足音を立てずに部屋に戻り、スマホと毛布を取って再び出る。
夕理の方は見ないようにしながら。
誰よりも信頼してくれていたのに。その先輩がこんな有様と知ったら、どれだけショックだろう。
夕理が周囲と築いてきたものが、不信によって崩れ去るかもしれない。
それだけは、避けないと――。
居間のソファーで毛布にくるまるが、二月の早朝では寒さは防ぎきれない。
パジャマ姿の震える指で、何とかスマホに文字を打ち込む。
『どうしよう』
情けない話だが、相談できる相手は一人しかいなかった。
あれだけ多くの仲間や友人に囲まれて生きてきたくせに。
良い先輩、後輩、友人の顔をしなくて済む相手は、一人しか浮かばなかった。
『私、夕理ちゃんのことが好きみたいや』
祝日の七時。まだ寝ているだろうか。
祈るように目を閉じながら、返信を待つ。
程なくして返ってきたのは、身も蓋もない冷たい言葉だった。
『アホなのか?』
いつも通りの晴に、ようやく少し気が落ち着く。
どんなときでも何があっても、常に沈着冷静な友人。
頼ることに後ろめたさを覚えつつ、まずは謝った。
『ごめん。晴ちゃんが忠告してくれていたのに』
『さすがにこんな事態は私も想定してへんわ。
次期部長が一人の後輩に懸想してしまうとは』
『懸想とか表現しなくていいから!』
赤くなるものの、寒さには勝てず体が震える。
どうしよう、と相談する前に、まず状況から説明した。
『実は夕理ちゃんは、つかさちゃんに告白するつもりなんや。
チョコを作りに来たのもそのためや』
『それでつかさに渡すのが惜しくなって、横恋慕を始めたというわけか』
『返す言葉もないで……』
そう言われても仕方ないが、できれば契機でしかなかったと思いたい。
もっと前から、小都子から夕理への恋の種は眠っていたのだと。
それはそれで問題だけれど……。
と、晴から具体的な対処法が届く。
『夕理が振られるのを祈って、傷ついたところをゲットするんやな』
『晴ちゃんこそアホなん!?』
あんまりな提案に、小都子は猛然と文字を打ち始める。
『確かに、つかさちゃんに渡したくない気持ちもあるけど
夕理ちゃんの恋が叶ってほしいのも本当なんや!
四年間、ずっと変わらずに一人だけを想い続けてきて
ようやく今、自分の幸せを大事にしてくれる気になったのに
成就してくれなかったら私は』
『良心は残っているようで安心した。
それがなかったら、もはや橘小都子ではないからな』
平然とした返信に小都子の手は止まる。
どうやら試されたらしい。少しむっとするが、安心したのはこちらも同じだ。
何とかクズな先輩には堕ちずに済みそうだった。
『ならお前が今できるのは、全力で夕理を応援することだけや』
晴から、今度は本心の提案が届く。
『夕理の尊敬する先輩でいたいなら、それ以外にはない。
本来なら、小都子にだって自分の幸せは大事にしてほしいとこやけど。
お前の性格上、この場で欲を優先して幸せになる未来はない。
必ず後で、良心の呵責に苛まれることになる』
(晴ちゃん……)
晴の言うことはいつも正しい。
冬の空気を吸って、小さく吐き出す。
この胸の中にある想いは、捨てるしかないものだ。
『その通りやね。とにかく今日は、夕理ちゃんのチョコ作りを精一杯手伝う』
『恋だの愛だの、そもそも私に相談することとちゃうで』
『うん……ごめんね。ありがとう晴ちゃん』
『全く世話のかかる部長やな』
そう伝えて、晴は通信を切った。
もう部長扱いなのか。いや……
小都子に部長の資格があることを、まだ信じてくれているのだろう。
ぼんやりと天井を見上げる。
誰かを思いきり、好きになってみたいとは思っていたけど。
それが、一番恋してはいけない相手になるなんて――
「小都子先輩?」
「うひゃあああ!?」
いきなり話しかけられて、変な声を上げてしまう。
振り返ると、夕理がびっくり顔で立っていた。
「す、すみません。起きたら誰もいなかったので」
「わ、私こそごめん!
