一緒にいたくないだろうと別々に帰ったのに、そのつかさが会いに来てくれた。
制服のまま急いで玄関を開けると、彼女がタッパーを持って立っている。
「これ、肉じゃが……お母さんが持ってけって」
「あ、ありがと……」
理由が分かって少し落胆するが、贅沢を言える立場ではない。
温かいタッパーを受け取り、儀礼的な言葉を吐く。
「おばさんによろしく伝えて……」
「……うん」
一瞬だけ互いに言葉が続かず、沈黙が下りる。
少し上がってく?と聞いていいのだろうか。
でも、つかさはお母さんに言われて、仕方なく来ただけかもしれない……。
「夕理」
今度は、つかさの方から先を制した。
来た本当の理由を――罪悪感を隠すように、複雑な笑みを浮かべながら。
「晩ご飯、一緒に食べる?」
止める暇もなかった。
ぽろ、と夕理の目から雫が零れ落ちる。
ぽろぽろと、続いていく涙を押し留めようとして、危うく肉じゃがをこぼしかけた。
「あ、あの、でも」
タッパーを両手で持ち、泣きじゃくりながら夕理は立ち尽くす。
「私、みんなに迷惑かけて、優しくしてもらう資格なんて全然なくて」
「お邪魔します」
問答無用で、つかさは家に上がっていた。
この瞬間だけは、姫水のことも小都子のことも頭から消え失せて。
こんなところで一人泣いている友達を残して、他にどこへ行けるというのか。
晩ご飯を一緒に食べることに、どんな資格が必要だって!?
(つかさ……つかさ……)
台所へ向かう彼女を、夕理は雛鳥のように追いかける。
テーブルにタッパーを置いて、ようやく涙を拭うことができた。
こちらに背を向けたまま、つかさが寒々しい台所を見て尋ねる。
「晩ご飯、何作る気やったん?」
「食欲ない……」
「食べなあかんやろ。明日もライブなんやから」
「うん……」
勝手に冷蔵庫を開けたつかさの目には、少量の野菜しか見当たらない。
夕理が身を固くする。晩ご飯の買い物、なんて下らない嘘は簡単に崩れた。
それでもつかさは何も言わず、キャベツとピーマンを取り出した。
「野菜炒めでいっか。肉じゃがあるし」
続けて冷凍庫を開けると、平たくして凍らせたご飯が一パック。
「解凍しちゃっていい?」
「あの、でも一人分しか……」
「うちでお母さんも夕飯作ってるから、あたしは一口もらえたらええよ」
「そ、それやったらコーヒー入れるね」
「ん」
キャベツを切り始めたつかさの隣で、やかんに水を入れ火にかける。
台所に並んで立っているだけで、胸が温かくなる。
つかさと一緒に暮らせたら、どれだけ幸せだろう。
朝起きたら挨拶をして、一緒に食卓を囲んで、二人で出かけられたら、どんなに素晴らしい日々だろう。
でも、儚い夢でしかないことも分かっていた。
望んではいけない、自分には過ぎた夢だと。
一方のつかさも横目で夕理を見る。
できることなら際限なく優しくしてあげたい。
一緒にお風呂に入って、一緒に寝てあげたい。
でも、その後の責任が取れない。
全てを引き受ける器もないくせに、無責任に仲良くした結果が、中学の時のあのザマだった。
微妙な距離を保ちながら、夕餉の卓は完成していく。
タッパーの肉じゃがを皿にあける。
本当は母が持って行けと言ったわけではなく、つかさから頼んで分けてもらったのだけれど……
この程度の嘘は、つかさとしては調味料みたいなものだった。
「割とそれっぽくなったやん」
野菜炒めと肉じゃが。ご飯とインスタントみそ汁。
テーブルについて、二人でいただきますを言った。
つかさは夕理の皿から、野菜炒めを一口いただく。
そうしてコーヒーを飲みながら、目の前の光景を眺めていた。
一生懸命、もぐもぐと食事を続ける友達の姿を。
「なんか可愛い」
「っ!?」
「あ、いや……」
赤くなる夕理を見て反省する。こういうことを言うから依存されるのだ。
