「おばちゃん! どういうことや!」
自転車を飛ばして戻るやいなや、姫水の制止も聞かず、勇魚は藤上家に怒鳴り込んでいた。
「ひめちゃん、行くのイヤやゆうてるで!」
「……姫水、決まるまで周りには話すな言うたやろ」
「ご、ごめんなさい……」
「おばちゃん!」
勇魚の大声に、姫水の母はキッと膝元の小学生を睨みつけた。
しょせんは大人と子供、脅えた顔で後ずさる勇魚に、母親は矢継ぎ早に言葉を投げる。
「この子には役者の才能があんねん! 子供の才能を伸ばすのが親の役目や!」
「で、でも……」
「大阪なんかでいくら頑張っても埒が明かん。東京であちこちに掛け合って、ようやく事務所に所属できそうなんや。邪魔はさせへんで!」
「でもっ……」
「でももヘチマも……」
泣き出しそうな勇魚に、さすがに少し声を落とす。
姫水の母とて良心がないわけではない。
乳児の頃から知っている女の子に、本来ならば言いたくないことではあるが――
「……勇魚ちゃん、あんたがええ子なのはよう分かってる。ずっと姫水と仲良くしてくれて感謝してる」
「そ、そやったん? うちもおばちゃんすきやで!」
「けど、ほんま申し訳ないんやけど、これからの姫水はもっとレベルの高い子と付き合わせたいというか……」
「レ、レベルって? うちはあかんの?」
「あんた、学校の成績あんまり良くないやろ」
「おかあさん!」
さすがに怒った姫水の声に、母は気まずそうに顔を逸らす。
勇魚の頭は混乱する。友達でいることに、なんで成績が関係あるのだろう?
それでもすがるように、必死に懇願するしかない。
「う、うちがアホやからあかんの? それやったらがんばってべんきょうするから……!」
「い、いや、その理由はあくまでおまけや。とにかく姫水は東京へ行って女優になるから!」
「じょゆうって……ひめちゃん、そんなのになりたいん?」
「別になりたくない……」
「ちょっ、姫水! そんなん言わんで、お母さんとスターダムを目指そ? あのクズなお父さんを見返してやるんや!」
「どうでもいい……もうよその人やし……」
「そ、そこまで割り切らへんでも……。とにかく、いつかお母さんに感謝する日がくるから! あ、晩ご飯は姫水の好きなシチューにしよなー」
そして勇魚は丁重に追い払われてしまった。
自分の家に帰って、両親に涙目で訴えるが、反応は芳しくない。
「うーん、そればっかりは藤上さんちの事情やからねぇ」
「けどひめちゃん、行きたないゆうてんねんで!」
「子供は誰だって転校なんかしたないもんや。けど家の都合ならしゃあないやろ」
確かに今までも、泣く泣く引っ越していった友達はいた。
離れてても仲良しさんやと、無責任に言ったりもした。
けど姫水は、姫水とだけは、話を聞いた今ですら、離れ離れになることが想像できない。
いつも一緒で、顔を見ない日なんて一日もなかった。
それがもうすぐ、挨拶すらできなくなる……?
