キルテナまで、あと一日ばかりの夜の砂漠で変事はおきた。
 いよいよ明日はレグアノ砂漠の北の玄関口、オアシス都市キルテナに到着する。そうすれば、ようやく長い過酷な砂漠の旅も終わりになるのだ、という安堵と疲労の眠りに包まれていたキャラバンが襲撃されたのだ。
 苦難の末にかろうじて聖都〈ドゥルーガ〉にたどりついた旅人たちは抵抗する間もなく、黒装束に身を包み、覆面で顔を隠した総勢二十名ほどの賊に次々と倒されていった。
 剣をとって応戦していたガデスも、切り伏せられる。
 騒然とした夜営地から抜け出した少女を追う賊たちに、鋭い声が飛んだ。
「まだ、女は殺すな」
 砂漠の闇に紛れようとしたユスラは逃げきれずに捉えられて、賊の首領とおぼしき男の前に無理矢理引きたてられていった。
「おまえが案内人か」
                          ピュレス
 ユスラを一瞥したその男が、なまりのある共通語で問うた。
                マント
 彼女が身にまとっている外套と、くせのある長い黒髪をなかば垂らすようにして、ゆるやか
に頭に巻きつけたターバンには、赤と緑の刺繍糸でレグアノ砂漠の民が崇める聖なる文様が描かれている。
 それはまだ年の頃なら十七、八のこの少女が一人前の聖都〈ドゥルーガ〉への案内人であり、このキャラバンを率いているという証であった。
 首領の問いには相手をにらんだまま答えようとしなかったユスラだが、砂橇に積んであった荷物に賊の一味が手をかけるのを見て叫んだ。
「それに、さわるんじゃないよ!」
 立ち上がろうとした首筋に、刃が突きつけられる。
「動くな」
 冷ややかな恫喝にこめられた殺意に、ユスラは動揺した。
「あんたたち、いったい…?」
 違う。
 オアシス都市周辺の砂漠を縄張りにして、小さな隊商や巡礼者から金品を巻き上げる夜
              ドゥルーガ
盗どもならば、聖都の案内人が率いているキャラバンを襲うなどという命知らずな真似を、
しでかすはずがない。
                                                            ドゥルーガ
 レグアノ砂漠に生きるものたちにとって、彼らに繁栄をもたらす聖都は、けっして地図に記
されることのない聖地であり、桃源郷なのだ。
 ユスラのような案内人に先導されることなしに、幻の黄金砂丘に絢爛と輝くといわれる伝説の都へ辿り着くことは叶わない。
 それゆえ、互いの交流になくてはならない案内人が率いるキャラバンに危害を加える者
   ドゥルーガ
は、聖都とレグアノ砂漠の民の双方から報復を受けることになる。
(それなのに、なぜ──?)
