(もう、公衆の面前で何を叫んでんねん、私は……)
まだ気恥ずかしさに顔が熱い。
帰り際に寄った売店で、つかさの買い物を待ちつつ呼吸を整える。
「お待たせ。はいこれ、今日誘ってくれたお礼や」
「わ、私に!?」
小さなプレゼントを手渡される。
誰かに贈り物をしてもらうのも、生まれて初めてだ。
「あ、ありがと……」
そう言って包みをポーチにしまおうとする夕理に、つかさは慌ててツッコミを入れる。
「いやいや! こういう時は『開けていい?』って聞いて、その場で開けるもんやで」
「そ、そういうもの? ……開けていい?」
「どうぞどうぞ!」
勢いよく答えるつかさにくすりと笑って、包みを広げる。
純白の、細いリボン。
夕理が好きといったばかりの色の、小さな髪飾りだ。
「あ、ありがとう!」
「つけてあげようか?」
「う、うん」
つかさの手が自分の髪に触れただけで、心臓がまた早くなる。
彼女が取り出したコンパクトミラーに、二人の姿が映った。
「ほらほら、似合ってるやろ」
「あ、えと」
小さな鏡だ。近寄らないと二人が映らない。
密着している状況に、似合うかどうかなんて考える余裕もなかった。
「夕理は可愛いんやから、もっとおしゃれしてもええねんで」
「か、可愛いって、何言うてんのっ……」
とどめだった。
決定的な何かが、夕理の全てをひとつの色に染めた。
園内は飲食禁止なので、外に出たところの芝生でお弁当を食べる。
料理の腕を誉めてもらえた気がするが、頭がふわふわして明確には思い出せない。
帰りのバスも、駅で別れた時も。
何だか雲の上にいるような、不思議な感覚だった。
自宅のマンションに近づくにつれ、徐々に早足になる。
とうとう走りだし、大慌てで家の鍵を開け、ポーチも弁当箱も放り出して自室に飛び込んだ。
(つかさ……っ!)
もう立つこともできず、その場にへたり込む。
体中が燃えるように熱い。
自分はどうにかなってしまったのだろうか。
少し迷ってから、髪のリボンを外して両手に載せる。
そこに彼女がいる気がして、思わず抱きしめるように胸に押しつけた。
『私は未来永劫、つかさのことが好きやから!』
生まれて初めて、誰かに好きって言った。
恥ずかしさに後悔したはずのあの言葉が反芻する。こだまのように、何度も頭の中に。
(つかさが好き)
(つかさが好き)
(つかさが――)
彼女と出会ってから……
何もかもが、初めての経験ばかりだ。
* * *
それからの十カ月は、夕理の人生で最も幸せな時期だったと思う。
夏は初めて作った曲を聞いてもらって。
秋は箕面へ紅葉狩りに。
冬は近くのスケート場で、足が動かなくなるまで遊んだ。
もちろん楽しかったことばかりではない。
『五人グループを作れ』という教師の残酷な指示に、無理に笑いながら三人組に声をかけるつかさの姿には、胸がきりきりと痛んだ。
「悪いけど、そっち入れてくれへん?」
「ハァ? 何でアンタ達なんか……」
「ま、まあまあ、邪魔せえへんようにするから。お願い」
夕理は何もできず、つかさの陰で小さくなっているしかなかった。
本来なら逆につかさこそ、皆がこぞって一緒に組みたがる子だったのに。
時折つかさが、楽しそうな多人数の集団を、遠くに眺めていたことがある。
すぐに夕理の視線に気づいて、何でもないよ、と笑ってくれた。
それでも、つかさの過ごす日々が楽しいものであるようにと、夕理も必死で頑張ったのだ。
元々そこまで趣味の合う二人ではない。
夕理はファッションやコスメに興味はなかったし、つかさも芸術や文化に興味はなかった。
そうだとしても、夕理はつかさと一緒にいられれば幸せだったから……
無理矢理にでも趣味を合わせて、何とか一年間を渡りきった。
「今日から二年生かあ」
「そやねえ」
この頃には遠回りになるのを承知で、夕理はつかさの家に寄って一緒に登校していた。
まだ蕾の桜の下を一歩一歩進む。中学一年生の最後の時間を。
「そろそろ進路のことも考えなあかんな」
「夕理は真面目やなー」
二人ともクラス分けの話はしなかった。
後にして思えば、現実から目を逸らしていたのだろう。
そうして何も考えずに校門をくぐり、校庭に貼りだされたクラス分けを見て――
(――なんで)
天名夕理 二年三組
彩谷つかさ 二年六組
全身から血の気が引いていく。
冷静に考えれば当たり前だ。ここは寂れた田舎ではなく、大都市大阪の住宅地なのだから。
一学年七クラスもある学校で、一緒になる確率の方が遙かに低い。
それでも絆とか運命とか、そういったものを夕理らしくもなく当てにしていたのに。
現実には何の役にも立たなかった。
「きっつ……」
そう隣から聞こえた呟きを、夕理は信じたくなかった。今、つかさがそう言ったのだろうか。
「わ、私、つかさのクラスに遊びに行くから!」
すがるように、必死になってつかさに語りかける。
「給食もつかさのところへ持って行って食べる! それから――」
「うん、それもええねんけどさ」
つかさの声は、驚くほど冷静だった。
夕理に向いた彼女の目は、友達になる以前の、器用な少女のそれだった。
「やっぱり、自分のクラスに友達作らなあかんやろ」
「え……」
「……あたしはそうするからさ、夕理も早よクラスに馴染んだ方がええよ」
声帯が麻痺したかのように、何も言えない。
つかさが身を翻す。
自分の教室に向かう姿は、逃げ出していくように見えた。
ふたりきりの世界は、風船のように簡単に割れて消えた。
(しゃあないやんか……)
始業式の間も自己紹介の間も、ただそれだけを自分に言い聞かせていた。
今まで通りの関係を続けろというのは、つかさにクラスで孤立しろということだ。
学校生活の大部分を占める教室での時間を、孤独に過ごせだなんて。
そんな酷いことをどうして要求できるだろう?
