ユスラは立ち上がり、夜の彼方を透かし見るようにした。
 さらさら… さらさらさら…
 風に流される砂漠のひそやかな呟きに、かすかな異音が混じる。
 次第に高まっていく音と振動が夜の静寂を破り、響きわたり始めた。
 ざああぁっ、という轟音とともに、近くの砂丘の一つが数十デールもの高さにまで盛り上がり、勢いよく吹き上げられた。
 小山ほどもある、夜よりもなお黒い巨大な生き物の影が、夜の砂漠を浮き沈みしながら横断していく。
 かき分けられた一方の砂山が大きく崩れ、こちらの夜営場所めがけて押し流されてきた。
「ずいぶん…大きいじゃん」
 ちょっと意外そうなユスラの表情は、自分の雇い主を振り返ったときには、もう笑顔になっている。
「大丈夫だってば。あの砂虫は、こっちには目もくれないよ。あれは水場が近いとね、寄り道なんて考えないんだ」
 レグアノ砂漠に点在する大小さまざまの岩場は、砂ムカデやサソリが巣くっているために旅人が休息する場所には適さないが、いくつかの岩場には水を補給できるオアシスがある。
 砂漠を徘徊する大型の砂虫や無足獣ディグロプスなど、旅人たちにとって脅威となりうる危険な生き物たちの多くは、こういった水のある岩場には普段は寄りつかないが、なかには繁殖期を迎えるとただひたすら、まっしぐらに水源を目指して集まってくる習性を持つものがいる。
 だから、砂漠の夜は出来るだけ岩場の近く、それも沸き水を求めて集まってくる彼らの通り道を、すれすれによけて休息するのが最も安全なのだ。
 水を補給できる岩場やオアシスをどれだけ知っているか、物騒な砂漠の生き物の通り道をいかに見極めて安全な夜営ができるかは、砂漠渡りを生業とする案内人の腕の見せどころでもある。
ユスラの余裕の言葉を証明するかのように、目の前を通過していく巨大生物がこちらに注意を払う様子はなかった。夜営地まで押し流されてきた砂もたいした量にはならなかったので、どうなることかと腰を浮かせていたガデスは、再び黙然としたまま座り込んだ。
「それにしても、この人騒がせな連中、いったい何者だったんだろう」
焼け焦げた賊の残骸が転々と散らばる周囲を、ユスラは見渡した。
 賊の首領の思わせぶりな口調からして、最初から彼らはガデスやユスラたち一行を襲うために、このあたりで待ち伏せしていたとしか思えない。
「こいつら、あんたの王さまのこと、どうとか言ってたよ」
「………」
 寒さよけの毛皮にくるまって、うずくまるガデスの表情は硬く無言のままだ。
 髑髏首のおかげですっかり傷は癒えたものの、ユスラよりもかなり長く瀕死の状態が続いたためか、相当体力を消耗した様子である。
「なんか妙になれなれしい口調でさ、この棺の中身をバデク王には渡せないって、いってたっけ。まさか…あんたの顔見知りじゃないだろうね」
「わしは知らん」
 ユスラの追求に、ガデスは低い声でうなった。
「だってさ…」
「うるさい! 余計な詮索をするな!」
「あ、そう」
 ガデスの怒鳴り声にユスラは軽く肩をすくめると、食料や水の被害を調べ始めた。
 夜明けまでにしておかなければならないことは、まだいろいろと残っている。襲撃に驚いて砂漠の闇へちりぢりに駆け去ってしまった砂竜も、呼び戻さなければならない。
「サバクヘビの巣穴なんかに落ちてなけりゃいいんだけど。せめて三匹は戻ってくれないとね」
 甲高い竜笛を夜の砂漠に鳴り響かせる合間に、ユスラはガデスのほうを振り返った。
「──しゃべる気がないんなら、ま、それでもいいけど。でも命は一つしかないんだ。お互いに大事にしなきゃね」
「キルテナへ戻れば、これ以上かかわりにはならん。あと…半日だ」
 ユスラに対してというよりも、むしろ自分自身に言い聞かせるかのようにガデスは呟いた。
 あと…半日。キルテナを出た後はリゴルニア通商国の保護下におかれた街道をとおり、やっかいな辺境小国群の少数民族どもをやり過ごす。それからあとはひたすら北を──故郷の寒流山脈を目指すことになる。