 呆然とするユスラの前で、一番大きな積み荷の油布が賊たちの手で引き破かれ、平たい長櫃のような中身があらわれた。
 闇檀か黒碧石で造られたような黒曜の光沢に包まれた表面には、びっしりと細かな呪文字が刻まれている。
封印をかけられた漆黒の──棺だ。
 どっしりとした質感の外見に相違して、実際にはさほどの重さはないらしく、二人がかりで持ち上げられた棺は、かけ声もろとも砂の上に投げ出された。
 横倒しになった棺の隙間に他の仲間が短剣を差し入れて、こじ開けようとするが、棺蓋は微動だにしない。
 数人がかりの渾身の力作業が徒労に終わったところで、首領がユスラを振り返った。
「女、命が惜しければ棺をあけろ」
 ぞんざいな命令に、ユスラは昂然と顔を上げた。
「使徒の棺を開けることが出来るのは、棺の持ち主と認められた者だけだよ──聖都ドゥルーガにね」
 かの幻都の名をユスラが誇らしげに言い放つのを聞いて、覆面の奥で首領は苦笑したように見えた。
                                    ドゥルーガ
「なるほど…。ではバデク王は、ついに聖都の使徒とやらを手に入れたというわけか。なら
ば、なおのこと、あやつには渡せんな」
「なんだって?」
 瞳を見開くユスラの周囲からも、くつくつと不気味な笑い声が沸いた。
「…まさか、あんたたち?」
「よかろう、中身を確かめるまでもない。棺ごと、たたき壊せ」
 首領の命令で、数人の男たちの手に大斧が握られる。
 ユスラの顔から、血の気が引いた。
「使徒に手を出すなんて…やめなったら!」
 飛び出したユスラの背後を、無造作な剣のひと振りが薙いだ。
 血の糸を引いて倒れるユスラの前で、棺に大斧が振り下ろされる。
 ガッ、と堅い音を響かせて、大斧が棺から跳ね返った。
「やめて!」
 ユスラは必死で傷ついた半身をおこそうしたが、脚にも腕にも力がはいらない。
(死ぬんだ──)
 とぎれそうになる意識の中で、そう、ユスラは思った。
                          ドゥルーガ
 あの方から託された大切な聖都の客人と荷物を、必ず無事にキルテナまで送り届けると
    ドゥルーガ
──聖都を出るときに交わした約束は、もう…果たせそうにない。
 顔をうずめた夜の砂が、冷たかった。
(ルシェさま……)
 闇の中で、深紅の灼風が弾けた。
 何の前触れもなく、突如として漆黒の棺から迸った紅蓮の炎が、棺に群がる賊を彼らの悲鳴もろとも呑みこんだのである。
 乾いた哄笑が吹き荒れた。
──愚かものめらが
 棺に手をかけた略奪者どもを一瞬にして焼きつくしたものが、逆巻く炎の中に浮かんでいた。
 虚ろな三つの眼窩に燃え上がる、青白い妖気。
 ざんばらに乱れた灰色の髪を、触手のように蠢かせた異形の髑髏の首が、生き残った少女に向かって、かっと口を開けた。
 赤黒い口腔内の乱杭歯と上下四本の牙を笑いの形に歪ませたそれが、ゆらぁ、と宙を滑る。
「いやぁぁっ!」
 牙を剥いて髑髏首が飛びかかってくるとみて、ユスラは悲鳴を上げた。
 思いどおりに動かない手足をばたつかせる背後から、さぁ、と暖かな空気が流れて、ユスラを包んだ。
 黄金色の──風。
 背中にあてられた掌のぬくもりを感じた途端に、呼吸が楽になり、傷の痛みが消えた。
「あ…?」
 顔を上げたユスラの前で、静かな微笑みが揺れていた。
「そのように取り乱しては、レグアノ砂漠一の案内人の名が泣くぞ」
耳朶にしみいるような、澄んだ声音。
 光の滴を紡いだがごとく輝いて流れる、まばゆいばかりの黄金の髪。
 純白の長衣をまとった、それ以上の存在など、この世にいるはずもない至高の美貌の主に抱きよせられただけで、ユスラは気が遠くなる。
「──ルシェ…さま?」
 たおやかな白い指先が背中をゆるやかになでていくのを、ユスラは夢心地で感じていた。
「落ち着いたか」
 跡形もなく傷を癒し終えてから、まだ陶然としているユスラに、黄金髪の麗人がにやりと笑んだ。