えーと……そう! 面白いネタを思いついて、メモしてたとこなんや」
「そうでしたか。私も作曲で時々あります」
「う、うん。すぐ着替えるから、ちょっと待ってね」
部屋に戻ってパジャマを脱ぐが、夕理もついてきたので少し恥ずかしい。
昨日までは何ともなかったのに……。
一緒に洗面所へ行って、冷水で一心に顔を洗う。
(とにかく冷静に……いつも通りの私で)
夕理は何も疑っておらず、タオルを渡した小都子に笑顔でお礼を言った。
その愛らしさに胸が震えると同時に、騙しているようで胸が苦しい。
顔を伏せながら、髪をお団子にまとめていく。
* * *
朝食はご飯に味噌汁、焼き魚と煮物の典型的な和食。
米を食べて気を落ち着けながら、ごく自然な雑談を試みる。
「夕理ちゃんは、普段の朝ご飯は何食べてるん?」
「食パンと牛乳、後はお弁当を作った残り物ですね。栄養はそれで十分なので」
「そうなんやー。でも、たまにはこういう和食もええやろ?」
「はい。この漬物がおいしいです」
だったらやっぱり下宿しない? とはもう言えない。
この子と一つ屋根の下で暮らして、理性を保っていける自信がない。
何とも情けないことになってしまったが……。
(今はチョコ作りや!)
お茶を飲んで一休みしてから、いよいよ作業に取り掛かる。
昨日買ったチョコを台所に持ち込み、手洗いも万全。
エプロン姿の夕理は直視しづらいほど可憐だった。
「さあ! 私の言う通りに作れば大丈夫やで!
まずホワイトチョコを包丁で刻んでやね」
「あ、その辺りは分かっています。事前に予習してきました」
「……あ、そう」
そう言った小都子の顔は、よほど複雑なものだったのか。
夕理は慌てて弁解する。
「じ、自分でも最低限の努力をするのは当然かと思いまして!」
「あ、ごめんごめん、落ち込んでるんとちゃうねん。
ちょっと昔のことを思い出したんや」
「昔、ですか?」
「うん……お母さんに、お菓子作りを教わったときのこと」
普段は忙しい母だが、娘に構ってやれなくて悪いと思ったのだろう。
小都子が九歳のとき、一緒にお菓子を作ろうと言ってくれた。
もちろん小都子は大喜びで、今いるこの台所で、わくわくしながら教授を受けた。が――
『生地は冷やしながら混ぜるとええんやで』
『そ……そうなんや。ありがとうお母さん!』
母が教えてくれた情報は、どれもこれも、小都子は知っているものだった。
既にある程度のお菓子は作っていて、初心者ではなかったのだ。
けど大好きな母が、時間を使って教えてくれている。本当のことを言うわけにもいかず……。
「最後まで無知なふりをして、にこにこと嘘をついてたというわけや。
……ほんま、我ながら嫌な子供やね」
「それは違うと思います!」
夕理の大声に、小都子ははっと息をのむ。
嘘が嫌いなこの子が、真剣な目で弁護してくれた。
「その嘘は、自分をよく見せようとしたものとちゃう。
先輩が優しいから、相手に笑ってほしくてついたものやないですか。
まあ……私は真似しようとは全く思いませんけど……。
でも、否定しようとも思いません!」
「夕理ちゃん……」
涙腺が緩みつつ、夕理を抱きしめたくなるのを必死で抑える。
それを知る由もない後輩は、心に正直に過分な評価をした。
「小都子先輩は、私が知る誰よりも優しい人です」
「あ、あはは。その期待に応えられる先輩でいないとね。
ほな気になるところがあれば言うから、夕理ちゃんの思う通りに作ってみてや」
「はい、まずは花歩と勇魚の分から!」
* * *
その二人はといえば、藤上家の台所でチョコ作り中である。
まず手本を見せた姫水の華麗なテンパリングに、一緒に感嘆の息をもらしていた。
「すごいなあ姫水ちゃん、ほんまのパティシエみたい」
「姫ちゃんは小一の頃にはもうお菓子作ってたで!」
「難しいことは考えず、レシピ通りにすればいいのよ。
さて、花歩ちゃんは、誰宛のチョコから作るの?」