(せやから、これはしゃあないんや)
(一年間もつかさを独占できただけで、ありがたいと思うべきや)
(それ以上何を求めようっていうの……)
だから。
つかさに見捨てられたことも、甘んじて受け止めないと。
「見捨て、られた――」
胃液が逆流しそうになる。
学校では泣く場所が見つからず、結局それを実行できたのは、家に帰った後だった。
誰もいない家で、つかさの名前を呼びながら何時間も泣き叫んだ。
大声で泣くこと。
それが最後につかさが与えてくれた、初めての経験だった。
* * *
新しいクラスでは、夕理は嫌われることはなかった。
ずっと死んだような目で、一言も喋らなかったからだ。
もちろん、近寄る生徒もいなかったけれど。
少し経った頃、廊下の窓から、下校するつかさの姿を見かけた。
昔そうだったように、集団の中心で笑っている。
何とか人間関係を再構築できたようだ。
(私のせいで、一度は壊させてしまった人間関係を)
そう考える夕理に、黙って見送る以外の選択肢などあるはずもなかった。
そしてさらに数日が経過して――
「夕理」
聞き覚えのある声に、急に息を吹き返したように立ち上がる。
何だかずっと昔のような懐かしさを覚える。
教室の入口に、つかさが気まずそうに立っていた。
「つ、つかさ!?」
「何か用事ある? なかったら一緒に帰ろうかなって……」
もちろん異論などあるわけがない。
ないけれど、なぜこのタイミングで?
初めて二人で下校した時と同様、疑問符をつけながら学校を出る。
「クラスで友達できた?」
その問いに、夕理は力なく頭を振る。
一縷の望みが絶たれたような、そんな表情がつかさに浮かんだ。
「そっか……あのさ」
それからしばらく黙ったまま、二人並んで通学路を歩き……
続く沈黙を訝しんだ夕理が、つかさの顔を覗き込む。
つかさは口を押さえながら、苦しそうに、絞り出すように言った。
「もしかして、夕理……あたしのこと、恨んでる?」
ようやく、今の状況を理解した。
(ああ――罪悪感に耐えられなくなったのか)
理解したと同時に、同じ感覚が跳ね返ってくる。
どうしてつかさに、こんな思いをさせてるんだろう。
たくさんのものを与えてくれた、大切な大切な、ただ一人の友達だったのに。
「恨んでるわけ、ないよ」
自分でも驚くほど、はっきりと口にできた。
あの時、教室中を敵に回してまで、夕理ひとりを選んでくれた。
たとえ一年間で途切れたとしても、その事実は変わらない。
「恨んでるわけない。当たり前やろ。私がどれだけ感謝してると思ってるの」
「で、でも……」
「クラスが違ったのはしゃあないやん。誰だってつかさと同じようにするよ」
「でもっ……!」
「ねえつかさ」
もうつかさと手を繋いだり、寄り添ったりはできないけど。
これが互いのためになると信じて、細い糸を彼女へと差し出す。
「もし許されるなら、つかさの友達の末席に置いてもらえると嬉しい」
「夕理……」
「本当に気が向いた時に、話しかけてくれるだけでいいから。それ以上を望んだりはしないから……」
生暖かい春の風が、二人の間をすり抜けていく。
つかさは軽く息を吐くと、弱々しく笑った。
「うん――分かった」
* * *
それからつかさは、時折一緒にお昼を食べたり、遊びに行ってくれるようになった。
まったくの不定期で、何も約束されたものではなかったけれど。
ただそれだけを楽しみに、夕理は生きていくことができた。
そして元の性格も復活し、クラスメイトからは順調に敬遠された。
一年と半分が経過して、中学校でも進路を決める時期になる。
学校帰りにファストフードに寄った時、二人の間でもその話になった。
「つかさはどうするの?」
「住之江女子に行こうかなあ。なんかもう男子とかめんどくさいし」
「つかさ、モテモテやもんね」
「あ、今のオフレコやで。夕理以外にこんなこと言うたら、自慢かとか思い上がんなとか言われるんやから」
冗談ぽく言っているけど、もし他の友達とは違う、特別な場所を占められているなら嬉しい。
末席でいい、なんて言っておいて。
自分でも未練がましいとは思うけど。
「それやったら私も、住之江女子に行きたい」
「え、夕理ならもっと上の学校行けるやろ」
「……ねえつかさ、正直に答えてほしい」
ハンバーガーの包み紙を丁寧に畳んでから、椅子ごとつかさに向き直る。
「私、迷惑やない? 高校にまで付いてこられるのは、さすがに勘弁って思ってない?」
「夕理……」
「正直に、答えて……」
こんな問いに意味がないのは分かっている。
彼女は決して嘘つきではないけど。
建前や社交辞令は、普通に使う人だから。
でも今は――
「あたしが夕理を、迷惑に思うわけないやろ」
いつもの優しい声。優しい瞳。
今はその答えに、すがるしかなかった。
高校に入学した日。
スクールアイドル部の気に入らないライブを見てから、クラス分けを確認した。
つかさとは別のクラス。
もう心が摩耗していて、何も感じなかった。
<第5話・終>