(1) (2) (3) (4)




 最後の時間は、瞬く間に過ぎていった。
 身体は辛かったけど、無理を押してでも色々なところへ行った。あゆと二人で、公園へ、本屋へ、ファンシーショップへ。
 観たかったホラー映画も一緒に観た。彼女は本当は苦手だったのに、「ボクがついてるから大丈夫だよっ」なんてお姉さんぶって、結局は映画館の中でコートをかぶって震えていた。
 そんな友達ができたことが、涙が出るほど嬉しかった。
「ねえ、あゆさん」
「なあに?」
 向けられる彼女の笑顔は、どんな悩みも苦しみもなく。
「何でもないですー」
「えーっ、気になるよぉ」
 そう言って、また笑い合う。きっとこれが普通の日常。
 どんなに手を伸ばしても届かないと、ずっと思っていた。
 それが最後に手に入るなんて。世間の女の子からすれば何でもないことなのだろうけど、栞にとっては宝物だった。
 そんな中でも、ふと考える。
(お姉ちゃん、どうしてるかな……)
 自分を切り捨てた姉は、今も学校で、平和な日常を送っているのだろうか。
 そうであってほしい。
 切り捨てられたことは恨んでない。でも、せめてそうでなければ何の意味もないではないか。



 一方の駄目姉は、妹の予想とは裏腹に、相変わらず陰鬱な日々を送っていた。
「香里、ちゃんと謝った?」
 長くて無駄な授業が終わり、今日も名雪が聞いてくる。
「そもそもあたしなんて必要ないのよ」
「……」
「友達ができたらしいし……。楽しくやってるみたいだし……」
「そう。それで、謝った?」
「……あんたって見かけによらず容赦がないわね」
 名雪は心の底から、つくづく呆れたように溜息をついた。
「ねえ香里。前から思ってたんだけど、香里って完璧主義すぎるんじゃないかな」
「あたしが? どこがよ」
「だっていつも完璧だもん。だから失敗したくなくて、そうやって迷ってるんだよ。もっと気楽になろうよ」
「……名雪みたいに?」
「そう、わたしみたいに……ってひどいよ〜」
 不満げに眉を寄せる親友だけど、そうなのかもしれない。
 もちろん、気楽になんかなれるわけないけど、完全でなくても、間違いでも、今より悪くはならないのではないだろうか。
 ……それができないから、駄目姉なんだろうけど。
「名雪」
「なあに、香里」
「しばらく学校休むわ」
「え? え!?」
 狼狽する友人に、軽く手を振る。
「別に登校拒否するわけじゃないわよ。解決するまで学校には来ないって、そういう意味よ」
「そ、そっか。うん、頑張ってね香里。ふぁいとっ、だよ」
 無邪気に声援を送る名雪が、心底羨ましかった。