「もちろん部長! 私の史上最高のチョコを作るんや!」
言い切る花歩に勇魚は拍手するが、姫水は少し困った顔だ。
「えっと。それは、どういう意味のチョコで」
「あ、もちろん本命とはちゃうで。
今までの全てへの感謝というか……部長に会えて良かったなって気持ちを込めたチョコや」
「花歩ちゃん……うん、それは素敵なチョコだと思う」
「花ちゃんのハート、きっと立火先輩に届くで!」
立火の合格発表は、バレンタインデーの翌日という微妙なタイミングである。
おめでとうと言って渡すことはできないが、きっと受かっていると花歩は信じている。
そして勇魚は、相変わらず能天気に前向きだった。
「うちも晴先輩のために、頑張って作るでー!」
「勇魚ちゃん……もうやめましょうよ。どうせあの先輩、突っ返してくるわよ」
「え、でも食べ物なら受け取ってくれるって」
「他の品よりは受け取りやすいって言っただけじゃない」
「まあまあ姫水ちゃん。ここまで来たら勇魚ちゃんはもう止まらへんって」
苦笑いする花歩も正直、やめといた方がいいとは思うのだけれど。
あまりに懲りない勇魚に、もう応援する気になってしまった。きっと晴が卒業するまで続くのだろう。
花歩に寝返られて渋い顔の幼なじみに、勇魚は悪い結果も覚悟の上で笑っている。
「別にええやん。断られたらまた桜夜先輩がもらってくれるで!」
「桜夜先輩、すっかり回収係ね……。本人は喜んでるからいいけど」
「そう言う姫水ちゃんは、桜夜先輩に特別なチョコはあげへんの?」
花歩からの質問に、姫水は今度は戸惑い顔になる。
「そうね……特別な気持ちとかではないんだけど。
とにかく受験を頑張ってほしいから、力になるようなものを贈りたいわね」
「うちもうちも! 応援の気持ちを込めるでー!」
「桜夜先輩さえ受かれば、私たちはハッピーエンドやもんね」
逆に浪人となったら笑い事ではないし、花歩も二人の同棲を受け入れた甲斐がない。
立火の次くらいに気合いを入れて作らないと。
「さ、お喋りはここまで。チョコが固まるのは時間がかかるんだから、作り直したりしてたら一日終わっちゃうわよ」
「よーし、まずは湯煎からやー!」
「普通のチョコでなくて、何か一工夫したいなあ」
さっそく作業に取りかかりながら、花歩と姫水は堺にいる友達を思う。
(夕理ちゃんのチョコは、私たちと比べ物にならない重さや。上手に作れてるやろか)
(大丈夫よね。元々しっかりした夕理さんに、小都子先輩までついてるんだから)
* * *
「うーん……シンプル過ぎるでしょうか」
夕理の精神を表すような、白一色の星型のチョコ。
共にスクールアイドルの一番星を目指そうと、この形にしてみたのだが……
固まり始めたその物体を、小都子も腕を組んで覗きこむ。
「やっぱり、デコレーションはあった方がええかもねえ」
「なにぶん絵心がないもので……」
「そういえばそうやったね。薔薇の形のデコなんてどう?」
「え、ケーキでよく見るやつですか? かなりの高等技術に思えますが」
「やってみると意外と簡単やで。まず砂糖と水でシロップを作って……」
水飴と食紅と一緒に溶けたチョコに混ぜると、赤い粘土状になった。
器用に花びらを一枚ずつ作る小都子に、夕理は感動で口を開けている。
「す、素晴らしいです! こんな風に作るんですね!」
「なかなか面白いやろ? さ、夕理ちゃんもやってみて」
赤い薔薇が何個かできあがり、後はチョコが固まった後に添えれば、花歩と勇魚の分は完成だ。
お菓子作りは純粋に楽しく、小都子の心からも乱れは消えていく。
もしかして朝のあれは、寝ぼけていただけだったのかもしれない。
いや、そうでなくてもそういう事にしてしまおうか、と思い始めていると。
「つかさ……」
大きなハートの型を手に持って、夕理の切ない声が響く。
続いて作るのは本命チョコ。
小都子の視線に気づき、後輩は恥ずかしそうにテンパリングを始めた。
