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この作品は「CLANNAD」(c)Keyの世界及びキャラクターを借りて創作されています。
CLANNAD全体に関する重大なネタバレを含みます。
『もし町に人と同じように、意志や心があるとして
そして、そこに住む人たちを幸せにしようって、そんな思いでいるとしたら
こんな奇跡も、そんな町のしわざかもしれないです』
その世界の終焉まで
§1
わたしの意識がいつ生まれたのかは知れない。
敢えて言うなら名前が付いた時だろうが、その名前すら、時につれて何度も変わった。
最初は何をすれば良いか分からず、長い時間をただ座り込んでいた。
眼前には広大な草原。
そこでは幾つもの光たちが、様々に明度を変えながら飛び交っている。
それが『彼ら』の想いの投影だと、ようやく気付いたのは、相当の時を経てからだった。
それこそがわたしと、この世界を形作ったのだということも。
光の玉に触れてみる。
わたしは実体を持たないし、彼らを直接見ることも、言葉を交わすこともできない。
でも、何となくではあるけど、触れることで想いを感じることはできる。
遠いけれど、近い世界。木の葉の表と裏のように、決して交わらないけど、でも切り離せない世界。
何もする事がなかったわたしに、初めて役目ができた。
彼らの幸せを祈ること。
その想いは同じように、あちらの世界に投影される。
わたしの力なんて徴々たるものだけど、時間だけは山ほどあるのだ。塵も積もれば、幸せの後押しくらいはできるかもしれない。
そうしている間に、この世界にも、僅かずつにせよ変化が生じ始めた。
まず、獣が現れるようになった。
恐る恐る近づいてみて、それが彼らの作ったものと分かる。作ったものが投影された形。
たぶん今までも、虫や菌類の形で存在はしていたのだろう。小さくて気付かなかっただけで。
一、二体とはいえ獣が現れたということは、それだけ高度なものが作られるようになったということだ。
その時は、単純に進歩を喜んでいた。
そして、わたし自身も少し変わった。
生まれてから一歩も動いたことがなかったけれど、初めて動いてみようという気になった。
この世界は、どこまで続いているのだろう。
暖かい草原の中を、一方向へと進んでいく。獣も一緒に、この冒険に付いてきてくれた。
といっても冒険というほどの事はなく、すぐに端まで着いてしまったのだけど。
「あら」
わたし以外の声。
世界の端の向こう側に、わたしでない誰かがいた。
豪奢で整った印象。わたしは自分の姿を意識したことはないけど、彼女より貧相なのは確かだ。
「ご機嫌よう」
「こ、こんにちは」
「いつ挨拶に来るかと思っていたけど、随分遅かったのね」
ようやく分かった。彼女は、『隣町の意志』だ。
「ご、ごめんなさい。あの、挨拶が要るって知らなくて」
「まあ、田舎者だから仕方ないわね。都会であるこの私をよく見学していきなさい」
「は、はあ…」
何だか理不尽な気もするが、言われた通り、彼女の世界に目を向ける。
獣の数が多かった。
全体的に、わたしのところと比べて賑やかだった。
「随分と盛えているんですね」
「当然ね。ここは昔から街道が通っていて、交通の要所だもの」
それから延々と、隣町の歴史と隆盛について聞かされた。
長い話だったが、誰かと話すこと自体が初めてだったから、飽きることはなかった。
「だから、光もこんなに多いんですね」
「それは…」
乱舞する光の群れに、正直な感想を言ったつもりだったが、急に彼女の表情が陰る。
「人数が多いだけよ。一人当たりにしたら…それ程でもないわ」
「そうなんですか?」
けれど、表情の裏にあるものを読み取ることはできなかった。初めての交流で、有頂点になっていたから。
「あの、また会いに来てもいいですか?」
「そうね、好きになさい。後少しかもしれないけれど」
有頂点になっていたから――その言葉の意味に、その時は気付かなかった。
すぐに再訪するのも迷惑な気がしたので、少し間を置いて…と言っても、この世界の時間は曖昧なので、人間の時間で何年なのかは知らないけど…ある程度経ってから、もう一度会いに行った。
(――――!)
風景が一変していた。
増えた獣たちが、草原を食い荒らしている。
光の玉も減っている。私の世界でも、天災や飢饉で一時的に減ったことはあったけど、そういうのとは違うようだ。
「あら、よく来たわね」
「あ、あの、何があったんですか?」
「別に何もないわよ? 自然な、当たり前のこと」
話す彼女の印象は、平穏で落ち着いていて、ずっと前に覚悟を決めていたかのような気がした。
「人が、あまり町を想わなくなったということ」
「…ええっ!?」
「仕方のないことよ。昔の人間は、良かれ悪しかれ土地に縛られていた。集団から離れて生きていけなかった。それが『都会』という状態になるにつれ、その束縛から解放されたの。個人は個人として存在するようになったの」
「そんな、そんなの信じられません。彼らは一人では生きられないはずです」
「程度の問題よ。あなたみたいな田舎なら、当分は大丈夫でしょうけど」
彼女は小さく嘆息すると、動き回る獣たちを見つめた。
「ここまで急な変化でなければ、まだどうにかできたのだけれど」
「そ、そうですっ。どうしてこんな急に」
「少し前に、維新とかいう出来事があったらしいわね。以来世の中の移り変わりといったら、滝の水の落ちるが如くよ。…時代についていけないものは、消え去るのが宿命だわ」
「そ、それでいいんですか? 寂しくはないんですか?」
「どうして? 言ったでしょう、自然な、当たり前のことだって」
そう、鼻で笑われてしまう。
「町が発展した結果として、私なしでも立ち行くようになったのだもの。むしろ誇りに思うことだわ」
彼女は高潔さを崩さなかったけど、その姿は、どこかしら儚く感じられた。
自分の世界の中心で、わたしは小さくなって震えていた。
どんなことにも終わりはあるという、要するにそれだけの話だ。
けれど、今まで自分の終わりなど想像したこともなかったから、ただ脅えるしかできなかった。
また少し経ってから、恐る恐る彼女の様子を見に行ってみる。
世界の端の向こう側は、何もなくなっていた。
隣町の意志は消えたのだ。
わたしは元の場所に戻り、再び小さくなって耳を塞いだ。
『あなたみたいな田舎なら、当分は大丈夫でしょうけど』
その『当分』は、そうして無為に過ぎていった。
春を表していた風景は、夏を飛び越えて秋になった。
色彩豊かだった草原は、どこか荒涼としたものに変わる。
時間が曖昧なこの世界だから、その先の未来も少し感じることができた。
じきに雪が降る。
それで終わり。決して春の来ない冬だ。
この頃になると、さすがにわたしも締めの境地だった。
草を食む獣たちの姿が、ずっと田舎だったこの町にも、発展の二文字が押し寄せつつあることを知らせる。
(――それは、悲しんではいけないことなんだ)
変化というのは、つまりは古いものが消えるということ。
世界は除々に削り取られ、補充もままならなず縮小していく。
もう、この世界の役割は終わった。町の心なんて、もう誰も信じていないし求めてもいない。
だから……
『――助けてくれ』
顔を上げる。
声? 聞こえるわけがないのに。そんな繁がりなんて、もう無いはずなのに。
眼前にあったのは光の玉。
ひときわ大きく、明るく。光の喊った世界で、こんなにも輝くなんて、どれだけ強い想いなんだろう。
触れた瞬間、その想いが流れ込む。
『――助けてくれ』
『誰でもいい。娘を助けてくれ』
『代わりに俺がどうなってもいい。だから娘を』
『渚の命を――!』
誰かが、死に掛けているようだった。
別に珍しいことではない。町ができてから今まで、どれだけの人間が亡くなったことか。
同じように助けを求める光に、畿度触れたか。その都度わたしにできたのは、一緒に悲しむこと位だった。
(…でも)
今、わたしが必要とされている。
省る人なんて、もう誰もいないと思ってたのに、わたしに助けを求めている。
周囲を見回す。もうじき終わる世界。私そのもの。
どうせ終わるのなら…!
