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 春休みが始まり、姫水は昨日の涙などおくびにも出さず、明るい顔で登校した。
 このバスに乗るのも、とうとう今日明日で終わり。
 それでも、特に花歩は、変わらぬ日常を最後まで保ってくれた。

 部室の前でつかさから、やけに元気に挨拶される。

「おっはよ、姫水!」
「うん、おはよう」

(もしかして三重野さんから何か聞いたのかしら)

 だとすれば恥ずかしいが、今はそれは置いておく。
 それよりあと二日のコーチとして、晴は何をさせる気なのだろう。


「この姫水お勧めのグループのライブを、最後に練習してはどうかと思う」

 全員が集まった部室で、晴はそう言って一つの動画を流した。
 部員たちは絶句し、姫水は困ったように口ごもる。

「ここへきてクイーン・レイですか。確かにお勧めはしましたけど……」
「しかも優勝した夏の全国大会のライブやね……」
「小都子の気が進まないなら撤回するが」
「……いやっ、実際高みを目指すかはともかく、一度はやっておいて損はないで。
 姫水ちゃん。どうすれば多少なりとも近づけるか、外から見て考えてくれる?」
「分かりました。最後に少しでもお役に立ってみせます」

 かくして残された時間は、全国トップクラスに近づくための一歩に費やされた。

(ぐああ、難しすぎる!)

 一回やっただけで花歩は内心で悲鳴を上げ、勇魚は理解が追いつかず何度も動画を見返す。
 九人の秀才による高難度の高速連携。
 全員を鍛えるのは無理と見た姫水は、まず小都子とつかさを優先した。

「小都子先輩、もっと重心の流れを意識してください」
「こ、こうやろか?」
「つかさ、もう挫けたの? これ無理やんって顔に出てるわよ」
「はああ!? 諦めるわけないやろ、姫水の前で!」

 ギアが一段上がるつかさの姿に、姫水の胸には嬉しさが渦巻く。
 この中に自分も入れたら、と思わなくもないけれど。
 己が選んだ道だ。今できることとして、情け容赦のない特訓は午後まで続いた。

「は、はい、今日はここまでや」

 時間になり、息も絶え絶えの小都子が終了を告げる。
 静佳ですら届かなかった全国の頂点。分かってはいたが、やはり差がありすぎる。
 夕理は自分の非力さに歯噛みし、勇魚は逆に開き直って楽しそうにしている。
 そしてつかさは、最後まで諦めず姫水の指示に食らいついていた。

(やっぱりつかさちゃんが、一番トップレベルに近いのかなあ)

 花歩から見る限り、つかさは姫水さえいればどこまでも行けてしまいそうだ。
 遠く東京に離れてしまっても、姫水の存在を胸に頑張り続けるのだろう。
 それを改めて理解して、花歩のやることは一つだった。

「お願いや姫水ちゃん。明日は私をとことん鍛えて」
「花歩ちゃん……。分かったわ、覚悟しておいてね」
「ま、部長になるなら実力もないと、後輩がついてきいひんからな」

 笑って譲ってくれるつかさに、花歩は悔しさ半分、嬉しさ半分で返した。

「くそー! いつかその涼しい顔を驚かせたるで!」
「あはは、それは楽しみや。ただ……」

 と、つかさの顔が真面目になり、小声で耳打ちしてくる。

「もうすぐ熱季が入ってくる。あいつはあたしみたいに甘くないで」
「そ、そうやな。今の状態やと部長はもちろん、センターすら認めてもらえへんやろな……」

 熱季の性格からして、容赦なく花歩を蹴落としにくるだろう。
 仲良くはするつもりだが、今後は部の中でも真剣に競うことになるかもしれない。

(けど、望むところや!)
(私だって二年生になるんや。いつまでも甘えてられへんで!)


 *   *   *


 三月二十日、姫水の最終活動日。

「花歩ちゃん、その回転は足りてない!」
「花歩ちゃん、また遅れてる! 何度も言わせないで!」
「花歩ちゃんっ!」

 約束通り、姫水は全身全霊でしごきにかかる。
 実力もないくせに、全国トップのライブを無理に再現して、花歩はあっという間にボロボロになった。

「あうう……」
「やめたくなったらいつでも言ってね。
 私だって最後の日に、苦しいだけの部活はしたくないもの」
「だっ……大丈夫や! 私には何もないけど、ぶちょ……立火先輩から受け継いだ根性だけはあるんや!」