 明日は雪になりそうだ。
 解決するまで学校には来ない。そうやって追いつめたつもりだけど。
 今までできなかったことが、明日明後日にできる自信はなかった。





 その日はスケッチブックを持っていった。
 昨日は吹雪で家から出られず、もどかしさに気が狂いそうだった。残り時間は少ないというのに。
 その分今日は晴れ渡り、白一色になった街の中、画材を抱えて商店街へ急ぐ。胸の鈍痛がひどかったが、意に介さないことにした。
「ボ、ボクがモデル?」
 いつものように商店街にいたあゆは、栞の話を聞くなり目を丸くする。
「はい、お願いしますっ。あ、脱げなんて言いませんから安心してください。ただの似顔絵ですから」
「う、うん。いいけど、ボクの顔なんて描いても面白くないと思うよ?」
「そんなことありませんっ! あゆさんの顔の面白さは私の知る限りでも一、二を争います」
「……全然ほめられた気がしないんだけど」
「気のせいです」
 先日の小さな公園で、体を斜めにしてベンチの端と端に座る。B4の鉛筆を取り出して、「もっとスマイルですっ」とか「引きつりすぎですっ」とか言いながら、白い紙に線を走らせた。
 時間をかけてじっくり描きたかったが、真冬とあってはそうもいかず、十五分ほどで完成させる。
 スケッチブックを持ち上げて、うんうんと頷くと、紙を切り離してあゆに渡した。
「はいっ、プレゼントです。あ、お世辞なんていりませんからね。芸術家は批評されて成長するものなんです。さあどうぞ正直な感想を!」
「うぐぅ」
 実に正直な感想だった。
「……」
「あ! え、えーと、よく見れば似てると思うよっ。目がふたつに鼻がひとつあるし」
「全然フォローになってないです」
「いやそのあうぅ……」
「冗談ですよ。ごめんなさい、下手くそで」
 苦笑して手を振る。今までは下手の横好きでも気にしなかったけど、こうなると技術のなさが恨めしい。
「もっと上手に描けたら良かったんですけど」
「栞ちゃん……」
 あゆはしばらく絵と栞の顔を見比べていたが、急にその平らな胸へ、抱きしめるようにそっと紙を押し当てた。
「ううん、嬉しいよっ」
 本当に嬉しそうに言われて、栞の方が慌ててしまう。
「で、でも、そんな絵ですよ?」
「だけど嬉しいよっ。栞ちゃんがボクのために一生懸命描いてくれたんだもの、こんなに嬉しいことはないよ。ありがとう、絶対、絶対に宝物にするよ!」
「あゆさん……」
 じわ、と涙が浮かぶのを止められなかった。
 お礼を言わなければならないのはこちらの方だ。自分の下手な絵なんかでも、喜んでくれる人がいる。
 それだけでも、生まれてきた意味があったと思えるのだ。

 もっと一緒にいたかったけれど、胸の痛みが耐えられなくなってきたので、午前中だけで退散した。
 それでも嬉しさに内心でだけスキップしながら、身体を引きずるように帰途を進む。最後の作品のつもりだったけど、うまくすればもう一枚くらい描けないだろうか。ちゃんと練習して、今度こそ上手に……
 ごほっ
 はしゃぎ過ぎたようだ。咳が続きそうな気配に、よろめきながら塀の間の小道に入る。こんなところ、他の人に見られたくない。
 ごほっ、ごほっ
 耳障りな音。早く止まってほしい。すぐに家に帰って、絵の練習をして、もう一度彼女に喜んでもらうんだか――ら。
 妙な感触に、口を押さえた右手を離す。
「……あ……」
 赤く染まった手が、雪一面の景色から妙に浮いて見えた。

 他に何もできず、苦笑する。ああ、なんだ。

 もう、この身体は駄目なんだ。

 日々がいくら楽しくても、病魔が侵食を止めてくれるわけじゃなかった。そんなこと分かり切っていたのに。
 苦しい。喀血が気管を塞いだのかもしれない。歩き出そうとするけど、糸が切れたように力が消える。
 塀に寄り掛かり、そして雪の上へ倒れ落ちた。
 立ち上がれない。こんなに簡単に、終わってしまうものなのか。
 こんなことなら、今日のうちにさよならを言うんだった。今までのお礼だって、まだ言ってない――
「……おり!」
 ――お礼。誰にだっけ。
 懐かしい声。違う、そんなレベルじゃない。生まれたときからずっと、自分の人生の大部分だった。
 離れるなんて、昔は考えたこともなかったのに……
「栞っ――!」





