は自分のものだから。
最後まで想ってくれた友達を、せめて裏切らないように。
「行ってくるね、マルチちゃん」
大きく息を吸って、姫川琴音は学校へ入っていった。
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