 その姿に小都子も微笑んで、自分のライブに集中する。
 一方で心配そうな勇魚には、晴の冷たい声が飛んだ。

「勇魚、お前は上手くなりたくないのか」
「な、なりたいです!」
「ならば人の心配をしてる場合とちゃうで。まずはそこのステップをできるようになれ」
「は、はい!」
「右、右、左や」
「はいっ!」
(岸部先輩……)

 晴のおかげで、姫水は花歩へ存分に集中できた。
 花歩もまた、歯を食いしばって必死についていく。

(今まで考えたこともなかったけれど)
(もし、もしも部長になって全国優勝できたら、文句なしで私は特別になれるやないか)
(実際に優勝したこのライブ。こなせれば私だって――)

 漠然としていた花歩の夢に、初めて道しるべが見えた気がした。
 実現へはあまりに遠いけれど、一歩でも進むため、姫水の指示を体に刻む。

(姫水ちゃん……!)

 花歩の前に初めて現れた、本当に特別な女の子。
 差がありすぎて笑うしかない、と思っていた最初の頃。でも今は、そんな情けないことは言うまい。
 何より、花歩を特別と言ってくれた、あの言葉に応えられる人間になりたい。
 その思いを胸に、苦しい、けど何物にも代え難い特訓は続き――。

「小都子、そろそろええやろ」
「こ、ここまで……」

 二年生たちが宣言すると同時に、メンバーはその場にへたりこんだ。
 特に花歩は完全にのびている。
 あーしんど、というつかさの声を聞きながら、勇魚が這うように近づき、花歩の手を握った。

「は、花ちゃん、大丈夫? このあと苺ビュッフェやで?」
「た、食べる……。苺は別腹やから……」
「花歩ちゃん、よく頑張ったわね。勇魚ちゃんも」

 姫水は傍らにしゃがんで、二人の手を優しく握る。
 自分で勧めておいて何だけど、ラブライブがただ高度な技術を求めるだけでいいのか、とは未だに思う。
 でもこの二人ならそれだけではない、新たな高みを目指してくれる気がした。

 一方で夕理は渋い顔で、小都子に現実的な話をする。

「全国トップとの差がどれだけ大きいか、身にしみて理解できましたね」
「そうやねえ。でも、何事も経験や」

 当たり前だが、二日練習した程度で縮まるものでもない。
 クイーン・レイの人たちだって、長時間の鍛錬を重ねての成果なのだ。
 それと競うのか、別の道を行くのか……ひとつの材料にはなったと小都子は思う。

 皆がへろへろと着替える中で、お別れ会に不参加の晴はさっさと帰り支度をした。

「私とはここまでや。姫水、ほんまによく貢献してくれた」
「岸部先輩……」

 結局好きにはなれなかったが、いつも的確な参謀であったことは姫水も認めていた。
 今回、最後に与えてくれた仕事のことも。
 複雑な心を抑え、姫水はすっと右手を差し出す。

「先輩こそ、縁の下での貢献にはいつも助けられました。
 勇魚ちゃんのこと、よろしくお願いします」
「私は後輩は公平に扱うで」
「はい。その中に勇魚ちゃんが入っていてくれれば結構です」

 晴はふっと笑うと、姫水の手を軽く握って帰っていった。
 にこにこと見ていた勇魚は、早くも元気になって声を張り上げる。

「よーし、苺食べに行くでー! つーちゃん、早よ連れてって!」
「分かった分かった、ほな弁天町へゴーや!」


 *   *   *


「はあ……生き返る」

 口の中に広がる甘みと酸味に、花歩は生気を取り戻す。
 皿に積まれた大量の苺を見て、夕理が呆れ顔を向けてきた。

「生苺ばっかり食べるなら、スーパーで買うた方が安上がりとちゃう?」
「うっ、言われてみればそんな気も。夕理ちゃん、そのケーキどこにあった?」
「あっち」

 苺のショートケーキにロールケーキ、シフォンにタルトを無心に頬張り、皆もエネルギーを回復する。
 姫水だけが苺マカロンを食べながら苦笑していた。

「私は昨日今日と喋ってるだけだったから、カロリーが心配ね」
「ビュッフェで野暮なことは言いっこなしやで」
「姫ちゃん昔から全然太らへんやん!」

 つかさと勇魚に言われ、それもそうねと席を立った姫水は、ケーキを山盛りにして戻ってくる。
 ひとまず全種類味わってから、小都子がお別れ会の挨拶を始めた。

「姫水ちゃん、今までほんまにありがとう。
 あなたがWestaに与えてくれたものはあまりに大きく、次の代にもその次の代にも必ずや脈々と……」

 そして姫水からも返礼。

「本日はこのような会を開いていただき、誠にありがとうございます。
 この一年間は言葉では言い表せないほど、私の人生を大きく変えたもので……」

 終わった後、つかさからブーイング。

「二人とも言うことが優等生すぎ! おもろないでー」
「もう、こういう場では真面目に話すものでしょ」
「あはは。それやったらつかさちゃんが、何かおもろいこと言うてくれるのかな?」
「そ、それはまた来年にでも」

