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第9話 500kmのロープ

「ひーめーちゃーん、あーそーぼー!!」

 三軒隣の家に行って、届かないインターホンの代わりに、精一杯声を張り上げる。
 家の中でばたばたと物音がしたと思うと、同い年の女の子が、一生懸命玄関の扉を開けて顔を出す。

「いさなちゃん」
「えへへ、あそぼっ!」
「うんっ!」

 こんな毎日がいつ始まったのか、二人とも確かな記憶はない。
 物心ついた時にはもう、勇魚と姫水は一緒にいた。
「ひめちゃん」と呼び始めた経緯もよく覚えていない。
 姫水の姫がおひめさまの姫であると、たぶん誰かに聞いたのだろうけど。

 この日も二人で手をつないで、仲良く話しながら遊び場へ向かう。
 住宅地の狭間にある小さな公園で、近所の子供たちが三人ばかり、ブランコを揺らしていた。

「みんな、あっそぼー!」
「いさなちゃん!」

 大声で呼びかける勇魚に、三人とも目を輝かせて駆け寄ってくる。

「ね、ね、ひすいちゃんは?」
「おるでー」

 勇魚が笑顔で、背中の人影に促した。
 後ろに隠れていた姫水が、おずおずと顔を出す。

「こ、こんにちは……」
「ひすいちゃん! いっしょにブランコやろ!」
「それよりおにごっこしよ!」

 大人しくて引っ込み思案にも関わらず、姫水はいつも人気者だった。
 その整った顔立ちによるものか、優しい性格によるものか。
 幼い勇魚には分からなかったが、この子が皆に好かれていることが嬉しかったし、自慢でもあった。

「いさなちゃんも、はよー!」
「うん、いまいくー!」

 結局間を取ってかくれんぼをすることになり、勇魚が率先して鬼に志願する。

「うちがオニでええよっ」
「ほんま? いつもありがとー」
「いさなちゃん……」

 いつもお人好しな幼なじみに何か言いたげな姫水だったが、勇魚が目を閉じて数え始めたので、慌てて公園を飛び出し隠れ場所を探す。
 もっとも、この二人の間でなら、どちらが鬼でもさして変わらなかったのだ。
 どこへ隠れようと、お互いすぐに見つけてしまうのだから。

「ひめちゃん、みーつけた!」
「……みつかっちゃった」

 電柱の陰から、照れくさそうに出てきた姫水と、勇魚は嬉しそうに手をつなぐ。
 そのまま大阪の下町を、二人の小鬼が友達を探しながら駆けていった。


 *   *   *


 ターニングポイントになったのは、幼稚園のお遊戯会だった。
 白雪姫の劇をやることになり、主人公役として姫水が選ばれたのだ。
 先生も子供たちも当然のように推してきて、姫水も断れなかった。

「は、はい、やります……」

 そのくせ家に帰ると、弱気になって勇魚に泣きついてしまう。

「わたしにはムリやぁ~」
「イヤならイヤってゆうたらよかったのに……」
「だってぇ……。いさなちゃん、かわってよぉ~!」
「う、うちがしらゆきひめなんて、もっとムリ!」

 慌てて断るが、半べそになっている姫水に仕方なく歩み寄る。

「どーしてもイヤなら、うちがやりたいってゆうてみるけど」
「ほんまっ!?」
「でもうち、ひめちゃんのしらゆきひめが見たい!」
「そ……そう?」
「ぜーったいにピッタリやもん!」

 断言した勇魚はぴょんと立ち上がると、部屋の端にある鏡台へ行って話しかけた。

「かがみよかがみよかがみさん、せかいでいちばんきれいなのはだあれ?
 それはぜったいひめちゃんや! きれいでやさしくて、せかいいちのおともだち!」

 それは芝居でも何でもなくて単なる勇魚の本音だったが、あまりに元気で堂々としていたので、姫水はつい吹き出してしまう。
 幼なじみの行動に少しの憧れを宿した瞳で、彼女は小さくうなずいた。

「うん……いさなちゃんがそう言うんやったら、やってみる」
「やったー!」
「そのかわり、おうじさまはいさなちゃんがやって?」
「そ、それはユキヒロくんがやるゆうてたやん。よろこんでたし、よこどりはあかんよ」
「ならわたしもやらへん!」
「もう~、こまったひめちゃんやな~。こびとさんやるから、それでかんにんして!」
「……まあ、それなら」

 翌日に何とか先生に頼み込んで、七人の小人のうち一人をさせてもらえた。
 そして始まる劇の練習。
 姫水の出番になった途端、園内の空気は一変した。

「私の名前はしらゆきひめ」
「おきさきさまに嫌われて、森におきざりにされてしまいました」
「お願いします! 小人さんたちの家に、しばらくいさせてもらえませんか?」

 子供も先生も勇魚ですら、あんぐりと口を開けている。
 普段おとなしい姫水が、まるで別人と化したように、堂々と役をこなしていたのだから。
 わっと歓声が上がり、白雪姫の周りにたちまち人垣ができる。

「ひすいちゃん、すごーい!」
「ほんまもんののしらゆきひめや!」
「そ、そう?」

 人が多すぎて勇魚は近づけなかったが、少し離れた場所から満足して眺めていた。

(やっぱり、ひめちゃんはすごいんや!)