「…こんなところで…こんな胸くそ悪い砂漠で、くたばってたまるものか! …なにがあろうと、おれはバテク王にこの棺をお届けする。それしかないんだ。どんな化け物を運ばされようと、そんなことは…おれには…」
 くつくつと嘲るような笑い声が、苦しげなガデスの言葉を遮った。
「何がおかしい」
 ガデスがむっとして棺のほうを見やる。が、さすがに薄気味が悪いとみえて、ユスラを相手にしたときのように頭ごなしに怒鳴りかえす気にはなれないらしい。
「化け物か、なるほどのう」
 髑髏首の笑いにつれて、棺の上にひろがった脂気のない長い灰色の髪がざわりと乱れた。
「たしかにこれは、とんでもない化け物じゃよ。はたしてバデク王に御しきれるかのう。さてさて楽しみなことじゃて」
 そういうおまえこそ相当な化け物ではないか、と言い返したいのをガデスはこらえた。
 ひからびた皮が張りついた骨面を裂いた口から、乱食い歯と牙を剥き出した形相は、まるで屍喰鬼そのものだが、額の真ん中と左右に穿たれた三つの眼窩に、まぎれもない人智を凌ぐ知性の光を宿しているのが、なおいっそう不気味でおぞましい。
「我が王を侮辱するか」
「何じょうもって」
 古風な言い回しでガデスの怒りをかわした髑髏首は、それでもおかしくてたまらぬというように、かたかたと笑った。
「したがバデク王といえば、寒流山脈に住まう銀仙族たちの一族長として、ここ二十年ほどで勢力を得て山岳中部の他部族を傘下におさめ、小王国をうち立てた。たしか蒼氷国というたな」
「それがどうした」
「二百年もの長きに渡る寒流山脈の覇権争いの果てに、蒼氷国のバデク王と豪族衆の大頭目スデクタが今や相違える二大勢力となりつつある。しかも最近とみに鉄や銅、碧晶などの鉱脈の豊富な雪狼山麓の支配権をめぐり、両者の争いが激化しておるときく」
「へええ。みかけによらず、あんた、もの知りだねえ」
 戻ってきた二頭の砂竜をつなぎながら、両者の会話を聞いていたユスラが、妙な具合に感心する。
「みかけによらずとは、なんじゃ。たかだか二百年ほど外界におらんでも、このぐらいのことは波動で伝わってくるわ」
「に、二百年…」
皮袋を肩にかけたユスラが、目を丸くした。
「どこへいく?」 
「さっき、あいつらに全部こぼされちゃったからさ」
 ガデスに訊かれて、ユスラは百デールほど先の薄闇に見える岩場を指さした。
「もう夜明けが近いからね。ちょっと水を汲んでくる」
 岩場を目指して危なげなく砂丘を渡っていくユスラを、見るともなく見送っていたガデスの背後で、髑髏首が言った。
「じゃが──常であれば、この程度の取るに足らぬ些細な勢力争いごときにかたをつけんと
                              ドゥルーガ
して、使徒を求めてきたところで聖都は応じぬ」
「取るに足らぬ、だと?」
 顔色を変えたガデスが、砂を蹴って立ち上がる。
「もう一度いってみろ!」
       ドゥルーガ
「使徒は聖都のために用いられる最高位の闇生命じゃ。下世話な言い方をするならば、もと
もと売り物ではないのじゃよ。他国の覇権争いのためならば、かわりにいくらでも超戦士、勇者などを供せばすむ」
「きさまなどに、我が国の大事に口をはさまれる筋合いはない!」
「その大事とやらについては使者に選ばれたおぬしさえ、使徒を得る目的や手だてはバデク王からほとんど何も聞かされてはおらぬではないかな」
 ぐっと言葉に詰まったガデスを、髑髏首は棺の上から見上げた。
「シグ様の至高の芸術品というべき使徒を、しかも未完成のまま、なぜルシェ様はシグ様と争われてまで遣わすことをお許しになられたか…バデク王のどのような思惑が、そこまでルシェ様を動かしたのか…この一件、なんと謎の多いことよ」
くくく、と髑髏首は喉を鳴らした。
「が、そこが…また、おもしろくもある。外界もまだ捨てたものではないの。バデク王が何を
