合宿の前々日である日曜日。
勇魚は自室で宿題もせず、もっと大事なことに頭をひねっていた。
(姫ちゃんの病気は、どうやったら治るんや……)
本人の申告によると、一時的にせよ現実感が得られたのは四度。
うっかり羽鳥静佳の天才を直視した時。
桜夜にいきなりキスされた時と、必死で懇願された時。
夕理のあまりの潔癖さに感心した時。ただ、これは本当に少しだけだったらしい。
それ以外はすべて勇魚絡みのことだけだ。
強い想い、鮮烈な人の心が効果があるのは分かったが、結局すぐ元に戻ってしまう。
もっともっと刺激がいる? それだけで何とかなる?
難解な思考に知恵熱が出そうなところへ、後ろから小さな体が抱き着いてくる。
「おねーちゃん、あそんでー」
「ごめん汐里、お姉ちゃんは大事な大事な考え事をしてるんや」
「やだやだ、あそんでー!」
「うーん、しゃあないなー」
妹に甘い勇魚は、あっさり相好を崩して汐里の方を向いた。
「何して遊ぼっか!」
「プリキュアごっこ!」
「お姉ちゃん、最近のプリキュアは分からへんからなあ」
「この前、ブラックとホワイトが出てきたで」
廊下を掃除していた母が、開け放しの戸の向こうから言ってきた。
母は娘と朝アニメを見るのが趣味で、勇魚が卒業した時はさんざん愚痴られたものだ。
「そうなん? 懐かしいなー」
「昔は姫水ちゃんと二人で、よく真似しとったなあ」
(真似……ごっこ遊び……)
勇魚の頭に何かがひらめいた。
ひらめいたと同時に不安も発生する。この案は本当に大丈夫なのか。
だが頭の悪い自分だけで考えても仕方ない。賢い彼女が自分で判断してくれるだろう。
「汐里、ちょっと待ってて! 姫ちゃん呼んでくる!」
「ひめちゃん!? うんっ、まってるー!」
「光の使者! キュアブラック!」
「光の使者! キュアホワイト!」
『ふたりはプリキュア!』
「闇の力のしもべたちよ!」
「わーーー!」
ブラック役の勇魚は自分の台詞も忘れて、妹と一緒に拍手していた。
キュアホワイトこと姫水は微笑みながらも困惑している。
「すごーい姫ちゃん、そっくりやー!」
「そっくりー!」
「あ、ありがとう。懐かしいけど、こんなのでいいの?」
その後、汐里が飽きるまでごっこ遊びに付き合わされた。
遊び疲れ、昼寝を始めた妹にタオルケットをかけて、勇魚たちは居間に移動する。
勇魚はもう迷わず、幼なじみに考えを述べた。
「姫ちゃん、演技をしてみたらどうやろ!」
言われた方はますます困惑するしかない。
「私、演技のしすぎでおかしくなったんだけど……」
「ううん、姫ちゃんがいつも周りにしてるのとちゃうくて。
見る人も演技って分かってる演技。役者さんの演技や!」
「それ――は」
確かに、休業してからは一度も演じたことはない。
でもそれは、どう考えても病気が悪化しこそすれ、改善するとは思えないからだ。
勇魚の深刻な表情を見る限り、その危惧は分かっているようだけど……。
「うちはもしかしたら、危ないことを勧めてるのかもしれへん。
でも、これ以上は外からの刺激を待ってるだけはあかんと思う。
姫ちゃん自身が輝かなあかんのやと思う!」
「輝きって……勇魚ちゃんはその言葉が好きだけど、私に持てるとは思えないよ……」
「でも、姫ちゃんの一番得意なことがあるやろ!?
やりたくてやったんとちゃうのは知ってるけど、それでも長い間、一生懸命頑張ってきたことやろ!?」
それが――演技。
母や周りに言われるままにやってきたことでも。
これだけ時間を重ねてきたなら、壁を壊す輝きになるのだろうか?