 気の毒なのは王子様役のユキヒロ君で、すっかり姫水の演技に呑まれてしまった。
 おずおずと練習をしていたところで、ませた子の一人が大声で尋ねる。

「キスシーンはやらへんのー?」
「ちょっ、ボクはムリやで!」
「なんやねん、ユキヒロくんのいくじなし」
「チューがないしらゆきひめなんてつまらへーん!」

 騒ぎ出す園児たちに、先生たちは顔を見合わせ、ひそひそと相談し始めた。

「このご時世に男の子と女の子でキスシーンはねえ」
「また姫水ちゃんのママにクレーム入れられそうですし……」

 そんな様子を、勇魚はきょろきょろと首を動かし見渡していた。
 姫水は割とどうでもいいと思っているようだが、先生とユキヒロ君が困っている。
 一方で盛り上がりたい子供たちの気持ちも分かる。
 とっさに手を挙げ、大声で叫んでいた。

「はいっ! それならうちが、ひめちゃんにチューします!」
「えええ!?」

 周囲が驚く中、一番驚いていたのは姫水だった。

「い、いさなちゃんが?」
「ひめちゃんはイヤ?」
「う、ううん! いさなちゃんならええよ!」

 ぶんぶんと首を振り、嬉しそうに勇魚の手を握る姫水に、周囲もこの二人ならと納得する。
 ユキヒロ君は安堵し、園児たちも満足して、場は丸く収まったのだった。


 お遊戯会当日。
 幼稚園児とは思えない姫水の演技力に、カメラを構えた親たちが舌を巻く中、劇は終盤に差し掛かる。
 王子様から謎のパワーを受け取った小人の女の子が、白雪姫に顔を近づけた。

『ひーめちゃん♪』
『いさなちゃん、よろしくね♪』

 お互い笑い出してしまいそうな顔を必死で押さえて、唇と頬が近づいていく。
 チュッ
 柔らかくて暖かい、姫水のほっぺたを唇越しに感じる。ずっとこうしていたかったけど、そういうわけにもいかない。
 密かに動いた姫水の手で毒りんごが放り出され、白雪姫は優雅に目覚める。
 王子様と小人たちが万歳して、劇は拍手の中終わった。

「勇魚~、大活躍やないか!」

 見に来ていた父の手が、勇魚の頭をわしゃわしゃと撫でる。

「そ、そんなんちゃうで。ひめちゃんのおかげやねん」
「そうか? まあお父ちゃんの知ってる白雪姫の話とは、なんかちゃうかったな」
「うちらはこれでええの!」

 と、園長先生の方から大きな声がする。
 見ると姫水の母が、何やら園長に詰め寄っていた。

「うちの子、才能あるんとちゃいますかね! 園長先生から見てどうですか!」
「そ、そうですね。ここまで見事な白雪姫は、長い園長生活で初めてやねえ」
「やっぱり!」

 隣の姫水は困ったような顔だが、勇魚の姿を見て、一緒に帰ろうと駆け寄ろうとする。
 が、その腕が母に掴まれ引き戻された。

「ほら姫水、ファミレス行くで。ご褒美に何でも頼んでええからねー」
「う、うん……でも、いさなちゃんと……」
「早よ!」
「は、はい……」

 勇魚は何も言えず見送るしかない。
 楽しかったお遊戯会だが、最後に少しもやもやが残ってしまった。

「ひめちゃんのママ、うちのことキライなんやろか……」

 父と一緒の帰り道で、ついそんなことを言ってしまう。

「んー? 別にそんなことはないやろ」
「でもこのまえ、ひめちゃんちであそんでたらイヤなかおされてん」
「まあ旦那さんが浮気して、あの家も色々大変なんやろ。勇魚も広い心で接しないとあかんで」
「ひろいこころ?」
「細かいことは気にせんと、明るく元気にってことや! 大阪はそういうとこやで!」
「う、うんっ! わかった!」