「かの君の尊きお姿を拝借したは畏れ多いが、これまでのおまえの働きに免じて、お許しになられるじゃろうて」
 揶揄するような口調と言葉の意味を、反芻しかけたユスラの耳に異音が鳴り響いた。
 黄金色の風が瞬く間に、夜の彼方に吹き散らされる。
 がたん
 闇に響く、暗黒の音。
 がたん
 砂上にうち捨てられていた棺が、三たび跳ね上がった。
(──出る。)
 漠然と、そう思った刹那、ユスラの背筋に戦慄が走った。
 漆黒の棺から、何かが──中に閉じこめられていたものが出てくる。
                              ドゥルーガ
 棺の表面にびっしりと施された聖都の呪文字を封殺して、窮屈な閉鎖空間から夜の砂漠
へそれが、飛び出そうとしている。
純白の長衣を翻して、麗姿が跳んだ。
 優雅な身ごなしで、ふわりと棺の上に着地する。
「まだ、出してやるわけにはいかぬよ」
 着地と同時に沈黙した棺の中身に、先刻の艶やかな美声とはうってかわった嗄れ声が、そう告げた。
「あんた…だれよ?」
「さて、な」
 まばゆいほどの美貌が邪悪な笑いを浮かべたのを見て、ユスラは悟った。
「こ、この…っ」
 騙されたと気づいた落胆と悔しさ、嫌悪、さらには自分の胸の内を見透かされた羞恥心までもが、いっぺんにごちゃ混ぜになる。
 もう、こうなったら相手が得体の知れない化け物だろうと妖怪であろうと、かまったものではない。
「ばっ、ばちあたりっ! こ──こともあろうにルシェさまに化けるなんて! ばかばかっ!」
 思いきり、ユスラは怒りをぶちまけた。
「やれやれ、せっかくおまえさんの願いをかなえてやったというに」
 憤懣やるかたないユスラの反応を愉しんでいるかのように、にせもののルシェのにやにや笑いが深くなる。
「勿体なくも、さっき死にかけたとき、かの君の御名を口にしたじゃろうが」
「大きなお世話だよっ!」
 真っ赤になって、ユスラは怒鳴った。
「いったいなんなの、あんた!」
「わしは、アロウの監視者じゃ」
「アロウって…?」
 艶やかな笑顔で見つめられたユスラは、つい怒気を抜かれてしまった。
 漆黒の棺に片膝をくずして腰をおろしたその姿態は、本物の右手神ルシェならば、間違ってもするはずがない仕草だが、そうとわかっていればなおさらのこと、そのどこか自堕落でなよやかな風情が、いっそうなまめかしく感じられて、ぞくりとしてしまう。
「この棺の中に押しこめられた、使徒の名前じゃよ」
 ため息の出るような繊手が、ひたひたと漆黒の棺をたたいた、と見るや、神々しい白い麗姿の輪郭が急に輝きを失って、どろりと溶けた。
 ルシェの姿を構成していた組成粒子が混じり合って凝縮し、再び灰色の髪を振り乱した髑髏首に戻る。
                                                                               ドゥルーガ
「わしがルシェ様からアロウの監視を命じられたと知ったが故に、シグ様はおまえらを聖都
から出したのじゃ」
 棺の上に乗った髑髏首は、口をかたかたと鳴らした。
「さもなければ、おまえらを見逃すシグ様ではないわ。いっそ見逃してもらわんほうが、わしは楽じゃったがの」
 くくく…と乾いた笑い声をたてる髑髏首の言葉をどう受け取っていいのか、ユスラはとまどった。
 闇の生命から創造される使徒を監視するために、聖都〈ドゥルーガ〉の智を司る右手神ルシェから遣わされたという、あやかしの異形。
 今しがた封印を破って棺を飛び出しかけた使徒の波動は、尋常の生き物のそれではなかったが、その使徒をたやすく鎮め、棺に襲いかかった二十名もの賊の生命を一瞬にして消し去った妖力には、魔道の知識を持たないユスラでさえ強大で邪悪な力を感じる。
 が、この髑髏首に先刻ユスラは生命を助けられたのだ。少なくとも今のところは、自分に対する害意はなさそうである。
 だとしたら、とりあえず礼ぐらいは言っておいた方がいいかもしれない、とユスラが思い直したとき──、
 かすかに、闇の中から人のうめき声が漂ってきた。
「ガデス!」