* * *
二月下旬。とうとう転校が正式に決まり、クラスメイトに発表された。
「そんなぁ、ひすいちゃん……」
「行かないでよぉ、さびしいやんかぁ」
「ごめん。ごめんね」
ショックを受けた大勢の友達が悲嘆にくれている。
みんなが反対してくれれば、もしかしたら覆らないだろうか。
そんな淡い期待が勇魚の胸に生まれたが……
「でも、じょゆうになるんやろ? めっちゃすごい!」
「せやで、テレビやえいがに出るんやで!」
「今のうちにサインもらっとこ!」
手のひらを返して盛り上がる友人たちに、生まれた希望はしゅるしゅるとしぼんだ。
姫水は困った顔で、なれると決まったわけではないと一生懸命説明している。
幼なじみとして応援すべきなのか、失敗して戻ってきてほしいのか、勇魚の幼い頭には分からない。
三月初め、今までレッスンを受けていた大阪の劇団で、姫水の最後の発表会があった。
観客席に座った勇魚の小さな体が、じっと彼女を見つめている。
高学年の子や中学生に混じりながらも、ステージで一番輝いていたのは姫水だった。
今までも何度か発表会は見に行って、その都度拍手を送っていたけど。
今日ばかりは幼なじみが遠い世界にいるようで、素直に楽しめなかった。
一緒に帰ろうとホールの隅で待っていると、劇団の人たちが大勢出てきて、姫水に花束を渡していた。
どこへ行こうと誰といようと、姫水はいつだって愛されてる。
もう勇魚なんて必要ないのかもしれないけど、でも……
* * *
引っ越しの日は刻一刻と近づいてくる。
少しずつ現れる春の色が、二人には地獄の足音に感じられた。
「ひめちゃん、ほんまにええの?」
下校途中、焦燥にかられ、ついそんなことを言ってしまう。
黙って俯く姫水に、即座に後悔する。
決して責めたいわけではないのに。
「そや! 東京のじむしょの人に、ほんまはやりたないって言うたらええやん!」
「や、やりたくないわけとちゃうよ……。やりたいわけでもないけど……」
「そ、そう……」
「……ただ」
姫水の歩みが徐々に遅くなり、とうとう立ち止まる。
「いさなちゃんとはなれたくない……それだけや……」
勇魚の中で何かが弾けた。
このままでいいわけがない。
こうまで言ってくれる幼なじみを、このまま行かせては、何がお姫様の友達か。
俯いたままの姫水を、勇魚は飛びつき抱きしめる。
驚いている彼女の身を離し、両手を握って力強く言った。
「にげよう! いっしょに!」
家に帰り、ランドセルの中身を部屋に放りだす。
そのまま足を忍ばせて台所へ行き、戸棚のお菓子をランドセルに放り込んだ。
食料の調達に成功した二人は、こそこそと自転車を持ち出して、道路に並んで立つ。
「ひめちゃん、東京ってどっち?」
「あっち、東の方」
「なら西に行ったらええな!」
「ふふ、そうやね。Go! WEST!!や」
「??」
「あ、前にやったおしばいのセリフで……えいご……」
「そ、そうなんやー」
もしかして姫水の母の言う通り、二人のレベルは違っていて、どのみち距離は開いていくのではないだろうか。
そんな考えが一瞬浮かぶが、追い払うようにペダルに足を乗せる。
小春日和の中、元気に声を上げて漕ぎ出した。
「行くでひめちゃん、ごーうぇすと!」
南海と阪堺電車の踏切を、緊張しながら通り過ぎる。
先日は右折して住吉大社へ行ったところを、そのまま直進した。
4kmほど走ったところで『⇒住之江女子高校』との看板を見かけたが、勇魚には読めない。
大きな通りを渡り、だんだん足が疲れてきた。
住宅地は姿を消し、道の両側には巨大なプール――に二人には見えたが、実際には貯木場がいくつも並ぶ。
「こんなとこあったんやね」
「せやな! おもしろーい!」
頑張って足を動かしながら、初めて見る光景に笑い合う。
二人で少し走っただけで、こんなところへ来られるのだ。
このまま大きくなれたら、もっと色んな場所へ行けたのに。
「あっちに行ったらおふねがあるみたい」
フェリーターミナルの看板を見つけ、姫水が右手を指示する。
「そうなんや! おふねにのったらにげられるかも!」
「お金はらわな乗られへんよ……」
「と、とにかく行ってみよ!」
家を出てから既に一時間以上。
しばらく北上すると、停泊するフェリーの姿が見えてきた。
「わあ!」
近づきたいが、周りにはコンテナやトラックがひしめいている。
ターミナルの北側に、海に近づける場所を見つけた。
何人か、釣りをしている人もいる。
「ひとやすみしよっか」
「そやね」