 どんな人であれ、大事な幼なじみのお母さんなのだ。
 もし疎まれていたとしても、勇魚だけは笑顔でいないと。
 それが姫水の笑顔にも繋がるはずだから。

「ところでお父ちゃん、うわきってなあに?」
「うぐっ。あ、後でお母ちゃんに聞いて」


 *   *   *


「ランドセルや!」
「わたしもランドセル!」

 いよいよ小学校に上がることになった。
 赤い物体を背負って、お互いに見せ合って笑い合う。

「小学校でもいっしょやで!」
「うんっ!」

 同じクラスになれることを、二人は少しも疑っていない。
 そして実際に、運命のように同じクラスになった。
 席こそ離れてしまったが、姫水の机に顔を乗せて勇魚はにこやかに言った。

「これからもまいにちあそぼうね!」

 が、その言葉に、姫水の顔が少し曇る。

「おかあさんがね、げきだんでレッスンうけろって……」
「げきだん?」
「げきをするところ」
「おゆうぎかいのときみたいな? すごーい!」
「かようびともくようびはそれいくから、いさなちゃんとあそべへんねん……」

 え、と絶句する勇魚に、周囲の子供たちが話しかける。

「ひすいちゃんもかー。わたしもおしゅうじはじめんねんー」
「うちはバレエ……」

 小学校から習い事を始める子は何人かいるようだ。
 そういうものなのかと、勇魚も納得するしかない。
 年齢が上がるにつれて、徐々に環境も変わっていくのだ。

 その分、遊べる日は目いっぱい遊ぶことにした。
 小学生になって行動範囲も広がる。
 北へ1km歩けば、大阪市で三番目に大きい長居公園。
 西へ1km歩けば、日本最古の観音寺院であるあびこ観音。
 特に後者に住む猫は姫水のお気に入りで、観音様が見守る中、よく撫でては満足していた。

「おいでおいで、にゃーにゃー」
「ひめちゃん、どうぶつさんだいすきやね!」
「どうぶつえんもまたいきたいなぁ」
「ぞうさんにもキリンさんにもまたあいたいねえ」

 天王寺動物園へは地下鉄で一本なのだが、小学一年生にはハードルが高い。
 今のところは親にせがんで連れて行ってもらうしかなかった。

「もっと大きなったら、きっとふたりでいけるで!」
「うんっ、たのしみやー」


 そんな姫水が歓喜に打ち震える出来事があった。
 天高く馬肥ゆる秋、遠足で神戸にある六甲山牧場へ行ったのだ。
 そこには馬もヤギもいたが、圧巻なのは羊だった。

「はわわわわわ」

 放し飼いになっている羊たちが、そのあたりを歩き回っている。
 この世の楽園のような光景に、姫水は真っ赤になって言葉を失っている。



「い、いさなちゃんっ、ひ、ひひひ」
「うんうん、ひつじさんやねえ」
「ほ、ほんまにさわってええんやろか!」
「ええって先生ゆうてたやん」
「そ、それじゃ……」

 白い羊毛に恐る恐る手を伸ばす。
 もふっとした感触に、姫水の魂はそのまま天国へ行ったようだった。

「ひ、ひめちゃん!? しっかりして!」
「しあわせやー……」
「はーい、みんな前に進んでー。奥の方で牧羊犬のショーがあんねんでー」

 先生の大声に、小学生たちはぞろぞろと歩きはじめる。

「ぼくようけんってなんやろ」

 近くの友達が漏らした疑問に、ようやく姫水が現世に戻ってきた。

「ひつじさんをおせわする犬さんやで。オオカミさんから守ったりもすんねん」
「へええ、ひすいちゃんものしりやねぇ」
「そ、それほどでも……」
「さすがひめちゃん!」

 山にある牧場なのでアップダウンが激しい。
 細い道を上って降りて、ようやく広い場所に出た時だった。

「ひすいちゃん、あぶない!」

 いきなり前方から声がする。
 一頭の羊が、猛然と姫水に突っ込んできたのだ。

「ええええ!?」

 猛然と、とは子供視点の話であって、大人が見れば少し早足程度の速度ではあったが……
 とにかく恐怖と愛らしさの板挟みで、避ければいいのか抱き止めればいいのか、姫水はパニックになって固まった。

「はわわわわわ」
「ひ、ひつじさん、ひめちゃんをいじめちゃダメ!」

 勇魚が慌てて、親友をかばうように立ち塞がる。
 自分がどうなろうと、姫水だけは守らないと!