ジゴロか!と自分に突っ込み、言い訳に転じる。
「いや、小都子先輩がね?」
「先輩が?」
「夕理のこと、可愛くて仕方ないって感じやん。ほんま愛されてるなーって」
「そう……なんやろか。まだよく分からへん……」
「もう、そんなん言うたら先輩が可哀想やで」
「うん……」
もちろん小都子には深く感謝しているけど。
もぐ、と肉じゃがを咀嚼しながら、正確に現実を理解する。
(早く小都子先輩に引き渡して、私から解放されたいんやろな……)
それは夕理も同じだ。一刻も早く、つかさを解放したい。
今もみっともなく泣いて、結局甘えてしまったことに、忸怩たる思いはある。
食事を半分終えた夕理は、いったん箸を置いて顔を上げた。
「ありがとう、つかさ。もう大丈夫や」
「そう? なら帰るけど、辛かったら呼んでもええよ」
「平気。泣きごと言うてる場合とちゃうねん」
上手くできているか分からなかったけど、いつもの強気の表情を作る。
「私に今できるのは、明日のライブを完璧にこなすことだけや!」
「……夕理らしいね」
少し眩しいものを見るように、つかさは微笑んだ。
見送りを断って、夕理のマンションを後にする。
止めておいた自転車を出して、空のタッパーをかごに入れる。
夕理はもう大丈夫。
それより、自分の心配をしないといけなかった。
(明日また藤上さんとライブやもんなあ……)
藤上さん。
彼女の名前を思い浮かべるだけで、かあっと頬が熱くなる。
自転車にまたがって、全力で漕ぎ始めた。
(こっ……これは何かの気の迷いや!)
(あんなやつ好きでも何でもないし!)
(せや! ライブ終わったら彼氏作ろう!)
(女子校で女にばっか囲まれてるから妙な気分になるんや!)
(合コンでも行って、適当にイケてる男子と……)
シャカシャカとペダルを回しながら、空気が顔に当たる中で、世迷言が勝手に口から出る。
「でも藤上さん以上の男なんているわけないしなあ……」
はっとして片手で口を塞ぎ、電柱に激突しそうになった。
自分にいい加減呆れながら、安全運転で家へと帰っていく。
食器を片づけ、お風呂に湯を張って身を沈める。
心身とも疲れ切っていたことに今さら気づきながら、夕理は目を閉じ湯船に顔をつけた。
(つかさ……)
(好き……大好き……)
減らそうと頑張ってきた気持ちが、今日一日で元の木阿弥になってしまった気がする。
でも、彼女が来てくれなかったら何も食べられなかったし、きっと一睡もできなかった。
それに今後はもう、それほど頑張らなくてもいいように思えた。
つかさに好きな人ができたら、自分は否応なく離れるしかないのだから……。
* * *
昨年も一昨年も、ファーストライブは普通に楽しかった。
客の数は今日ほどではなかったが、特にトラブルもなく盛り上がった。
それが立火が部長になった途端、この有様である。
「やっぱり部長の責任やろな……」
自室で寝転がって天井を見ている立火に、泊まりに来た桜夜が不服そうに言う。
「いやどう考えても夕理のせいやろ」
「またお前はそういう」
「……あのさ」
桜夜は少し後ろめたそうに口ごもったが、結局は口を開いた。
「姫水に作曲やらせるのはどう?」
「……お前なあ」
「だ、だって姫水やったら、一カ月くらい勉強すれば作曲も簡単にやれそう……」
「どれだけあいつに頼んねん! 姫水はドラえもんとちゃうんやで!」
バン!
立火は起き上がると、畳を思いきり叩いた。
「夕理を入部させた時のことを思い出したらどうや!
嫌がってたのを無理に頼み込んで、一日ライブまでやって……。
それを用が済んだらポイ捨てって、人情のないことができるか!」
「せやけどラブライブはどうすんねん!」
ドン!
桜夜も負けじと、畳を拳で打って反論する。
「夕理の曲で予選突破なんかできるわけないやろ!
私たち全員、あいつの曲と心中するの!?