 妹が目を開けるまでは、針のむしろにいる気分だった。医師は大丈夫とは言っていたけど。あと一日くらいは大丈夫、と。
 大した差はないのかもしれないけど、でも今は目を開けてほしい。
 一度、父が様子を見に来たが、すぐに仕事だからと帰っていった。薄情だなんて言うつもりはない。言えた義理ではないし、それに、栞を看取るのは自分だけでいい。
 ……あれだけ逃げ回っていたくせに。
 でも、夢中だった。目の前で血を吐いて倒れられて、頭が真っ白になったから行動できた。
 逆に言えば、そこまでされてようやくというのが、何とも情けないけど。
 とにかく、栞の顔を見られるようにはなった。後は……
「……お姉ちゃん……?」
 長い長い時間の後、ベッドの上で妹がそう呟いたときは、けれどもやはり途方に暮れた。
 どんな顔で、何を話せばいいんだろう。その答えはまだ出ていないのに。
「病院よ」
 何か聞きたそうな目だったので、先回りしてそう答える。相部屋ではなく、小さめの個室。もう終わりが近いから。
 けれど、栞の聞きたいことはそれではなかった。
「後、つけてた……?」
 ぼんやりとした目で聞いてくる栞に、うっ、と思わず答えに詰まる。
「……悪かったわよ」
 正視できず、そっぽを向いて小声で言った。学校を休んだものの何もできず、出ていく妹が窓から見えたので、居ても立ってもいられず後をつけたのは事実だった。
 とうとう妹のストーカーかと自嘲したのも。名前も知らない女の子と、妹が心から笑い合っているのを見て、どうしようもなく複雑な気分だったのも。
 それでも、ついていったお陰で栞を病院に運べたのだから、良かったのかもしれない。
 こんなことでもなければ、栞とこうして話せなかったかもしれない。
 こんなことでもなければ――
「……悪かったわ……」
 もう一度、蚊の鳴くような声で言った。
 栞は身を起こそうとして失敗し、横たわったまま優しく姉を見る。
「ううん、そんなことない。私を心配してついてきてくれたんだもの。ありが……」
「そうじゃなくて! ……それもだけど」
 喉の奥まで来ている言葉は、そのまま口の先に上る。
 あれだけ言えなかったのに。
 今は逆に、抑えられない。震えながら、顔を伏せてそれを吐き出した。

「ごめん、あなたから逃げ続けた。
 栞が傷つくのを承知で、あたしが傷つかないことを優先したの。最低。人間の屑よ。
 許してもらえるとは思ってないけど、でも」
 ぎゅっと両手を握って、さらに深く頭を下げる。
「ごめんね……」

 思考をまとめる時間の後、妹は予想通りの言葉を口にした。
「許すなんて、そんな……。私は気にしてないよ。仕方ないことだもの。お姉ちゃんは悪くないよ」
 これだから嫌だったのだ。
 栞ならそう言うに決まってる。非難してくれない。客観的に見て許されることじゃないのに!
「お姉ちゃん!?」
 妹の悲鳴が響く中、香里は椅子から降り、膝をついて、その両手と額を病室の床に押しつけた。
「ごめんなさい……!」
「や…やめて、お姉ちゃん! ねえ!」
 こんなの足りない。自分のしたことを考えれば、こんな程度じゃ許されない。名雪の言うとおり、悪いことをしたら謝るのは当たり前のこと。
 けれど、泣き出しそうな妹の声。こんな姉の姿など見たくないと、そう思っているのを知っている。
 何が正しいんだろう。どうすれば良かった?
「栞!?」
 声が消え、聞こえてくるのは苦しそうな息遣い。
 跳ね起きて、枕元のナースコールに手をかける。けれど栞は、大丈夫というように首を振った。
「栞……」
 こんな時に、こんな弱々しい声しか出せない自分が、本当に情けない。
「ねえ、あたし、どうしたらいい? 栞の言うとおりにするわ。栞の望むことなら何でもするから……」
「……」
 本当なら、そんなのは自分で考えるべきなのだ。ちゃんとした姉なら、妹が一番望むことを叶えてあげられるはずだ。
 けれどできない。頭がぐちゃぐちゃで、何をしたらいいのか全く分からない。
 しばらく沈黙が流れてから、栞は天井を眺めたまま、静かに言った。
「私、一人で死のうと思ってた」
「栞……」
「お姉ちゃんを悲しませるくらいなら、その方がいいと思ってた。……でも、やっぱり一人は寂しいかな」
 そう言って、微笑む。
「お姉ちゃんが、嫌でないなら……側にいてほしい。手を握っていてくれるだけでいいから。最後は、お姉ちゃんと一緒がいいな」
「い……いいの? 本当に、あたしなんかでいいの?」
「もう。十六年も私の面倒を見てくれたのに。こんな優しいお姉ちゃん、他にいないよ……」
 もう何も言えず、栞の手を両手で包み、顔に押してる。
 許されたなんて思わない。でも、嬉しい。
 栞のための役目があったのが、嬉しくて仕方なかった。
 それが本当に妹の望みなのかと……
 結局今の言葉も、すべて姉のために言ったのではないかと、小さな疑いは消えなかったけど。





