じりじりしながら昼休みを過ごし、五時間目、六時間目の授業を受け……
終業のチャイムが鳴ると同時に、立火と景子の体が跳ね上がる。
「ええいどけ立火! 私と姫水ちゃんの運命を邪魔すんな!」
「なーにが運命や! こっちはラブライブの勝利がかかってんねん!」
足を引っ張り合いながら教室を出ようとしたが――
「ちょっと待って! お二人さん!」
「お、お前は演劇部の柳瀬!」
ボブカットの演劇部部長が、出口を塞ぐように立っている。
演劇部らしく芝居がかった口調で、切々と二人に訴えた。
「よく考えてみて。女優なんやで? 役者なんやで? 演劇部に入るのが一番と思わへん?」
「ええい、知るかボケェ!」
「そんなのは本人が決めることや!」
「……ううっ……」
(涙!?)
はらはらと泣き出した柳瀬は、中空を見上げながら情感たっぷりに独白する。
「私、去年に先輩たちと約束したんや……次の高校演劇大会、必ず全国へ行ってみせるって……」
「そ、そんなんこっちだって同じや!」
「新体操部は弱小やから特にそういうのないけど、それはともかく姫水ちゃんは欲しい!」
「どうしてもあかん?」
「あかん!」
「そっか……」
柳瀬がため息をつくと同時に、彼女のポケットでスマホが鳴った。
さっきの涙はどこへやら、演劇部部長はニヤニヤしながら電話に出る。
「もしもし、藤上さんと接触した? こっちの足止めも成功したから、そのまま勧誘したって」
「なっ――おどれぇぇぇぇ! 演技かぁぁぁぁぁ!!」
「演劇部が演技をして何が悪い! うちの副部長が勧誘始めたから、今から行っても無駄やで!」
「くそっ、諦めるか!」
柳瀬の体を押しのけ、二人は廊下に飛び出る。
生徒たちが何事かと振り返る中、階段をピンポン玉のように跳ね降りていった。
* * *
「申し訳ありません」
丁寧に断られ、演劇部の副部長は呆然としていた。
「え、でもあの、役者さんやろ……?」
「はい、でも今は一時的に休業しています」
姫水の長い睫毛が憂いとともに伏せられ、見る者全員の胸を締め付けた。
「詳細は伏せますが、私は役者を続けられなくなったからこそ、この大阪にいるのです」
「あ……」
ようやく理解したと同時に、演劇部員は自分たちの思慮不足を恥じた。
一年六組の生徒たちが非難の声を上げる。
「そやそや! 藤上さんの事情も察してあげて! 私も知らんけど!」
「何てデリカシーのない演劇部なんや!」
一斉に叩かれて、演劇部員はすっかり涙目である。
「ご、ごめんなさい……」
「いえ、お誘いいただきありがとうございます」
優しく透き通るような声とともに、姫水は上級生の手を自分の手で包み込む。
「決して舞台への想いを失くしたわけではありません。皆さんの演劇、観客として必ず拝見させていただきますね」
「ふ、藤上さぁん……何ていい子なんや……」
アフターフォローも完璧に。
感激に打ち震える演劇部員の感想が、六組の一同にも伝染する。
傍らには当然のように勇魚がいる。
「ねー姫ちゃん。それやったらボランティア部にこおへん?」
「それもいいんだけどね」
名残惜しそうな演劇部員から手を放してから、姫水は落ち着いた声で言った。
「でも私は女優への復帰を断念はしていない。演劇は無理でも、それに近い部がいいんじゃないかな」
「そ、そう?」
勇魚以外は誰も気づかなかった。
それがまるで第三者的な、他人事のような言葉であることに。
内容を理解する前に、教室に騒々しい声が響いた。
「それやったらぜひスクールアイドル部に!」
「いいや新体操部に!」
立火と景子が後ろの入口から飛び込むと同時に、前の入口からも三年生が飛び出してくる。
「芸術系の部がいいってことやね? 美術部はどうかな!」
「いや吹奏楽部に! 人数足りなくてアンコンすら出られへんねん!」
スクールアイドル部、新体操部、美術部、吹奏楽部。
一年六組の教室で、四人の部長がにらみ合って火花を散らした。
下級生たちは首をすくめるしかない。
「これは大変なことになってきましたね」
「晴!」
いつの間にか来ていた晴が、上司の隣からしれっと顔を出した。
立火の知恵袋の登場に、景子は露骨に嫌な顔をする。
「藤上さんも三年生たちにこう迫られては、自分からは選びにくいでしょう。どうですか、この四つの部で勝負して決めるのは」
『おお! なんか盛り上がってきた!』