迷っている暇はなかった。わたしは世界の端まで飛ぶと、その向こう、何もない漆黒の中へ身を投げだ。
世界の裏側へ行くために。
感覚が除々にはっきりする。下の方で誰かが叫んでる。叫ぶ誰かと、その腕に抱かれた小さな女の子。
やり方は分かっていた。急降下して、女の子の体に飛び込んだ。
中は冷え切っていて、命はどこにも感じられない。それを、わたしの命で代用する。風船に空気を入れるように、手足の隅々まで浸透させる。
同時に、それはわたしがこの子になるということだ。
『渚』という名前と、記憶の全てが伝達される。寂しい。お父さんとお母さんがいなくて寂しい。でも、わがままは言っちゃいけない。待っていよう。たとえ雪が降っても、二人を待っていよう…。
(大丈夫だよ。お父さんも後悔してるみたいだし、きっともう渚を一人になんかしないよ)
(だから、目を覚まして…)
ゆっくりと、光が目に差し込んでくる。
初めて視覚を通して…といっても渚の目だけれど、わたしが見たのは、歓喜にむせぶ父親の顔だった。
「ありがとう…ありがとうッ…!」
わたしを意識しての言葉ではないだろう。
それでも、自分の行動が肯定されたように思えた。もとより、町の住人たちのために生まれたわたしだ。住人であるこの子のため、身を捧げるのも、相応しい最後かもしれない。
「お父さん…」
まだ朦朧とした意識の中で、渚が小さく呟く。
渚が手を動かし、父親に抱きつく。
不思議な感覚だった。今まで遠くに感じるだけだったのが、今は直接経験している。長くても、あと百年あるかないかの命になってしまったけど…最後に、人の生き方を見せてもらうことにしよう。
かくして、わたしの奇妙な居候生活が始まったのだった。
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この作品は「CLANNAD」(c)Keyの世界及びキャラクターを借りて創作されています。
CLANNAD全体に関する重大なネタバレを含みます。
§2
「…というわけで、俺はただ、この場所で祈っただけなんだ」
あれから数日。
すっかり元気になった渚を連れて、父親があの場所を訪れていた。
「どうしてお前が助かったのか、俺にもよく分からねぇ…」
「???」
「俺に分からねぇんだから、お前に分かるわけねぇよな。ま、ここが大事な場所だってことだけ覚えておけや」
渚の目が、その場所へ向く。
大きな古い樹と、苔むした地面。
時間から取り残されたような、本当に何もない、ただの緑地。
なのに何故だろう。わたし自身も、どこか特別な印象を、この場所に感じる。
(もしかして、ここは…)
ひとつのイメージが浮かぶ。初めて、この町が生まれた場所。まだ石器や土器が使われていた頃、他の地から流れてきた人たちが、初めて住み着いた場所…の気がする。
その時代にわたしの意識は生まれていなかったから、ただの気のせいかもしれないけど…。もしそうなのだとしたら、本当に遠くまで来たものだと思う。
そんなわたしの思考が影響したのかしていないのか、渚は笑顔になって
「はいっ」
と、父親に頷いた。
いやいや、影響したりしてはいけないのだ。渚の人生は渚のもの。わたしが干渉なんてしないよう、奥で大人しくしていよう…。
そうして暫くは傍観者に徹していたが、一年ほど経つと、そうも言っていられなくなってきた。
町の変化が速すぎる…。
『隣町のベッドタウン化』という言葉が、そこここで聞こえる。
例えば、ある日渚が行き着けの駄菓子屋へ行くと、閉店の貼り紙が寂しく貼られていた。
「どうしちゃったのかなぁ。渚ちゃん、知ってる?」
「そういえば、お母さんが言っていました。駄菓子屋のおばあちゃん、もうお年だし、老人ホームに入ろうか悩んでたって」
「でもさー」
と、近くにいた男子のグループが割り込んでくる。
「ここは取りこわして、ゲーセンを作るらしいぜ。すっげー楽しみだよな」
「もう、これだから男子はー。そんなの作るより、ファンシーショップとかできてほしいのにー」
脇で男女戦争が起きているのをよそに、渚だけはじっと閉まった店を見つめていた。
(おばあちゃん、大丈夫でしょうか…。このお店も、なくなってしまうのはさびしいです…)
渚のその思考は嬉しかったが、わたしは感傷に浸ってばかりもいられない。
人間世界の時間の流れが、ここまで速いものだったなんて。
残してきた、自分の世界のことを思う。今頃どうなっているだろう。
渚が一生を全うする間くらいは保つつもりだったが、こうなると危うくなってきた。
(でも、どうしよう…)
実際問題として、どうにもしようがない。
とにかく、もう少し様子を見てみよう。
そう考えて、再度渚の奥へ引きこもった。
様子を見る、というのは単なる問題の先送りだと、ようやく気付いたのは、数年が経過した頃だった。
渚が熱を出して倒れたのだ。
「大丈夫か渚っ! しっかりしろ渚ぁぁぁ!」
「すぐにお医者様が来ますからね! 気をしっかり持つんですよっ!」
「もう、二人とも大げさです…」
雪の日のトラウマから大騒ぎする両親に、渚は申し訳ないような、少し嬉しいような感情だった。
医者が診察に来たが、原因は分からない。病気ではないのだから当然だ。単純に、渚を支える命の力が足りなくなったのだ。
それだけ、私の世界が縮小してしまったことを意味する。
発熱は、身体からの休めという信号だ。半年くらい寝ていれば持ち直すとは思うのだけど…。
『今日も熱が下がりません…』
『もしかして、ずっとこのままなんでしょうか…』
『友達は、わたしのことを忘れてしまわないでしょうか…』
わたしにとってはたった半年でも、人間にはそうでないらしい。両親が毎日元気付けているとはいえ、下降線をたどる渚の精神に、わたしまで参ってしまいそうだった。
半年経ってようやく回復すると、古河家は快気祝いのお祭り騒ぎ。渚にも何とか笑顔が戻る。
とはいえ、数年すればまた同じ繰り返しになるのは目に見えている。次は半年では済まないかもしれない。これ以上先送りはできない。どうにかしないと…。
渚が高校受験で机にかじりついていた頃、わたしは意を決して、意識の一部を外に飛ばした。
ひとつだけ当てがある。光の玉だ。
千年近くの間祈り続けた、幸せになって欲しいという願いの投影。
わたしの力なんて微々たるものだけど、塵も積もれば奇跡だって起こせる。あの日に失った渚自身の命を、取り戻すことができるかもしれない。
(よし――頑張って探そう)
基本的に、光は住人たちに憑いているので、無理矢理引っ張り出すわけにもいかない。
でも、光の玉が役目を果たしたとき……その人が幸せになったときに、次の役目を求めて放出される。それが狙い目だ。いくつかは役目を終えて、誰にも憑かずに浮遊中の光があるはずだ。
本来すべての町の人へと贈ったものを、かき集めて渚一人に使うのは少々気が引けるが、もはや四の五の言っていられない。
その日は町の上空を飛び回って、空を漂う光たちを片端から回収した。
次の日は草の陰とか石の裏とか、隠れているものを。それも探し尽くすと、今度は幸せになりそうな人に張り付いて、光が放出されるのを待った。
その間に渚は無事高校に受かり、春を迎えた頃には、光も結構な数を揃えることができた。
(これで足りるかは分からない)
(でも、もう殆ど見つからないし…)
(よし、あと一つだけ手に入ったら、渚に使おう。そうしよう)
それは高校生活最初の日。つつがなく入学式を終え、下校途中の渚から、わたしは意識を切り離す。
こんな暖かい春の日だ。きっと幸せな誰かがいるはず。そう思っていたのだけれど…。
「きぁあああーーーっ!」
ブレーキ音と、それに続く通行人の悲鳴が、淡い期待を打ち砕いた。
「女の子が轢かれたぞ!」
「早く! 早く救急車を!」
見たくもないのに、分かってしまう。
小柄な女の子が、血塗れになって倒れている。渚と同じ制服。どう見ても助からない。
可哀想だが、事故では仕方ない。車が普及して以来、こんなのはよくある事だ。
(…あれ)
手中の光たちが騒いでる。この子を助けろっていうの? でも、それでは渚を救えない。
ああ、けれど、あの時もそう思ったっけ。こんなのはよくある事なのに、結局は助けてしまって…。
『おねえちゃん』
光を通じて、少女から最期の想いが流れ込んでくる。
『おねえちゃん、風子はわかってますから』
『風子に頑張ってほしくて、おねえちゃんはわざと冷たくしたんですよね』
『だから、風子は頑張りました』
『勇気を出して、隣の席の人に話しかけてみたんです』
『三井さんっていうんですよ』
『友達になれそうな気がします』
『早く…報告して…』
『おねえちゃんに…安心して…もらわなきゃ…』
命の灯が消えていく。少女の姉は悲報を聞くことになる。幸せだった家族が、悲しみに彩られることになる…。
(ああっ―――もう!)
夜の家族団欒。嬉しそうに高校一日目の事を報告する渚の中で、わたしは地の底まで落ち込んでいた。
渚を助ける唯一の手段を、手放してしまった。
もう、あれだけの光を集めることは不可能だ。
それで事故に遭った少女が助かったならまだ救いもあるが、わたしが無駄に俊巡していたせいで、手遅れになってしまった。一命は取りとめても、意識までは戻らなかった。
目覚めるのは五年後か十年後か…。その間、周りの家族たちは苦しむことになる。
どうしてわたしのする事は、こう裏目裏目なのだろう。
それでも、死んでしまうよりはいいと、当人たちは思ってくれるだろうか。
「渚、素敵な高校生活になるといいですね」
「ま、三年間悔いのねぇようにな」
「はいっ、頑張りますっ」
渚を救う手段はなくなった。後は、発熱と休息を繰り返しながら、騙し騙し生きていってもらうしかない。
それでも死ぬよりはいいと、そう思ってくれるだろうか…。
幸いにして町の開発が一段落したため、しばらくは渚の体も保ったが、それでも二年と少し経った頃に再び発熱した。
「どういうことなんだよ、ちくしょう!」
医者にも説明不可能な症状に、父親も苛立ちを隠せない。
「落ち着いてください、秋生さん」
「でもようっ、どうして渚ばかりこんな目に…」
「一番辛いのは渚なんですよ」
「くっ…」
両親の悲痛な目に、責められているようで胸が痛い。
「すまねえな、渚」
「そんなことないです。二人とも、わたしをこんなにも心配してくれて、すごく嬉しいです」
「まだ焦るような歳じゃないんですから、渚はゆっくり大人になればいいんですよ」
「はいっ」
それでも、出席日数不足で留年が決まったときは、さすがに渚もへこんだようだった。
申し訳ない一方で、どうしてそんなに急ぐのかと、半ば逆切れのように思ってしまう。
たかが一年や二年、長い目で見れば瞬きのようなものなのに…。
「大丈夫です。行けます」
新学期が始まる段になって、渚は強く復帰を主張した。
中にいるわたしとしては、命が十分に戻っていないことを知っている。まだ九ヶ月しか休んでいない。できればもう半年は寝ていてほしい。
が、渚としてはそうもいかないらしい。強い意志に身体が押さえ込まれたのか、熱まで下がっている。そうなると、両親も登校を止める理由はない。
二度目の三年生となって、渚は新たな気持ちで坂道を登っていった。
…そして、暗い気持ちで帰ってきた。
『分かっていましたけど、知っている人が誰もいません…』
たったの一年、それだけで渚の居場所は無くなっていた。
本当に本当に、何度でも思うけど、どうして人間の時間はこうも早いのだろう!
