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「夕理ちゃん、ほんまに大丈夫?」
「へ、平気。ごめん醜態さらして」

 まだ溢れ出そうと暴れる涙を必死で押しとどめる。強く心を持って、ガラスに映った現実を直視する。
 頭の左側に、赤いリボン。
 花歩の手で付けられたそれを、何度も何度も目に焼き付ける。
 元々あった白いリボンは、花歩に預かってもらった。
 晴の指示は捨てろということだけど、すぐに捨てろとは言われていない。
 今実行するのは、さすがに心が壊れてしまいそうだった。

(――よし!)

 たぶん落ち着きを取り戻せた。
 きっと何とかなる、そう言い聞かせながら、スマホを手につかさの番号を呼び出す。

「もしもし、つかさ?」

 震えそうになる声を抑え、要件を伝える。

「五分だけでええから、時間もらえない? うん……うん、昨日の話。キューズモール? 阿倍野の方? 分かった」

 電話を切り、深く深呼吸してから、同行者へと振り向いた。

「今から阿倍野に行って決着をつける! もう少しだけ付き合うて!」
「り、了解や! あ、先輩たちに連絡を……」

 メッセージを打った花歩が、返信を見て首を傾げている。

「小都子先輩も来るって」
「え、何で?」
「よく分からへんけど、母性が爆発したみたいやって部長が」
「??? と、とにかく行こう!」

 御堂筋線の駅に取って返し、二人は地下鉄に乗り込む。行き先は天王寺駅、すなわち阿倍野へ!


 *   *   *


 移動中、部に残った三人はただ待つしかない。
 頬杖をついた桜夜が、まだ見ぬ新人への期待を語る。

「キューズモールってことは渋谷109で服でも見てるんやろか。入部して欲しいなー。ファッションの話とかしたいし」

 正確には夕理を勧誘した時に顔は見ているのだが、あの時は夕理が強烈すぎてよく覚えていない。

「渋谷109ねえ」

 渋の字に反応したわけではないが、立火は渋い顔である。

「あんな大阪の真ん中に渋谷ってどないやねん。大阪人の誇りはないんか?」
「できてから何年経ってると思ってんの。そんなん気にしてるの立火だけやで」
「それを言うなら東京にある鶴橋風月や道頓堀くくるにも文句言うてきてくださいよ」
「ぐっ……反論できない……」

 立火が晴にやり込められている間に、桜夜は業界を憂えて溜息をつく。

「そもそも大阪のファッションで世間に認知されてるのなんて、おばちゃんのヒョウ柄くらいやねんな」
「それも最近あんまり見いひんしなあ。次の衣装はそれにする?」
「彩谷ちゃん入部した途端に辞めるわ!」

 などと取り留めのないことを話しているうちに、花歩から連絡が来た。
 天王寺駅に到着したようだった。


 *   *   *


 キューズモール前の広場で、つかさは約束通り待っていてくれた。

「お、お待たせ……」
「別にええけど……ふうん」

 つかさの目は、すぐに夕理の赤いリボンを捉える。
 その隣にいる、モブっぽい一年生も。

「そのリボン、似合うてるやん。その子に買うてもろたん?」
「そ、そうや! つまりこれは依存から脱却した証として」
「そっかあ、あたしのはもう用済みかあ」
「っ!」
「いや、ゴメンゴメン、さすがに意地悪すぎた。ええことやんな、新しい友達ができるのは」

 どこまで本気なのか、つかさはいつも分かりにくい。
 怖い。
 つかさに嫌われたら生きていけない。

 けれど、これはきっとつかさも望んでいることだ。
 つかさ以外の友達を作り、つかさ以外の友達から贈られたアクセサリーを身に着け、その上でつかさと友達を続ける……
 それは正しいことだ。間違ってない!
 勇気を奮い立たせ、精一杯の声を張り上げる。

「わ、私にもつかさの他に友達ができたんや! これからはこの――」

 ……だが。
 夕理の進撃もここまでだった。

「この……えっと……」
「?」

 怪訝な顔になる二人に、夕理の背中を冷や汗が流れ落ちる。
 ぎぎぎ、と機械のように首を回し、隣の少女を視界に収めるが、やはり思い出せない。
 乾いた声で、最低の質問をするしかなかった。

「ごめん……名前なんやったっけ……」
「…………丘本花歩デス………よかったら覚えてね………」
「ごめん! ほんっまにごめん!」
「駄目駄目やないか……」

 おかもとかほ。ようやく覚えたが、今さら遅い。
 両手を合わせ、ぺこぺこと彼女に謝るしかない。
 つかさからは完全に呆れられてる。
 結局のところ、つかさ以外の人間に興味はないことを露呈してしまった。

(終わりや! 私のアホ! みんなに迷惑かけただけやった!)