 逃げるつかさに笑いながら、姫水はふと窓の外を見る。
 ここはホテルの最上階で、眼下には西から見た大阪の風景が広がる。
 四月の団結会のコスモタワーと同じく、遙か向こうには生駒山系。
 あれからずいぶん経ったものだと、感慨にふけりつつ、今は言いづらい話をするしかなかった。

「あの……来週引っ越す際のお見送りなんですが」
「ああ、何時に行ったらええかな?」

 にこやかな小都子と皆に、姫水は申し訳なさそうに頭を下げる。

「いえ、見送るのは勇魚ちゃんだけでお願いします」
『!?』
「クラスの人たちのお見送りを断ってしまったので……」
「そう……それは確かにしゃあないねえ」

 いくら新大阪駅が広いとはいえ、さすがにクラス全員で見送るのは迷惑になる。
 そしてクラスメイトを断った以上は、小都子たちを受け入れるのは不公平だ。
 少ししゅんとしてしまった空気の中で、姫水の柔らかな視線が花歩へ向いた。

「でも、花歩ちゃんは来てくれる?」
「私はいいの!?」
「勇魚ちゃんを駅に一人で残していくのは心配だから。落ち込んでたら慰めてほしいの」
「も、もう、姫ちゃん。うちだって子供とちゃうで!
 でも……うん、確かに花ちゃんがいてくれたら安心かも」
「あはは。そういうことなら、親友の私にお任せやで!」

 花歩が胸を叩く一方、夕理もその選択に異論はない。
 姫水とは友達の初歩どまり。見送りまではする必要はない、が……。
 選ばれず、隣で暗い顔をしているつかさが、どうしても心配ではある。

 そんなつかさに、姫水はいたずらっぽく笑いかけた。

「ところで、つかさ」
「何やねん……」
「日曜に二人で遊ぶ約束なんだけど。
 今までも何度も遊んだんだから、もう少し何かほしいわよね。
 だから最後に、一緒にお泊まり会をしない?」
「え……」

 つかさの暗かった顔は歓喜に裏返り、そして弄ばれた悔しさへと目まぐるしく変わる。

「だあー! すぐそうやって落としてから上げる!」
「うふふ。だって素直に引っかかってくれるんだもの」
「くそっ、覚悟しとくんやで! お泊まりではもう言い残しがないくらい、腹を割って話してやるから!」

 言い合いながら笑っている後輩たちに、小都子も安堵して紅茶を飲んだ。
 一方で、自分の方はそうなると、今日が姫水に会える最後なのだろう。

(やっぱり今一つ、姫水ちゃんとの距離は縮まらへんかったかのかなあ)

 先輩後輩としては十分上手くやれたと思うけど、優等生同士ではそれが限界なのだろうか。
 苺のヘタを外しながら、ふと小都子は弁天町のニュースを思い出した。

「つかさちゃん。確かこのホテルの下に、温泉ができたんやったね?」
「空庭温泉っすか? 先月オープンしましたけど、2400円もするので……」

 つかさも行きたかったが、ビュッフェの後にはさすがに豪遊すぎると諦めたのだ。
 この苺だって、夕理が抵抗するせいで割り勘なのだから。
 だが小都子は少し悩むと、今だけは夕理より姫水を優先した。

「最後に姫水ちゃんと温泉入ろう! 私のおごりや!」
『おおー!』
「い、いえ、そこまでしていただくわけには」
「姫水ちゃん、私にも少しは先輩らしいことさせてや。夕理ちゃんは……ごめん、自由に選んで」
「……自分で払います」

 最後にもう一口と苺を味わってから、レストランを後にした。
 エレベーターで降りる途中、つかさが揉み手で先輩にすり寄ってくる。

「さすがは小都子先輩、太っ腹! 今後も夕理は気にしないで、バンバンおごってくださいよ~」
「あっはっは。つかさちゃん、自分が三年生になったときのこと考えてる? 後輩はめっちゃ増えてるかもやで?」
「うぐっ、しまった。やっぱり割り勘文化を定着させましょう……」


 *   *   *


 入り口で浴衣風の館内着に着替え、三階の浴場へ向かう。
 姫水のためと思って同行した夕理だが、思わぬ副産物に歩みはぎくしゃくする。

(と、とうとうつかさと一緒にお風呂に入るんや)
(いやっ、何を不純なこと考えてんねん! そういうことは恋人同士になれてから!)
(絶対につかさの肌を見ないようにしないと……)

 そのつかさはといえば、またよからぬことを考えている。

(姫水とお風呂に入るのは合宿以来やな)
(あのときは結局、胸のサイズは分からへんままやったけど……)
(今は仲良くなったんやから、直接聞いたらええやん?)