 今までの無理に対して、報いは免れようもなく。
 翌朝になっても起き上がれなかった。薬を追加してもらって、ようやく歩くことができたときは、既に夕方が近かった。
「お姉ちゃん……商店街に行ってもいいかな」
 ようやくベッドに身を起こして、そう頼む。姉はさすがに驚いていたけど、何も言わずに承知してくれた。
 難色を示していた医師も最後は許可した。この病院は、助からない患者の要望は比較的聞いてくれるのだ。
 香里に支えられて外に出る。みんなの手を煩わせて申し訳ないけど、最後にあゆにお別れだけはしたい。理由も告げずに行かなくなったら、彼女はずっと、あそこで待ってしまうかもしれないから。
 昨日まであれほど辛かった寒さが、今は何も感じない。多量の薬が効いているからか、それとももう、感じる機能も残っていないのか。
 やけに長く感じる商店街への道を歩き、入り口近くまでやってきた。目の前には大きめの本屋。
「お姉ちゃんは、ここで待っていて」
 別れを告げるのに付き添いつきというわけにはいかないし、物陰から見ていてもらうのも恥ずかしい。
「ち、ちょっと、何言ってるのよ栞!」
「大丈夫。……ちゃんと戻ってくるから」
 抗議する香里だが、栞に弱々しい笑顔で言われて、しゅんとして本屋に入っていった。
 やっぱり姉は辛そうだった。
 本当に良かったのだろうか。あのまま無視してくれていた方が、傷つけずに済んだのではないだろうか。
 けれど今さらもう遅い。とにかく今は、ちゃんと用事を果たして、無事に戻ってこよう。

 商店街の入り口に、あゆの姿はどこにもなかった。こんな時に、と唇を噛んだけど、考えてみればもう夕方なのだから当たり前だ。
 とっくに帰ってしまったのかもしれない。それを思うと背筋が凍った。今日会えなかったらそれで終わりなのに。
 走ろうとしたけど、体が言うことを聞かない。歩くだけで命が削られる。中から壊死していくような、そんな感覚。
 なのでようやく彼女を見つけたときは、安堵に涙が出んばかりだった。
 そこは最初に二人でたい焼きを食べた、あの小さな公園だった。夕焼けに照らされ、茜色に染まるその場所で、あゆもこちらに気づいて振り向く。
「あゆさん……」
 声を出したけど、かすれて届かない。身体にむち打って近づいたところで、夕空を背に、彼女が口を開いた。


「……探し物、見つかったんだ……」


 ――心の一部を失ったような、悲しそうな目で。
「そう……なんですか」
 近づいて、答える。役に立てなかったのは残念だけど、彼女だけでも願いが叶って良かった。
 でも、それならどうしてそんな顔をしているんだろう。
「良かったです。大事なものだったんですよね?」
「う……うん、ありがとっ。そうだね、すごく、大事なもの」
 そう言って、笑ってくれた。空元気にも見えたけど、あゆの笑顔を見るだけで安心できた。
「それでね、ボク、もうこの辺りには来ないと思うんだ」
「そうですか……。実は、私ももう来られないんです。その、急に……引っ越すことになって」
「そうなんだ……」
「……はい」
 言いながら、心の中で何度も謝る。ごめんなさい。
 あなたに嘘をつきました。
 ずっと隠して、嘘ばかりついていました。
 裏切りなのだろうけど、でも……
「ボクね、栞ちゃんに隠してたことがあるんだ」
 急にあゆの方から言われて、危うく呼吸が止まりかける。
「な、何ですか?」
「う、うん、あのね……ボクの友達は、栞ちゃんだけだったったみたい」
 俯き気味に話された言葉は、理解に苦しむものだった。
「あゆさん?」
「ボクは……本当のボクは……
 学校になんて行ってなかった。友達も、家族もいなくて、ずっと前から一人だった。
 だからこの数日間、ボクと話してくれたのは――ボクと友達になってくれたのは」
 顔を上げて、天使のような、でも泣き出しそうな笑顔を向ける。
「栞ちゃんだけだったよ」