先輩との約束は守れなくてええの!?」
「それは……」
このままではお先真っ暗なのは立火も分かっている。
夕理への人情も大事だが、いつかの指切りを守り、ずっと立火についてきてくれている、目の前の女の子への人情も大事だ。
畳に座り直し、説得を試みる。
「姫水に作曲させるとして、どんな曲を書かせるんや」
「それはもう灼熱みたいに、熱くて盛り上がる曲を」
「忘れてるみたいやけど、去年はそれで予選落ちやってんで」
「う……」
世間受けする曲は競争率も高く、他のグループと競合する。
ましてや大衆への媚びにおいては最強のNumber ∞も立ち塞がるのだ。
ライブで一時的に盛り上がれても、四位以内に入れる保証はない。
「確実に予選突破できる方法なんてもんはどこにもないんや。それやったら、夕理に色々やらせるのもええと思うんやけどな……」
「………」
相方はまだ納得いかないようだったが、階下から祖母の声が響いた。
「桜夜ー! お風呂先に入ってええでー!」
「あ、はーい!」
常備してあるパジャマと下着を持って、部屋を出ていく彼女をぼんやり見送る。
(婆ちゃん、すっかり桜夜のこと孫扱いやなあ)
再び寝転がった耳に、階下で母が桜夜と話す声が聞こえた。
「あ、桜夜ちゃん。おばさん、明日のライブ見に行くからね」
「ほんまっ? 私めっちゃ張り切るでー!」
(呑気なもんやなあ……)
心の中で愚痴って、ごろりと寝返りを打つ。
努力が必ず報われるわけではないが、それでも頑張ってきた夕理には、やはり報われてほしかった。
自分は部長として何ができるのだろうか……。
* * *
翌朝、夕理はLINEでつかさへメッセージを送る。
『先に部活行くね』
いつもより30分早く出かけた。
別に早出したから罪が消えるわけでもないが、昨日の失態の後で、普段通りに登校するのは気が引けた。
『鍵開けます』
今度は部のLINEグループに流し、土曜で人のいない学校を歩く。
誰もいない部室に入り、イヤホンをはめて自分の曲を聞く。
今や失敗作となった曲を聞くのは辛かったが、逃げるわけにはいかない。
「おはよう。早いな」
「お、おはようございます……」
最初に来たのは晴だった。
挨拶以外は会話もなく、彼女はいつものようにパソコンを叩いている。
(私もこれくらい徹底できたらええのかな……)
この人は裏方に徹することで、ある意味やりたいようにやれている。
マネージャーならファンの好感度など関係ない。
自分も曲作りだけに専念した方が、まだ迷惑をかけずに済むのかもしれない。
その作曲が不評だった時点で、それも怪しくなってきたけれど……。
「夕理ちゃん!」
途中でメッセージを見たのだろう。小都子が息せき切って駆けてきた。
「大丈夫? ちゃんとご飯食べた?」
「大丈夫です。つかさが一緒にいてくれました」
「あ……そ、そう」
安心すると同時に、堺市との物理的な遠さを小都子は少し恨んでしまう。
そうとは知らず、夕理は真っ直ぐに尊敬する先輩を見た。
「昨日の先輩の言葉、忘れていません。誰かの心を動かすために、今できることを頑張ります」
「うん……そやね、頑張ろうね。あ、晴ちゃんおはよう」
「おはよう」
そして立火と桜夜が、長居組の三人が、最後に時間ぎりぎりにつかさが、それぞれ部室に入ってくる。
つかさはひたすら、姫水を視界に入れないことに集中する。
まだどこか微妙な空気の中で、朝のミーティングが始まった。
「さて夕理。どんな処分でも受け入れる言うたな」
立火の言葉に部内に緊張が走る。
その話はなくなったのでは?と花歩たちが思う中、夕理の面持ちは粛然としていた。
「はい。あんな失態を犯した以上、償えるなら何でもします」
「よし。それやったら部長として命じるで」
一年生たちが息をのむ中、立火の口から処分が下された。
「あの曲――『若葉の露に映りて ~growing mind~』。
夕理の口から、あの曲について解説してくれ。
お前が何を思い、どんな考えで曲を作ったのか。
私たちにも分かるように、全部話してほしい」
……部員たちの誰も、予想していない命令だった。
桜夜だけは聞いていたのか、妙にさばさばした顔をしている。
あまりの意外さに夕理がぽかんとしている隣で、小都子が勢いよく立ち上がった。
「立火先輩、それは!」
「言うな小都子。承知の上や」