『…あんぱんっ』
それから数日間、渚の学校生活は苦行のようだった。
好きな食べ物を励みにしないと、坂道を登っていけないほどに。
非常に良くない。
こんな辛い、苦しい毎日は……良くないのは当たり前だけど、命の面でも望ましくない。ただでさえわたしの、町の力が弱まっているのに、渚の生きる意志まで萎んでしまったら。今や、風の前の小さな蝋燭の火のようだ。
といってわたしには何もできない。
誰か、状況を変えてくれる人間が現れてくれないものか――
「見つければいいだけだろ」
「次の楽しいこととか、うれしいことを見つければいいだけだろ」
――数週間を待たずして、その人物は現れた。
渚は顔を上げ、歩き出す。目の前の男子の背中を追って、坂道を登っていく。
この出会いが吉だったのか凶だったのか、何年か後に、わたしはもう一度考えることになる。
* * *
一ヶ月が経過した。
渚は再び、熱を出して倒れていた。
彼…岡崎君に出会って、渚に生きる気力が生まれた。
それは良かったのだが、続く日々が激動的すぎた。
一緒にお昼を食べ、留年していることを話し、演劇部の設立に向けて動き出し、雨の中で待ち、彼を傷つけて、それでも何とか関係は続いて。
顧問のことで揉め事になり、彼と交際を始めて、バスケットボールの試合を行い、同じ家で暮らすことになり。口づけを交わし、創立者祭を目前にして、両親の過去を知ってしまい、けれどもそれを乗り越えて――。
それだけの出来事が、一ヶ月にも満たない間に起こったのだ。
(いきなり急流の中に飛び込まれた気分だよ…)
……変化。
それは、わたしの世界が滅びに向かった要因だ。
元々、十分に回復したわけではない状態だったのだ。布団の中で無念を噛みしめている渚には気の毒だが、当分は何の変化もない日々を過ごして、この先へ進む力を蓄えてもらうしかない。
『朋也くん、今頃どうしているでしょうか…』
彼のことを考えている渚に、わたしもつい、自分の世界のことを考える。
この一ヶ月の間で、ひとつ気になることがあった。
”とても悲しい、冬の日の、幻想物語”
それは…本来あるはずだった、わたしの世界の未来図だ。
偶然の一致などではない。渚の脳裏に浮かんだのは、確かにわたしの知る風景だった。
わたしの存在が、渚の深層意識に影響してしまったのだろうか。
(それにしては、あの具体的な内容は何だったんだろう…)
世界にたった一人残された女の子。
ガラクタを集めて作った人形。
だんご大家族の歌。
わたしの記憶を基に、渚が創作を加えただけかもしれない。でも、何かが妙に引っかかる。
時間が明確なこちらの世界は、一秒先の出来事すら知ることができない。
この先に、何が待っているのだろう。
渚の目を通して天井を見上げながら、どこか言いしれない不安を感じていた。
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§3
渚が、妊娠、した。
二人が愛し合っていた最中は、目を閉じ耳を塞いでいたわたしも、事ここに至ると現実を直視せざるを得ない。
…わたしに、母子両方の命を支える力はない。
* * *
あの創立者祭から十ヶ月間、年度の終わりまで力を蓄えた渚は、次の一年を使って、何とか高校を卒業した。
高校さえ出れば、あとは自由な道を進めるのが彼らの一生であるらしい。
岡崎君とも結婚したし、余生をのんびり生きていく限りでは何とかなると、そう安心した矢先だった。
…忘れていた。結婚の次には、出産が来るものなのだ。
「女の子なら、きっと渚に似て可愛い子になるよな」
「い、いえっ。男の子なら朋也くん似のかっこいい子になりますっ」
「かあっ。生まれてもいない内に、呆れた親バカどもだぜ」
「秋生さんも昔、同じことを言ってましたよ」
「なにっ、マジかっ」
「やっぱり二人は似た者同士なんですねっ」
『のおおおーーーっ!』
和気あいあいの一家だが、今の渚に人ひとりの命を新たに産み出す力はない。
このまま推移すれば、確実に死産になる。
一度で諦める渚ではないだろうから、その次も、その次も死産になる。
その時の彼らの表情なんて、想像したくもなかった。
(かといって、子供の方を助けようとすれば、渚が死んじゃう…)
…諦めてもらうしかない。
子供なしでも、幸せに暮らす夫婦はたくさんある。そう考えてもらうしかない。
ぐずぐずしている暇はなかった。相変わらず時の流れは速く、自宅出産がいいとか、名前は汐に決定とか、もうそんな話をしている。
悩んだ挙げ句、わたしは渚を支えている力を徐々に弱めた。
しばらくして、渚の身体は発熱する。
歓迎一辺倒だった周囲も、反対へと旗を変えていく。
「子供さ…。産むの…難しいってさ…」
けれど…。
「わたし、産みたいです」
渚は頑固だった。
「わたしの強さで産んであげたいです。母親の強さで…」
強さとか弱さとか、そういう次元の問題ではないのだけれど…。
渚は、そう思い込んでしまっている。
そろそろ付き合いも長い。一度こうと決めた渚が、どれだけ頑固か十分承知していた。一方で、その頑固を貴けば、何らかの死が待っていることも。
時間もない。堕ろすなら今すぐでないと間に合わない。
今まで守ってきた一線を、越えることを決意するしかなかった。
…渚と直接話をするのだ。
「渚や、渚や、起きなさい」
布団の中、熱でぼんやりとしている渚に、なるベく優しく声をかける。
誰の目にも見えず聞こえないわたしだが、唯一渚だけは例外だ。内側から語りかけることができる。
目を開けた渚には、何もない場所に、あたかも白い靄があるように見えているはずだ。
「ど、どどどどなたですかっ!?」
「え、ええと…わたしはあなたのご先祖様です」
「そ、そうでしたか! あなた様のお陰で今のわたしがありますっ。なむあみだぶつなむあみだぶつ」
拝み始める渚に軽く咳払いして、わたしは本題に入る。
「渚、あなたのしようとしていることはとても無謀です」
「え…」
柔らかな笑顔が反転する。
「それはやっぱり、出産のことでしょうか…」
「そうです。このままではあなたの命が危ないと、周りから言われているはずです」
「で、でもっ。自分が助かるために、しおちゃんの命を犠牲にするわけには」
「人工中絶に強硬に反対している人たちですら、母体に危険が及ぶ場合は致仕方ないと認めています」
「でもっ…」
「渚や、あなたは考えたことはあるのですか。もしあなたに万一のことがあったら、残された家族たちがどれほど悲しむか」
「………」
渚との付き合いも長い。どこを攻めるのが有効か、わたしはよく分かっている。
「あなたの死は、家族を不幸の底へ叩き落とすことになります。
あなたはそれで平気なのですか。
いつも家族が大切だと言っていたのは、あれは口先だけですか」
「ち、違いますっ! そういうことでは…ないです…」
意地悪な言い方だが、諦めさせるためには仕方ない。
渚は泣きそうな顔で暫く考えていたが、やがて顔を上げた。その目を見て嫌な予感がする。
「おっしゃる通りです。全部全部、わたしの我がままです。しおちゃんのためなんて言って、結局は自分のためです」
「そ、そうですね」
「だから、もう一度みんなにお願いしてみます。わたしの勝手を許してくださいって。それで許してもらえなかったら…考え直します」
なんて手強い…。
この件について、あの人たちは頼りにならない。何だかんだで渚に甘いから、最後には許してしまうだろう。
仕方ない。これだけは言いたくなかったけれど…。
「実は…。あなたの子供も、あなたと同じ病気になる可能性があります」
「ええっ!?」
はっきり決まっているわけではないが、そうなる可能性は十分にある。
「あなたと同じように、何度も発熱して長期間休むことになるのです。子供をそんな目に遭わせたくはないですよね?」
あれだけ苦労した渚だ。これで分かってくれるだろう。
そう思ったのに、あろう事か渚は優しく微笑んだ。
「遭わせたくはないですけど、産まない理由にはなりません」
「どうして…」
「確かに辛い思いもしました。けれど、十分幸せでした。家族がいたから」
渚は目を閉じて、そっと両手を胸に当てる。
「しおちゃんに辛い想いをさせるとしたら、それは申し訳なく思います。でも、朋也くんやお父さんやお母さんがいます。家族さえいれば、きっとしおちゃんは幸せです。生まれてきて良かったって思ってくれます」
渚は一旦言葉を切って…
「…そうでなければ、わたしだって、生まれてこない方が良かったことになってしまいます」
紋り出すように言われたそれは、わたしにそのまま跳ね返ってきた。
そうだ、辛いから生きない方が良いなどと言ってしまったら…。
わたしだって、あのとき渚を助けない方が良かったことになってしまう…。
(…ここまで、か…)
元より、深く立ち入り過ぎている。これ以上の干渉はできない。
「それでは、あなたは出産の日に死にます」
「――はい…」
「…死にます」
そう言ってわたしが消えた後も、渚は色々と考えていたが、やがて眠りの底へ落ちていった。
そこまでの覚悟があるなら仕方ない。
渚の願いを叶えよう。子供の命を助けよう。
ああ、それでも後にして思えば、このときわたしは彼女らに毒され過ぎていたのだ。
前提を簡単に信じてしまったのだから。
『家族さえいれば幸せ』だなんて、そんな前提を疑いもしなかったのだから――。
* * *
渚が煙になって昇っていく。
それを見送ってから、汐の体に戻った。
「しおちゃん、おねむですかー? それじゃ、おねんねしましょうねぇ」
汐の面倒を見ているのは祖母……早苗さんだ。
いつものように優しい、優しすぎるくらいの声。
秋生さんは、普段の豪快さはなりを潜め、ただ神妙に諸々の手続きを進めている。
岡崎君はといえば、葬儀の間も抜け殼のようになっていた。
今は無理のないことであるが、一刻も早く立ち直ってほしい。何より、最後に渚と約束していた。
『これから先、どんなことが待っていようとも…、わたしと出会えたこと、後悔しないでください』
『ずっと…いつまでも、強く生きてください』
『ダメ、でしょうか…』
『わかった…後悔しない…。強く、生き続ける』
そう、言っていたのだ。
それより、赤ん坊の命は予想以上に難しい。
蝋燭自体が小さいから、火が強すぎでも弱すぎても消えてしまう。汐が十歳くらいになるまでは、厳しい舵取りを強いられそうだ。
でも、渚が命を賭けて遺した子供だ。何としても守り抜かないと。
家族の中で、普通に幸せに成長してくれさえすれば、大丈夫とは思うけど…。
「…朋也の奴は、また駄目か」
「そうですね、もう少し時間が必要です…」
数ケ月が過ぎてゆき、二人の間でそんな会話が何度も繰り返されるようになった。
(ま…まあ、まだ猶予はあるよね。今の汐には、父親の状態なんて分からないし)
乳児の間は大丈夫。世話さえしてもらえれば、複雑なことは関係ない。
とはいえ、除々に汐の意識も明確になっていく。
何もなかった世界に、少しずつ区分が生まれていく。食べ物、動く物、守ってくれる存在…。数千年前、わたしの意識が生まれたときも、こんな感じだったのだろうか。
晴れていく視界の中に、相変わらず父親の姿なたい。
代わりに、不安の雲が顔を見せ始めた気がした。
* * *
不安は的中した。
期待は裏切られた。
あの男は、育児を放棄した!