元々住之江女子の生徒といえば、ノリだけで生きているというのが世間のもっぱらの評価である。
一年生も例外ではなかったようで、熱い展開に当然のように湧き上がった。
唯一勇魚だけが、憤って三白眼の先輩に抗議する。
「そ、そんな姫ちゃんを景品にするようなやり方……!」
「ああ、もちろん本人の希望がなければの話や」
さりげなく近づいた晴は、勇魚を無視して姫水の耳元に口を寄せた。
「君が望むことを君自身が把握しているなら、もちろんそれが一番やけど?」
「先輩、あなたは――」
一瞬だけ、姫水の瞳から生気が消えた。
ほんの一瞬、誰にも気づかれない時間は終わり、元通りの瞳で姫水は微笑む。
「そうですね。その四つの部ならどれでも構いませんし、私が選ぶのは角が立ちます。皆さんで決めていただければ」
流れるように答えてから、少しだけ視線を落として続ける。
「でも私、一年後には東京に戻るつもりです。女優として私の席が残っていれば……ですが」
立火は思わず言葉を失う。
三年間一緒のつもりだった六組の生徒も、ショックを受けつつも、付帯条件の重さに何も言えない。
「ですので、それで構わないという方だけお願いします」
四人の部長が顔を見合わせる。
降りる者は誰もいなかった。
* * *
部室に集まったスクールアイドル部員の前で、晴が作戦を話している。
「みな芸術系クラブとしてのプライドがあるはず。芸術勝負に持ち込めば乗ってくるでしょう」
「ふむふむ。けど、うちの部はそんな高尚な芸術とちゃうで」
「うまく言い包めて、判定方法を生徒たちの投票にすれば勝てます。あの美少女に絵やら楽器やらをさせるよりは、アイドルをさせたい人間の方が多いでしょうから」
大衆受けという点ではスクールアイドル部の右に出るものはない。
桜夜が感心すると同時に、少し気味悪そうな顔をする。
「なんか晴って頭よすぎて怖なるわ」
「割と穴だらけの作戦ですよ。もし上手く運ばなくても、勝負事ならうちの部長は何とかするやろって期待の上です」
「晴~、ほんまは私のこと大好きやろ?」
「好きとか嫌いとかの問題ではありません。可能性の話です」
抱きつこうとする立火をさらりとかわす晴の隣で、小都子が花歩に話しかける。
「それにしても、花歩ちゃんのお友達の幼なじみやなんてねぇ」
「私もびっくりしました! 一緒に登校しましたけど、話すだけで楽しくて、ほんま性格良くて素敵な子ですよ」
(ふうん……性格までええの……)
複雑な内心のつかさには気付かず、花歩は少し恐縮気味に話を続けた。
「あの、友達のコネ使って勧誘とかはしませんでしたけど、別にいいですよね?」
「ええでええで。友達は純粋に友達として仲良くしとき」
ほっと胸をなでおろす。やはり部長は筋を通す人だ。
安心したついでに、夕理に向かって軽口を叩く。
「夕理ちゃん、プロは入部するなとか言わへんよね?」
「ま、まあ女優やねんし……畑違いやからぎりぎりセーフや」
部員たちから笑いがこぼれ、夕理は渋い顔をした。
「それで今日の活動はどうすんの?」
桜夜が時計を見て尋ねる。まだ五時前。
明日の勝負を前に宙ぶらりんの状態とはいえ、帰るには早い時間だ。
「一人増えるかもしれへんなら、練習はその後の方がええな。次はライブやるから、セトリでも考えよか」
次はライブ!
初めて開示された情報に、花歩と夕理の顔に緊張が走る。
つかさだけはどこか上の空である。
「ライブってどこでやるんですか?」
「今回は体育館や。それ以外やとATCのイベントに混ぜてもろたり」
「よくアイドルのイベントやってますもんね」
「連休があるから、五月の中旬が目標かな」
「そうなんですねー」
説明を聞く花歩は、今回も出られないのを承知している。
PVでも緊張したのに、大勢の客を前に、撮り直しもできない一発勝負なんて絶対無理だ。
それでも部長と撮ったPVのおかげで、落ち込まずに続けられそうだった。
慰めるつもりではないのだろうが、晴もそんな花歩に役目を与える。
「ライブとなれば裏方も大事や。チラシ配りに客の案内もある。花歩はこっちを手伝ってもらうで」
「は、はいっ! 任せてください!」
「じゃ、話し合いの前にちょっとお花摘み」
「ごゆっくりー」
「こういう時は黙って見送って!」
立火とやり合った桜夜が部室を出ていく。
少しの間をおいて、つかさが後を追った。
(つかさ?)