(私には、分からないけれど……)
でも今、姫水が最も信じられるのは目の前の幼なじみだ。
優しい彼女が敢えてリスクを取れと言うなら、自分も覚悟して踏み出すべきだった。
「分かった、やってみる。
演技に飲み込まれず、演技を自分のものにするよう頑張ってみる」
「うん! 危なそうならちゃんとうちが止めるから!
それやったら、何の役をする? やっぱりプリキュア?」
「さすがにそれだと効果は薄そうね」
苦笑しながら、姫水の頭には既に一人の人物が浮かんでいた。
「そういうことなら、演じてみたい人がいるの。
たぶん、一石二鳥になると思う」
* * *
大広間の真ん中で、姫水は優雅にお辞儀をした。
ん? と立火は違和感を覚える。
既にこの時点で、いつもの姫水とは違っていた。
「いつも通りの私やし、そう大したものは見せられませんけど……。
少しの時間、お付き合いくださいな」
波一つない湖のような、静かで圧倒的な空気を発しながら、どこかで聞いた台詞を告げる。
その場の四人の三年生が、同時に驚愕する。
見覚えがありすぎる。何度も煮え湯を飲まされた相手……。
(げえ! 羽鳥!!)
羽鳥静佳を演じる役者が、唖然とした視線の中で歌い始める。
『この
(ちちち、ちょっと待って!)
立火がおののくほど、良くできた贋作だった。
大阪城ホールを魅了した歌姫が、再現映像のように目の前にいる。
声真似はもちろん、歌い方、動き、表情、全てを使って、あの天才の歌声のように錯覚させていた。
『また一つ 命は巡り――Eternal Planet』
歌が終わり、得意顔の勇魚を除いて、一同が呆然としていた間だった。
深い湖のような姫水の瞳は、瞬時にどこかの海に変わった。
「どうしたの、みんな声が出てないよ!
宴はまだまだ続くけえ、盛り上がっていこう!」
(ええええええ!?)
天真爛漫な姫水の笑顔に、今度はつかさたち一年生が愕然とする。
もはや本人の台詞ではなく、『本人が言いそうな台詞』がすらすらと役者の口から出ていた。
「ここは山の中だけど、今だけは瀬戸内の海じゃけん! 『サニー・アイランド』!」
今度はダンスだった。
天才少女があのとき見せた動きが、そのまま畳の上で再生される。
オブジェを使った動作は無理とはいえ、それ以外は俊敏な動きも、楽しそうなジャンプも、あの日の予選そのままだった。
(ダ、ダンスは私の方が上のつもりやったけど)
立火の自信が揺らいでくる。
他者を演じる姫水の姿は、むしろ本人の時より生き生きしているような――
「――以上です。お粗末様でした」
狐につままれたような空気の中で、隠し芸は終わり、そこには普段通りの姫水がいた。
真っ先に、素直に反応したのは桜夜だった。
「すっ……すごすぎやろ! 羽鳥と瀬良の合わせ技なんて!