汐は三歳になったというのに、状況は何も変わっていなかった。
岡崎君は渚との約束も守らず、腑抜けたまま酒と煙草に溺れていた。
それを早苗さんが、よせばいいのに汐を連れていくものだから、わたし達は暗い視線を浴びる羽目になる。
「…すみません、帰って下さい…」
「朋也さん、もう三年です。いつまでも、このままというわけにはいかないでしょう?」
「…早苗さんとオッサンには、本当に悪いと思ってます。でも俺、駄目なんですよ…」
ずっと俊巡していた汐が、意を決したように口を開く。
「ぱ……パパ……」
言われた相手は、反射的に顔をそむけた。
拒絶と忌避。汐の小さな心に突き刺さる。
(わたしに実体があれば、殴ってやるのにっ…!)
別に義憤だけで言っているわけではない。汐の心が沈んでいく。それは、岡崎君と会う前の渚と同じだ。
生きる力が減じていく。ただでさえ、子供の弱い命なのに、このままじゃ…。
(汐が大きくなるまで、保たないかもしれない…)
「…また来ますね」
無論早苗さんには知る由もない事だから、彼女はそう言って帰っていった。
「まだ駄目か…」
「もう少し時間が…」
二人は相変わらず、同じ会話を繰り返している。
要は、あんな奴は切り捨ててしまえば良いのだ。秋生さんと早苗さんが、親として汐を育てればいい。現に、事実上そうなっているのだし。
なのに、この二人は大事なところで抜けていた。
一見立派な親に思えるが、渚を死なせた時のように、肝心なところで失敗しているのだ。
「なあ汐。あんな男でも、お前のパパなんだ。それを決して忘れねぇようにな」
「…あっきーは…?」
「俺はパパじゃねえ。何度も言わせんな」
「わたしもママではありません。おばあちゃんですよ」
「まあ俺もおじいちゃんだが…。決してそう呼ぶな、アッキーと呼ベ」
「う、うん…」
気持ちは分からないでもない。岡崎君がいつか立ち直ってくれると信じて、自分たちは一歩引いているのだろう。
でも、そのせいで汐が辛い想いをしている。
町の力は、もうほとんど残っていない。あれからまた開発が進んだ。変わっていないのは、秋生さんが祈ったあの場所くらいだ。
汐自身に生きる希望がないと、成長するまで命が保たない。
二人にはそんなの知る由もないから、岡崎君の成長を待つなんていう、悠長な事ができるのだろうけど…。
(…また、干渉するしかないのかな)
事態を打開するには、わたしから二人に…といっても直接は話せないので、汐を通じて…伝えるしかない。
(人の営みに、干渉すべきでないけど…)
頭を横に振る。もう今更だ。今まで散々関わってきたのだ。躊躇したって仕方ない。
絶対に、汐を死なせるわけにはいかない。
汐の人生が短命に終わったら、いったい渚は、何のために命を懸けたのか分からなくなる。
わたしにしか、何とかできないんだから…。
「汐や、汐や、起きなさい」
一度失敗している方法ではあるが、他にしようがない。
「だあれ…?」
眠い目をこする汐に、私はできるだけ優しく言った。
「…わたしは、あなたのママの知り合いです」
「ママの!?」
汐は目を見開いて飛び起きる。
実際には渚は、わたしの存在なんて知らないまま逝ってしまったけど…。
「ママは!? ママはどこ!?」
「お、落ち着いて。ママはいません」
しょぼんとする汐に、胸が痛くなる。やっぱり、今の状況は間違いなのだ。
「汐。本当は寂しいんですよね? 辛いんですよね?」
「………」
「なら無理をしないで、秋生さんと早苗さんに正直に言うのです。あの二人は気付いてないだけ。汐が言えば分かってくれます」
「……?」
「あの二人が、汐のパパとママになってくれます」
「……!」
汐は一瞬固まってから、ゆっくりと目を伏せた。
「…さびしくないもん…。しおは、つよい子だもん…」
「ね、ねえ汐。あなたは子供なんだから、そんなに我慢しなくていいの。辛かったら、泣きついてもいいんです」
「…でも、さなえさんが」
「早苗さんが?」
「ないていいのは…。おトイレか、パパのむねだけだって…」
なんて残酷な…!
パパの胸とやらが現実に何の役にも立っていない以上、一人で泣けと言われているも同じだ。
「あの人たちの言うことは間違いです!」
「まちがい…?」
「そうです! あなたのパパなんて、あなたに何もしてくれないじゃないですか。あんなパパじゃ嫌だって、周りに言ってやるんです。そうしないとあなたは…」
「パパの…」
「え?」
「パパのわるくちを…いうなぁぁーーっ!」
叫びと同時に衝撃が襲う。
わたしは弾かれるように、汐の意識から追い出されてしまった。
あまりのことに呆然として、数瞬後に我に返ると、汐はガラス状の壁の向こうで耳を塞いでいる。
「ご、ごめんね汐。パパの悪口を言いたいわけじゃないの。ただ、このままだとあなたの身が保たないことは分かってほしくて…」
ガラスを叩きながら呼びかけるが、汐はいやいやをするばかりで聞こうとしない。
何て事。あんな状態の岡崎君でも、汐は父親として慕っているのだ。
汐は何かに耐えるように、ぎゅっと目を閉じている。わたしの言葉を、自分の弱さが生み出したものと思っているのだろうか。
(毋子揃って、そこまで無理に強くならなくてもいいのに…!)
何度も、何度も呼びかけたが、そのたびに汐との距離は遠ざかっていった。
数ヶ月同じことを繰り返し、そうして、わたしは汐との会話を諦めた。
わたしに出来たはずの唯一の手段は、何の成果もなく終わった。
それはつまり、わたしには何も出来ない、ということだった。
(岡崎君…)
意識を飛ばして、彼の様子を見下ろす。
汐の欠けた部分を埋められる存在は、渚の写真を眺めて一人で涙している。
「ばか! そうやって悲しいことから逃げている間に、もっと悲しいことが起きるんだから! 渚の遺志も無駄になって、結局何もかも消えちゃうんだから!」
わたしの声は届かない。この世界の住人ではないから。
殴ろうとする手はすり抜ける。この世界のものではないから。
…これは、自分の世界を捨てた報いなのだろうか。
汐の命は消えていく。
何一つ出来ない、ただ刻限が迫るのを待つだけの時間に、わたしの気は狂いそうだった。
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この作品は「CLANNAD」(c)Keyの世界及びキャラクターを借りて創作されています。
CLANNAD全体に関する重大なネタバレを含みます。
§4
親子が初めて抱き合っている。
二人だけの旅を経て、ようやく現実と向き合った父親が、わんわんと泣く小さな娘を抱きしめている。
それ自体は確かに良いことだった。そうならないよりは、ずっと救いのあることだった。
でも…
(何もかも、遅すぎた…!)
汐に残された時間は少ない。
それを知るのはわたしだけ。絆を取り戻した家族の幸せな時間も、わたしには残酷なものとしか映らなかった。
<いつのまにか…やり終えていたのか…>
岡崎君が父親と和解したのも。
<んーっ、可愛いですっ>
かつて交通事故から助けた少女が、ようやく目を覚ましたのも。
先に待つのが汐の死と知ったら、どうして喜ぶことができるだろう?
せめて岡崎君の改心が半年早ければ、汐も十分な力を蓄えられて、次の発熱を乗り越えられたかもしれない。
ううん、そもそもわたしが渚を止められていれば。
今目の前で、呑気に汐を妹にしようとしている少女を、あのとき助けたりしなければ…。
後悔ばかりが積み重なる中で、残された時間は刻一刻と消えていく。
もう一度だけ、汐の前に姿を現したことがある。
それで何ができるでもないのに、何もできないことに耐えられなかったのだ。
「あ…」
汐は少し警戒気味だったけど、今の幸せな毎日のお陰か、拒絶したりはしなかった。
「こんにちは」
「こ、こんにちは…」
「…お父さんと仲直りできて、よかったね」
「う…うんっ! あのね、この前は一緒に野球をしてね…」
何の屈託もない笑顏が、わたしの胸を切り刻む。
ようやく幸せになれたのに。
「ど、どうしたの? なんで泣いてるの?」
「ごめんなさい、何でもないの」
助けられなくてごめんなさい。
渚は一体、何のために死んだんだろう。
この子は一体、何のために生まれてきたんだろう。
「ねえ、汐…」
「?」
あなたは、生まれてきて良かった?
…そんなこと、聞いたってどうにもなりはしない。
「あの…運動会、楽しみだね」
「うんっ。パパもがんばってくれる」
「そう…じゃあ、わたしはそろそろ帰るね」
「あ、あのね」
「うん?」
「がんばってるからって…ママに教えてあげてね」
「―――」
それ以上直視できず、わたしは姿を消した。
渚だったら、何て言うんだろう。
こんな状況でも、強くいられるんだろうか…。
そして汐は発熱し、最後のカウントダウンが始まった。
束の間の楽しかった時間は終わり、周囲から笑顔が消える。
もう回復しないことを、岡崎君も薄々感じているのだろう。必死に汐を看病しながら、その表情は絶望そのものだった。
また旅行をしたい。そう汐が言う。
聞こえないはずの声が聞こえる。
岡崎君の内心だった。わたしの存在を知らない彼が、わたしに向けて呪詛を吐いていた。
『俺は…』
『俺たち家族は…』
『この町にただ、弄ばれてるだけじゃないのか…』
『悪戯に幸せを与えられ…』
『それを簡単に奪い去られていく…』
『それで…あざ笑っているのだろうか』
『俺たちが悲しむ姿を見て…』
『許せない…』
うるさい馬鹿! 誰のせいだ!
お前のせいだ。お前が、もっとしっかりしてさえすれば、こんな事にはならなかったのに!
ひとしきり罵ってから、ふっと我に帰る。
わたしのせいだ。わたしがこの世界に来なければ、こんな事にはならなかった。
何もしなければ良かった。役目を終えた時点で、従容と消えていれば良かった。かつて、隣町の意志がそうしたように。
…ううん。
この町の意志なんて、最初から生まれなければ良かったんだ…。
最後の日は、わたしがこの世界に来た時と同じく、雪に覆われた街で迎えた。
汐が旅行に行きたいと言う。
岡崎君が汐を抱いて外へ飛び出す。
それら一連の行動が、汐の中にいるわたしの前で、スローモーションのように過ぎていく。
(嫌だ…)
降り続ける雪。
「パパ…だいすき…」
(嫌だ、こんなの…)
そうして呆気なく、汐の心臓は停止する。
(嫌だぁっ…!)
