中学に上がったばかりの頃だったろうか。いつものようにひどく咳込んで廊下に屈み込んだことがある。電球の薄暗い灯りだけが照らす中、いくら口を押さえても、不快な音は少しも止まらないのだ。
「未緒ちゃん!」
 母親が飛び出してきて未緒の背中をさすっている様だった。
 呼吸は次第に戻ってくるが、それでも咳は鳴り止まない。その一つ一つが今自分に触れている母に突き刺さっているのだと。
 そしてそれでも自分は存在する。


 「私なんて、生まれてこなければ良かったんです」








如月BDSS: 死に至る病








この最後の意味において、絶望は死に至る病である。自己のうちなるこの病は、永遠に死ぬことであり、死ぬべくして死ねないことである。それは死を死ぬことである。なんという苦しい矛盾であろうか

(キルケゴール「死に至る病」)




 19世紀の哲学者キルケゴールによると、絶望は人間に恒常的に存在する。
 それは人間が人間であることに対する不安であり、自分にもっとも関わり合いのある存在――すなわち自分自身そのものに最初から含まれるものである。たとえ日々を楽しく生きているように見えても、実は自分の絶望に気づいていないだけなのだ。

 自分は気づいているのだろうか。
 そこまで考えて未緒は本を閉じた。




 もうすぐ未緒の誕生日である。


「お祝い、していいかな?」
 放課後の帰り道。控えめに沙希がそう聞くので、未緒は用意していたとおりに返答した。
「ええ、もちろんですよ」
「わぁ、それじゃなにかご馳走するね! 何がいいかなぁ、未緒ちゃんてあんまり脂っこいものは苦手だものね。ええと…」
 沙希は嬉しそうだった。自分は彼女を裏切っているのに。
「…未緒ちゃん?」
「あ、す、すみません」
 取り繕うように微笑む未緒を、沙希は心配そうにのぞき込む。
「ええと…。なにか悩んでる?わたしでよかったら話してほしいな」
「何も悩んでませんよ」
「そ、そう…」
 しゅんとする沙希に悪いと思うのだが、実際に悩んでいるわけではない。何せ答えは出ているのだ。実に心躍らない答えだが。
「本当に、大丈夫ですよ」
「そう?うん…。それじゃ、また明日ね」
「はい」
 笑顔で手を振りながら去る沙希を、未緒は暫く見送っていた。




「ただいま…」
「お、お帰りなさい」

 静かな家の中で、母は未緒を出迎えた。父は仕事が忙しくあまり顔を合わせない。家は今日も静寂に覆われている。
 ――自分一人だったら、どんなにいいかと思うことがある。

「すぐご飯にするわね。ええ、今日も疲れたでしょう? 外は寒いものね。お部屋に暖房入れておいたから…」
 彼女は未緒を大事にする。そうしないと未緒が消えてしまうかのように。
 疲れて、脅えた囚人の様に。

「ありがとう、お母さん」

 未緒は微笑むと階段を上がっていった。その指先一つに至るまで抵抗しても、あの時の事は呼び出される。自分の言葉が鳴り響く。



 私なんて

 生まれてこなければ

 よかったんです



「―――――――――――!」

 未緒は自分の部屋に駆け込むと、電気も点けぬまま扉に鍵をかけた。


 自分のせいだ! あの日自分があんなことを言ったから、それ以来母は罪悪感にかられ笑顔を失って生きている。
 にもかかわらずあの言葉は自分にとっては真実でもある。消すことも忘れることも出来ないのだ。


 未緒は衝動に駆られて鞄を壁に投げつけようとした。しかしそれを抱えたままゆっくりと腕を下に降ろし、電気も点けぬままベッドに倒れる。


 自分の存在が幻ならどんなにいいだろうに。




彼は自分の境遇を絶望的なものと考える。だが実はそう考えている自分の状態こそが絶望的なのである




 人間の偉大さは自分の惨めなことを知っている点にある。樹木は自分の惨めなことを知らない――とパスカルは言った。
 その意見はもっともであるが、さて自分が偉大であるかというとそうとも思えない。はたして自分とパスカルとどちらが正しいのであろうか。あそこに見える伝説の樹と自分とはどちらが偉大なのであろうか。

「はあ…」
 未緒は校庭の隅でぽつんと座っていた。

 冬でも葉は茂っている。その無数の葉に不意に未緒は気分が悪くなった。


「隣、いいかな」
 顔を上げると沙希が立っていた。
「ええ」
 未緒はにこやかに微笑むと、沙希が座りやすいように少し移動する。

 沙希は何も言わなかったが、未緒を心配しているのはわかった。未緒自身も心配をかけたいと思っているわけではないのだけれど。
「すみません…。ちょっと最近調子が今一つなだけなんです」
「な、何かあったの?」
「いいえ。気候のせいかもしれませんね」
 こうやって平気で嘘をつけるのだ。顔色一つ変えずに。
「うん…。最近寒いよね」
「そうですね」
「だったらこんな所にいないで、早く中に入った方がいいよ」
「ええ…そうですね」
 彼女の優しさは嬉しい。彼女を見ていると、この世界には価値があると思う。