丁寧に念入りに、四年分の想いを全て込めるように、チョコを撹拌していく。
一見にこやかに見守る小都子が、痛みに耐えているとは全く気付かずに。
(しっかりするんや、私……)
(晴ちゃんに言われた通り、全力で応援するんや)
『夕理のこと、大事にしてあげてくださいね。あたしのことは別にいいんで』
『夕理を一番に考えてください』
入部直後のつかさから、かつてそう言われた。
その通りにしてきたのに、何でこんなことになってしまうのか。
「先輩?」
「あ、え、ええと、私も作り始めようかな」
どうにも駄目だ。体を動かさないと、悪い考えばかり浮かんでしまう。
黒いチョコを刻んでいると、夕理が首を伸ばしてきた。
「小都子先輩は、相当な数を作るんでしょうね」
「まずは両親と、家の人たちに型抜きチョコ。
クラスメイトにはブラウニー。
部活にはザッハトルテを焼いていくつもりや」
「ということは、部員一人一人には渡さずに?」
「晴ちゃんはほら、部全体へのお菓子でないと食べへんから。
……勇魚ちゃん、大丈夫かなあ」
「心配ですね……。
まあ、断られてもめげないんでしょうけど。私も見習わないと」
あの鋼のメンタルを、夕理は真似できるのだろうか。
顔で笑って心で泣く様子しか、小都子には想像できないが……。
そうならないことを祈りつつ、自分のチョコにはなおさら力が入る。
「夕理ちゃんにはトリュフでええかな?」
「あ、ありがとうございます。私一人だけ、何だか申し訳ないです」
「後輩は対等に扱えって、また晴ちゃんに怒られるんやろなあ。
でもプライベートでは堪忍してや。部活ではちゃんと公平にするから」
「は、はい……」
これは昨日から決めていたことだから、別に色ボケしているわけではない。
そう言い訳していると、夕理がさらなる対象について聞いてきた。
「ファンの人の分はいいんですか?」
「うーん、私がもらえるかなあ。去年はゼロやったけど」
「予備予選で活躍したし、全国へ行ったし、きっと先輩のファンも増えてますよ」
「それやったら、型抜きチョコを多めに作ろうかな」
ハートが複数並んだ型に、チョコペンで波線を描く。
その上から溶けたチョコを流し込んで、後は固めるだけだ。
「さて、次はブラウニーや。夕理ちゃん、手伝ってくれる?」
「はい、私でお役に立てるなら!」
* * *
台所を占領してしまっているので、お昼はお弁当。
お手伝いさんが作ってくれたそれを食べながら、先ほどのお菓子作りを復習する。
「と、このあたりがブラウニーのコツやね」
「なるほど。非常に勉強になります」
「夕理ちゃん、熱心に聞いてくれてるやん。お菓子作りの楽しさに目覚めた感じ?」
「いえ、楽しさは特に変わりませんけど」
相変わらずの正直さに苦笑する小都子だが、話には続きがあった。
「でも、来年に小都子先輩が卒業した後は……
私が代わりに、部活にお菓子を持っていければ、なんてことは考えています」
「夕理ちゃん……」
本当にこの子は、どれだけ小都子の心を揺らすのだろう。
何とか一線を越えないよう耐えながら、あくまで先輩としてしみじみと言う。
「うん……受け継いでくれたら、私も嬉しいで」
「そ、それとですね。おこがましい話ですが」
と、頬を染めた夕理から、さらなる話の続きがあった。
「もしつかさとそういう関係になれたら、時々作ってあげようと思います。
つかさは器用なくせに、面倒がって自分では作らへんので」
「あ……そう」
浮き立った気持ちがしぼんでいく。
そのつかさが本気で料理したのは、姫水のため作った神戸のお弁当だけなのだろう。
夕理には一度も作ってあげていないのだ。
そのつかさのために自分の技術が使われるのを――歓迎しないといけない。良き先輩であるためには。
「つかさちゃん……喜んでくれるとええね」
「あ、あまり捕らぬ狸の皮算用はしないようにします!