もう姫水だけで全国優勝できるんとちゃう?」
「突然だからごまかせましたけど、実際に見比べると単なる劣化版ですよ。七割くらいの出来だと思います」
「そ、そうなん? やっぱそこまでうまい話とちゃうか」
「でも、芸としては面白いと思うのですが、いかがでしょうか岸部先輩」
名指しされた二年生は、満足そうにうなずいた。
「確かにネットに上げれば、結構な話題になりそうやな。
学校に戻ったらさっそく撮影して公開しよう。
Westaはオワコンとか言われてる中で、格好の反撃になる」
「え、そないなこと言われてるんや……」
「一部でですけどね」
ちょっとショックの立火だが、だったらなおさら発信は必要である。
文化祭までの空白期間に良い場つなぎになるはずだ。
だが一方で、隣のグループから声が飛んだ。
「芸としては面白いかもしれやんけど」
腕組みして見ていた旬が、真面目に否定的な意見を述べる。
「ラブライブでは何の意味もない。他人の真似なんて、あの場では誰も評価しやんやろ」
「確かに一人二人の真似ではパクリと言われるだけでしょうね。
でも十人、百人をコピーして、それを自在に操れるようになればどうでしょうか」
「ひ、姫水?」
「立火先輩。八月の最後の土曜、部活を休ませてください」
どちらの部長も、その日程は聞き覚えがある。
自分たちがどうしても行きたかったのに、行けなかった場所――。
「アキバドームへ行って、直接吸収してきます」
もはや立火は、こくこくとうなずくしかない。
この子は一体、どれだけ進化してしまうのか……。
そんな空恐ろしさすら感じる一方で、そんなものとは無縁の桜夜が軽く尋ねる。
「ねー。もっと他のモノマネもできるの?」
「もちろんやでー。この超絶美少女姫水ちゃんに、何だってお任せや!」
「ぶっ」
桜夜が噴く目の前で、明るいアホになった姫水がいた。
可愛く自信に満ちた性格をまとい、立火の隣にしゃがんで肩に手を置く。
「ねー立火ぁ、もうちょい私を大事にしてくれてもええんとちゃう? こんなに可愛い相方なんやからー」
「うわあ、ウザいほど似てるで……」
「え、え? 私ってこんなん!?」
「こんなんです。少しは鏡を見て反省してください!」
「ぶっ」
今度は夕理がお茶を噴き出した。
姫水は立ち上がると、偉そうにメンバーたちへ指を突きつける。
「そもそも皆さんは真剣さが足りません! 合宿は遊びとちゃうんや!」
「な、何を勝手に真似してんねん! 同一性保持権の侵害や!」
焦って変な法理論を言い出す夕理に、姫水はくすくす笑いながら勇魚のところへ行った。
幼なじみも立ち上がり、二人で同時に手を突き上げる。
「これがうちの最大の武器や!
今までは封印してたけど、もう手段は選んでられへん。
全国へ行くため、遠慮なく使ったるで!」
「こうなった姫ちゃんは無敵やでー!」
両グループの拍手を浴びながら、隠し芸のコーナーは終わった。
これで本当に、病気が治るのかは姫水も分からないが……
駄目なら駄目で、少なくとも予選の失態への償いにはなるはずだ。
『このデザートのはっさくも和歌山が日本一の生産量である。そのシェアはみかんより圧倒的で七割近い』という旬の演説を聞きながら、夕食も終わった。
空になったお膳を台所に運ぶ途中、花歩は尊敬の目で隣の姫水を見る。
「羽鳥先輩のこと心配やったけど、まさか逆手に取っちゃうなんてね」
「これでも大阪生まれだもの。転んでもタダでは起きないわよ」
後ろについているつかさは複雑だ。
姫水はやっぱりすごい子で、また届かない高みへ行ってしまった。
でも、今はそれは考えない。これから待ちに待った時間なのだ。
「部活の話はここまで!
あとは消灯まで自由時間や。こっからが合宿の本番やな!」
「つかさちゃん、生き生きしてるなあ」
「あたしは夜の女やでえ」
「なんかいかがわしい……」
* * *
倉庫部屋から布団を運び、敷いた上でお喋りやらゲームやら。
そんな夜の始まりに、立火はまず晴に尋ねていた。
合宿につきもののイベントについて。
「このへんに肝試しできる場所ってないやろか」
が、返ってきたのは呆れきった目である。
「ここをどこやと思ってるんですか。霊なんか即座に成仏させられますよ」
「ま、まあそうなんやけど、それっぽい雰囲気だけでもええで」
「なら奥の院への参道はどうですか。明日の昼に行きますけど、夜もツアーをやっているようですし」
「ああ、大名の墓が並んでるってやつ?」
納得した立火は、にやにや顔で桜夜の肩を叩く。
「てことで一緒に行く?」
「なななな何言うてんの? ききき肝試しなんてそんな、ここ子供のやることやろ!」
「ははは、桜夜は恐がりやなあ。小都子はどう? 文化祭でお化け屋敷やるんやろ」
「うーん、そうですねえ……」
小耳に挟んだつかさが、近くの花歩を肘で突っつく。
「聞こえてたやろ? チャンスやで!」
「ええ!? わ、私も怖いのはちょっと……」
「何言うてんねん、それがええんやろ! 怖がるついでに抱きつくくらいでないと……」
桜夜先輩には勝てへんで、とまでは口にしなかったけど。
背中を押された花歩は、思い切って立火のところへ行く。
「あ、あの部長っ。私も行ってみたいです!」
「おっ、花歩もなかなか度胸あるやないか」
(花歩ちゃん……がんば!)