強烈な風が巻き起こり、わたしという存在が吹き飛ばされる。
この世界との繋がりが消えたことで、元の世界に押し戻されるのだ。
十年以上を過ごし、それなりに馴れ親しんだ世界が、眼下に遠ざかっていく。
(嫌っ…! やめて、こんな終わりなんて嫌!)
泣き叫ぶのを止められない。全ては既に終わっていて、無駄と分かっていることなのに。
その時だった。何か人魂のようなものが、眼前を横切っていく。
(あれは…!)
岡崎君の意識の一部だ。偶然巻き込まれたのか、それとも彼の魂まで死んでしまったのか、考える暇もなく、わたしはそれに手を伸ばしていた。
その行動自体は、藁にもすがるという意味だけだった。
だが、掴んだ途端に、藁が一つの可能性に変わる。
(――方法があるかもしれない)
彼を上手く使えば。『可能性』。その言葉から閃いた何かが、少しずつ形を成していく。
荒唐無稽な計画だけど、試す価値はある。どうせもう、失うものなんて何もないのだ。
自分の世界が近づくのを感じながら、掴んだ手に力を込める。
「認めない。こんな結末なんて認めない。
――手伝ってもらうわ。あなたにも責任があるんだから」
その声の響きが酷く冷たかったことに、思いを至す余裕なんてなかった。
久しぶりに、本当に久しぶりに戻ってきた世界は、一見すると何も変わっていなかった。
間もなく死に絶えるのが確定しているのも、以前と同じだった。
そのただ中に、岡崎君の意識を放り出す。
あなたにも選択の余地はあげる。この世界を選ばないなら、どのみち光は扱えない。でも、もしこの世界に生まれることを望んでくれたら…。
そう。頼りはやはり光たちの力だ。
一つの力は小さくても、無数に集まれば汐の死を――いいや、渚の死だって回避できる。
もちろん町に残っていた分は、風子という少女のために使い果たしてしまった。
でも、あれはあくまで漂っていた分だ。本来光たちは幸せの後追しのため、町の住人たちに宿っている。
それをすべて回収する。
光が放出されるのは、町の住人たちが幸せになった時。普通にやっていたのでは、何年かかるか分からない。
(でも、時間が曖昧なこの世界なら…)
世界の寿命は残り少ない。わたしはわたしで、計画の準備を進めることにした。
建物をイメージすると、目の前に小屋が浮かび上がる。
自分の世界だというのに、今の力を反映してか、出来たのはみすぼらしい堀立て小屋だった。まあ、今は気にする状況じゃない。
小屋に入り、机の前で考えをまとめる。
一番の問題は、わたしの声が岡崎君に届かないことだ。
光があちらの世界にある以上、集めるのは彼の仕事。
ここから北北東にしばらく歩けば、少しだけ時間を遡れる。岡崎君が渚と会う前に。
そこで彼を元の世界に戻せば、渚と結ばれない未来もあるだろう。
誰かを幸せにしたり、幸せになる現場に居合わせることもあるだろう。可能性だけなら無限にある。
その先で光を回収して、この世界に戻してくれればいい。
それを、岡崎君にどうやって伝えよう。
わたしと彼は別世界の存在。この世界に来たところで、声も姿も彼に認識できないのは変わらない。
しばらく悩んだ後、わたしは代理を立てることにした。
外から集めてきた土で、人の形を作る。
形だけではすぐに崩れていく。芯を入れないと駄目みたいだ。
自分の胸に手を当て、人としての記憶を取り出した。渚と汐の中で、曲がりなりにも十年以上生きてきたのだ。それなりの質量になっていた。
取り出した途端、胸はやけに虚ろになってしまう。変なの。どうせわたしなんて人間じゃないのに。彼らの幸せを願うだけの、単なる傍観者なのに。内心で独りごちながら、それを土の中に埋め込む。
出来た人形は、芯材のせいか、どことなく渚と汐を足して二で割ったようだった。
目を閉じたままの少女を、壁にもたれさせる。当然ながらぴくりとも動かない。この世界で、もう新しい命なんて生まれない。
わたしの分身なのだから、使うのはわたしの命だ。
少女の頬に両手を添えて、自分の存在を移していく。自分の事ながら、この子が少し不憫になる。目覚めたとき、この子は何も覚えていない。彼と同じ側の存在として作った以上、わたしからは何も伝えられないから。
それでも、一番奥の無意識下に、わたしの存在は薄ぼんやりと残るはずだ。それが良い方向へ誘ってくれますように。岡崎君を導けるのは、あなただけなんだから。
(本当に、穴だらけの計画だよね…)
世界が消えるまで、時間の猶予もあまりない。上手くいくなんて思ってるの? どうしてこんな事してるんだっけ?
ああ、でも、あんな悲しい結末を無くせるなら、何だってしてみせるから…
意識が遠ざかっていく。少女の指がぴくん、と震え、同時にわたしは完全に消えた。
厚いカーテンが何百枚も重なった向こうで、物語が始まっている。
それは夢よりもなお遠く。何が起きているかなんて、わたしという形すらなくなったわたしに、分かるはずもない。
あ……でも、誰の言葉だったっけ。
いつか聞いたそれが、微かだけど今の世界をイメージさせる…。
「それはとてもとても悲しい…」
「冬の日の、幻想物語なんです」
* * *
* * *
『…いろいろなことがわかったの』
『…知らなかったこと、たくさん』
『雪の中で、彼にそう伝える』
『もう駄目なんだと思ってた。このまま力尽きるだけかと思ってた』
『でも、違う…』
『わたしたちは、到達したんだ…』
『…わたしはね…』
『…この世界だった』
『そう伝える』
『徐々に、世界の輪郭がはっきりしてくる』
うん……そう。
あなたは、わたしだった。
『最後の力を振り絞って、彼に伝える』
『わたしは、この世界の意志になること』
『今まで、あなたがいてくれたおかげで、寂しくなかったこと』
『きみは、向こうの世界で光を探さなければいけないこと…』
お疲れ様。
本当に、大変だったんだね。
でも、もう大丈夫。
ここまで来られたなら、わたしたちの目的は達せられる。
『うん…大丈夫』
『ほら、歌おう。お別れの言葉の代わりに…』
『だんごっ… だんごっ…』
風が吹いた。
『さようなら…パパっ…!』
――光景が広がる。
いつか予測した末来と同じ。世界が雪に覆われている。
雪は死の象徴。息も絶え絶えの、頻死の世界が目の前にあった。
(でも…)
成功、したんだ…。
ここは始まりの日に、渚と岡崎君が初めて出会った日に繋がる場所。迂余曲折はあったみたいだけど、最後には到達したんだ。
ありがとう。
分身の体から雪を払う。その体は急速に透けていく。役目を終え、わたしの中へ戻るのだ。
『…あの子は、大丈夫かな』
大丈夫だよ。ここまで成功したんだもの、後は大したことない。無数に分岐する未来の先で、きっと光を見つけだす。
『…うまく見つけられるかな』
それも大丈夫。旅立つまでが思った以上に長かったけど、その分この世界に馴染んだと思うよ。たぶん光の方から寄ってくる。
…ほら!
降り注ぐ雪の中で、一つだけ心を感じられるもの。
大昔に放ったわたしの祈りが、誰かの幸せを見届けた後、岡崎君を通じて戻ってきたのだ。
<朋也。好きだからね>
手に触れた途端、そんな光景が浮かんで消える。
渚以外の誰かと結ばれた未来のようだった。
『………』
そんな複雑そうな顔をしないの。可能性の一つでしかないんだから。
雪に紛れて、次々と光たちが戻ってくる。
<だいじょうぶなの。私のお庭は、広いから>
<わたしは今、たくさんの仲間に支えられているんです>
<学生時代、一緒に馬鹿やった奴らは、一生縁が切れねぇから>
<やあ、久しぶり――…>
<笑ってくれるだろうか…長い、旅の終わりに>
<でも、まぁ…今日は遊んでやるか>
<私はおまえと一緒の春がいい>
分身の瞳が少し曇る。この幸せは一時だけ。その先に過酷な道が待つことを、どことなく感じたのだろう。
でも、その時のわたしの目は、一つのこと以外には冷淡だった。
岡崎君が誰と結ばれようが構わない。その先にあるのが幸福でも不幸でも知らない。
ただ一つ、あの悲しい未来さえ消え去ってくれるなら!
<俺は…居なくなったりはしない>
<わたしは…この子たちを教え続けたいですっ>
これは、渚と結ばれる未来から消た光だ…。でも、その先に待つものだって、光の力があれば変えられる。
やがて光の帰還は途絶え、空は元の灰色に変わる。
代わりに地上は壮観だった。わたしの数百年間の祈りの結晶……全ての光が集まり、世界はまるで天の川のようだった。それが、滅びる前の最後の輝きだったとしても。
さあ、とうとう願いの叶う時がきたよ。準備はいい?
『…うん…』
人形は既に土に戻って、想いの残滓だけが浮かんでいた。
お陰で、この子が苦労して進んできた道も、簡単に戻ることができる。
道程の半分あたり、不幸が決定づけられた日――渚の出産日に繋がる場所へ。そこも既に雪で埋もれていたけど、それすらも突き抜けて、懐かしい声が聞こえてきた。
「…渚っ!」
「俺は、ここにいるぞっ!」
うん。その選択はきっと正しい。
君は知らないだろうけど、これは君が頑張った結果なんだよ。
光たちが姿を消していく。元の位置に、あちらの世界への投影として、町の中に戻るのだ。
町中の力を集めて、渚を助けてくれる。汐の誕生を祝福してくれる。見られないのが残念だけど。
周囲は静かになった。
岡崎君が集めたのとは別の光…元々あった光、住民たちの、町を想う心の投影が、ちらほらと残っている。
その光景は前と変わらない。町を想う人が少なくなって、この世界を維持できなくなって。
そして今、最後の力を使い果たした世界は、周辺から消えていく。
隣町の意志が消えたときのように、何もかもがなくなっていく。
でも、それまで小さかった光の一つが、少し大きく輝き始めた。
町を嫌っていた誰かが、町を好きになってくれたのだ。
わたしには、それだけで十分だった。
「だんごっ、だんごっ…」
町を想う歌を聞きながら、世界の終焉は進んでいく。
…ね、でも、良かったよね。
『うん…』
渚と岡崎君は、出会って良かったって思ってくれてた。
きっとわたしだって、渚を助けて良かったんだよね。
これでみんな、幸せになるんだよね。
『うん、でも…』
え…。
何か、まずいことでもあった?