「芸人さんに自分のネタを解説しろと言うようなもので……!」
「酷なことを言うてるのは分かってる。けど、私たちも昨日みたいな失敗はしたないんや」
立火はそう言うと、一年生の前で深く頭を下げた。
「私たちみたいなアホは、聞いただけでは高度な芸術なんて分からへんねん。
頼む夕理。アホを助けると思って、一肌脱いでくれ」
部長の後頭部を見ながら、夕理の情とプライドがせめぎ合う。
作者の考えは作品で表すべきものだ。
後から解説が必要な時点で、作品としては負けたも同然だ。
(でも……)
どのみち、昨日の時点であの曲は負けているのだ。
ならばせめてもの供養として、全てを吐き出すのもいいのかもしれなかった。
今日のライブを終えれば、たぶん二度と歌ってもらえないのだから。
「分かりました――では徹底的に説明します」
* * *
三十分後、最もヒートアップしていたのは桜夜だった。
「だーかーらー、一体どういうことやねん!?」
「何度同じことを言わせるんですか!? つまり若葉の露とは、周囲との関係性における一つの結実のメタファーであって……」
「あんなぁ、夕理は頭ええんやから~。もっと人に分かるように言えるやろ? 頑張って?」
「じ、自分の読解力のなさを棚に上げて……。もういいです、最初から説明します!」
(桜夜、この前の京橋の人にも同じこと言うて怒らせてたなぁ……)
などと回想している立火も、実のところ理解できているとは言い難い。
目の前の勇魚がわくわく顔で聞いているので、つい尋ねてしまう。
「勇魚は分かる? 夕理の話」
「はい! なんか半分くらいは分かったような気になっています!」
「それ全然分かってへんやろ!?」
切れかけた夕理だが、深呼吸して落ち着いて、再度丁寧に桜夜に説明する。
「……というわけです。曲名に『growing mind』とある意味を考えてください」
「え、カッコイイから入れただけとちゃうの?」
「そんなわけないでしょう!!?」
その隣では小都子がはらはらと、皆の様子を見守っている。
(わ、私から噛み砕いて説明してあげたいけど……)
しかしそれでは意味がないのだ。
この気難しくて、理解なんかされなくていいと思ってきた子が。
部長命令とはいえ、他人から理解してもらうために頑張っているのだから。
つかさも晴も同じ考えのようで、一切口を挟まず黙って聞いている。
小都子はぐっとこらえて、夕理と三年生の対決を聞き続けた。
そして花歩は、少しショックを受けていた。
(……夕理ちゃん、こんなに深く考えてたんや)
この前の堺では、ここまで突っ込んだ話はしなかった。
それも分からずに言葉が難しすぎるとか、単純に言っただけでは、夕理が受け付けないのも当然だったかもしれない。
でも意見自体が間違っていたとは思わない。
次は聞いてもらえるよう、ちゃんと話についていかないと――。
喧々囂々の説明会は昼まで続いた。
立火はちらりと時計を見る。もうすぐ正午。昼休み後はすぐライブの準備だ。
完全に理解できたわけではない。そんなの永遠に不可能なのかもしれない。
それでも、昨日よりはずっと分かった気がする。
夕理が何を考え、どんな思いを曲に込めたのか……。
「そろそろタイムリミットや。最後に一つだけ教えてくれ」
桜夜と激しく言い合っていた夕理が、ぴたりと動きを止める。
椅子に座り直し、自分に相対する彼女に、立火は質問した。
「夕理は、この曲が好きなんやな」
言葉に詰まった一年生は、困ったように口ごもる。
「べ、別に好き嫌いだけで書いているわけでは……」
「けど好きならそれに越したことはないやろ」
「……そうですよ! 私はこの曲が、こういう曲が好きです!
世間には受け入れられなくても、私にとっては大事な曲です!
でも……」
真っ直ぐ三年生たちを見る夕理の目は、不安を隠しきれなかった。
「……でも、先輩たちの好みではないんですよね?」
「せやな。けど、そこは飲み込む。
音楽の好みがバラバラである以上、全員を満足させるのは最初から無理なんや。
それやったら最上級生が大人になるとこやろ。な、桜夜」
「へいへーい」
しゃあないという風に、桜夜が頭の後ろで手を組む。
学年は関係ない、と言おうとして、夕理は何も言えなかった。
だって、自分が大人になることはできなかったのだから。
十二時のチャイムが鳴った。
もはや猶予はなく、二日目のステージが始まる。