内心で親指を立てた小都子が空気を読んで辞退し、結局二人だけで行くことになった。
晴が虫よけスプレーを投げてよこす。
「念入りに塗った方がええで」
「え、虫多いんですか!?」
「山の中やから当たり前やろ。こういう場所なんやから、あまり殺生はするなよ」
「ううう、蚊の方から避けてくれますように……」
制服に着替えた二人が出て行き、つかさは改めて室内を見渡した。
夜が自分の本領発揮な一方、今度は夕理が浮く時間帯だ。
消灯まで三時間も耐えられるだろうか。
と思いきや、当人は布団の上で腕組みして、ちらちらとKEYsの方を見ている。
その先では内気そうな子が、話しかけてくれる周りのお陰で、何とか会話に混ざれていた。
(夕理、あの子が気になるんやろか?)
(あの夕理が成長したなあ……)
(これは手助けしたらあかんやつやな。あたしは藤上さんとトランプでも……)
「ねえねえ、お土産くれたあなた」
と、声をかけてきたのはKEYsの二人のメンバーだった。
「あ、はい、えっと……」
「あ、私たちは二年生や。梅田の阪急はよく行くん?」
「さすがに高級すぎるんで、たまにですねー。北欧の雑貨見に行ったりとか」
「すごーい! おっしゃれー!」
シティガールつかさに興味津々の上級生たちに、完全につかまってしまった。
見れば姫水もさっきの今で、KEYsの子たちに囲まれている。
勇魚は逆に、積極的に向こうへ声をかけている状態だ。
旬は不満そうだが、さすがに部員たちの邪魔まではしない。
(……まあええか。夜は長いし)
せっかくの機会なのだし、つかさも他校との交流を楽しむことにした。
「次は何が流行りそうなん?」
「そーっすねー。あたしの予想やったら次に来るのは……」
そうやって、気の緩んだ空間で両校が混じり合う中。
(――あ)
夕理の視線の先で、柚は無風地帯のように、全員の意識から外れた。
旬はみゆきと話し込んでるし、他の部員もWestaの子と歓談している。
「あ……あう……」
こうなると、柚はおろおろするだけで何もできない。
仲間にすら話しかけられないのだから。
端で小さくなって、誰かが気付いてくれるのを待つしかない。
(~~~~~! 何をしてるんや、あの子!)