 混乱する。どうして? それは平日に自分と一緒にいるのは不思議だったけど、
 彼女は自分と違って、普通の日常があるのだと思ってた。明るくて、普段は学校で友達に囲まれてて、家に帰れば暖かい灯が待っているのだと、そう思っていた。
 ううん、そんな事どうだっていい。だってそれが事実なら――
「私……もっ!」
 自分でも驚くほど、大きな声。
「あゆさんだけです! 私も友達なんていなくて。あゆさんが声をかけてくれなかったら、本当に一人で。
 私の友達になってくれたのは、あなただけです。だから――」
 息が途切れる。手を胸に当てて、言葉を絞り出す。
「――感謝してます。あゆさんに会えて……良かった」

 もどかしい。こんな言葉じゃ足りない。もっともっと、気の利いたお礼が言いたいのに。
 病気を忘れていた時間は、それは夢みたいなものかもしれなかったけれど。
 でも、どれだけ幸せだったことか。

 言葉なく栞を見つめていたあゆは、不器用な動きでミトンを外すと、その右手を前に出す。
「また……会えるよね」
 そう言って。
「……はいっ。きっと会えます」
 迷わず答えて、その手を握り返す。嘘だけど、二度と会うことはないのだけど。
 でも、これくらい――許されてもいいだろう?
「じゃあね、栞ちゃん。ボクも楽しかった。栞ちゃんと一緒にいられて、本当に楽しかった!」
 それが、栞の聞いた最後のあゆの言葉だった。

 商店街に消えていくあゆを、ずっとずっと見送った。
 雑踏の向こうには夕焼け。
 広がる茜色の冬空は、どこまでも続いていて、ふと、自分が泣いていることに気づいた。
 もう、この夕焼けを見ることは二度とないのだ。
 たった一人の友達と、一緒にたい焼きを食べることも。
 姉と同じ制服を着て、一緒に学校へ行くことも、決してない。

 袖口で涙を拭う。駄目だ、泣いてちゃ。最後まで笑顔でいよう。
 お姉ちゃんにはまだ先があるんだから。
 死んでしまって、悲しませるのはどうしようもないけど、せめて少しでも負担を減らせるように。

「お待たせ、お姉ちゃん」
 本屋へ戻れた頃はもう暗くなっていた。立ち読みしていた姉は、ぱたんと雑誌を閉じる。
「……終わったの?」
「うん、お終い。もう、心残りはないよ」
「そう……」
 姉はそれ以上何も聞かず、栞の手を握って歩き出した。
 繋いだ手に、そっと力を込める。
 夢は終わった。
 現実の時を過ごすのは、やはり最後はこの人となのだ。



 何とか病院に、ベッドの中に戻ったときは、もう起き上がれないだろうな、と自分でも思った。
 もともと出歩ける身体ではないのを、多量の薬で騙していただけ。医師も簡単に診察した後、諦めたように頭を振った。
 集中治療室に入れば多少は保つと言われたが、丁重に断った。話すことも動くこともできないのでは、意味なんてない。
 それに、もう十分だった。

 秒針が時を刻む中、姉は枕元の椅子に座っている。
 父から香里に電話があり、どうしても仕事から抜けられないのだそうだ。傍目からは酷薄と映るだろうが、むしろ栞の意を汲んでくれたのかもしれない。父には悪いが、死ぬところを見られるのは姉にだけにして欲しかった。
 チューブとコードだけが一本ずつ、腕から機械に伸びている。
「……栞、話でもしない?」
 何か言おうとした矢先に、香里の方から口を開いた。
「うん……。お姉ちゃんの、学校の話が聞きたいな」
「あたしの? 別に面白い話なんかないわよ」
「でもいいの。聞かせて」
 本当は自分こそ、あゆとの想い出を聞いてほしかったけど、もう話す力は残っていない。
 ただ黙って、姉の話を聞いていた。
 親友の名雪という人のこと。お調子者の北川という人のこと。転校生の相沢祐一という人のこと。祐一、というのはあゆと初めて会ったとき、一緒にいた人だろうか。
 そうだ。香里もあゆも、それぞれの人生が続いていくのだ。自分はそこにいられないけど、祈ることしかできないけど。
 ……どうか皆さんが、幸せでありますようにと。