自転車を止め、海に落ちないように気を付けながら、コンクリートの岸壁に座る。
一休みと言いながらも、もうこの先に行ける場所がないことは、二人とも分かっていた。
陽が傾く中、フェリーの向こうに広い海が見える。
あの船に乗れさえすれば、誰の手も届かないところへ行けるのだろうか。
「うみのむこうって何があるんやろ」
「ここやとあわじ島、それに四国かな」
「そうなんや! ずっととおく?」
「うん、自転車でなんてぜったい行けへん遠くやけど……」
目の前の水面を、姫水の諦めたような声が渡る。
「……でも、東京はもっと遠い」
風が冷たくなってきて、八歳の女の子たちは身を寄せ合う。
せっかく持ってきたたくさんのお菓子も、一つも食べる気にはなれなかった。
「いさなちゃん」
びく、と勇魚の体が揺れる。
こわごわと隣を向くと、今まで何度も見た、姫水の優しい瞳があった。
「もういいよ。ありがとう」
「ひめちゃん……」
「おうちに帰ろう?」
「あ……」
何か返事をしたいのに、喉に引っかかったように声が出てこない。
ここまでなのか。
引っかかった何かは、せり上がって目から溢れだした。
ぼろぼろと涙をこぼし、しゃくり上げる勇魚の頭を、姫水がゆっくりと撫でる。
その声はどうしようもないくらい、積み重なった感謝に満ちていた。
「ありがとね、いさなちゃん」
9kmの道のりを、互いに無言のまま走って帰る。
帰宅した頃にはすっかり暗くなっていて、姫水の母が半狂乱になって娘を探していた。
二人の姿を見るや、鬼のような顔で近づいてくる彼女に、勇魚が慌てて立ち塞がる。
「う、うちがにげようって言うたんや!」
「やっぱり! そんな事やと思った!」
「ち、ちゃうのおかあさん! わたしが……」
「悪いけど勇魚ちゃん、もう金輪際うちの娘には――!」
致命的なことを言いかけたところで、一緒に探していた勇魚の母がのんびりと声を上げる。
「まあまあ。無事帰ってきたんやからええやないの」
「あ、あのねえ佐々木さん。そもそもお宅の教育が」
「そうカリカリしてもええことないで。飴ちゃん食べる?」
「こ、これやから大阪の人間は! もうええです、私たちは東京人になるんや!」
姫水の母は怒りの湯気を上げながら、娘の背中を押して家へと帰っていく。
それを呆然と見送る勇魚の手を、母親の温かい手が包んだ。
「おかえり。事故とかなくて何よりや」
「お母ちゃん……」
それで済む話ではない。
結局は大阪港まで行って泣いて、姫水に慰められて帰ってきただけだった。
流し尽くしたと思った涙が、またこぼれそうになる。
「うち、なんもできひん……ひめちゃんのために、なんも……」
「今はガマンの時やで」
手を引かれて家へ向かいながら、母の優しい声が下りてくる。
「子供の時間なんてあっという間に過ぎるもんや。大きなったら、好きなだけ会いに行ったらええやないの」
「……うん……」
すっかり冷え込んだ空気の中、鼻をすすって顔を上げる。
もう、姫水の転校は覆せない。
それならせめて、明るく送り出すしかなかった。
* * *
引っ越しの日は、割とあっさりとやって来た。
二人で何度も遊んだ家は既に空き家となり。
車の運転席で苛々と待っている母をよそに、姫水は子供たちに囲まれている。
「ひすいちゃん、元気でね」
「おてがみ、ぜったいかくで!」
「ほんまにありがとう。みんなのこと、ずっと忘れへんからね」
「ううう……」
「もー! くらーいかおはナシやで!」
集団の中で、勇魚が大声を張り上げた。
にっこり笑って、幼なじみと最後の握手をする。
「ひめちゃん、うちらはずっとともだちや」
「いさなちゃん……」
「こまった時はいつでもよんでね」
「……うん……」
「うち、ぜったいひめちゃんをたすけに行くからね!」
「姫水、もういいでしょう。それじゃ皆さん、娘がお世話になりました」
わざわざ標準語を使う母に促され、姫水は名残惜しそうに助手席に乗る。
一生懸命手を振る姿を皆の記憶に残し……
車は遙か東京へと、走り去っていった。
しゅんとする子供たちの前で、勇魚は拳を握り青空を見上げる。
「よし! てがみかこ!」
「え、いさなちゃん、もうかくの!?」
「まだかくことないんちゃう?」
「なんでやねん! いっぱいあるで!」
ぽっかりと心に開いた穴を、何とか埋めるように、笑いながら言った。
「うちがひめちゃんをスキってこと、いーっぱいかいたるねん!」
季節は春。
時代はμ's発足の一年前。
スクールアイドルが徐々に生まれ始めた東京に、姫水はその身を移した。