「いさなちゃん!」

 背後に姫水の悲鳴が響く。
 激突の瞬間、勇魚の目がぎゅっと閉じられる中――
 羊は何食わぬ顔で、二人の横を通り抜けていった。

「び、びっくりしたぁ~」

 人騒がせな羊を見送りながら、周りの友達は勇魚の勇気に称賛を送る。

「いさなちゃんは、ナイトさまみたいやな!」

 童話に詳しい子が、感激した目でそんなことを言った。

「ナイトさま?」
「おひめさまをまもる人!」
「そうなんや! おひめさまのともだちなの?」
「え? えーと、ちゃうんやないかな。けらいやろ」

 後ろにいる姫水が、きゅっと勇魚の袖を握った。
 その意味を理解したわけではないが、勇魚は級友相手に断言する。

「それやったらうちは、ナイトさまにはなれへんわ」
「え、ほなら何なの?」
「おひめさまのおともだち!」

 周りの子供たちがほうと息を吐く一方、童話好きの子は渋い顔をしている。
『お姫様の友達』なんてキャラクター、どんな絵本にも出てこない。

「そんなん本でみたことないで~」
「ええの! うちはそうなの!」
「本にかいてへんだけで、ほんまはいたんとちゃうかな」

 幼なじみの袖を握ったまま、姫水は優しい声で言った。
 そうあってほしいと願うように。

「おひめさまも、一人もおともだちがいないなんて、きっとさびしいもの」
「なるほど! ひすいちゃんかしこい!」

 渋い顔の子も笑顔になり、皆が姫水の暖かな空想に納得する。
 そして勇魚は、子供心に自分の立場を自覚した。

 それは騎士様でも王子様でもなく、いつまでも王女の友達なのだ。
 たとえ絵本に何の出番もなかったとしても。

『間もなくシープドッグショーが始まります』
「あ、はよ行かな!」

 二人で手を繋ぎ、そこここにいる羊に目が泳ぎつつも、柵の方へと走っていく。
 気分としては牧場を駆ける牧羊犬であったけど……
 この時既に、大人の都合に追われる子羊になりつつあることを、幼い二人は知らなかった。


 *   *   *


 初詣はあびこ観音へ。
 その翌年も同じく。
 小学二年生が残り少なくなった一月、学校帰りに勇魚は親友を誘った。

「ひめちゃん、すみよっさん行ってみいひん?」
「え、今から?」
「そろそろすいてると思うねん。おそなったけど初もうで!」

 小学二年生になって、二人は自転車を手に入れた。
 行動できる範囲はどんどん広がっていく。
 家にランドセルを置いて、五円玉をポケットに入れて、自転車にまたがり出発する。

「うう、さむいねぇ……」
「ファイトや、ひめちゃん!」

 大阪市最大の神社、住吉大社。
 三が日は死ぬほど混んでいるこの場所も、一月も中旬の平日となれば、参拝客はそこそこいる程度だった。
 参道脇の広場に自転車を止め、半円状の反橋を恐る恐る渡り、第四から第二本宮を通り過ぎる。小学生の身ではとにかく広い。
 ようやく着いた第一本宮、その賽銭箱に五円玉を投げ入れ、姫水が教えてくれた通りに二礼二拍手した。

『ひめちゃんと、ずっといっしょにいられますように!』

 勇魚が神様に願うことは、いつだって同じだ。
 最後に一礼して隣を見ると、姫水がまだ手を合わせてお祈りしている。
 何か、必死なように見えた。


「いさなちゃん、今日はどないしたん?」

 五所御前の玉垣で小石探しをしながら、姫水は怪訝な顔で尋ねた。
 参拝するのは構わないのだけれど、いかにも急だった。

「ひめちゃんこそ、そろそろ言うてくれへん?」

 真っ直ぐに相手を見て、明るい顔で返す勇魚に、姫水の体が強張る。
 その指先には、『力』と書かれた小石がひとつ。

「夏休みのころから、ときどき元気のうなってんねんな」

 一緒にプールへ行った時も。
 社会科見学でラーメン記念館に行った時も。
 戸惑う姫水母もろとも引っ張ってきて、佐々木家でクリスマスパーティを開いた時も。
 姫水はいつも楽しそうだったけど、その中に時折よぎる影を、誰よりも近い勇魚は見逃さなかった。
 広大な神域を誇る、外界から切り離されたこの場所なら、話してくれると思ったのだ。

 返事を待つ間も、指は小石を探し続ける。
『五』『大』『力』それぞれの文字が記された石を集めれば、願ったことが叶うという、そんな言い伝え。
 とはいえ季節は真冬、探す指もかじかんでくる。
 姫水は大丈夫だろうか、と隣に顔を向けた時。
 そこには、泣き出しそうな彼女の姿があった。

「ご、ごめんひめちゃん! 言うのイヤやったら――」
「いさなちゃん」

 懸命に涙をこらえながら、俯く姫水の口から、か細い声が北風に乗って届く。
 小石は二つしか見つからなかった。

「――わたし、東京にひっこすかもしれへん」



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