 でもそれは自分以外の世界なのだ。
 沙希は他者であって自己ではない。


「それじゃね、未緒ちゃん」
「ええ、それじゃ」




罪にある状態は新しい罪であり、この状態がそもそも罪なのである




 駅を出て一人で歩いていると、捨てられた子犬が悲しそうな目でこちらを見ていた。

 結論を言うと未緒は子犬を見捨てた。
 そこから家までは処刑場への道を歩くようだった。



「未緒ちゃん」
 母親が控えめにドアを叩く。未緒は答えなかった。
「…明日、誕生日よね」
「はい」

 少しの沈黙の後、母親はためらいがちに言う。
「お祝いしましょうね。そうね、何がいいかしら。ケーキも買わないと…」
「お母さん」

 未緒は静かに立ち上がると、閉ざした扉に手を置いた。
「…もう、十分ですから」


 母親が逃げるように立ち去る音が聞こえる。肺の中にある塊を深々と吐き出した。
 せめて彼女だけでも、解放されるといいのだけれど。






自己はある程度自己自身を憎んでおり、いわば自分のことについては何も聞こうとせず知ろうともしない





 家の中は静まり返っており、未緒は一人机の前で考えていた。

 自分とは何であるのか。
 実存は本質に先立つ、とはサルトルの言葉である。本質より前に、自分は確かにここに存在する。「如月未緒」という人間が存在することは、自分が考え続ける限り否定できない。否定できないのだ。

「私は誰ですか?」


 そう声に出してみて、その芝居がかった態度にまた嫌気がさす。


 コトン、と眼鏡を置くと、未緒はゆっくり目を閉じた。
 考えても、考えても、答えなんて出るわけないのに。

 この毎日に意味を付けようとしても、それは単なる捏造に思えるのだ。



 存在はあまりに重い。何しろ唯一否定しきれないものだから。






かくして彼は絶望する。彼の絶望は、彼が彼自身であろうと欲しないことである






「未緒ちゃん、誕生日おめでとう!」
「ありがとうございます」
 沙希の行きつけの小さな喫茶店で、カウンターを借りた沙希が自ら紅茶を淹れてくれた。
 甘さを押さえたクッキーとケーキ。想いのこもったお手製の。彼女の善意の何もかもが嬉しい。問題は自分にある。
「来年の今ごろはどうしてるかなぁ」
「そうですね…。そろそろ進路を考えないといけませんね」
 考えてどうするのだろう?
 本当にあと何十年も生きていくのだろうか。

「お味はどうかな?」
「はい、おいしいですよ。とっても」
 空虚な自分。
 自己の存在は疑いえない。疑いえないはずなのに、信じることもできないのだ。
 如月未緒は手を動かし、クッキーを食べ、ケーキを取る。

「ごちそうさまでした…」


 でも彼女は善意で祝ってくれるのだし、傷つけるわけにはいかない。自分は喜んでいるのだ。それでいい。他にどうしようもない。どうしようも。

「未緒ちゃん」
 ささやかな誕生会が終わって、沙希が躊躇うように口を開く。しかし未緒には彼女が何を躊躇っているのか判らなかった。微笑んで尋ねる前に沙希が言う。
「ごめん…。楽しくなかったみたいね、ごめんね…」



「未緒ちゃん!!」
 沙希の叫びに耳をふさいで、弾かれたように外へ出た。目の前が真っ暗になったまま。
 何も見えず何処かへ走っている。沙希を傷つけた。自分は沙希を傷つけたのだ。

 走りながら、誰かにぶつかったかもしれない。息を切らせながら、誰かを突き飛ばしたかもしれない。嫌だ。嫌だ。でも逃げられない。


(私は自分が嫌いです)

(罰を!
 一切のエゴイズム、一切の罪悪を否定してください。否定されなくてはならないんです。否定されないと…)


 決して死ぬことのない、死に至る病。
 そして自分は絶望し、絶望する自分を知ってまた絶望する。




 人のいない方へ走った未緒は河原に出ていた。

(はぁっ…)

 胸を押さえて芝生の上に膝をつく。苦しい。息ができない。こんなの自分じゃない。
 でもやはり自分だ。嫌になるほどに。

 自分のあり方は自由の刑に処せられていると。
 しかしそもそもの存在は、自由などありはしないのだ。


 じっとしたまま膝に顔を埋めていた。川の流れる音の中で、誰かがこちらへ歩いてくる。

「…あなたは私みたいなのが友達で嫌にならないんですか…?」

 沙希はゆっくりと頭を振った。伏せたままの未緒にもそれがわかった。
 見捨てていいのに。突き放しても構わないのに。
「そんなことない」

(私はあなたの思ってるような人間じゃないんです)

