第5話 Paradise found & lost
大阪は嫌いだ。
大阪市港区に生まれた天名夕理の胸には、ずっとその感情があった。
その場のノリだけで生きてる、騒々しくていい加減な人ばかりの街。
それでも中学校に上がれば、少しはまともになると思っていた。
でも違った。ここも動物園だった。
当初は少し大人になろうと我慢していた夕理も、自習中にノートも広げず騒いでいる連中に、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
「ええ加減にして! 中学生にもなって、自習のひとつも静かにできひんの!?」
怒鳴り声に教室中が一瞬静まったところで、さらに追い打ちをかける。
「アンタ達は猿の集団か!」
言うだけ言って、荒々しく着席してから、少し反省する。
(あかん、猿に対して失礼やった)
案の定、注意された側は猿以下で、夕理の悪口を言い始めた。
「何やねんアイツ偉そうに!」
「天名やろ、小学校の時からあんな感じやねん」
「せやからいっつも一人なんやな。かっわいそー」
頭にきて睨みつけようとしたところで、他の生徒とはどこか一線を画した声が届く。
「まあまあ、この空気でお喋りも続けられへんやろ。大人しく自習しとこ」
「つかさがそう言うなら……」
毒気を抜かれたように、クラスメイトたちが渋々と自分の席につく。
夕理の後ろの席でも気配が動いた。
「ごめんねー天名さん、うるさくして」
「反省してるんやったら、口先やなくて行動で示して」
「おお怖っ」
茶化すような声に怒って振り向くが、彼女はさっさと自習に取り組んでいたので、何も言えず引き下がるしかなかった。
『あまな』と『あやたに』。
苗字のせいで座席は前と後ろだけど、性格は正反対だ。
彼女はいつもクラスの中心にいて、大勢の友達に囲まれている。
不真面目なくせに要領はよくて、先生に怒られないギリギリで遊んでいる。
(チャラチャラして、軽薄な人!)
それが夕理から見た印象だった。
とはいえ座席の関係で、プリントを配る時などは、どうしても顔を合わせることになる。
「ありがとー」
「……うん」
それが一日の中で、唯一の会話だったこともしばしばあった。
時々、後ろからじっと見られている気がしたのだけれど……
自意識過剰なら恥ずかしいので、考えないようにしていた。
* * *
それは五月も半ばの、何でもない日だった。
そろそろクラスの人間関係もこなれて、大勢で放課後に遊びに行くことになったらしい。
もちろん夕理に声なんてかからない。
夕理としても、そんな下らないことに費やす時間はない。
あんな風に群れて、何が楽しいんだろう。
「どこ行くー?」
「超楽しみー」
そんな会話を意識からシャットアウトし、鞄に教科書を詰めて、帰ろうと立ち上がった時だった。
「ごめん。あたし、やっぱり今日はパスするわ」
「え、つかさ!?」
大勢の動揺する声が聞こえる。
何かトラブルでもあったのだろうか。
自分には関係のないことだけど。
そう考えながら、教室を出ようとすると……
「天名さん」
思わぬ近い距離からの声にびくりとした。
焦って振り向くと、クラスで唯一の見知った顔が眼前にある。
さっきまで皆の中心にいた少女が、なぜかその輪を外れ、夕理の目の前に立っている。
「よかったら一緒に帰らへん?」
鞄を持って、にこにこと笑いながら。
(え……?)
まず思ったのは、『何を企んでるのか』ということだった。
小学校でもたまにあったのだ。
一人ぼっちの夕理を晒しものにするために、善意を装って近づいてくることが。
けれどすぐに、様子がおかしいことに気が付く。
(違う、これ……)
敵意。
彼女の背後にいる大勢の生徒たちの目が、驚きの時間を過ぎ、敵意そのものに変わった。
夕理ごと、彼女を射抜くかのように。
「何か用事あった?」
「な、ないけど……」
(後ろ後ろ! 気付いてへんの!?)