夕理の怪訝な視線が追尾する。今日のつかさはやけに静かで、何かが変わってしまったような、妙な感覚がある。
そんな追及を拒むように、部室の扉は閉められた。
「あれ、つかさも行くん? やっぱり女子は一緒にお手洗いやな!」
「そうですねー。素敵な先輩とお近づきになれるチャンスですし」
「ううっ、可愛い後輩を持って私は幸せ者や。夕理に爪の垢でも飲ませてやって」
「あはは、そんなの夕理のレベルが下がっちゃいますよ」
その愛想笑いを収めて、つかさは歩きながら本題を切り出す。
「あの転入生、ほんまに入れるんですか?」
「え、何で?」
「だって……何となく嫌じゃありません?」
「?」
桜夜も美少女だが、つかさ視点ではどう見ても姫水に負けてる。
醸し出される知性が圧倒的に違うし、何より相手はプロ女優だ。
この人は気にならないのだろうか。
「いや別にいいんですけど……あんなハイスペックに来られるとやりにくいっていうか……マウント取られそうっていうか……」
「あーマウントねー。マウントはあかんなー」
全く分かっていないように頷いてから、桜夜はアホ丸出しの顔で自分を指さした。
「でも私の方が美人やろ?」
「………」
つかさの体から気が抜ける。
あはは、と投げやりに笑うしかない。
「先輩のメンタルってマジで凄いですね。なんだか尊敬したくなってきました」
「せやろせやろ……って今まで尊敬してへんかったんかいっ!」
「まさかあ。冗談ですよお」
それでも何だかんだで心は少し軽くなって、明るい先輩と話しながらトイレへ向かう。
(まあ、あたしもちょっと気にしすぎやな)
そもそも入部するかもまだ分からないのだし、決まってから心配すればいい。
入部さえしなければ、無関係な人間として過ごしていくのだから。
あの子に目を奪われたのは――きっと何かの間違いだ。
* * *
「おーい、花ちゃーん」
ボランティア部は休みの日なので、とっくに二人で帰ったと思ったら、バス停で待っていてくれた。
「勇魚ちゃんに学校を案内してもらってたの」
「姫ちゃん、どこに行っても大人気やったで!」
「なんかほんまにお姫さまって感じやね」
「そんな大したものじゃないわよ。みんな珍しいだけ」
来たバスに乗り込みながら、花歩の部活を思い出したのか、姫水は困り笑いを浮かべている。
「部の方は、何だか大げさなことになっちゃったね」
「あうっ。ごめんね、うちの先輩たちが……」
「いいの、決められない私が悪いんだから。もし同じ部になったらよろしくね」
「こ、こちらこそっ!」
その隣では、勇魚が腕を組んでうんうん悩んでいる。
「花ちゃんのいる部なら確かに安心やけど……でもスクールアイドルって人目に晒される部活やねんし……」
「心配しすぎよ、勇魚ちゃん。昔の引っ込み思案な私じゃないんだから」
「うう、分かってんねんけどね」
(へえ、昔は引っ込み思案やったん)
二人の様子を探りつつ、花歩はある話題を切り出そうか迷っていた。
授業中、自分と姫水に接点があったことを思い出したのだ。
あれは中学二年生の秋だから、一年半前。四月に仲良くなった勇魚が、不安そうな顔で話したことを。
『ねえ花ちゃん。メールいくら送っても返事が来ないのって、もう送らへん方がええのかなあ』
『え、相手は誰なの?』
『大事な友達……小さいころ引っ越してもーたけど……』
いつも猪突猛進の勇魚が、珍しくしょんぼりして相談してきたので、よく覚えている。
『うーん、まあ迷惑やったら着信拒否とかしてくるんとちゃう?』
『そっか! 花ちゃんの言う通りやな!』
『い、いやそこまで信じられても。読んでないかもやし』
『読んでないだけなら別にええねん、うちが勝手にしてる事が無駄になるだけやから。でもあの子が傷ついてへんかなって』
『メール送られて傷つくって、ちょっと考えにくいんとちゃうかなあ』
『そやね!』
あの相手は、おそらく姫水だったのだろう。
(別にこの話題、地雷とちゃうよね?)