『わたしは、どうなるのかな…』
え? あなたは、わたしだよ?
わたしと一緒に消えちゃうけど、最後に町に住む人の役に立てて良かったよね?
『ううん、そうじゃなくて…』
『わたし、は、どうなるのかな…』
ざわ、と胸騒ぎが巻き起こる。
わたし…また何か、失敗した…?
『………』
分身は完全に消滅し、答えてくれる者は何もない。
『わたし』?
それがわたしじゃないとしたら、誰だろう? 渚は光の力で元気になり、岡崎君が悲しむこともない。生まれたばかりの汐は、両親が揃って…。
(あ……!)
(あ……あああ!)
あの子は、どうなるの…!?
悲しい未来を無かったことにする。それだけを考えて…
大事なものまで、巻き添えで無くしてしまったんじゃないの!?
世界は縮小し、あの小屋も消え去った。
待って、まだ終わらないで!
どうしよう、取り返しのつかないことをした。まだ消えられない。こんな罪を犯したまま、終焉を迎えるわけにはいかない。
誰か、わたしをもう一度、向こうの世界へ――!
<いますか>
!!
呼応するように声がする。そうだ、岡崎家の人以外で唯一、私と関わった…
<風子です>
<あなたのお名前はなんていうのですか>
<風子とお友達になって、一緒に遊びましょう>
<楽しいことは……ここから始まりますよ>
手を伸ばす。
ごめんね、楽しいことをするためじゃないの。わたしにそんな資格はないの。
でも、今はあなたしか頼れないから…!
足下に漆黒が開き、それと同時に手を引かれる。
世界が終わる前に、もう一度だけ…
今度こそ本当に、最後の旅路だ。
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この作品は「CLANNAD」(c)Keyの世界及びキャラクターを借りて創作されています。
CLANNAD全体に関する重大なネタバレを含みます。
§5
「今日は、少し遠出をします」
新しい家族が増えてから一ヶ月。
ご飯を口に運んでいた朋也くんは、箸を止めて顔を上げました。
「ああ、そういや一ヶ月検診だったな」
「それもありますが、それだけではないです。みんなにしおちゃんを見せて、この町でのママさんデビューを果たそうと思います」
拳を握って決意しますが、なぜか朋也くんは呆れ顔です。
「ママさんデビューって…具体的には何をするんだよ」
「それは…よく分かりませんが、『あーら奥様オホホ』とか言うのではないでしょうか」
「そんなこと真顔で言われてもな」
「いえ、これはとても大事なことです。今こそわたしは母として生まれ変わるんです。マダム渚ですっ」
「ブフー!」
朋也くんの口からごはん粒が吹き出し、ちょっとショックなわたしです。
「なんで笑うんですか…」
「だってマダムって、お前みたいな童顔がマダムって! ヒー苦しい」
「実家に帰らせていただきます」
「なにっ! …そうか、終わりとはこんなに呆気ないものなんだな…」
「え!? いえ、あのですね、今のはほんの冗談で…」
「ブフー!」
「ああっ! もう、朋也くんは意地悪すぎますっ!」
そう抗議したときです。玄関が勢いよく開いて、見なれた人影が飛び込んできました。
「アッキー参上! 大丈夫か渚! 意地の悪い夫にいじめられてんのかそうなんだなぁぁぁっ!」
「よう、お爺さん」
「小僧てめぇ…。お前は今、人類減亡のスイッチを押した」
「そんなことで人類滅亡させないでくださいっ」
「つーわけで渚の遠出には俺が付き添ってやるぜ。小僧はとっとと仕事に行ってきな」
「アンタも働けよ! ったく早苗さんにばっか苦労かけやがってこのオッサンは!」
「ぬあんだとぉ、こっちは早起きしてパン焼いてんだぜ! 寝ぼけてジャムパンにアンコを入れるくらいだぜ!」
「それジャムパンじゃないだろ!」
「あ、あの、あんまり大声を出すと…」
わたしが止めるのも間に合わず、ベッドから泣き声が響き渡ります。
おぎゃあ おぎゃあ
「わわ、しおちゃんっ! はい、よしよしですっ」
「「やべ…」」
「…ふ〜た〜り〜と〜も〜!!」
「「渚、強くなったなっ! 鬼のよーにっ!」」
「何をぴったり呼吸合わせてるんですかっ! もう、早く食べちゃってください、片づきませんからっ!」
「ハイ…ゴチソウサマデシタ…」
ご飯を食べて仕事に出かけていく朋也くんの背中には、大人の哀愁が漂っていました。
「ち、ちょっと厳しく言い過ぎたかもしれませんっ…」
「なーに、気にすんな。父親なんてそんなもんだ」
とにかく片付けを済ませてから、しおちゃんを抱いて病院に出発しました。
ちょっと遠回りして、近所の人にしおちゃんを見せていくあたり、わたしもちょっと親馬鹿かもしれません。
「汐ちゃん、本当に可愛いわねぇ」
「えへへ…嬉しいです」
「秋生さんも、すっかりいいお爺さんねぇ」
「ぐああああ! その単語を言うなぁぁぁ!」
できたばかりの病院は、柔らかい色で統一されて、とても落ち着く雰囲気です。お父さんは煙草が吸えなくてイライラしていましたが…。
家を早く出たおかげで、それほど待たずに検査は終了しました。
「はい、母子ともに健康です」
「ありがとうございますっ」
お医者さんにお礼を言って、待合室に戻ります。
「お待たせしました」
「どうだった、って聞くまでもねえか」
「はい…健康そのものでした」
自分の言葉に、自分でも不思議になります。
ずっと、身体の弱かったわたし。
しおちゃんを産むことだって、何度も危険だと言われました。それが何故でしょう。出産して以来、前より元気になった気がするのです。
まるで、あの日町中で輝いた光の玉から、命をもらったみたいに…。
「しかし何だな。こんなでかい病院作って、採算は取れんのかねぇ」
「高台の方を開発して住宅地にするらしいですよ。それを見越して作ったらしいです」
「なに、マジかっ」
「はい、広報に載ってました。町が賑やかになって嬉しいですっ」
「…お前は本当に心が広ぇなぁ」
「え?」
「いや、何でもねぇ。そうだな、町が賑やかになるのはいいことだよな」
病院を出るや、お父さんは煙草に火をつけ、満足そうに煙を吐きました。
「この町と、住人に幸あれ」
帰りの道すがら、お父さんはぽつぽつと話してくれました。
「汐が産まれる前な…俺は一瞬思っちまったのさ。渚が助かるためなら、この町が廃れようが滅びようが構わねぇ、ってな」
「お父さん…」
やっぱり、みんなに心配をかけてしまっていたようです。わたしは本当にだめな子です。
それでも…。
腕の中で、すやすやと寝息を立てている娘を見ると、思ってしまうのです。
もう一度同じことがあっても、また同じようにしてしまうだろう、って…。
「でもまあ…」
黙ってしまったわたしの頭を、お父さんは軽く叩きました。
「みんなが幸せなら、それに越したことはねぇや。な?」
「…はいっ」
そうです、全ては上手くいったんですから。
辛かった坂道は終わって、あとは末長く幸せに過ごすだけ。
そのはずなんです…。
「あ、伊吹先生です」
通りに出たところで、見知った顔に出会いました。
「おう、どうも」
「あら、こんにちは。健康診断ですか?」
「はい、そうですっ。先生も病院にご用事ですか?」
「ええ。この子がようやく退院したので、定期的に検査に来てるんです」
「風子は別に検査なんかしなくても健康ですけど。おねえちゃんと芳野さんが言うので仕方なくです」
その時初めて、先生の隣にいる女の子に気が付きました。どことなく先生と似ているような…。
「ま、まさ伊吹先生にこんな可愛い娘さんが!? すみません全然知らなかったですっ!」
「むーっ、それは風子に対する挑戦ですか! こんな大人っぽい風子をつかまえて娘とは、オメガ最悪ですっ!」
「え? え?」
「妹なんですよ…一応」
「あわわわわ。す、すみません何ということを! 子供っぽく見られる辛さはよく知っているはずなのにー!」
「よく分かりませんが、苦悩しているようなので許してあげます。風子は海よりビッグな女ですから」
「ユニークな妹さんだなオイ」
「お恥ずかしい限りです…」
そういえば…伊吹先生の妹さんは、ずっと意識がなかったと聞いたことがあります。
それが最近になって目覚めることができたと…。
しおちゃんが無事産まれたこと、わたしが元気になったこと、何もかもが上手くいきすぎて、一本の線で繋がってるようにも思えてしまいます。まるで、誰かがそうしてくれたみたいに。
と、その風子さんの顔が、しおちゃんに近づきました。
「この子は誰ですか」
「は、はい。わたしの娘です」
「風子にください」
「………。ええええ!?」
娘を赤の他人に持ってかれる!? お父さんもこんな心境だったのでしょうかっ! って、そういう問題ではなく。
「んーっ、あまりにもラブリー過ぎますっ。風子の妹に任命すべきです」
「エキセントリックな妹さんだなオイ」
「ふ、ふぅちゃん、いい加減にしなさい!」
「ちっ…。今日のところは引き下がってあげます」
悪者のような台詞を言ってから、風子さんはふふんと胸を反らしました。
「それに、今の風子にはこの子がいますから」
え…?
いつからいたのでしょう。いえ、最初からいたはずです。
年のころは十歳くらい。髪の長い女の子が、じっとわたしを見ていました。
どこかで見た面影。あれ、わたしに似てる…?