 この世の全てに謝罪しつつ、身勝手な欲求を諦めようとしたところで――


「夕理ちゃん!」


 澄んだ声が阿倍野に響いた。
 人をかき分け、小都子がこちらに向かってきている。

「橘先輩……」
「そっちの名前は覚えてるんだネ……」
「い、いや、昨日印象的なこと言われたから!」

 恨みがましい花歩の目線を浴びつつ、気まずく横を向いている夕理に、到着した小都子は困惑する。

「あ、あれ? 妙な空気やけど、何かあったの?」
「まあ、その……」
「スクールアイドル部の先輩さんですか?」

 声を上げたつかさは、こんなことに付き合わされてさすがに少し不機嫌そうだった。

「せやったら言わせてもらいますけどね。部員欲しさに夕理を利用するのやめてもらえません? 夕理の精神に余計な負担かけてるだけやないですか」
「つ、つかさ、それは違っ――!」

 言い訳しようとする夕理を、小都子が手で制する。
 静かにつかさの前に立ち、礼儀正しくお辞儀をした。

「スクールアイドル部の橘小都子です。そうやね、確かに非難されても仕方ないと思う。けど、こちらにも言い分はあるから、聞いてもらえないやろか」

 下級生相手にも関わらず丁寧な態度に、さすがのつかさも少々たじろいでしまう。
 それを了承とみなして、小都子は言葉を続けた。

「つかさちゃんの友情は正しいよ。でも現実問題としては、昨日の夕理ちゃんは抜け殻みたいになって、何の活動もできひんかった」
「そ、そうなの夕理?」
「面目次第もない……」

 友達を思って突き放したけれど、結果がそれでは本当に良かったのか。
 つかさの顔に迷いが浮かび、そう思わせてしまったことが夕理は心苦しい。

「それでも時間をかければ、活動を続けることだけならできると思う。けど私は、ただ活動するだけの部活は嫌なんや。みんなが幸せになれるように動きたい」

 小都子の言葉が徐々に熱を帯びていく。
 夕理も花歩も、今さらながら理解した。
 この優しい先輩も、確かに火を灯しているのだと。

「夕理ちゃんは絶対、つかさちゃんと一緒の方が幸せや。つかさちゃんも、スクールアイドル自体はやっても構へんのやろ? せやったらこんなことで断念してほしくない」
「こんなことって……重要なことでしょう」
「こんなことって言えるようにするよ。あの頃はあんなやったねって、笑い話にできるように」

 そして小都子は、ぐいと夕理の腕を引き寄せる。

「せ、先輩?」

 体が接触するが、特に不快感はない。
 間近に見上げる眼前で、小都子は真剣な瞳で宣誓した。

「私が絶対、夕理ちゃんと仲良くなってみせる」
「先輩……」
「つかさちゃんへの想いには敵わんかもしれんけど、その七割くらいは、私にも向けさせてみせるから!」

 夕理は不思議で仕方ない。
 この先輩は、どうしてここまでしてくれるんだろう。
 この人に好かれることなんてした覚えはないのに。
 部員が欲しいから? 本当に、それだけで?

 小都子の力が弱まり、二人の体が離れる。

『欲しいものがあるなら――』

 戦わなきゃ。
 先輩に戦わせている場合ではない。
 誰よりも夕理自身が、戦わなきゃいけない。

「――つかさ!」

 今度は夕理が小都子を制するように、一歩前へ出た。
 大丈夫。そもそも天名夕理は気の強い人間で、言うべきことは言えるはずだ。
 たとえ、つかさが相手でも!

「つかさは、絶対スクールアイドル似合うと思う。きっと楽しいよ。損はさせへんから!」
「……せやから、やるのは構わないって言うてるやん」

 つかさも正面から受けて立つ。
 真っ直ぐに夕理を見て、少しの視線も逸らさなかった。

「夕理が大丈夫なのかどうかってだけ。あたしから自立できるの?」

 自立――
 それが何を指すのか、正確には分からないけど。
 嫌われるかもって脅えたくない。
 全ての基準を彼女にしたくない。
 ふたりきりの世界は、本当に幸せだったけど……
 今はもっと大きな世界で、その中であなたと共にいたい!

 大きく息を吸う。
 頭の赤いリボンと、先ほど先輩に触れられた腕が、熱を与えてくれる気がした。

「私は大丈夫! 友達がこう言うてるんやから、信じて!!」



 言い切った。
 そこまでが限界で、夕理は目をつぶったままだったけど。
 代わりに小都子が、じっとつかさの表情を見ていた。
 どこか寂しそうな、それでいて嬉しそうな、複雑な表情を。

 眼下を阪堺の路面電車が出発していく。
 遠く走り去ってから、つかさは降参するように両手を上げた。

「はいはい、わっかりましたー」
「え……」

 目を開いた夕理ではなく、小都子の方へとつかさの視線は飛ぶ。

「けど部長さんにも言いましたけど、あたし真剣にやる気はないですよ。休みたい時は休みますし」
「部長もそれでええって言うたんやろ? 気軽に楽しんでもらえたらええよ。あ、もちろん実力が足りなければステージには上げられへんけど」
「さすがにレギュラーにしろとか厚かましいことは言いませんよ」