 そんなわけで更衣室で脱いでいる姫水に、朗らかに声をかけてみた。

「姫水ー、ちょっと胸見せて♪」

 べしっ! と顔面にタオルを投げつけられた。
 胸部を隠した姫水が、少し距離を取りつつジト目を向ける。

「公共の場で何を変態みたいなこと言ってるのよ!」
「ちゃうって! あたしとどっちが大きいか知りたいだけ!」
「そういえば、前にもそんなこと言ってたわね。どっちでもいいじゃない……」
「いやいや、これはプライドを懸けた大事な確認なんや。ねえ花歩?」
「あーあー聞こえへーん!」

 花歩は耳をふさいで浴場へ行き、小都子と勇魚も苦笑しながら続く。
 そして夕理は、先ほどの緊張はどこへやらで頭を抱えていた。

「なんで私、こんなアホを好きになったんや……」
「ほら、夕理さんが苦悩しちゃったじゃないの!」
「えー? これがあたしなんやから、そのままを愛してくれないと。どうしてもダメ?」
「ダーメ!」


 軽く体を洗ってから、姫水は湯船に身を沈めた。
 結局教えてもらえなかったつかさも、仕方なく諦めてのんびり浸かっている。
 むしろ花歩の方が、ちらちらと人の胸を気にしていた。
 そして落ち着きのない勇魚は、いくつかある湯船に次々入っている。

「姫ちゃん、この赤いのローズ湯やって!」
「それも面白そうだけど、小都子先輩はどこへ行ったか知らない?」
「さっき外に出てったで!」

 露天風呂に行くと、小都子が夕理と一緒に入っていた。
 この温泉は、先輩との別れの場でもある。
 なので夕理が黙って見守る前で、姫水は小都子へと頭を下げた。

「本当に、色々とお世話になりました」
「こちらこそ。特に言うなら、歌を教えてもらったことかな」
「小都子先輩は最初からお上手でしたよ」
「せやけどやっぱり、きちんと学んだことで奥深さも分かったからね」

 ぬるめのお湯の中で、しばらく取り留めもなくお喋りして。
 言う必要のないこととは分かっていたけど、やはり言わざるを得なかった。

「勇魚ちゃんのこと、くれぐれもよろしくお願いします。夕理さんも」
「あはは、よろしくはされるつもりやけどね」
「いい加減に、過保護は卒業したらどうなんや」
「うん……分かってはいるんだけど」

 今の勇魚に心配なんて不要だろうし、小都子が部長である以上、Westaも大きな問題は起きないだろう。
 肩まで湯に沈めながら、姫水は白い天井を見上げる。
 露天風呂とはいえ、街の真ん中なので景色はない。



「私にとって、勇魚ちゃんは何なんでしょう」
「それが、姫水ちゃんに残った宿題?」
「はい。福岡旅行で、それを見つけるつもりです」
「そうなんや。……変なこと聞くけど。
 もし見つかった気持ちが、相手の望んでへんものやったらどうする?」

 小都子は応援してくれると思っていたので、姫水としては意外だった。
 夕理も少し驚いている。
 だが確かに重要な視点だ。露天でいい具合に冷えた頭で、姫水は考えを述べた。

「それでも正直に相手に伝えて、あとは話し合います。
 勇魚ちゃんは自分の気持ちを無視して、私の望みに合わせてしまいそうだけど。
 そうはさせません。幼なじみの仲にかけて、お互い納得できるようにします」
「うん……あなたたちなら大丈夫やろな。
 ま、最初からそういう状況には、ならないに越したことはないけどね」

 微笑む先輩の表情に、姫水も何となく気付いた。
 今の質問は、小都子の深層にも関わるもので。だから最後に少しだけ、裸の付き合いをしてくれたのだと。

 他の皆も露天風呂に来て、六人でお喋りしながらのんびり時間を過ごす。
 勇魚の裸は見慣れていて、姫水は今さら何も感じない。
 来週の旅で、それが変わることはあり得るのだろうか――。



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