「そ、その子は…?」
「風子が見つけた子ですっ」
「病院の大きな樹の下で見つけたんですけど、身元が分からないんです。警察にも調べてもらってるんですが…」
「そりゃ大変だな。うちの店の客にも聞いてみるぜ」
「よろしくお願いしますね。それじゃふぅちゃん、そろそろ行きましょう」
「風子、急におなかが痛くなってきました」
「それなら、余計に病院に行かなくちゃね」
「おねえちゃんがこんな策士とは思いませんでした」
結局その子は一言も発しないまま、賑やかな二人に連れられていきました。
「どうした渚、そろそろ帰るぜ」
「は、はい、でも…」
さっきの女の子…、
なぜだか、とても気になります。何か、あの子に関係する大事なことを忘れているような、そんな…。
「う、うー」
「あ、しおちゃん。よしよしっ」
しおちゃんがむずがり始めます。この反応は、おしめでしょうか。
「何だ、気になることでもあんのか?」
「いえ、いいんです。それよりしおちゃんのおしめを取り替えないと」
「そんなのは俺に任せときゃいいだろ。気になることがあるなら、スッキリさせてこいや」
「でも、わたしが母親ですから…」
「そーいう考えが育児ノイローゼを産むんだぜ。時には周りを頼らねぇとな。ていうか、ぶっちゃけ俺様にも世話させろぉぉぉ!」
「往来で叫ばないでくださいっ。分かりました、それじゃお願いします…」
しおちゃんを受け取るやいなや、いきなりスキップを始めるお父さんです。
「よーしよし。俺はお祖父さんじゃねぇ、アッキーと呼べ」
「だあだあ」
「真っ直ぐ帰ってくださいね…」
わたしも早く戻らないと…。
きびすを返して、わたしは病院へと駆け出しました。
女の子は病院の敷地内で、樹を見上げていました。
伊吹先生と風子さんの姿は見えません。
その子だけが、まるでわたしを待っていたかのようでした。
「こ、こんにちはっ」
「…こんにちは」
挨拶はしたものの、話が続きません。
何故自分がここへ来たのかも、よく分かっていないんですから。
女の子は、足下の草に目を落としました。
樹の下に残された緑。わたしの今とは切り離せない場所です。
「わ、わたしが…」
気圧されるように、口が勝手に動き出していました。
「まだ小さかったころ、自分の馬鹿さのせいで、命を落としかけたことがありました。その時…」
そう言って、足下の草に手を触れます。
「父がこの場所で必死で祈ると、奇跡的にわしの命は助かったそうです。まるで誰かが、願いに応えてくれたみたいに」
「…どうして、わたしにそんな話を?」
「ど、どうしてでしょう。どうしてなんでしょう…」
そんなことを言われても、言われた方だって困ってしまうでしょう。
けれど、目を逸らした女の子が初めて浮かベた表情は――不審よりも、悲痛をこらえているように見えました。
「正直、わたしはまだ迷ってる」
「え?」
「知らなければ幸せでいられる。ううん、知ったらきっと苦しむことになる。
ずっと、あなた達の幸せを願ってきたはずなのに、そんなのは矛盾している。
でも、それでも…」
それでも、あの子のことを誰も知らないままだなんて。
女の子は何も言っていないのに、わたしには続きが分かりました。
そう…わたしは、この子のことを知っています。
「教えてください」
一も二もなく、わたしはそう答えていました。
「たとえ幸せでも、大事なことを知らないままなんて嫌です。
そんな、弱い生き方なんて嫌です。
わたしは弱い人間ですけど、それでも強くなろうって、辛いことでも受け止められるようになろうって頑張ってきました。
だから…きっと辛い話なのでしょうけど、教えてほしいです」
「…うん…そうだね。あなたならそう言うと思った」
女の子が右手を差し出します。
じゃらん、と音がしたと思うと、鎖に下げられた懐中時計が揺れていました。
「この時計の針を回せば、本来の歴史を見ることができる」
「…本来…」
「不自然な奇跡が起こらなかった、もう一つの結末。わたしが実際に体験した記憶。無理はしないで、止めたくなったら針を止めて。それは決して責められることじゃないから」
わたしは少し震える手で、懐中時計を受け取りました。
奇跡が、起こらなかった歴史。
さすがに少し躊躇します。でも、自分の立っている場所を思い出して…わたしが命を貰った場所に、今は勇気も貰った気がして、思い切って針を回しました。
すぐさま、わたしは思い出しました。
自分の記憶でもないのに思い出すというのも変な話ですけど。
高校生の頃、実際は読んだこともない幻想物語を知っていたように、わたしはその歴史を知りはじめました。
しおちゃんの産声が聞こえます。
子供に命を渡して、わたしの意識は遠ざかっていきます。ここまでは先日も経験したこと。
でも、その後誰かが助けてくれるなんてことはなく、意識はそのまま途切れました。
お父さんとお母さんが何かを叫び、視点は別の誰かに切り替わります。布団の上に見えるのは、満足そうに息絶えた自分の姿…。
「…座ったら?」
「そ、そうですね」
さすがに自分の死体を見るのは、気分の良いものではありません。
樹の根元にしゃがみ込んで、呼吸を整えます。
女の子も、樹を挟んで背中合わせになるように座りました。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です。それに、こうなることは覚悟の上だったんですから」
そう。自分の身が危険でも産みたいと、頑固に言っていたのはわたしの方です。
わたしがいなくても、朋也くんが立派にしおちゃんを育ててくれます。強く生きるって約束してくれました。
「あ! でも、どなたかが命を救ってくれたのが余計だったなんてことでは決して」
「その誰かのことはどうでもいいよ。問題はその後なんだから」
「え…」
不吉な言葉に、手中の懐中時計に目を落とします。
とはいえ今さら逃げるわけにもいかず、不安な指で針を回します。
展開された記憶は、ある意味自分が死ぬよりショックでした。
「朋也くん…」
わたしの大好きな人が、見る影もない姿でした。
お酒と煙草に溺れて…
しおちゃんの方を見ようともせず…
わたしとの約束なんて、何の力も持っていませんでした…。
「…幻滅した?」
「…いえ…わたしのせいです」
ようやく絞り出した声は、うめき声にしかなりませんでした。
「周りを悲しませるって分かっていたのに、自分の我がままを通したわたしの責任です。朋也くんは悪くない。わたしがちゃんと生きていれば、こんなことは起きなかったんですから」
「それでも、また同じ状況になったら、同じことをするんだよね?」
「………」
返す言葉もないまま、力なく針を回します。
「あ…!」
落ち込みからの反動で、思わず歓喜の声を上げました。
救われた記憶。
やっぱり、最後に手を差し伸べてくれるのは家族でした。わたしのいない世界でも、朋也くんのお祖母さんが助けてくれた…。
お義父さんとも仲直りして、しおちゃんの世話も頑張ってくれています。
「やっばり、朋也くんは朋也くんでしたっ」
「汐が何年も辛い思いをした事実が、覆るわけじゃないけどね…」
「そ、それはしおちゃんに謝らないといけないですが、でも、終わりよければすべてよしって言うじゃないですか」
そう言ってから、はたと息が止まります。
良いことがあれば悪いことがあって、悪いことがあれば良いことがある…。
でも、最後が良いことで終わるなら、この女の子は時計を渡すことを、あんなに躊躇するでしょうか?
「止めるなら今だと思う」
「え…」
「ここで止めれば、その後父娘で頑張って生きていきましたって、幸せな話で終われる」
「…そういう…わけにはいかないです」
わたしが知らなければいけない事。
弱い自分でいちゃいけない。強くならないといけない。その一念で、最後の針を回しました。
待っていた記憶は、思いつく中で最悪のものでした。
しおちゃんが、わたしと同じように発熱…。
それは、事前に忠告を受けていたことでした。わたしと同じように家族が助けてくれると、呑気に答えていました。
でも…。
「あなただったんですね。あのとき、教えてくれたのは…」
出産の少し前に、夢枕に立った存在。姿こそ見えなかったものの、声や雰囲気は背後にいる女の子のものでした。
「…ここまで悪い状況になるとは、思ってなかったけどね」
その声は、少しかすれていました。
そう、単にわたしと同じように、苦労するだけだと思ってた。
命まで落とすだなんて、想像もしてなかった…。
(もし、分かってたら…?)
最後の記憶、雪の降る街が脳裏に映ります。
(それでも、しおちゃんを産んでいたんでしょうか…)
わたしの大事な二人が、雪の中に飛び出して…。
そして、記憶は途切れました。
「え…?」
分かっていたのに、次の物語を必死で求めていました。
「あ、あの、この後は」
「ないよ」
「で…でも、こんな終わりだなんて」
「生きてさえいれば、また別の幸せな物語があったかもしれない。
でも、死んだ人には何もないの。
汐の時間は、五年で終わったの」
場が静寂に包まれる中、頭を整理しようと懸命でした。
考えるのは、今頃お父さんと一緒にいる、現実のしおちゃんの事でした。
誰かが…もう誰なのかは分かっていますが、助けてくれたお陰で、もちろん熱なんて出しません。五歳で亡くなるなんてこともないでしょう。
なら、それなら、何の不幸もなかったと思ってしまって良いんですか…?