 結局いくら考えても答えは出ずに言い知れない閉塞感だけが残る。
 それはつまり深い深い井戸の中で自分自身を削り出すようなものだ。

「そんなことないよ…」
 それでも沙希はそう言うのだ。それでも――


「あなたには判りません」
「‥‥‥‥」
 彼女が手を差し伸べるのは義務感か。
 自分が手を伸ばさないのは臆病か、それとも。

「未緒ちゃん…。顔上げてよ」

 手を伸ばさない。自分で選んでいる。自分を嫌いながら、今の自分を肯定しているのだ。
 絶望して自分自身であろうとする絶望。
「ごめんなさい…。少し、一人にしてください」
「未緒ちゃん…」
 考えなくてはいけない。自分とは何か。なぜここにいるのか?


「ねぇ」
「私は…」
 呪詛のように未緒は呟く。
「あなたのこと妬んでました。あなたは明るくて優しくて友達も大勢いて、なのに私はなんでこんななんだろうって思ってました。だけど自分では何もしようとせずに自分の中に逃げ込んでるんです。私は卑怯者のエゴイストです。自分で判ってて、それを放置したままでいるんです」
 自分にとっても抑揚のない声だった。沙希が狼狽している。そんなつもりはなかったのだけれど。
「そ、そんなの関係ないよ。誰にでもあると思うな。わたしだって…」
「他人にあるかどうかは無意味なんです。他の人にもあるから構わないということはないんです。私にあるのが問題なんです」
「そんなの…」
 突っぱねるように。
 差し伸べられた手を取るわけにはいかない。それは正しいことではない。 
 自分のことは、自分にしか判らないのだ。


「放っておいてください…」
 そう懇願しても、沙希はその場を離れようとはしなかった。暫くの間、黙って水の流れを見つめていた。
「ねぇ」
「聞きたくありません」
 拒否する未緒の体を沙希は小さく揺すった。
「ねぇ未緒ちゃん、わたし…」
 かける言葉が見つからないらしかった。口を尽くして未緒を誉めても無意味きわまりない。どちらも先に出ている結論を前提にして話しているから、その結論が異なる以上接点はないのだ。
「‥‥‥‥‥‥」
 沙希も黙り込んでしまい、未緒の隣でじっと座っていた。
 未緒は顔を上げると、沙希を見ないように川の流れに目をやっていた。


「きゃっ」
 不意に未緒の周囲の世界が変わる。全てがぼんやりとして形を失う。
 あわてて沙希を見ると、おぼろげながら眼鏡をかけている彼女の顔が映った。
「か、返してください」
 ひょいと避けられて未緒の手は空を切る。眼鏡を取り上げられただけで、未緒の世界は消えてしまうのだ。
「未緒ちゃんに見えてるのと、わたしに見えてるのは違うんだよね…」
 沙希が言って、眼鏡を返すと少し額を押さえた。度の強さに目眩を起こしたらしい。
「あ、当たり前です」
「うん…でも同じものだよね」
 沙希の声は柔らかいが、必死になってるのが隠しても見える。未緒が何か言う前に、沙希の手が自分の手に重ねられる。
「ね、わたし未緒ちゃんみたいに頭良くないし、難しいことはわからないけど。
 でもわたし未緒ちゃんが好きだし、友達だと思ってる。それじゃ…駄目かな?」

「あなたは…」
 苛立ったように未緒は声を上げる。沙希に握られた手は、どうしてもその存在を主張するのだ。
「何を判って言ってるんですか? 何をどの程度判って…!」

「でも、でもね」
 彼女にとっては――ものすごく言い難いことだったのではと思う。そもそも喫茶店で口にしたことも。でもその瞳は真っ直ぐにこちらを見て誤魔化しを許さず、未緒以上に未緒自身を捉えようとしていた。
「未緒ちゃんは判ってるの?」


 視線を逸らす。本当に、何をどの程度判っているのだろう。
「ごめんね、気に障ったら謝るけど…。
 でも未緒ちゃんて、未緒ちゃんを見てないと思う。本の中ばかり見てると思うな。
 難しいことは考えられるのに、簡単なことは考えてないよ。
 わたしはそう思うな……」