イライラが最高潮に達し、ちょっと言ってやろうと立ち上がる。
足を一歩進めるが、そのまま突進する前にさすがに躊躇した。
(いやでも、いきなり知らない奴から文句言われても困るやろ)
(昼に台所にいた以外の接点はないし、合宿が終われば二度と会わへん相手やし……)
とはいえ他のみんなは、そのいっとき軌跡が重なっただけの他校生と、仲良く話している。
自分のような不愛想な人間でも、他校と交流できるチャンスなのかもしれない。
(だ、大丈夫。ちょっと話すだけや。冷静に冷静に……)
「ねえ、そこのアンタ」
「へ? はい……ってひうう!?」
慣れないスマイルで声をかけたつもりだが、引きつった顔で逆に怖がらせた。
柚の声に、KEYsの部員たちはしまったという表情で振り返る。
うっかり一人にしたのは失態だったが、見れば何やらWestaの子と交流している。
ならば少し見守らねば……。
と、遠巻きに視線を送る旬たちが、なおさら夕理を苛立たせる。
隣に座り、直接は目を合わせずに会話を始めた。
「昼からずっと見てたけど、周りに守られてばっかやな」
「え、ずっと見てたって、私を……?」
「そ、そこは本題とちゃうやろ! 話を逸らさんといて!」
「す、すみませんすみませんっ!」
旬の目が険しくなる。いけない、これではただの迷惑な奴だ。
少し深呼吸して、一番聞きたかったことを尋ねてみる。
「スクールアイドルには自分からなったの? それとも誰かに流されて?」
「あ、それは一応自分から……」
「そうなんや!」
夕理の顔がぱっと明るくなった。
そこにどれだけの葛藤があったのかは知らないが、自分から一歩を踏み出せたのなら、十分見込みはあるはずだ。
「やっぱり、純粋さや一生懸命さに魅せられて!?」
「というか……小泉花陽さんや黒澤ルビィさんの話を聞いたから、私もそんな風になれるんやろかって……」
「ま、まあ他人への憧れから入るのもありやな」
「でも……」
二人のようにはなれなかった少女は、膝に顔を埋めてか細い声を上げる。
「スクールアイドルになっても、結局何も変わらんやん……」
「はあ!?」
思わず上げた大声に、柚はびくりと萎縮する。
だが、ここに至ってはもう夕理は止められなかった。
「当たり前やろ、スクールアイドルは魔法の万能薬とちゃうわ!
自分の努力が足りないのを、スクールアイドルのせいにしないで!」
「ひうう……ごめんなさい、ごめんなさい……」
「おい」
夕理が我に返るのと、頭上から声が響いたのは同時だった。
顔を上げると、旬が不満と困惑の混じった顔で見下ろしている。
「柚を気にかけてくれたのは嬉しいが、そういうことしか言えやんのやったらもうやめてくれ」
「あ……わ、私……」
「柚の問題は私たちも分かってる。一学期の間にも色々なことがあった。
その上で今こうなってるんや。ちょっと一断面を見た程度で口出ししないで欲しい」
「……はい……すみません、でした」
今回ばかりは夕理も非を認めるしかない。
KEYsの内部のことだし、人を不快にし傷つけてばかりの自分なんか、関わらない方がいいに決まってる。
潔く撤退するべきだ。
頭では分かっていて立ち上がりかけたのに、その動きが止まる。
このまま去ったら、この細い縁は途切れて二度と交わらない。
自分でも驚くほど、諦めの悪い口が勝手に動いた。
「も、もう一回だけチャンスをもらえへんやろか……」
「ひう……?」
「あなたと話がしたい。ほんまにそれだけなんや。
わ、私、本堂にいるから、気が向いたら来て!」
見苦しさを自覚しながら、夕理は逃げるように大広間を出ていった。
ぽかんとしている柚と、困り顔の旬の傍らで、みゆきが頬に手を当てて言う。
「難儀な性格してそうやったけど、何やかんやで情熱的やねえ。さすが大阪や」
「みゆき先輩……」
「こればかりは柚ちゃんが決めることや。気が進まんのやったら、私が断ってきてあげるからね」
「うう……はい……」
柚にしてみれば、なんであの子が急に話しかけてきたのかさっぱり分からなかった。