「ならええやん。行こ」
強引に手を引かれる。
無数の反感を残し、何がなんだか分からないまま、夕理はつかさと一緒に学校を出た。
なぜか今、ゲームセンターにいる。
彼女はというとUFOキャッチャーに熱中していて、自分はそれを隣で見ている。
状況が理解できない。
「ど、どうして……?」
「何が? あ、これやっぱ無理や」
二百円を費やしたが諦めたらしく、つかさは軽く肩をすくめた。
「お近づきのしるしに取ってあげたかったんやけどなー」
「いや別に欲しくないし! そんな事より、何で私なんか誘ったの!?」
「だめ?」
甘えるような声で言われて、思わず返事に詰まる。
と、軽い冗談だったようで、すぐに彼女の顔が砕けたものに変わった。
「まー言いたいことは分かるで。ほんまに、何でなんやろうね」
「私に聞かれても困るわ!」
「あたしも、自分がこんな事できるなんて意外やったけど」
そう言ってゲーセンの中を歩き出したので、慌ててついていくしかない。
電子音の響く騒々しい場所なのに、不思議と彼女の声はよく聞こえた。
「でも天名さんって周りに媚びないっていうか、我が道を行く感じやん?」
「別にそんなカッコいいものとちゃうけど……」
「そういう子って普段どんなこと考えてるのかなとか、仲良くなる方法ないのかなとか、前から思ってて……」
やっぱり、後ろの席から見られていたのだろうか。
でも、他にいくらでも友達のいる彼女に、なぜそんな必要があるのだろう。
「で、クラス中で遊びに行くときに天名さん選ぶって、最悪のタイミングやなって。そう思ったらつい実行しててん! それだけ!」
「なるほど……ってあかんやろ! 最悪のタイミングは!」
「あはは、やっちゃったー♪」
笑いながら、両腕を広げてくるくると回る彼女。
器用な人だと思ってたのに、器用な人だからこそ、時には破滅的なことをしたくなるのだろうか。
夕理にはさっぱり分からない。
結局その後はモグラ叩きに付き合わされ、暗くなる前に手を振って別れた。
帰宅して宿題をしてから、お手伝いさんが作り置きしていった夕食を食べる。
(何やったんやろ、さっきの……)
一人きりの食卓で、消えない疑問符とともに食物を口に運ぶ。
両親は仕事が忙しくて帰ってこない。
ここしばらくは顔を合わせてもいない。
(――はよ離婚したらええのに)
とっくに家族の形なんて失っているのに、体裁だけ保とうとしている欺瞞の家。
私は違う、と夕理は考える。
自分に嘘をついて、周りに合わせるなんて絶対しない。
……今日あの子が言ったことは、どこまで本当だったのだろう。
普段の彼女からすれば、信じられないようなことばかりしていたけど。
(でも、嘘ついてるようには見えへんかったな……)
* * *
翌朝、予習をしていた夕理の頭上に、いきなり声が降ってきた。
「おはよ、天名さん」
「お、おはよう……」
時間ぎりぎりで登校してきたつかさが笑っている。
昨日のあれは夢ではなかったようだ。
ますます意図が分からず首をひねる夕理の後ろで、再度つかさの声が響く。
「みんなもおはよー」
その挨拶に返事はなかった。
夕理の息が止まる。
意図的な無視。
『裏切者』に対する、それがクラス中の回答だった。
「ああ……やっぱこうなっちゃうか」
ある程度覚悟はしていたものの、どこかで友達なら大丈夫と楽観視していたのだろう。
それが現実はこの通りで、つかさはうなだれ気味に席に着く。
その前の座席では、夕理が小さく震えていた。
「ご、ごめ……」
「ん? 何で天名さんが謝るん?」
「だ、だって私なんかと仲良くしたから……」
「しゃあないよ。誰でも友達選ぶ権利はあるんやから」
「でもっ……!」
「それやったら」
思わず振り返る夕理の前で。
頬杖をついたつかさが、微笑んで口にした言葉を、夕理は一生忘れない。
「天名さんが責任取って、あたしの友達になってくれる?」
* * *
手始めに海遊館。
自転車で行ける距離にある世界最大級の水族館を、初めて楽しいと思った。
相変わらず混んでいたけど、器用に人の波をかき分けるつかさは、まるで魚みたいだった。
そのまま隣の観覧車へ。
さすがに一人で乗ったことはないので、景色を見るのは初めてだ。
これ乗ったカップルは別れるジンクスがあるんやって、とつかさに言われて少し複雑な気分になったけど、すぐに忘れた。
そして天保山のマーケットプレースに、大阪港を遊覧するサンタマリア号。
一日中遊び回ってクタクタになって、それでもまだまだ足りなかった。
こんな近くに、こんな楽しい場所があったなんて!