 ユスラがかけよる。
「ほう、まだ死にきれぬ奴がおったか」
「はやく助けてあげてよ!」
 髑髏首にユスラが叫んだ。
「あんたの力で、なおせるんだろ。ねえ」
「生かす価値があるほどの、男でもあるまい」
「な…」
 思わず、ユスラはかっとなった。
         ドゥルーガ
「ガデスは聖都の客人だよ。商談がすめば、生きようが死のうがどうでもいいなんて、ひどす
ぎやしないかい」
         ドゥルーガ
「その男は聖都の客人とはいえぬよ」
髑髏首が喉をならす。
 ドゥルーガ
「聖都に使徒を求め、アロウを手に入れたのは寒流山脈のバデク王じゃ。そやつはバデク
王のよこした使いにすぎん。この程度の襲撃を切り抜けられぬようでは、所詮バデク王にとっても無用の輩というもの」
 ユスラの怒りなど、全く意に介していない。
「だって…ガデスまでいなくなったら、だれが棺の中身をバデクとかいう王様のところまで運ぶんだい」
 慈悲のかけらもない相手に、なおもユスラは食い下がった。
「懸念にはおよばん。アロウはわしが送り届ける」
「それじゃ、だめだってば!」
「うるさい娘じゃな」
 髑髏首の口調が、面倒くさそうになってきた。
「そやつがどうなろうと、別段おぬしに不都合はあるまいが」
「なにいってんだい。不都合なんて、大ありだよ」
 ユスラは憤然として、まくしたてた。
                                                                            ドゥルーガ
「砂漠でお客を全滅させたりしたら、こっちは商売上がったりじゃないの。あんたも聖都の住
人で、ちっとは案内人を大切にしてくれるってのが口先だけのことじゃないっていうんなら、あたしの立場ってもんも考えてよ」
「久方ぶりに外界へ顔を出してみれば、なんと、気の強い娘じゃな」
 ゆらり、と髑髏首が宙に浮き上がった。
「──まあ、よかろう」
「…ほんと?」
「そやつを助けたところでなんの益もないが、わしにはどちらでもいいことじゃ」
「じゃあ、はやくなおしてやって」
 思いのほか、あっさりと髑髏首が承知したのでいささか拍子抜けしながらも、相手の気が変わらないうちにとユスラはせかした。
「では、そやつをここまで運んでこい」
「あたしが?」
 眉間にしわをよせるユスラに、すまして髑髏首が言った。
「おぬしのほかに誰がおる」
「あんたがこっちにきてくれたほうが、手っ取り早いじゃないの」
「それがそうもいかん。わしがこの棺の側から離れると、先ほどのようなことになるのでな。おぬしの生活もかかっておるのじゃろ、いやならやめておけ」
「もう、わかったってば」
 髑髏首に向かって思いっきり顔をしかめてから、砂漠で鍛えた身体にものをいわせて、えいとばかりにユスラはガデスを持ち上げた。
 顔を真っ赤にしてよたつきながらも、しっかりとガデスを運んできたユスラをみて、
「存外、力持ちじゃな」
 髑髏首が呆れたような声を出した。
「はい、これでいいでしょ」
 息を切らしながら相手をぐっとねめつけるユスラに、髑髏首が牙を鳴らした。
「娘よ、この借りは高くつくぞ」
 蝋細工のような青白い髑髏の面に穿たれた三つの眼窩に、奇妙な光が仄めいてみえる。その嘲るような、なにものかを謀るようなかぎろいに不吉なものを感じつつ、ユスラはうなずいた。
「わかってる」
 とにかく今は、彼女の雇い主が助かればいいのだ。
 少しでも生きる可能性があるのなら、それを見逃すことなど自分にも他の誰にも、ユスラは断じてしたくないし、させたくなかった。死んでしまえば、すべてがここで終わりになる。
 大切なのは、どんなことをしても生きのびる、ということだ。
「まかせといてよ」
 ユスラは請け合った。
ドゥルーガ
「聖都を出るとき、ルシェさまに必ずまた来るって約束したんだ。とびっきりの、いい商談相
手を連れていくって…ね」
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