 溜まった緊張をほぐすように、つかさは軽く伸びをした。

「ま、部長さんとの約束破らずに済むならその方がええか。じゃあ明日から出席します。今日は友達と一緒なので」
「うん、よろしくね」

 にこやかな小都子に軽く会釈して、つかさは歩き出そうとする。
 半歩進んだところで、まだ呆けている友達に目を止めた。

「何ぼーっとしてんの」
「え、あの、入部してくれるの……?」
「そういう流れやん。ほんまに大丈夫なのかなー」
「だ、大丈夫やから!」
「……うん、信じるよ。友達の言うことやもんね」

 微笑む彼女に、また頬が熱くなる。
 でも今は、後ろめたさなく彼女の言葉を受け取れる気がした。
 そんな夕理の頭越しに、もう一人の参加者にも声が届く。

「そっちの子も、これに懲りずに夕理のことお願いね」
「はっはい! 任せてください!」

 同じ一年生なのに、つい敬語を使ってしまう花歩。
 苦笑したつかさは軽く手を振って、キューズモールの建物へと消えていく。


「………」

 夕理の足から力が抜け、その場にへたへたと座り込む。
 呆然としているところへ、優しく手が差し出された。

「ちゃんと戦えたね」
「橘先輩……」

 その手を、ごく自然に取ることができた。
 立ち上がらせてもらう傍らで、花歩がぴょんぴょんと飛び跳ねている。

「これで三人目ですね!」
「そやねぇ。入学式の日はどうなるかと思ったけど、何とかなるもんやね」
「あ、部長に連絡しないと」

 連絡が途絶えてやきもきしているであろう上級生たちに吉報を送る。
 その行動を見届けてから、小都子は思い出したように言った。

「そういえば、つかさちゃんにもらった白いリボンは?」
「あ、私が預かってます」

 花歩が答えると同時に、びくりと夕理の体が震える。
 まだその件があった。
 今ならきっと、捨てることも可能なのだろうけど、でも――
 小都子は花歩からリボンを受け取り、それを夕理の手にそっと握らせた。

「捨てる必要はないと思うよ。晴ちゃんには私から言うとくから」
「え、で、ですが……」
「必要なのは、好きな気持ちに振り回されないようにすること。捨てることや消すことやないと思うから……大事に、取っておいてね」

 じわ、と浮かぶ涙を懸命にこらえる。
 捨てなくてもいいのだろうか。つかさから受け取った、いくつもの大切なものを。
 リボンを持った手の、その甲で目をぬぐう夕理を、二人が温かく見守っている。

「その代わり、私もリボン買うてあげてええかな」
「あ、わ、私も! 部費じゃなくて自分のお小遣いで」
「い、いやあの、そこまでしてもらうわけにはっ!」
「ええやないの。私、つかさちゃんと大変な約束しちゃったから」

 夕理がつかさへ向ける感情の、その七割に等しい量を小都子にも向けさせること。
 そんな無謀な約束をした二年生は、微笑みながらも圧力をかけるごとく、夕理へ顔を近づけた。

「私のこと、嘘つきにせんといてね?」
「こ、こちらも努力します……」

 そして三人で、つかさと鉢合わせないことを祈りつつ、目の前の商業施設へ向かう。

「そういえば妹の高校、この近くなんですよー」
「ああ、天王寺福音やもんね。そのうち私たちの前に立ち塞がるのかな?」
「いやあ運動神経が私以下なので、どうですかねえ」

 白いリボンを抱きしめたまま、その後ろをついていく夕理は……

「あ、ありがとうございます……」

 頑張って、初めての成果を発揮した。
 つかさ以外へと世界を広げるために。

「――小都子先輩! 花歩!」

 振り返った二人の笑顔に、最初の一歩を踏み出せたことを知った。


 *   *   *


 誰もいない家で、机の上に四色のリボンを並べる。
 部費で買った赤。
 小都子がくれたベージュ。
 花歩がくれた若葉色。
 ……そして純白。
 明日から毎日、順番につけていくことにする。

 何とか勝ち取れた。つかさと一緒のスクールアイドルという環境を。
 一方で、重い責務を背負ってしまった。
 小都子とも花歩とも仲良くならなければならない。
 したいしたくないの話ではない。ならなければならない。

 机の横のコルクボードに目を向ける。
 つかさと二人で映った、十枚の写真。うち一枚に手を伸ばし、取り外す。
 手は震えなかった。涙もこぼれなかった。
 昨日までの自分からはたぶん変わった。
 それが良いことであると信じて、新しい写真を貼る。
 小都子と花歩との三人で、今日一緒に撮った写真。
 他の九枚と比べて、夕理の笑い方は明らかにぎこちないけど。

(……まずは一枚)

 どの程度塗り替えればいいのだろう。
 外した写真を収めるため、机の奥から宝石箱を取り出す。
 中には既に宝物――
 使いすぎてボロボロになった、ゆり園でつかさが贈ってくれた、一つ目のリボン。

 あの一年間は未来永劫、かけがえのない宝物として残り続ける。
 けれどそれを抱えたままでは、速くは走れないから……
 溢れ出した分を、宝石箱に閉じ込めた。
 鍵の代わりに、事実をひとつ心の中で唱えて。

(私は、つかさが好きや)

 重さが変わっても、その事実は変わらない。
 いつか堂々と、口にできる日が来ますように。


<第6話・終>

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