 今、何時だろう。
 ぼんやりとした視界の中に、姉の姿が見える。一生懸命何か話してくれているのに、頭が朦朧として理解できないのが、本当に申し訳なかった。
 いつ頃死ぬんだろう。薬のお陰で、痛みや苦しみはない。ただ、徐々に眠くなってきた。たぶん眠って、それで終わりなのだろう。
 最後の意識を奮い立たせる。まだ、することが残っている。
「お姉ちゃん……」
 何を言おうとしたんだっけ。
 そうだ、最後の言葉。いろいろ考えていたはずだった。言わなくちゃ、お姉ちゃんが、少しでも気分よく別れられるように。
 今までありがとう、とか。
 私は幸せだったよ、とか。
 お姉ちゃんの妹で良かった、とか。
 ドラマみたいだけど、とにかくそういう内容を、目の前のこの人に……

「どうしてよ……」

 悲しそうな、姉の声が聞こえた。
 よく見えないけど、辛そうなのだろうか。ごめんなさい。また、苦しめてしまいました。
 誰よりも大事な人なのに、どうしてこうなってしまうのだろう。どうして……

「どうしてこんな時にまで、無理に笑おうするのよっ……」

 その瞬間、栞の意識は永遠に途切れた。





 妹の言いそうなことは分かっていた。
 ありがとうとか、お姉ちゃんの妹で良かったとか、そういうことを言うつもりだ。どこまでも優しいこの妹は、こんなどうしようもない姉のために!
 そんな優しさなんていらなかった。
 もっと我が侭を言って良かったのに。こんな姉なんて、自分の幸せのための踏み台にして構わなかったのに。
「何か――して欲しいことはないの?」
 かすかに息をする妹は、もはや表情も消えていく。
 焦燥。死んでいく妹に、何もできないのか。栞に覆い被さって、すがるようにそう尋ねる。
「ね、何でもするわ。お姉ちゃんは、栞のためだけにいるんだから。あたしは、栞の……」
 言いかけて、語尾が消える。これでは自分の希望だ。そうじゃなくて、ただ、栞が幸せになって欲しいだけで……
「……」
 けれどその時、栞の唇がかすかに動いた。慌ててそばに耳を寄せる。
「な、なに? 栞、何でも言って!」
 何でも叶えるつもりだった。アイスが食べたいなら買ってくるし、友達に会いたいなら連れてくる。一緒に死ぬ人が欲しいなら――栞がそんなこと望むわけないけど――喜んで命を絶ったろう。
 あまりに細くなった妹の手を、そっと両手で握り、香里は全神経を耳に集中させた。



「た……す……けて……」


 ――心臓が、凍り付いた。
 後ずさりしようとする体を、何とか押しとどめたけど、小刻みな震えは止まらない。
「お姉ちゃん……たす……けて……」
「し……おり」
 自分の声の方が、死人のようだった。
 当たり前ではないか。栞が望むことなんて。
 普通に生きること、それだけに決まっているではないか。
「たす……けて……死にたくない……」
 栞の意志が、自分を抑えてきたそれが途切れた今、押し込めた本当の望みが、弱々しく紡がれる。

 そして、それに対して香里はまったくの無力だった。

「ごめん……」
 そんなことしか言えない。
 泣きたい。奇跡なんて起こせない。手を握ることしかできない。本当に、どうしようもない無力。
「た……すけて……」
「ごめんね……」
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……」
「ごめんね栞……」
「………」
「ごめんねぇっ……!」

 ごほっ……

 消えそうな咳。二度、三度と続き、香里は手を離すと、脇にあるナースコールを叩き壊さんばかりに押した。
「頑張りなさい! すぐに先生が来るから。大丈夫だから! 頑張るのよ栞、諦めないで……」
 何を頑張れというのだろう。こんなぼろぼろになった身体で、何を諦めるなと。
 呼吸は徐々に小さくなり……
 そして、二度と咳をすることはなかった。

「……栞……?」

 震える両手を妹の肩に当て、そっと揺する。
 かくかくと、糸の切れた人形のような体。頬に触れ、まだ温かいことに安堵するけど、すぐに息をしていないことに気づく。
 名前を呼んだ。狂ったように何度も。けれど答えは一つもなく……
 胸に載せた手が、心臓が止まっていることを告げた。


 死んだ――。








<続く>




続きを読む
感想を書く
ガテラー図書館へ 有界領域へ トップページへ