                           ドゥルーガ
望み、その願いを聞き入れた聖都がどのような使徒を遣わしたか、今ここで己がなにを運
んでいるかがわかれば、先ほどの夜盗の輩と同じことを、おぬしとてするやもしれぬよ」
「使徒とは…なんだ?」
 それはバデク王の密命を帯びて故郷を出てより、一度も彼の脳裏を離れることがなかった疑問だ。
「教えてくれ。使徒とはいったい、どのようなものなのだ?」
「使徒とは、それを得た主人の望むままのもの。主人の命にのみ従い、主人の望みを叶えるために、尋常ならざるその力を解放させるものじゃ」
「ふん。では使徒とは、出来のいい忠実な操り人形か召使いではないか」
 鼻で笑うガデスを肯定も否定もせず、髑髏首はただこう告げた。
「使徒がどのようなものかは、おぬしが蒼氷国に戻れば、いやでも目の当たりにするであろうよ。戻る気があるならな」
「…なにがいいたい」
「さいぜん、おぬしはバデク王の命に従うしかないと言っておったが、今であればおぬしにもまだ、選ぶ道は残されておるのではないかな」
 嘲るような、それでいてどこか哀れむような髑髏首から、ガデスは目をそらした。
「おまえには関わりのないことだ」
「率いてきた全ての部下を失い、自らも死にかけてなお、それほど盲目的に王の命に従って功を上げて、のしあがりたいとは。はてさて、たいそうなことじゃ」
 挑発するような髑髏首の言葉にも、ガデスは心を閉ざしたかのように、なにも言い返さない。
 それきり、彼らは沈黙した。
 夜の暗黒から紫色の闇に変わりゆく砂漠を、ユスラが岩場から水を汲んで戻ってきたとき、ガデスは一人きりで夜営地にうずくまっていた。
「あれ?」
 あたりをきょろきょろと見回すユスラに、ガデスが顎をしゃくった。
「棺の──中だ。もう夜が明けるといって、消えた」
「ああ、そう。…ひょっとして、明るいのが苦手なのかな?」
 そういいながら、てきぱきと荷物をまとめ終えたユスラは、
「じゃあ、そろそろ出かけるよ」
 いきなりガデスを促した。
「朝食はどうするんだ」
「そんなもん、あとあと。砂竜は二頭しかいないんだから、余分な荷物を捨てても人が乗るわけにいかないんだ。涼しいうちに少しでも歩かなきゃ、今日中にキルテナにはつけないよ」
「こんなひどい砂漠で小娘のおまえが、案内人などで暮らしをたてていけるものかと思っていたが…よく体がもつな」
 疲れ知らずのユスラの体力に思わず唸るガデスに、ユスラは朗らかにいった。
「そう? あたしなんて、砂漠育ちで他所のことはなんにも知らなくってさ。オアシス都市を捨てて砂漠を離れていくやつもいるけど、あたしはここが好きだよ」
                                                  ドゥルーガ
 五つの時に、やはり案内人だった祖父に連れられて聖都へ渡って以来、ユスラは砂漠渡
りを生業として生きている。
 どんなに熟練した案内人でも、砂漠で命を落とす危険とは常に背中合わせだ。無慈悲で過酷な砂漠の脅威にいつも身をさらしながら、それでもユスラは案内人をやめたいと思ったことはない。
                                                                ドゥルーガ
「砂漠の女神ジュゼは、えこひいきなんてしない。レグアノ砂漠はね、聖都だけじゃない、あ
たしたちも護ってくれてるんだ」
 はるか彼方のなだらかな砂丘の連なりに向けた眼を、ユスラは細めた。
 紫から澄み切った青へ変わりゆく砂丘の色は、地上に届く天雲からの光にその輝きを増していく。
 衣擦れのような音を立てて、細砂が流れゆく。
 さらさらさら…
 朝の風に流され、砂漠が唄う。
 明け方のほんのひとときだけの、一日のうちで砂漠が最も美しい時刻だ。
 この広大なレグアノ砂漠は悠久の時に流され風に削られて、連綿とした岩と砂丘ばかりの風景を刻一刻と休むことなく変えてゆきながら、そこに棲む命あるものたちを生かし育んでいく。