ほぼ誰とも話すことのなかった学校は、毎日挨拶を交わす場に生まれ変わった。
「おはよ夕理」
「おはよう、つ、つかさ」
「もう、まだ名前で呼ぶの慣れへんの?」
「だ、だって初めてやし……」
「ほら、ちゃんとあたしの目を見て言う! はい!」
「つ……つかさ」
よくできました、とつかさが頭を撫でてくれる。
少し赤くなって、されるがままになっている自分を、信じられないながらも受け入れる。
その光景を、クラスメイトたちが白い目で見ていたとしても。
お昼の風景も一変した。
ちょうど大阪市のまずい給食がニュースにもなった頃で、二人で遠慮なく文句を言い合った。
「まずくても感謝して食べろって!? それやったら自分たちが365日食べたらええねん!」
「ほんまになー。偉い人は温かくて美味しいランチ食べてるくせに、説得力ないわ」
しかし味はともかく、つかさが一緒に食べてくれるだけで幸せだったのだ。
そうして放課後にはゲームセンターに寄ったり、いまいち流行ってないオーク200で店を覗いたり。
ふたりきりの世界は、順調に生育していった。
友達状態にも慣れた六月半ば、夕理は思い切って一つの行動に出た。
「つかさは、今度の土曜は空いてる?」
「空いてるよ。何か用事?」
空いているに決まっているのだ。夕理のせいで、他に遊ぶ友達はいないのだから。
少し心の痛みを感じつつ、昨晩何度も練習した言葉を口にする。
「
「ゆり園かー、開園した時に行ったきりやな。ええよ、行こ」
そう言ったつかさの顔が、笑顔にほころぶ。
「夕理から誘ってくれたの初めてやね」
「う、うん、たまにはって……」
「すごく嬉しい」
その言葉が、夕理にとっては百倍嬉しかった。
もっともっと喜ばせたくて、お弁当作ってくから、などと言ってしまう。
作ったことなんてなかったが、必死で練習して何とか当日に間に合わせた。
弁天町から一駅先の西九条へ行き、シャトルバスに揺られて25分。
人工島である舞洲で、年に一ヶ月しか開かない植物園に足を踏み入れる。
「わあっ……」
百合の花々は今まさに盛りで、斜面いっぱいに咲き誇っていた。
そのすぐ向こうには大阪港の海。
いい時期に来たね、と二人で話して、写真を撮りつつ園内を巡る。
と、半分くらい回った時だった。
不意に夕理の目が険しくなる。
少し前を歩いていた男が、ちり紙で鼻をかんだかと思うと、その紙を道に放り捨てたのだ。
「ちょっと、そこのおじさん!」
「ん、何や?」
つかさが止める間もなく、夕理はずかずかと歩いて行って糾弾する。
「何てところにゴミを捨ててるんですか! こんな美しい場所に、恥ずかしくないんですか!?」
「お、おお、スマンスマン」
男は慌ててちり紙を拾い、連れの男たちに笑われている。
「ははは、女の子に怒られとるわ」
「すまんなあお嬢ちゃん、堪忍したってや!」
「分かればいいんです!」
ふんっ、と腰に手を当てている夕理を、つかさはあわあわと見ているしかなかった。
「そういえば夕理ってそういう性格やったね。最近見ないから忘れてた」
「う、うん……」
休憩コーナーでジュース片手に並んで座り、つかさからしみじみそんなことを言われる。
さっきの勢いはどこへやら、夕理はすっかりしょぼんとしていた。
「つかさもいるんやから、危ないことはしたらあかんかった。ごめん……」
「まあ、話の分かるおっさんで良かったやん」
しばらく黙ってジュースを飲みながら、色とりどりの花たちへ目を泳がせる。
夕理が眺めていたのは、入口近くの白百合の一群だ。
目の前には黄色の百合が咲き誇っているが、そちらにはあまり目が向かない。
「夕理は白が好きなの?」
「うん、純粋な感じがする。まあ園芸詳しないから、どっちが本当の色かは知らへんけど」
「そっか」
空になったジュースの缶を置き、つかさの視線は夕理の横顔に集中する。
見られているのを意識しながら、何となく見返すことができずその場で固まっていた。
「要するに夕理は、純粋なものや綺麗なものが好きで、そうでないものは許せへんのやな」
少しの間を置いてから、夕理はこくりと頷き、目を合わせないままおずおずと聞いた。
「小学校の通知表でも、潔癖すぎるって何度も書かれた。つかさは、直した方がいいと思う?」
「別にええんやない? さっきだって、夕理のおかげでゴミ散らかされずに済んだんやろ」
「そ、そうかな」
「あ、でも」
初めて肯定してもらえて、嬉しそうに顔を上げた夕理の前を、つかさの言葉が遮る。
「それならあたしは、そのうち夕理に嫌われちゃうかもね。あたしなんて純粋とは程遠いねんし」
「そんなことない!」
思わず立ち上がって叫んでいた。
驚いているつかさに構わず、浮かんだ言葉をまくし立てる。
「つかさは心が綺麗やもん。嫌いになるなんてあり得へん! 私、私は……」
まったく冷静ではなくなっていた。
夕理の体全体から、初めて経験する何かが湧き上がって……
そのまま叫びとなって、舞洲の空気を震わせた。
「私は未来永劫、つかさのことが好きやから!」
周囲の客たちが、何事かと振り返る。
ようやく状況を理解して、耳まで真っ赤になった。
きょとんとしていたつかさも、それを見てさすがに笑い出す。
「あはは。夕理は大げさやなあ」
軽く笑い飛ばしてくれたのが、せめてもの救いだった。
何も言えず座った夕理の胸は、全力疾走後のように早鐘を打っていた。