正直、望みが薄いのは分かっているので」
「そんなことないよ。とにかく今は、チョコ作り頑張ろう」
「はいっ」
『for Kaho』『for Isana』
チョコペンで文字を書き、午前に作った薔薇を添える。
箱に入れて包装紙で包んで、相手を間違えないよう付箋を貼って、まずは二個完成である。
「夕理ちゃん、いつもラッピングしっかりしてるんやねえ」
「何というか、きっちりしないと気が済まなくて。過剰包装やろかとは思うんですが」
「まあまあ。これも相手に贈る気持ちの一部やで」
続けて姫水の分、立火の分、「一応です一応」と言い訳しながら桜夜の分。
小都子もトリュフを作りながら、自分宛のチョコが気にかかる。
が、夕理が次にチョコペンを向けたのは、大きなハート型の本命チョコだ。
真剣な目で、丁寧にチョコペンを走らせる。
『my Love』
一体どれだけの想いが、この文字に込められているのだろう。
自分の方は、文字の入れようがない丸めたチョコを、ココアパウダーで覆っていく。
想いを包み隠すかのように。
夕理は最後に、バイオリン型の小都子宛てチョコに取りかかる。
思わずかぶりついた小都子はちょっと怒られた。
「み、見ないでください。開けたときの楽しみということで!」
「あはは、ごめんごめん」
幸せなお菓子作りの時間も、そろそろ終わりに近づいてきた。
焼き上がったブラウニーを、クラス全員の数に切り分ける。公平に、角が立たないように。
後輩たちに対しても、同じようにできれば良かったのだろうけど。
(でも今日のところは、何とかしのげそうや)
(夕理ちゃんが可愛くて可愛くて、独占したいのは変わらへんけど)
(表には出さず、いつもの温和な先輩と思ってもらえそうや)
(……明日からも、これが続くのかなあ)
嘘が嫌いなこの子の前で、偽り続ける日々が続くのだろうか。
それだけは避けたいが、どうしたらいいのだろう……。
ボールを洗っていた夕理が、手を拭いて振り向いてくる。
「こちらの片づけは終わりました。お手伝いすることはありますか?」
「こっちももう終わりや。ねえ夕理ちゃん。
三日早いけど、今ここで渡してもいい? トリュフはあまり日持ちせえへんから」
「は、はい。では私からも」
エプロンを脱いで、お互いに向き合う。
日持ちしないのは本当だけれど、二人きりの間に渡してしまいたかった。
他の部員たちの前で、夕理だけ特別扱いするのは、やはり後ろめたかったから。
その罪深いチョコが、小都子の手で差し出される。
紙のカップに入れられ、透明な袋とリボンで包装された五個のトリュフ。
「ねえ、夕理ちゃん……」
『あなたが好きや。つかさちゃんはやめて、私を見てくれへん?』
『私やったら、必ず夕理ちゃんを幸せにできるから』
鼓動する心臓から響いた言葉は、先輩の立場に変換されて口から出た。
「出会いは過激やったけど、入部してからはほんまに活躍してくれたね。
始めの頃は予想できなかったほど、あなたはこの一年で成長したと思う」
「あ、ありがとうございます。先輩のご指導のおかげです」
「つかさちゃんのこと、上手くいくとええね。心から応援してる」
目を潤ませた夕理は、友チョコでも本命チョコでもない、曖昧なそれを受け取った。
夕理からも手渡そうとするが、胸が詰まって言葉が出ないようだ。
小都子は微笑みながら静かに待った。
きっとこの一年の出来事が、様々に渦巻いていたのだろうけど。でも口にしたのは――
「私は……もうすぐ上級生になります」
未来についての話だった。
もう逡巡せず、夕理は二ヶ月後の部室を想定して話す。
大事な人たちがいなくなっても、さらに多くの新入部員で、きっと賑わうあの場所を。
「年下と関わるのは初めてで、正直自信はないですし、失敗しないか不安もあります。
でも、スクールアイドルの素晴らしさを、皆で頑張ることの楽しさを。
後輩に伝えられるよう頑張ってみます。先輩がそうしてくれたように」