「でも、あんただって好きなんだろ?」
 ふいにユスラにこう訊かれて、ガデスは驚いたように顔を上げた。
「好き? なにがだ」
「あんたの故郷さ。こんなに苦労ばっかりしてても、だから、だれがなんて言ったって帰りたいんじゃないの」
「そうみえるか」
「ちがうのかい?」
 訊き返してくるユスラに、どう反応したものかとガデスは戸惑い、そして苦笑した。
「…かもしれん」
 国のため、主君のため…自らの地位のため、あるいは家族のため──いつの頃からか好き嫌いだけで割り切れる生き方から、ずいぶんと隔たってしまった己に気づかされる。
 それでも自分には、ここからはるかな故郷に戻って成し遂げたいことがある。ひとたび決意して選択した道から、今さら引き返すことは出来ないし、そのつもりもない。
 棺をのせた砂橇をひく二頭の砂竜と二人だけのキャラバンは、長い旅の最後のコースを辿り始めた。


 リゴルニア通商国領の中でも、オアシス都市としては最大の規模を誇るキルテナは、レグアノ砂漠への南の玄関口にあたる。
「これ…?」
 別れ際に両手に落とされた皮袋の、ずしりとした重みにユスラが驚いた。
「とっておけ」
 最後まで仏頂面をかえずに、ガデスは言った。
「渡し場で話をつけてもらった礼を含め、必要以上にいろいろと手間をかけさせた分だ。…世話になった」
 故郷の蒼氷国では高職にある彼のことだ。これまで目下の者に頭を下げたことなど、なかったのだろう。こういうやり方でしか自分の気持ちを伝えられないのも、この男らしいのかもしれない。
 それでも、はじめて礼のようなぎこちない言葉を口にしたガデスを見て、おかしそうにユスラはうなずいた。
「じゃあ…ありがたくもらっとくよ」
 出会った人、別れていく人、いい客、手のかかった客、面白い客…これまで出会った一人一人を、ユスラは忘れない。
 この真面目堅ぶつで不器用な、北の国からやってきたこの男のことも。
「まだ先は長いんだろ。気をつけていきなよ…元気でね」
 出立の号令で、新たに組まれたキャラバンが動きだす。
 ユスラの口利きで、信用のおける渡し場から腕のいい傭兵たちを雇い入れたガデスは、こうして二度と再び訪れることのないキルテナを去っていった。
「さて、と」
 街のはずれまで遠ざかっていく一団を見送ってから、ユスラは市中へと引き返していった。
 今回はかなり苦労もしたが、そのぶん思っていた以上の実入りがあったし、しばらくはのんびりとすごすのも悪くはない──そんなことを考えながら、ぶらぶらと人々でごった返す通りを歩いていたユスラが、砂漠渡りの準備に忙しそうな隊商の一つに目を止めた。
 なかなか仕立て具合のよさそうな連中だ、とみれば素通り出来ない性分である。
「この砂竜、あんたのかい?」
 さらりと話しかけながら、ユスラはなれた扱いでいきりたつ砂竜をおとなしくさせると、その足もとを点検し始めた。
「ちょっと、これは…鱗皮が痛んで足が弱ってるよ。ああ、荷造りも甘いねえ。あんたたち砂漠渡りになれてないだろ。砂竜の扱い方を見ればわかるよ。飲み水はどれくらい持っていけ
                                                                      ドゥルーガ
ばいいのか、ちゃんとわかってるのかい? まさか、このまんま砂漠へ出て聖都にいくんじ
ゃないだろうね」
 ユスラの瞳が輝いていた。
 また新しい出会いと冒険の旅が始まるのだ。
 遠国からやってきた異邦人へ、ユスラは溌剌として笑いかけた。
「聖都ドゥルーガへの地図はないんだ。あたしを雇わない? 他の案内人じゃ命取りになるよ。だいじょうぶ、このキルテナ一の案内人、ユスラにまかせておきなって、お客さん!」
<完>
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