ただ、僅かな会話から分かったことといえば……。
(スクールアイドルのことが、ほんまに好きなんやな……)
* * *
涼しい夜の中、立火と花歩は高野山を二人で歩く。
観光地の車道は、この時間はあまり通る車もない。
蒸し暑い下界を思うと、ここに大阪が来てくれないかと思ったりする。
「入口まで1kmくらいやって。練習で疲れてへん?」
「平気です! デビューのためならあれくらい!」
「花歩も頼もしくなったもんやなあ」
「えへへー」
スマホの地図を頼りに左へ逸れ、参道入口である一の橋を渡る。
ここから2kmの石道が御廟へ伸びるが、今夜は雰囲気だけ味わって帰るつもりだ。
静まり返った木々の中、石灯籠の光が薄ぼんやりと道を照らしている。
寺で借りた懐中電灯で道の両脇を照らすと、たくさんの墓や石碑が浮かび上がる。
中にひときわ立派な墓所があり、その前には石でできた鳥居。
根元には、説明用の木の杭が立っている。
『奥州 仙台 伊達家墓所』
「おっ、伊達か。政宗もカッコええなあ」
「あのOGの先輩、怖かったですね……」
「うーん、伊達先輩も根はええ人なんやけどな」
それで恐怖心を思い出したわけではないが、先に進むにつれて花歩は不安になってきた。
薩摩は島津家、甲斐は武田家の墓所を通り過ぎ、その先も墓、墓、墓。
樹木の影は両側から覆ってくるようだ。
「な、なんか雰囲気出てきましたね」
「怖なってきた? それでこそ肝試しやで。花歩を連れてきて正解やな!」
「ううっ、そんなことで評価されても。ぶ、部長は怖いものとかないんですか?」
「雷もお化けも平気やしなあ。強いて言うならまんじゅうが怖い」
「はいはい、お茶も怖いんですね」
「あとグロいのは普通に無理やで」
「それが平気な人は少ないですよ……」
羽虫がまとわりつくのを手で払い、少し広くなったところに先客がいた。
観光客のナイトツアーのようで、お坊さんが懐中電灯を手に解説している。
人の存在に少しほっとして、横を追い越していく。
「こんばんはー」
「Good evening」
「グ、グッドイブニング」
暗い中で浮かんだ顔は、ほとんどが外国人のようだ。
私英語苦手やねん、私もですー、なんて小声で話しながら、先へ進んだときだった。
今頃になって、花歩は当初の目的を思い出した。
(そう! 怖がるついでに抱き着くんやった!)
(そもそも二人きりで夜の道なんやから、少しはロマンチックにせな!)
(とはいえタイミングが遅かったなあ……なんか一安心した後やし)
(ここからどう抱き着く展開に持っていくのか、考えるんや花歩!)
足元がおぼつかないので、転んだ振りの方がまだ自然だろうか。
しかし足がもつれた状態で、正確に抱き着ける自信がない。
本当に転んで、石畳に顔をぶつけでもしたら目も当てられない。
と、顔面に意識が向かったとき……
べし
花歩の顔に何かが当たった。
2cmくらいの何かが、頬に張り付いている。
そのチクチクした感覚は、まさか、もしかして。
(昆虫の、足……)
「$%&#<>*+@▽★!!??」
「花歩!?」
この世のものとは思えぬ悲鳴に、立火が慌てて覗き込んだ。
大パニックで暴れる手を止めさせて、代わりに頬の黒い何かを取り除く。
「何や、カナブンか。ほーら飛んでけ」
「うわあああん! 部長~!」
「よしよし、もう大丈夫やで」
必死で抱き着いてくる後輩の頭を、優しく撫でる。
(こんな妹がいたら、ずっと一緒にいられたんやけどな)
なんてことを、あと七か月でお別れする先輩は考えてしまう。
と、先ほど追い越した団体から、僧侶が心配そうに懐中電灯を向けてきた。
「き、君たちどうしたの!」
「顔面にカナブンが突っ込んできただけです! お騒がせしました!」
「ああ……何や、そういうこと」
僧侶が客たちに英語で説明し、夜の高野山にひとしきりの笑いが響いた。
「HAHAHAHA! Japanese girl is so cute!」
「ううう、恥ずかしいよぉ~……」
「あはは、ええオチがついたな。そろそろ戻ろか?」