「夕理、ちゃん……」
チョコレートを差し出しながら、笑顔を見せる夕理の姿は……
自分などよりずっと優しく、小都子には映った。
「私は、小都子先輩のような先輩になりたいです」
懊悩も煩悶も、さらさらと粉になっていくようだった。
小都子のすべてを飲み込むような、圧倒的な敬愛の念。
震える手で包みを受け取り、胸に抱え込む。
「先輩?」
「ご、ごめんね」
みっともないけれど、くるりと背中を向けて涙声で言った。
「歳を取ると、涙もろくなってあかんねえ」
「もう、私と一つしか違わないやないですか」
「あはは、そうやったね。ねえ夕理ちゃん――」
泣くのをこらえながら、心の器から溢れた部分を。
辛うじて見せられる上澄みを、小都子は止められずに声にする。
「泊まりに来てくれてほんまに嬉しかった。
これが日常になって、毎日続いてくれたらなって……
そんな勝手なことを、心の中で思ってたんや」
結局、寂しかったのだと思う。
一人でご飯を食べることが。夕理が自分の手から離れていくことが。
とん、と背中に何かが触れた。
夕理の額だと理解した瞬間、おずおずとした声が、体に直接響いてくる。
「このまま一緒に暮らすことはできませんけど。
私は小都子先輩を、実の姉のように思っています。
それでは――駄目でしょうか?」
心の堤は決壊し、小都子は振り向いて相手を抱きしめた。
夕理は驚いた反応を返しながらも、抵抗せず身を委ねる。
右手に受け取ったばかりのチョコレートを、大切に持ちながら。
左手は妹のような存在の髪を、ただ愛おしく撫で続けた。
「ありがとう、夕理ちゃん。最高のプレゼントや。
このチョコレートも――あなたがくれた、今の気持ちも」
* * *
「セーーフ!!」
『何なんや、お前は』
電話越しの声は完全に呆れかえっている。
晴に呆れられるのは仕方ないが、しかし顔がにへらとするのも止まらない。
夕理が帰った後の部屋で、スマホを耳に当てたまま畳に寝転がる。
「いやあ、あそこまで言うてもらえたらね。何だか浄化された気分や」
『姉の立ち位置で満足したなら結構だが』
晴の声は変わらず冷たいが、少し心配そうにも聞こえた。
『ほんまに大丈夫なんやろな。無理して自分をごまかしてへん?』
「大丈夫やって! よく考えたら、昔から妹が欲しかった気がするで。
はあ……今日中に解決して良かった」
『……つかさに対しても、もうわだかまりはないんやろな』
「だ、大丈夫。みんな大事な後輩や。ただ……」
ただ、昔つかさに言った、『後輩に順番はつけない』という綺麗事は……
もう守れない。橘小都子は、どうあっても夕理が誰よりも好きだ。
そして誰かを特別に思うことが、人として間違いとは思わなかった。
今回はあまりに間が悪かっただけだ……。
「部の運営には絶対に影響させへんから、許して……」
『部長といいお前といい、ほんまに困ったもんやな。
ま、もし暴走することがあれば、私が意地でも止める』
「うん……晴ちゃんがいてくれて、ほんまに良かった」
『とはいえ私とはあと一年の縁や。他にも作っておいた方がいいと思うで。
お前が醜い部分を見せられる相手をな』
「……そうやね、少し考えてみる。ほな、木曜のチョコをお楽しみにね」
電話を切ってから、完成したチョコレート群に目をやった。
特にクラス全員のための、公平なブラウニー。
今の話の後では、別のものを作りたくなる。でも、それより先に……
(それより先に、もらったチョコやな)
夕理が渡してくれた、少し早いプレゼント。
感謝の意を込めて拝んでから、丁寧に包装を解く。
薔薇に彩られた、バイオリン型のチョコレート。その胴部分に書かれた文字は――
『My Dear』
小都子の目に涙がにじみ、このまま残しておきたい気持ちに駆られる。
でも食べ物は食べるべきだ。端の方を割って、口に入れた。
甘く優しい、夕理の、そして今の小都子の、心のようなホワイトチョコだった。