 弾かれたように未緒は沙希を睨み付けた。
 未緒の視線に沙希はたじろぐが、それでも目を逸らそうとはしなかった。

「私は…!」
 言いかけて口を閉ざす。全てがただの観念的思弁に思えてくる。

 無駄だったのだろうか。机上の、単なる空論でしかないのか。
 他人から見れば陶酔に見えるだろうとは承知していたけど、それも承知していたつもりだっただけなのか。

「私は…」
 はっと沙希が息をのんだ。自分も。眼鏡の内側から何かが流れ落ちる。
 自分は泣いていたのだ。
「私…」
「ご、ごめん! ごめん未緒ちゃん、わたし…」
 謝りかけて、未緒の顔を見つめる。自分の涙に呆然としている未緒を。
 少しの間互いに我を忘れて時間が止まる。沙希はそろそろと手を差し伸べると…
そっと未緒の体を抱きしめた。
「やっ…」
 駄目だ。
 彼女の存在はあまりに白く、自分まで白紙に戻されてしまう。
 混乱した未緒は、沙希の腕の中で必死に抵抗した。
「は、放してください」
「やだ…」
「放してください!」
「やだ…!」
 混乱したまま未緒の涙は落ち続ける。
 壊されたくなかったはずなのに…



 暫くの間未緒は沙希に包まれていた。
 でもいつまでもそうしている訳にもいかなかったので――そっと体を引き離す。びくりと震える沙希は、もう否定できぬほどに未緒の中に存在している。
 未緒は軽く頭を振ると、今度は真っ直ぐに沙希を見つめた。

「あなたを好きになってもいいでしょうか」

 その言葉を理解できず彼女はきょとんとする。

「私は自分を好きにはなれそうにはないです……
 それでもあなたを、好きになってもいいでしょうか」
 未緒は手を伸ばす。今の自分のただひとつ確かなものに。

 その問いに対して「いい」と言うべきか「それでは駄目だ」と言うべきか、哲学者は教えてはくれないだろう。逡巡する沙希に、未緒は静かに待っていた。
「‥‥うん‥‥」


 そしてそれが最初の階梯。立ち上がって手を握り、もう一度確認する。

「……うん!」

 その沙希の笑顔が今の自分に拠り所を与えてくれるのだと。
 そして未緒もまた、初めて微笑んだ。

「ありがとう……」



 帰り際、沙希はプレゼントの包みを渡す。綺麗にラッピングされたその箱からは黄色い星形の小さなオブジェクトが出てきた。それはよく見ればデジタル数字の表示された時計だったのだが、それよりも未緒はそれが星であることが何か嬉しかった。
「ありがとうございます。今日はいろんなものを貰ってばかりですね…」
「そ、そんなことないよ」
 沙希は控えめに手を振って、はにかんだように微笑んだ。時間は矢が飛ぶように過ぎ、別れ道で再度手を重ねる。
「あのね…。誕生日おめでとう」
「はい…」
「…頑張ろうね!」
「はい…!」
 そして何度も振り返りながら小さくなっていく沙希を、未緒はいつまでも見送っていた。
 その贈り物を胸に抱いたまま。


 もう一度組み立て直そう。そのための自分なのだから。
 たとえ歩みは遅れても、いずれ真理は照らされよう――




「ただいま」

 家の中はやはり静かだった。凍った空気は凍ったままだった。
 台所の方から料理の匂いが流れてくる。少し気分が悪くなる、それでも。

「お帰りなさい、未緒ちゃん」
 母は優しく未緒を出迎えた。贖罪としての優しさを…。
 でも未緒は返事の代わりに手のひらの星を見せ、怪訝そうな母に静かに口を開く。

「友達にもらったんです」

 時をまた動かそう。
 凍らせるのはもう止めにして。

「誕生日のプレゼントなんです……
 生んでくださって、ありがとうございました」


 母はしばらく幻を見ているかのように立ち尽くしていた。何か言おうと口を開くが、星と未緒を見比べたまま何も言えない。
「未緒……」
 少し経って嗚咽が部屋に流れる。未緒はそっと母の背に手をやって、料理の並ぶテーブルに一緒についた。
「今までごめんなさい…。でも今日は、どうか祝福してください」
「ええ…。未緒、ええ……」
 蝋燭に火が灯り、そしてまた消える。
 それだけのことにも意味があるのだと、母の笑顔を見て、未緒はそう思うのだった。








 部屋の中は今までと変わらない。未緒がここに存在するように、世界もまた存在するのだ、それでも。


(私は自分が嫌いです)

 なのに自分を肯定するのは、絶望しているからなのだろうか?

 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。自分のことなんて何も判っていなかった。でも今は沙希がここにいる。そして自分も、手を閉じれば確かにここに。


 手の中には星がある。宇宙に比べれば塵のような自分。それでも考えることを止めはしない。それが苦悩をもたらすとしても。幸福よりも価値あるもののために。



(だから私はここにいます)



 道を探そう。確かなものを求めて。


 だから私はここにいます――










<END>





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