「あなたの娘は…」
そんな考えを見過かしたように、か細い声が聞こえます。
「きっと明るく元気な子になる。両親の愛情に包まれて、暖かい家族に囲まれて、何の陰もない幸せな子になる。
でも、だからこそ、それはあの子とは別の誰かだ」
今にも泣き出しそうな声が。
「母は亡くなり、父からは無視されて、それでもずっと両親のことが大好きで――ようやく手に入れたと思ったら、たったの五歳で死んでしまった、あの小さな汐じゃない…」
「そう…かもしれませんね」
わたしは立ち上がって、樹の反対側に回りました。
女の子は座り込んだまま、両膝に顔を埋めています。
「それなら…」
わたしの声も、徐々にかすれていきます。
「あなたの知っているしおちゃんは、どうなってしまったんでしょうか」
「ごめんなさい…!」
反射する回答は、悲嗚に近いものでした。
「わたしが、歴史から消してしまった…!」
「あまりにも酷い結末だったから。
それまで頑張ってきたことが、すベて無意味に終わったと思ったから。
だから光を集めて、あなたを死ななかったことにした。
そのせいで、どんな結果が起こるか考えもせずに」
あの日見た光景が蘇ります。
町中を覆う光。幸せな奇跡と思っていたそれが、何かを消し去っていたなんて。
「そうして、あの子までいなかったことになってしまった。
あの子だって五年間頑張ってたのに、誰一人それを知ることがない。
お墓もない。誰にも省られない。
そんなの、死ぬより酷い…」
「…でも、だからあなたは、こうして教えに来てくれたんですよね?」
そのためだけに、もう一度この世界に来てくれた。
そんなにも、しおちゃんのことを想ってくれていて。お礼を言わないといけないのに、顔を上げた彼女の表情は罪悪感で一杯でした。
「そのせいで、あなたはもう、心から笑えないかもしれない」
「そう…ですね…」
わたしのせいで、娘に辛い一生を送らせて。
それで自分だけは幸せになろうだなんて、そんなことが許されるのか…今のわたしには分かりません、けど…。
「それでも、知ってよかったです。教えてくれたことにお礼を言わせてください。あなたは…」
あまりに非現実的な表現に、思わず躊躇します。
でも、出産の日に自分で言ったじゃないですか。もし、あるとしたら、あってくれたら――。
「この町の意志――なんですね?」
こくん…
女の子はうなずいてから、傍らの樹を見上げました。
「わたしは、あなたたちの町を想う心から生まれた」
「町を想う、心…」
「何百年もの間、住人たちの幸せを祈り続けてきて…。それに意味があったのか、なかったのか、今となっては自信がないけど、いずれにせよもう終わり。あなたに汐のことを伝えるのが、最後に残った仕事だったから」
「さ、最後なんて言わないでください! ずっと、町のみんなを見守ってほしいです」
町の意志さんは、寂しそうにかぶりを振りました。
「どうしてっ…。朋也くんも、町を好きになってくれました。町も人もみんな、だんご大家族だって…」
「汐は、今から五年後まで生きていた。つまりわたしは、五年先の未来を見てきたことになる」
「え…」
「これから、この国は子供が減っていく」
息をのむわたしに向かって、淡々と言葉は続きます。
「結婚する人も少なくなって、人口は減少に転じる。
近所付き合いもなくなっていって、個人が個人でいることが多くなる。
政治が悪いとか、社会が悪いとか言う人もいたけど、本当はそうじゃない。
それは、家族を必悪としない人が増えたということなの」
さすがにわたしも、いきりたって反論しました。
「そ、そんなことないです、家族は絶対に必要です! わたしだって、家族がいなかったらどうなっていたか…」
言葉の尾が消えていきます。目の前にある表情は、優しくて、こちらまで泣きたくなりそうでした。
「うん、そうだね、わたしたちはそう思ってる。でも、それを他人に押し付けるわけにもいかないでしょう?」
「そ、それはっ…」
「ずっと前に、わたしの知り合いも同じように消えていった。それは良いとか悪いとかじゃなくて、時代の流れとしか言いようがない」
彼女は立ち上がって、ゆっくりと歩き出します。
「ああ、変わっていくんだなあって、そう思うしか、ないの…」
「ま、待ってくだ…」
その姿は徐々に薄れていって、わたしは必死に何か言おうとしてるのに、上手く声が出てきません。
「最後の方は後悔ばかりだったけど、あなたに会えたことは良かったと思うよ」
「そんな、そんなの、わたしだって…」
「こんな話をしておいて、矛盾しているかもしれないけど、でも……どうか渚は、幸せになってね」
雪が溶けるように、この町の心は消えていきました。
世界にたったひとり残された女の子が、その世界と一緒に。
その場に崩れ落ちたわたしの、両手に冷たい地面が触れます。
「今まで…ありがとうございました…」
その言葉はもう届きません。
そこにあるのは、単なる土地で、行政区で、地名でしかないものでした。
わたしがしょんぼりと病院の敷地を出ると、風子さんが待っていました。
「あの子は、行ってしまったんですか」
「…はい…」
「残念です。風子と一緒に、たくさん楽しいことをするはずだったのに」
風子さんの目はわたしを素通りして、どこか遠くの世界を見ているようでした。
「結局、何の恩返しもできませんでした」
「恩返し、ですか…?」
「風子は、本当なら数年前にお星様になっていたところでした」
そう言いながら、手に持った何かを指で撫でていました。木でできた星…でしょうか。
「まだ地面の上にいられるのは、全部あの子のおかげです」
「そうなんですか、えっと…それは良かったです」
「良くなかったのかもしれません。風子が助かったせいで、別の誰かが苦しんだのかもしれません。ありふれた交通事故なんだから、素直に死んでおくのが自然だったのかもしれません」
背の低いわたしより小さい彼女は、うつむいてしまうと表情が見えませんでした。
「それでも…不自然でも、ずるでも、風子は生きていたいです。辛いのや悲しいのはガマンします。けど、死んでしまったら何もできません…」
「そう…ですね。本当に、そうです…」
子供を産むためなら、死んでも構わないと思っていたわたし。
でも、死んでいたから、しおちゃんに何もしてあげられなかった。
町の意志さんは、わたしの行動をどう思っていたのでしょうか。
「わたしも似たようなものです。ずっと助けてもらっていたのに、何のお返しもできなかった」
「そうみたいですね。なので風子は、あの子が一番心残りと思うことを、何とかします」
その言葉に続けて、木彫りの星が差し出されました。
いえ、これもまた、既に知っている気がします。別の世界、別の歴史で。それは星ではなくて…。
「風子の…お友達になってください」
ふぅちゃんと別れて実家に戻ると、賑やかな声が外まで響いていました。
「これがアッキー様の高い高いだーっ!」
「きゃっきゃっ」
「秋生さん、次はわたしの番ですよっ」
「だだいま帰りました」
声をかけると、二人とも笑顔で振り返りました。
「おう、早かったな。用事は済んだのか?」
「は、はい…」
口ごもりながら、手渡されたしおちゃんを抱きかかえます。
幸せな家族の風景。
もう一人のしおちゃんには、こんな時間は僅かしか与えられなかったのに。
「…わたしは、子供を産んでもいいのでしょうか」
思わず漏れた言葉に、お父さんとお母さんは顔を見合わせて笑います。
「あらあら、もう二人目の話ですかっ」
「さすがに気が早ぇぞオイ」
「ち、違います! そういうことで…はないです…」
しん…
空気が重くなってしまい、慌ててわたしは説明しました。
「あ、あのですね、しおちゃんが大きくなった時、こんな事なら生まれてこない方が良かったって思われるんじゃないかって。
世の中は辛いことが一杯です。なのにわたしは、結局自分が子供がほしくて、しおちゃんを産んだんです」
「渚…」
「も…もちろんわたしは生まれない方が良かったなんて思ってません! 産んでくれたことに感謝してます。でも…二人みたいな、立派な親になれる自信がありません…」
腕の中のしおちゃんは、嬉しそうにわたしに懐いてくれます。
それだけに、余計にいたたまれなくなります。
もう一人のしおちゃんに、短い人生を強いたのは自分なのに…。
「気持ちは分かる」
お父さんの大きな手が、わたしの頭に置かれます。
「それが、お前に兄弟のいない理由だからな」
「え…」
「わたしたちの不注意で渚を失いそうになったとき、二人とも本当に怖くなったんです。人を一人産み出すというのが、こんなに重いことだったんだって。子供が幸せになれなかったら、どう責任を取ったらいいんだろうって」
「お母さん…」
「とにかく渚だけは幸せにしようって、必死で頑張ってきましたけど…二人目を産む勇気は、どうしても持てませんでした」
「そう…だったんですか」
無敵だと思っていた二人が、そんなことを思っていたなんて。
頭上の手のひらが、わしゃわしゃと動きます。
「でもなあ。そんなことを言ってたら、誰も子供なんか作れんぜ? 後継者がいなくなって、人類は滅びちまわあ」
「そ、それはそうなんですけど」
「結局、やれるだけのことをやるしかねぇのさ。それでも力及ばず、産んでくれない方が良かったって言われちまった日には、親としちゃ土下座して謝るしかねぇや」
「後から結果だけ見れば、それは後悔することもあるかもしれません。でも、それが生きることなんだとも思うんです」
「…はい…」
しおちゃんの小さな手が、わたしの頬に触れてきます。
そう、一番大事なことを思い出して、その小さな命をもう一度抱きしめました。
「そうですよね…。まだ悩むことはあるかもしれませんけど、この子のために出来るだけのことはします。それだけは迷わないようにします」
「その意気だぜ。なあに、失敗したってフォローする家族がいるんだからな」
「渚、ファイトっですよ」
「はいっ…!」
わたしは、二度と心から笑えないのかもしれない。でも、この子は、この子だけは。
そうでなければ、この町が最後に起こした奇跡も、意味を無くしてしまいますよね…。
夜も更けて、朋也くんはテレビの前でのんびりしています。
しおちゃんを寝かしつけてから、その隣に座って。
もう一人のしおちゃんのことも、いつかは話そうと思いながら、聞いたのは別のことでした。
「朋也くん、縁起でもないことを聞いていいですか」
「ん、何だ?」
「死ぬときは、どんな死に方がいいですか」
「本当に縁起でもないな…」
「ご、ごめんなさいです。でもどうしても考えてしまって」
「うーん…」
わたしの変な質問にも、朋也くんは真面目に考えてくれます。
「そりゃあ百歳越えまで生きて、孫やひ孫に見送られて、苦しまず安らかに…」
一瞬、身が固くなります。
それは、あの子の送った人生とは、あまりにも違うから。
けれど、わたしの内心を知ってか知らずか、朋也くんは頭を掻きながら否定しました。
「…なんて最期なら文句なしなんだろうけどな。まあ、実際にそんな死に方をする奴なんて一握りだろうし、そこまでの贅沢は言わない。せめて、最後に悲しみながらでなけりゃ良しとするさ」
「そう……ですか」
あの子はどうだったんだろう。わたしはどうなるんだろう。
ぐるぐる回る思考に、朋也くんが心配そうにわたしの顔を覗き込みます。
「って、やっぱりよそうぜ。今から死ぬ時の心配なんて」
「そ、そうですね。そろそろ寝ましょうか」
電気を消して、長い人生の中の一日は終わっていきます。
微睡みの中、雲の上のような場所で、町の意志さんが手招きをしていました。
近寄ってみると、足下に五歳の女の子がいます。
「しおちゃん…」
その目は何を思っているのか。分からないまま、わたしは思わず尋ねていました。
「あなたは……生まれてきて良かったですか?」
返事はありません。これは夢に過ぎないから。
本当の答えは――いつかわたしが、しおちゃんの所へ行った時に。
<END>
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