朝にあんなことがあったので慎重になるが、最終的に二人の友達関係は続いていたようだし、特に問題はないはずだ。
何より、幼なじみの強い絆を前に、自分の居場所が不安になって……
花歩は結局、話を切り出した。
「ね、ねえ、中二の時のことやけど……」
「そう……だったんだ」
悲しそうな姫水の目に、もしや失敗だったかと不安になる。
一年半の時を経て、姫水は幼なじみに不義理を詫びた。
「ごめんね勇魚ちゃん、あの頃は……色々あって……」
「え、ええねん! ちゃんと読んでくれてたんやから、それだけで十分や!」
(や、やっぱり言わへん方が良かった!?)
「花歩ちゃん」
「はいっ!」
声が上ずってしまったところで、姫水の美しい手に花歩の両手が握られる。
「ありがとう。あの時にロープを繋いでくれたのは、あなただったのね」
「え!? い、いやいやいや、そんな大層なこととちゃうって……」
「うんうん、うちらの縁が続いたんは花ちゃんのおかげや。ほんまおおきに!」
真摯なお礼に、さすがに恐縮してしまう。
二人が重ねた時間に比べたら、自分のしたことなんて紙一枚程度の重さなのに。
「い、勇魚ちゃんが頑張ったからやと思うよ……」
あの時は軽く回答してしまったけど、返事がないメールを送り続けた勇魚はどんな気持ちだったのだろう。
七年間、東京と大阪の長い距離を隔てながら、相手を想い続けたことこそ特別だと思う。
花歩が八歳の頃の友達なんて、誰とも交友は続いていないのだから。
* * *
調子に乗って勇魚の家まで足を延ばし、つい話し込んでしまった。
気付けば時計は七時半を回っている。
「うわ! はよ帰らな!」
「ええー? 花ちゃんもご飯食べてったらええやん」
「でも家に連絡してへんから、二人ともまたね!」
「また明日ね、花歩ちゃん」
「ばいばいやー」
大慌てで部屋を出たため、花歩は何も気づかなかった。
花歩の姿が消えた途端、床に座っていた姫水の体が、糸が切れた人形のように倒れたことも。
悲鳴を上げかけた勇魚が、花歩に気付かれまいと口を押さえつつ、必死で姫水を助け起こしたことも。
階段を下りると、居間にいる勇魚の母から声がかかる。
「あれ花歩ちゃんもう帰るの? 晩ご飯食べてったらええやない」
「い、いえ、うちにもご飯があるので。お邪魔しましたー!」
「はなちゃん、ばいばーい」
「汐里ちゃん、ばいばい。今度来たときは遊ぼうね」
「うんっ!」
五歳になる勇魚の妹に手を振って、玄関へ行き靴に足を伸ばす。
その瞬間、スマホを勇魚の部屋に置いたままなのを思い出した。
(あーもう、私のおっちょこちょい)
勇魚母に気付かれるのも気まずいので、足音を潜めて階段を上がる。
部屋の扉をノックしようとして、少し開いていることに気付いた。
慌てて出てきたから、きちんと閉められなかったのだろうか。
「……て……」
(んん?)
中から何か、弱々しい声が聞こえる。
姫水のものとも、勇魚のものとも思えない。
花歩の脳内で警告が鳴る。
このまま部屋に入るのは何かまずい、と。
二人には悪いと思いながら、扉の隙間から中を覗き込む――
「助けて……助けて、勇魚ちゃん……」
花歩の思考は停止した。
今日一日、完璧なヒロインのようだった姫水が、床にうつぶせの身を投げ出し、勇魚に抱き着いていた。
小さな子供のように、体を震わせて。
「大丈夫、大丈夫や姫ちゃん。うちがついてるから……!」
抱きしめている方の勇魚からも、いつもの元気な笑顔は消え失せていた。
泣き出しそうな顔で、必死に姫水へと語りかけている。
「私、何でこんな風になっちゃったんだろう……ずっとこのままなのかな……」
「そんなことない! 絶対に治る、うちが保証する!」
「……勇魚ちゃん、助けて……」
「姫ちゃん……」
じりじりと後ずさる。
とにかく、誰にも気づかれるわけにはいかなかった。
呼吸を止めたままの玄関までの距離が、異様に長く感じられた。
何とか外に出て、息をつく間もなく全力で走りだす。
(え、なに、何やったの!?)
街灯の下を自宅へ急ぎながら、大混乱の渦は花歩の頭を撹拌し続けた。
(あの二人は、一体どういう関係なの――?)